驟雨にけむる父の姿
時は昭和三十年代初期、所は秋田県奥羽山脈の片田舎、田沢湖
町。私の父、高橋岩治郎(いわじろう)は、「ちょっと行ってくる」という
そぶりをして、ふらっと近場に流れる山裾の沢に分け入ることがあっ
た。岩魚釣りである。
父の職業は田圃の開墾をする土木の作業員だった。仕事のあいま
に釣りに出かけていることがあった。たまの休みで家にいるときも竿
を片手にふらっと出て行ったものである。今思えば印象に残っている
父の姿がある。それは、ある雨の日、父が釣りに出て、案外わずか
な時間で帰ってきたときのことである。とは言っても別段変わった出
来事があったわけではなく、その日の父のいでたちと、しとしとと静
かに降る小雨のコントラストが風景によくマッチしていたから記憶に
残ったということである。
そのとき父が着ていたものは定かには思い出せないが、今から思
えばまるで江戸時代にでもトリップしたかのような古風な装束だっ
た。たしか野良着である作業服の上下に、ワラで編んだ蓑(昔の合
羽:その当時はケラと呼んでいたような記憶はあるが)を羽織り、頭
には菅笠(すげがさ)をかぶっていたと思う。
足には地下足袋を履き、その地下足袋の下には自分で作ったワラ
ジをくくりつけていたように思う。岩場でのすべり止めのためである。
腰には魚籠(びく)を下げ、手には長さが何尺か思い出せないが、良
くしなる細くて短めの竿を握っていた。魚籠を持たないときには「レ」
の字形に枝を切ってそれを釣ったイワナの鰓(えら)に通していた。
父は寡黙な人で、いつも黙って山に入った。なぜだかわからない
が、自分が一番印象に残っている釣り師である父の姿は小雨が降
ったときの姿であった。たぶんその古風ないでたちがおもしろかった
のだろう。
何も語らず、驟雨の中にすっくと立つ父の姿は、本当に風景に調
和していて格好いいな、決まっているなと子供心に思ったものであ
る。日本画を写したような実にさまになる姿であった。あたかも川合
玉堂の「山林驟雨」の絵から抜け出たようないでたちであった。近く
で山仕事している馬喰(ばくろ)から馬のしっぽの毛をもらい、それを
よってテグス代わりにしていた。
父は釣り竿だけは、名のある釣り竿師の手になる高級な手作りの
ものを使っていた。私にも母にも絶対に触らせなかったほど大事にし
ていたように思う。当たりの微妙な感覚の弾性を得るには名人が作
った竿でなければ駄目だと言っていた。大きな渓流に入るときと、
幅の狭い小さな沢に入るときはその竿の長さを微妙に調整してい
た。近場の沢は、自分の庭のような沢なので、どこにイワナが潜ん
でいるかポイントは手に取るように知悉していたようだ。
夕飯まぎわに父は、釣果を自慢するわけでもなく、無表情に尺イワ
ナを何匹も持ってきた。笹の葉を敷いた中に、今釣ったばかりの斑
点模様の美しいイワナが横たわっていて実に野趣の深い眺めだっ
た。母はそれを炭火のコンロで焼いたり、串に刺して遠火で焙った
りしていた。父はその焙った魚を味噌で煮て食すのが好きだったよう
だ。
父は当時、村では舞い茸(まいたけ)採り名人でもあったので、
時期が来ると大きなかっこーべ(竹で編んだ容れ物)を背負って奥山
に舞茸を採りに行ってきた。天然の舞茸は香りが強く部屋中に香気
が満ちた。実に濃い味を持っていた。初夏には秋田県地方では定番
の「根曲がり竹」というタケノコを採りに山に登った。このタケノコはだ
し味噌で煮て最後に卵でとじると抜群に旨くて御飯を何杯もお代わり
してしてしまうくらいである。
ある日父は荷葉(かよう)と言う山に登り、一心不乱にそのタケノコ
を採っていた。ひととおり採ったので、ふもとからかなり距離があるそ
の山の頂頭部からジグザグに山すそに降りて来たそうである。その
ときは動きすぎで喉が乾き、大変苦しい思いをしたらしい。沢すじを
降りたわけではなかったので、降りる途中の山腹にはどこにも清水
の湧く場所はなかった。
ようやくふもとまで降りたとき、父は脱水になりかけていたらしく、背
中の重いタケノコも負荷となり、ふらふらしながらある場所にたどり
ついた。すると、やけに辺りが明るい黄色になっているなと思ったそ
うである。目を凝らして見ると、なんとそこは「下がりイチゴ」の群生地
