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2005年9月29日 (木)

驟雨にけむる父の姿

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 時は昭和三十年代初期、所は秋田県奥羽山脈の片田舎、田沢湖
町。私の父、高橋岩治郎(いわじろう)は、「ちょっと行ってくる」という
そぶりをして、ふらっと近場に流れる山裾の沢に分け入ることがあっ
た。岩魚釣りである。

 父の職業は田圃の開墾をする土木の作業員だった。仕事のあいま
に釣りに出かけていることがあった。たまの休みで家にいるときも竿
を片手にふらっと出て行ったものである。今思えば印象に残っている
父の姿がある。それは、ある雨の日、父が釣りに出て、案外わずか
な時間で帰ってきたときのことである。とは言っても別段変わった出
来事があったわけではなく、その日の父のいでたちと、しとしとと静
かに降る小雨のコントラストが風景によくマッチしていたから記憶に
残ったということである。

 そのとき父が着ていたものは定かには思い出せないが、今から思
えばまるで江戸時代にでもトリップしたかのような古風な装束だっ
た。たしか野良着である作業服の上下に、ワラで編んだ蓑(昔の合
羽:その当時はケラと呼んでいたような記憶はあるが)を羽織り、頭
には菅笠(すげがさ)をかぶっていたと思う。

 足には地下足袋を履き、その地下足袋の下には自分で作ったワラ
ジをくくりつけていたように思う。岩場でのすべり止めのためである。
腰には魚籠(びく)を下げ、手には長さが何尺か思い出せないが、良
くしなる細くて短めの竿を握っていた。魚籠を持たないときには「レ」
の字形に枝を切ってそれを釣ったイワナの鰓(えら)に通していた。

 父は寡黙な人で、いつも黙って山に入った。なぜだかわからない
が、自分が一番印象に残っている釣り師である父の姿は小雨が降
ったときの姿であった。たぶんその古風ないでたちがおもしろかった
のだろう。

 何も語らず、驟雨の中にすっくと立つ父の姿は、本当に風景に調
和していて格好いいな、決まっているなと子供心に思ったものであ
る。日本画を写したような実にさまになる姿であった。あたかも川合
玉堂の「山林驟雨」の絵から抜け出たようないでたちであった。近く
で山仕事している馬喰(ばくろ)から馬のしっぽの毛をもらい、それを
よってテグス代わりにしていた。

 父は釣り竿だけは、名のある釣り竿師の手になる高級な手作りの
ものを使っていた。私にも母にも絶対に触らせなかったほど大事にし
ていたように思う。当たりの微妙な感覚の弾性を得るには名人が作
った竿でなければ駄目だと言っていた。大きな渓流に入るときと、
幅の狭い小さな沢に入るときはその竿の長さを微妙に調整してい
た。近場の沢は、自分の庭のような沢なので、どこにイワナが潜ん
でいるかポイントは手に取るように知悉していたようだ。

 夕飯まぎわに父は、釣果を自慢するわけでもなく、無表情に尺イワ
ナを何匹も持ってきた。笹の葉を敷いた中に、今釣ったばかりの斑
点模様の美しいイワナが横たわっていて実に野趣の深い眺めだっ
た。母はそれを炭火のコンロで焼いたり、串に刺して遠火で焙った
りしていた。父はその焙った魚を味噌で煮て食すのが好きだったよう
だ。

 父は当時、村では舞い茸(まいたけ)採り名人でもあったので、
時期が来ると大きなかっこーべ(竹で編んだ容れ物)を背負って奥山
に舞茸を採りに行ってきた。天然の舞茸は香りが強く部屋中に香気
が満ちた。実に濃い味を持っていた。初夏には秋田県地方では定番
の「根曲がり竹」というタケノコを採りに山に登った。このタケノコはだ
し味噌で煮て最後に卵でとじると抜群に旨くて御飯を何杯もお代わり
してしてしまうくらいである。

 ある日父は荷葉(かよう)と言う山に登り、一心不乱にそのタケノコ
を採っていた。ひととおり採ったので、ふもとからかなり距離があるそ
の山の頂頭部からジグザグに山すそに降りて来たそうである。その
ときは動きすぎで喉が乾き、大変苦しい思いをしたらしい。沢すじを
降りたわけではなかったので、降りる途中の山腹にはどこにも清水
の湧く場所はなかった。

