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2005年10月26日 (水)

ペットボトル文明・敷島文明(8)◎セントレアシティ、それは日本合衆国化の象徴的都市

    ああ、絶望のセントレアシティ(五)
       (それでも日本人なのか)

   6、セントレアシティ、それは日本合衆国化の象徴的都市

 地方分権などと言っても、まったく実効性の伴わない虚妄の口説に聞こえる。
市町村が巨大化することに何らかのメリットが存在するとすれば、それは住民
サイドのメリットではなく、あきらかに行政サイドの管理効率によるメリットであ
る。もう少し押し進んで想像をたくましくすれば、住民不在、政府ごり押しの大
合併運動は、アメリカの州制度をモデルにした、「日本合衆国」化の下準備で
はないだろうか。

 アメリカと異なるところは、地方の多様な自治体をまとめることによって、中
央からの支配構造の簡素化、効率化を目指しているのかもしれない。自治体
数を縮小することによって、支配力、統制力の集中化をはかり、数字的な行政
効率を上げていく目的に見える。その際、郷土色とか、地方の個性などは阻害
要因だと考えているような気がする。現状の地方自治体の多様性とは、行政効
率的視点で見れば支配統制の分散を意味しているのであろう。こういう考え方
は、人権革命によってできた新興国家・アメリカによく似ている。

 日本は、聖徳太子や大化の改新辺りから中央集権体制を強めこそすれ、弱
めることはなかった国である。いつの時代も、天皇の御陵威(みいつ)を国家の
最上位に置きながら、常に中央集権の形をとってきた。行政機能や権威、ある
いは徴税システムが地方に分散して、列島が調和的な国家にいたる姿は日本
では考えにくい。今から十年ほど前に、金融ビッグバンがあって、金融業界に
規制の壁が奔放に取り払われ、経済構造が露骨にアメリカに似てきても、この
国の政治の中枢はあいかわらず首都に鎮座する。江戸時代の封建制度を思う
と、もし、この時代に将軍家という求心力がなく、地方には藩という自治体だけ
が散在していたら日本はとっくに分解していたに違いない。ましてや、将軍家と
朝廷の併置存在は日本の社会をきわめて理想的に安定させていた、精緻きわ
まる統治構造であったと考える。

 金融ビッグバンで日本の大手銀行同士が合併し、最近では銀行と証券会社
の合併も行われた。しかし、この合併は、地方の合併とは異なり、外資圧力に
対する共闘姿勢がとらせた究極の形態であり、一種の防御(免疫)反応である。
ここで自分が一抹の不安に思うのは、地方市町村の性急な合併が、ただの国
家財政建て直しの見地だけで行われているのかという素朴な疑念である。もし
かしたら、自衛隊のイラク派遣と同様に、地方合併にもアメリカの強制力がはた
らいているのではないのかと勘ぐってしまうのである。この疑念は、以下に述べ
る大店法(大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律)
改正、撤廃の動きの一連のプロセスが進行した時も、アメリカの傍若無人な強
制力が働いていたことに端を発している。

 かつて、アメリカの露骨な圧力のもとに、大店法は改正され、橋本総理の時
代には完全撤廃された。日本各地の郊外には、ここぞとばかり、さまざまな大
規模店が進出するようになった。そして、一昔前は里山や田んぼであった場所
に、バイパスや道路が敷設され、その沿道(ロードサイド)には、あっという間に
大型チェーン店がビルトインされてしまった。このため、日本各地における市町
村郊外の景観は今日のように様変わりしてしまい、昔からのどかな田園や里
山は、どこもかしこも無機的で画一的な風景で占められてしまった。

 多様な植生に彩られ、蝶やトンボが輪舞していた、あのなつかしい里山の雑
木林は、あとかたもなく無残につぶされてしまった。里山の樹齢の高い天然林
は切り開かれて、ゴルフ場となり、色だけは緑の禿山に変貌した。郊外の豊か
な田園や畑はつぶされて更地にされ、そのあとには極彩色の看板や毒々しい
蛍光塗料の大型店舗が林立した。このため、各地域の駅前にあった商店街は
軒並みシャッターを降ろし、街は駅を中心として郊外だけがドーナッツ状に発展
し、中心部は取り残されたように閑古鳥がないている。街の経済は郊外稼動型
に移行してしまい、中心部はさびれて空洞化してしまう風景が日本のいたると
ころに見られるようになった。