のど真ん中だった。喉が乾ききってばてていた父は、狂喜乱舞しな
がら、その熟して甘酸っぱい黄金色のイチゴを思いっきりほおばった
そうである。
父は今でも語る。あのとき口に入れたキイチゴは、一生忘れられな
い思い出だ、果物であんなうまいものは今まで喰ったことがないと。
それから父は体力を回復し、意気揚々と家路に向かった。イワナと
いい、カジカといい、シメジといい、マイタケといい、タケノコといい、
父は山の幸を見つけて我々家族に持ってくる名人であった。
貧乏な生活であったとは言えるのだが、自分は豊かな山の幸を存
分に味わって育ったような気がする。父が山から運んできたものは
多様なキノコや山菜、川魚ばかりではなかった。一緒に山の香りも
運んで来てくれたのである。山の香りは確かにあった。そこに繁茂す
る苔や樹皮の匂い、そして土の匂いなどである。人工的な匂いに汚
染されていないまったく原生の自然林そのものの素朴かつ複雑な香
りだった。
驟雨に濡れて立つ父の蓑合羽姿は堂に入っていた。馬のしっぽの
釣り糸と短い竿でいつも尺イワナを釣ってくる父の姿は頼もしかっ
た。やむにやまれぬ事情はあったのだろうが、戦後の日本人はほと
んど無思慮ともいえる強引なかたちで、縄文以前から存続していた
悠久の自然林(天然林)を切り開き、人工林に置き換えてしまった。
そのために、かつては当たり前であったあの深山奥山の高貴な香り
はすっかり消えうせている。これが戦後の日本人のナイーブな品性
を溶解させた大きな要因の一つであると言えなくもない。ここにひと
つの学説がある。受け売りの知識ではあるが、海軍大佐で民俗学
者・柳田国男の弟でもあった松岡静雄編纂『日本古語大辞典-語
誌』を引けば、「大和」の語意は、「山(やま)」・「處(と)」が源泉であ
るとある記事で見た。
山(やま)、そして處(ところ)。日本人は大和(やまと)の民である。
われわれの先祖が、深山(みやま)や里山(さとやま)から先祖代々
吸い取ってきたもの、与えられ続けてきたものは日本人の温和でや
さしい性格を涵養してきたことはけっして否めない事実である。日本
人が日本人であるために、故郷(ふるさと)の山々は、いかなる時代
にもたゆまなく日本人のたましいを豊かに養ってくれた。半世紀を生
きてきて痛切に感じるが、今、日本人はたましいの食物であるほんと
うの山々を取り戻すべきである。これを想うとき涙がにじんでくる。
環境保護論を考慮するとき、生活の快適さをベーシックとした人間
中心主義で考察するものが圧倒的に多い。これは歴史の縦軸を分
断する考え方である。そのような時間を分断した環境論では所詮、
人間のご都合主義にならざるをえない。人という種が測り知れない
無窮の時を経て今日にいたっているように、天然林もそれ以上の時
を経ていまにいたっている。この果てしない連続性のなかで日本人
は自然と関わってきたことを最初に念頭に置くべきだろう。
山の自然林が荒廃するということは、もはやそこに住む生物や人
間にあの原初的な恵みをもうもたらさないということである。山に生
成し、山の精気を吸った食べ物は、玄妙な山の霊気も同時に吸って
いることを意味する。これは人間にとってたましいの栄養(かて)とも
なるものであった。山の幸は日本人の血肉を養ってきたのである。
戦後60年、日本人が失ったもので一番たいせつだったものとはいっ
たい何であろうかと自分に問いかけてみる。自分はそれを、天然林
と、きちんと海まで流れる川だと迷わずに答える。
奥羽山系の片田舎、驟雨に立つ父の記憶は、いまから四十数年も
前のものである。その絵画的な情景を追憶に観たとき、現代文明で
はけっして再現できない自然のなまの姿と息吹に、心だけが今むな
しく飛んで行く。なぜなら、それはもう手の届かない追想の彼方に沈
んでいるからである。
その寡黙な山男の父もすでに八十八歳をかぞえている。今は富士
のお山のふもとで、背中を丸めなが猫の額のような畑を耕し、好きな
雑木の盆栽をいじっている。晴れた日には必ず10Kmのウォーキン
グをしている。車が危ないのでやめろと言うのだが、いっこうに聞き
入れる様子はない。
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