 ようやくふもとまで降りたとき、父は脱水になりかけていたらしく、背
中の重いタケノコも負荷となり、ふらふらしながらある場所にたどり
ついた。すると、やけに辺りが明るい黄色になっているなと思ったそ
うである。目を凝らして見ると、なんとそこは「下がりイチゴ」の群生地
のど真ん中だった。喉が乾ききってばてていた父は、狂喜乱舞しな
がら、その熟して甘酸っぱい黄金色のイチゴを思いっきりほおばった
そうである。

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 父は今でも語る。あのとき口に入れたキイチゴは、一生忘れられな
い思い出だ、果物であんなうまいものは今まで喰ったことがないと。
それから父は体力を回復し、意気揚々と家路に向かった。イワナと
いい、カジカといい、シメジといい、マイタケといい、タケノコといい、
父は山の幸を見つけて我々家族に持ってくる名人であった。

 貧乏な生活であったとは言えるのだが、自分は豊かな山の幸を存
分に味わって育ったような気がする。父が山から運んできたものは
多様なキノコや山菜、川魚ばかりではなかった。一緒に山の香りも
運んで来てくれたのである。山の香りは確かにあった。そこに繁茂す
る苔や樹皮の匂い、そして土の匂いなどである。人工的な匂いに汚
染されていないまったく原生の自然林そのものの素朴かつ複雑な香
りだった。

 驟雨に濡れて立つ父の蓑合羽姿は堂に入っていた。馬のしっぽの
釣り糸と短い竿でいつも尺イワナを釣ってくる父の姿は頼もしかっ
た。やむにやまれぬ事情はあったのだろうが、戦後の日本人はほと
んど無思慮ともいえる強引なかたちで、縄文以前から存続していた
悠久の自然林(天然林)を切り開き、人工林に置き換えてしまった。
そのために、かつては当たり前であったあの深山奥山の高貴な香り
はすっかり消えうせている。これが戦後の日本人のナイーブな品性
を溶解させた大きな要因の一つであると言えなくもない。ここにひと
つの学説がある。受け売りの知識ではあるが、海軍大佐で民俗学
者・柳田国男の弟でもあった松岡静雄編纂『日本古語大辞典-語
誌』を引けば、「大和」の語意は、「山(やま)」・「處(と)」が源泉であ
るとある記事で見た。

 山(やま)、そして處(ところ)。日本人は大和(やまと)の民である。
われわれの先祖が、深山(みやま)や里山(さとやま)から先祖代々
吸い取ってきたもの、与えられ続けてきたものは日本人の温和でや
さしい性格を涵養してきたことはけっして否めない事実である。日本
人が日本人であるために、故郷(ふるさと)の山々は、いかなる時代
にもたゆまなく日本人のたましいを豊かに養ってくれた。半世紀を生
きてきて痛切に感じるが、今、日本人はたましいの食物であるほんと
うの山々を取り戻すべきである。これを想うとき涙がにじんでくる。

 環境保護論を考慮するとき、生活の快適さをベーシックとした人間
中心主義で考察するものが圧倒的に多い。これは歴史の縦軸を分
断する考え方である。そのような時間を分断した環境論では所詮、
人間のご都合主義にならざるをえない。人という種が測り知れない
無窮の時を経て今日にいたっているように、天然林もそれ以上の時
を経ていまにいたっている。この果てしない連続性のなかで日本人
は自然と関わってきたことを最初に念頭に置くべきだろう。

 山の自然林が荒廃するということは、もはやそこに住む生物や人
間にあの原初的な恵みをもうもたらさないということである。山に生
成し、山の精気を吸った食べ物は、玄妙な山の霊気も同時に吸って
いることを意味する。これは人間にとってたましいの栄養(かて)とも
なるものであった。山の幸は日本人の血肉を養ってきたのである。
戦後60年、日本人が失ったもので一番たいせつだったものとはいっ
たい何であろうかと自分に問いかけてみる。自分はそれを、天然林
と、きちんと海まで流れる川だと迷わずに答える。

 奥羽山系の片田舎、驟雨に立つ父の記憶は、いまから四十数年も
前のものである。その絵画的な情景を追憶に観たとき、現代文明で
はけっして再現できない自然のなまの姿と息吹に、心だけが今むな
しく飛んで行く。なぜなら、それはもう手の届かない追想の彼方に沈
んでいるからである。