 大店法改正による郊外稼動型の街づくりと、平成の市町村大合併、そして地
方の郷土色や歴史の連続性を断ち切ったカタカナやひらがな地名の出現。これ
ら三者は、一見、相互には何の関連性もないように思える。しかし、自分にはこ
れらの異なった行政指針が、ひとつのビジョン、ひとつの思想で緊密にリンクし
ているように見えるのである。それはアメリカが特に近年推進してきたグローバ
ル経済の動きにシンクロした動きなのである。言うならば、現代日本の主体性
のない行政感覚が生んだ、歯止めの利かない効率化ではないだろうか。日本
には伝統と国民性が反映したケインズ型の日本式資本主義経済が戦後の成
長ベクトルを築いていた。しかし、昨今はグローバルスタンダードの侵食が強
烈にはたらき、それは日本国内の経済や社会システムの劇的な改変にまで
及んでいるのである。

 アメリカの言うがままに、ほとんど何の検討もないままに、アメリカ型経済構造
をモデル化し、日本経済の固有性も無視して、社会構造の転換をごり押しした
のである。行政が漠然と展望し、かつ無慈悲に推し進めているのは、庶民と乖
離した、夢のない画一的な効率化、たとえば規制緩和、規制撤廃の名の下に
行う無秩序な社会構造の単純化なのだ。この思想や背景には、郷土の文化も
伝統もなく、大資本と消費者の「相互利便」だけという、限定的な性格のみに絞
られた行政展望を実現化する。これはあきらかに郷土環境の破壊、文化環境の
破壊、伝統の破壊である。この単純化、効率化を小泉総理は行革と名づけてや
たらに奮闘し、日本人の郷土帰属意識や、伝統的に続いた健全な地方コミュ
ニティを精力的に破壊しているのである。

 江戸時代の経済学者が志向した経済思想は、経世済民(けいせいさいみん)
という考えかたであって、今のビジネスの概念とは異なるものであった。それは
経済活動にあっては、単なる利潤追求ではなく、活動そのものに、徳をもって人
や世の中の役に立つことが肝要だとされていた。その感性は昭和の時代が進
むにつれて、戦前よりは漸減していったのだが、わが国は高度経済成長から昭
和のバブル直前までは、そういう経済気風はある程度踏襲されていた。

 しかし、バブル以降、日本経済の雰囲気は、アメリカが推し進める、血も涙も
ない弱肉強食の市場原理至上主義一辺倒に衣替えしてきたのである。現代平
成日本は、構造改革などと言いながら、国家の権威から来る健全な監視やフィ
ードバック機能をぶちこわし、資本の多いもの、利に目ざといものにだけ利益を
もたらす極端な優勝劣敗構造に変質しはじめている。ここに、勝ち組と負け組
みの単純な二極階層化が進んでいる。この形はアメリカがはるかに先進国で
ある。先進という言葉はもちろん強い皮肉である。アメリカが掲げる進歩史観
の本質が世界にとってどのようにいかがわしいものであるかよく考えていく必
要がある。

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ペットボトル文明・敷島文明(7)◎妄想都市セントレアシティと平成の大合併

    ああ、絶望のセントレアシティ(四)
       (それでも日本人なのか)

5、妄想都市セントレアシティと平成の大合併

 そもそも、この地名騒動の発端には、平成の大合併と言われる市町村合併の大号
令がある。不注意のせいか、政府が地方合併の大声を上げた当時、自分はほとんど
気がつかずにいた。しかし、意識して合併に注意が向かった時はいつのまにか全国
的に合併が進行していた。合併は1999年4月から始まっていた。その名目は地方
分権の時代に対応するためということであった。時代の変化に対応して地方自治体
の強化を図る必要があり、そのためには合併を推し進めることだと国が勧めた一大
キャンペーンである。その結果、3232あった全国の市町村が、平成18年の春には
1822に再編される予定だそうである。

「南セントレア市」騒動が登場した辺りから、市町村合併とは何だろうかと漠然とは考
えていたが、特に丹念に調べようとは思わなかった。合併に際しては、当然、事前に
自治体と住民が十分なアセスメントを行い、そこには住民の意思要求が反映されて
いるものとばかり思っていた。合併のメリット・デメリットがはっきりと公示されていて、
当事者たちは官民含めてそのことをよくわかっていて推進していることだと思ってい
た。しかし、実情はどうやらそうではないらしい。自分はそれに関した徹底的な討論
や啓蒙的な話をメディアで聞いた記憶はない。住民サイドの合併に対する展望や認
識が固定しないうちに、行政サイドのごり押しで、はじめに合併ありきという形であれ
よあれよという間に進められてしまったという感じである。