 その寡黙な山男の父もすでに八十八歳をかぞえている。今は富士
のお山のふもとで、背中を丸めなが猫の額のような畑を耕し、好きな
雑木の盆栽をいじっている。晴れた日には必ず10Kmのウォーキン
グをしている。車が危ないのでやめろと言うのだが、いっこうに聞き
入れる様子はない。

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2005年9月27日 (火)

溶解を速める日本

 今日からブログを始めてみたい。日記を書き留める気は
ないのだが、おりおりに触れて感じたことをぼやきとして書
き連ねていこうと思う。

 われわれが住むこの日本はこれからいったいどこへ向か
うのだろうか。終戦時の混乱が終息し、高度経済成長へ
向かう前の昭和三十年代、あのよき時代、貧乏ではあった
が世の中が明るい希望に満ち、人々は豊かな時代の到来
を予感しつつもすべては前向きの楽観的な気分で生活をし
ていたように思う。

 当時小学生だった自分は、月に一度出る月刊漫画誌「少
年ブック」や「少年画報」などの付録に心をときめかし、科学
文明社会の底なしの明るいイメージに酔いしれていた。この
当時の少年雑誌の付録は、ほとんど安っぽい紙でできてい
たが、それは色あざやかに作られていて、飛行機や船、軍
事車両、宇宙船といった、未来を科学的に先取りしたような
希望と夢に満ち溢れていた。少女雑誌については当時のこ
とがまったくわからないので同年代のおばさんたちにうかが
うしかないのだが、おそらく洋服や生活様式に夢のある内
容であったに違いない。少女雑誌だけが突出してニヒリズ
ムの空気に支配されていたなどということはないだろう。

 子供にはその夢をかぎりなく膨らませることができるだけ
でその付録は黄金にも勝る価値を持ったものである。自分
は53歳であるが、今思い出しても当時の雑誌の付録やプ
ラモデルが与えてくれたわくわく感は貴重な人生体験であ
ったことがよくわかる。この時代の未来は滔々として輝いて
いたのである。おそらく当時の他の少年たちも自分と似た
りよったりだったろう。

 このころの日本人の生活感覚というか、漠然とした日常
感覚について思い起こせば、子供だったせいもあり言葉と
しては説明できないのだが、少なくとも老若男女すべてが、
戦争のすさまじさ、不安定さ、混乱、荒廃から這い上がり、
これからは腰を落ち着けて生きて行こうというような強い楽
観的な気分にあったかなと思う。子供とは、論理的客観的
に社会の空気を把握できなくとも、両親や他の大人たちの
気分を感覚的に、直感的に自分の感情として感じ取れる
能力を持っているからである。その意味ではあのなつかし
き昭和三十年代は、子供たち(つまり自分たちに)にとって
はかけがえのないよき時代であったと言える。当時の楽観
的な社会の雰囲気は、みんなして豊かな社会を造るんだと
いう思いだけがすべてであった。生活物質充当も、経済力
も、すべては右肩上がりの単純なカーブだけを思い描いて
いればよかった時代であった。

 これは今から思えば、当時の日本人が非常に単純明快
な社会ビジョンを胸に抱いて生活のモチベーションを得てい
たことがわかる。憲法的に軍事を放棄し、東西冷戦という世
界二極対立の状況下、アメリカの軍事的な庇護下にあって、
日本は侵略や国際紛争の血なまぐさい現実から隔離され
たまま、商業、経済、高度工業化だけに専念する毎日であ
った。もちろん、その間には安保闘争やベトナム戦争などが
あり、対米観の揺らぎも見受けられたのであるが、おしなべ
て日本は対米従属志向を強めていくばかりであった。この
意識の底には戦前を強くタブー視する気持が横たわってい
て、それは現在につながっている。

 当時の日本人のアメリカ観を一言であらわすには羨望と
いう言葉がいちばんふさわしいものかもしれない。テレビや
映画で見せ付けられたアメリカの文化、アメリカの生活様
式は、日本人が目指すモデルということよりも熾烈な憧憬
に近いものがあった。これも戦後の高度経済成長の一つ
の原動力であった。

 昭和三十年代のなつかしい思い出みたいなものから始
まってしまったが、この辺でいきなり現在に飛んでみよう。

 9月11日、郵政民営化是非論だけにいびつに特化した
解散総選挙がおこなわれ、小泉自民党は圧勝してしまっ
た。自民党議員や国民の大部分は「改革」、「民にできる
ことは民で」、「小さな政府」、「官僚主導から民間主導へ」、
「旧弊政治の一掃打破」などという言葉の羅列と表層的な
イメージだけで、今度の小泉-竹中路線を全面的に支持し
た結果となった。このことが今後の日本の向かうべく針路
を大幅に狂わせてしまったことだけは確実である。この航
路修正は並大抵ではできないだろう。