 実際、政府が広報として住民サイドのメリットやデメリットを大々的に宣伝していた
のだろうか。注意が足りなかったと言えばそれまでだが、いつの間にか合併が当然
のように推し進められていたという感じしか持っていない。かすかに覚えていることは、
当時の片山法務大臣がテレビで、合併に反対する地区についてはこれから精力的に
説得しますからなどと言っていたことだけである。その時はなんだか変だなあと思った
記憶がある。そもそも、賛成か反対かという積極的な話し合いが、国民レベルに浸透
するように行われないうちに、合併が既成事実のように進められていたという感じは否
めない。自分の印象では、政府は各自治体への通達以外には、国民に向けて積極的
な広報活動はしなかったと思っている。市町村の役場止まりで一方的な下知に近い
感じとでも言ったらいいだろうか。合併の意義を地域住民に充分に知らしめる手間を省
いて、強圧的に合併が進められていたということである。

 さまざまな市町村の広報をネットで見ると、数項目の合併後のメリット・デメリットが書
かれてあったが、自分には説得性があまりないものばかりである。唯一理解できたこと
は、平成大不況によって、国の借金(債務)が膨大なものになり、やむなく緊縮財政を
とらざるを得なくなったという一点につきる。つまり、政府は合併によって自治体の窓口
を減らすことで、地方交付金を総体的に減らす算段を図った。合併は住民サイドの要求
や意志にはいっさい関係なく、政府の一方的な謀りごとで行われた行政プランだという
ことである。

 合併後には、地方分権の体制が整い、自治体が大きくなって発言力が増すとか、福
祉の向上や役所手続きの効率化が住民に利便性を与える、などと書いてあるが、これ
らはほとんど説得力を持たない。というか、体のいい嘘っぱちのように聞こえる。合併後
に農地は宅地並み課税になり、簡単に考えてみても、体が大きくなった分、自治体の
行政範囲や機能が拡大し、増税という高カロリー食を消費する体質にならないだろうか。
それよりも、合併によって地方住民の郷土への愛着が希薄化するというデメリットの方
がはるかに重大な結果をもたらすのではないだろうか。なぜなら、土地に愛着を失えば、
労働意欲や遵法精神が低下し、自治体経済の衰退や治安の悪化を招くからである。

 セントレアは極端な事例だが、合併によって市町村の慣れ親しんだ名前が消えるこ
とは、住民の郷土への密着性も消え、そこに慣れるにはまた膨大な時間を必要とする。
自治体の名前は変わっても、住む人間が移動するわけではないので空間的には元の
まま何も変わらない。しかし、地域の本質をあえて考えれば、合併というものは、もと
もと個別体であった二人の人間を外科手術によって無理やりくっつけてしまうような
ものではないだろうか。つまり、まともな二人の人間を癒着させてシャム双生児のよ
うに作り変えるというようなおぞましさがないだろうか。

 地域の多様性は、生物進化による多様性と似たところがあり、それはツリー構造
(系統樹式)になっている。一本の木は、根が地中にあり、地上からは幹が出ている。
そしてその幹からは太陽光線を効率的に受けるためにあらゆる方向に複雑に枝分か
れしている。地域の分化や多様性もこれと似たところがあると思う。家系もそうである。
本家から分家が生じ、それが枝分かれして子孫が増えて行く。合併とは、隣り合った
所の枝同士が合わさって、一本の太い枝になるようなもので、自然界にまったくない
とは言えないが、はなはだ不自然である。

 名前の喪失は、問題の本質を象徴的に言っているのだが、実際、合併によって何
が起こるのかと言えば、住民のアイデンティティ・ハザードが地域住民の意識の中で
静かに進行する可能性があるということである。たとえば、三つの町が合併すること
になった場合、三つの共同体、三つの地域文化、三つの習俗土着信仰などが交わ
ることになり、住民にはアイデンティティの混濁が起こることになる。混ざり合った後
は、時間を経て、やがてはある統一が起こるが、それははたして以前のような歴史
の縦軸から正当に継承されてできたものと等価なのだろうか。はなはだ疑問である。

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2005年10月25日 (火)

秋の恵み

夕方、88歳になる父がふらっと散歩に出て帰ってきたら、たくさんのキノコを
採ってきていた。我が家から一キロも離れていない林の中、あまり太くない
朽ちかけたクヌギの倒木にびっしりとナラタケが生えていたそうである。

VFSH0736

 毎年、かならず見て回る倒木の一つだそうであるが、一本の木に、これだけ
のキノコが出たのを見たのは、この辺りでは初めてだと父は語った。

 早速、夕飯の鍋物でたらふくいただいた。この地方では、里山や山に行けば
見られる比較的ポピュラーなキノコで、地元では「アシナガ」と呼ばれている。

 アシナガにも二種類あり、九月ごろに出てくる地生のサワモダシは地面にバ
ラバラに出て全体としていくつかのコロニーになっている。

 そして十月過ぎの、空気が冷たくなってくるころに出てくるナラモダシ(ナラタ
ケ)がある。これは枯れた木や切り株などの木質に出てくるキノコであり、株が
まとまっていて見事な生え方をする。