 今から60年前、日本は国家の命運を賭した総力戦に敗
れ、以後、アメリカの占領期が終えたあとも対米隷属の一
貫した姿勢を保ちつつ、経済に力を傾けてきた。その結果、
世界第二位のGNPを有する経済大国と言われるまでに国
は自力をつけたが、時代が昭和から平成に移り変わった今
日、その一つ頼みの経済力さえ風前の灯である。この極端
な衰退は何に起因するのであろうか。敗戦を機に、日本人
の伝統観念にもとづいた意識構造は、時の移り変わりととも
に徐々に変遷し、平成に至ってはその残滓さえきれいに払
拭されたかのように完全溶解に向かっている。昨今、この
溶解速度は急激に速くなっているように感じるのは自分だけ
だろうか。

 たとえばつい最近のことであるが、市町村大合併に伴う
合併後の市の名前に「南セントレア市」などという呼称をつ
けた馬鹿騒ぎがあったが、それなども現れるべくして現れ
た戦後日本の自己同一性喪失の一環として銘肝するべき
であろう。同様に総理大臣である小泉純一郎の国の運営
の仕方は、祖国日本をみずから血祭りにあげる準備を整え
ているかのようである。国家の自殺である。
小泉の靖国神
社参拝における公約不履行や、都合の悪い法案内容をい
っさい議論させずにごり押しで通そうとしている郵政民営化
法案成立の動きは、国力を左右する規模の経済損失の危
機を招来している。それのみならず、この日本という国柄を
根底からアメリカ型の経済構造に塗り替える政策をがむ
しゃらに実行している。

 小泉は簡潔な言葉で言い放った。『郵政民営化はすべ
ての改革の入り口である』と。冗談じゃない。彼は、アメリ
カ議会のプログラムに則った強引な対日要求である「年次
改革要望書」の手順どおりの国会運営を行い、良識的な
国民の思考や議員たちの審議要求を無視して、「民営化
に反対か賛成か」に選挙の争点を特化してしまった。民
営化そのものの内訳とその是非論を論議しないで、改革
に反対か賛成かというのは非常に悪質なごまかしなの
である。このごまかしの最大の隠しどころは、郵政公社の
分社化によって郵貯、簡保の350兆円の郵政資金が外
資に無防備にさらされた場合、そのキャピタルフライト(資
金逃避)をいかに防衛するかという論議が封殺されたこと
にある。外資の持ち株率20%という規制さえ故意に無視
したことは、郵政民営化の真の目的が国益とは対極の
「国売り」犯罪につながるリスクを背負っていることを意味
している。

 民営化反対の自民党議員の中で、小林興起さんはとく
にテレビなどで、外資の危険性と対日圧力である「年次
改革要望書」の存在を訴えていた。このために彼の選対
事務所は選挙違反のガサ入れを露骨に受けている。な
ぜここまで小林興起さんが憎まれなければならなかった
のかを考えると、小泉・竹中郵政民営化一派がアメリカ
の要望で政策進行をしていることを国民に絶対に知らせ
たくないのである。
 この姿勢は、反対派をことごとく制圧してしまった今で
も同じであろう。何かの拍子に郵政民営化や他の法案
がアメリカの意志どおりに行われている現実を国民が
自覚してしまったら小泉政権はただちに崩壊するからで
ある。

 『郵政民営化はすべての改革の入り口である』という、
この悪質きわまる牽強付会は、小泉という人間に国家
や日本人に対する誠意のひとかけらもないことを示して
いる。これは竹中平蔵にしても同じである。

 長くなってしまったが、昭和三十年代の空気を嗅いだ
年齢層の人には対照的によくわかると思うが、今の社
会に投げ出されている子供たちにはまったく未来への
希望が持てないことはわかると思う。それだけ、今の
大人社会は精神的な荒廃が極限まで進んでいること
を実感できると思う。子供に限らず、人間、なにが一番
苦しいのかと言えば、個人にしても社会にしても先の
展望が見えないということに尽きると思う。未来のビ
ジョンを持ち得ない社会や国家は衰退の一途をたどる
以外にないではないか。

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