 自分も山へキノコ狩りに行って何度も見つけたことがあるが、薄暗い奥山の、
朽ちはじめたナラの切り株などにいっせいに出ているナラタケを見たときは、
白っぽい花が咲いているように見えて感動する。

 父が見つけたのはナラタケであり、これはサワモダシに比べて肉質が引き
締まっており、色も白っぽい。両者とも吸い物や味噌汁にして食すと美味である。

VFSH0743

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2005年10月19日 (水)

ペットボトル文明・敷島文明(6)◎ここにも溶解する日本の姿が見えてくる

    ああ、絶望のセントレアシティ(三)
       (それでも日本人なのか)

4、ここにも溶解する日本の姿が見えてくる

 さて、中部国際空港の愛称”セントレア”を借り、空港に関係のない近隣の小さな町
がただ空港の南に位置しているからといって”南セントレア市”などという安易なカタカ
ナ造語を命名してもいいものだろうか。何と言うか、この造語感覚には不快感を通り越
して、一日本人として強烈な怒りを感じた。物品の単なる愛称ならば軽く受け流すこと
もできたかもしれない。

 しかし、今回、問題となっている新たな市のネーミングは、その背景を考えると日本
人の戦後史と深く関わる重大な問題が絡んでいることが見えてくる。それは日本人の
伝統意識の溶解という切実な問題である。出るべくして出た戦後民主主義の総決算
という意味でこの問題は非常に深刻である。たとえそれが愛称ではあっても、「セント
レア」を日本国内の領域にある国際空港に名づける感覚、そして合併後の新市名に
名づける感覚は異常すぎるほど異常である。

 この感覚をもたらしたものは、教育勅語に取って代わられた教育基本法施行の当然
なる帰結であるとも言えるかもしれない。要するに、この英語もどきのカタカナ造語には
郷土の伝統も特色も誇りも何もないのである。自分たちの故郷に愛情と誇りをいだく人
間であるなら、まず先祖たちの想いがしみついた地名を簡単に変えてはならないと強
い抑制がはたらくはずである。ましてや新たに名づける新市に、英語もどきの名前を冠
するなどもってのほかと言うしかない。それが日本人ならではの伝統的感性というもの
である。昔から親から子へ、子から孫へ、それは連綿と伝承されていた。

 しかし、戦後に始まった戦前否定教育や偏執的に過剰な人権擁護や個性尊重教
育の結果、それはいつの間にか日本人の精神構造を蚕食し、結果として伝統的な共
同体の崩壊が起こった。一方では核家族化の進行によって世代間の伝承経路が断ち
切られ、昔から積み上げてきた大事な規範感覚やもののあはれを感得する心性が途
絶えてしまった。その結果、日本人ならではの悟性や、民族悠久の叡智はことごとく
溶解してしまったのである。日本人を日本人らしくさせていたあらゆる特徴が分解して
いった。その一つのあらわれが、今回のセントレア騒動記である。それではセントレア
呼称の不届きさについてもう少し追求してみよう。

 まず、セントレアという名の語感であるが、カトレアとかフリージアとか、一見可憐な
花の名前に凝らしたロマンティックなイメージを持つ。このようなネーミングは、一昔前
の純喫茶やラブホテルの名前を想起する。自分などは、最初聞いていたとき、拳豪コ
ミック「北斗の拳」に登場する荒廃した世界の近未来都市のような名に思えた。ユリア
とかいう登場女性の名前から連想したのかもしれない。それに、セントレア空港の南
に位置するから「南セントレア市」と言ったところで、空港とは直接何の関係もない両
町である。空港の名前を中心に市の名前を考えるのであれば、地域的な整合性を得
るために、南側に限定せずに、空港の周辺市町村すべてが対象範囲に入らなけば
おかしい。しかし美浜町長は、合併計画が雲散霧消したあとも、未練たっぷりに、
「将来、常滑市と合併するときは再びセントレア市を」などと吐いたのである。

 おそらく彼らの頭の中には、実現するかどうかわからない首都移転(遷都構想)が
強く刷り込まれていて、「遷都」、「セントラル」、「はるかな先を見据える自分の先見
性」に自己陶酔しているのである。未来を先よみする為政者の鑑(かがみ)だなどと
自負しているのかもしれない。この陶酔感は、セントレアに踊らされた者たちすべて
に共通しているのだろう。そうでなければ、協議委員会の中にもこの名前に、誰かが
異議を唱えていなければおかしい。しかし現実には、委員会全体が諸手を挙げてこ
の新市名に賛同していたふしが見える。あるいは反対意見がまったく言えなかった
空気が醸成されていたのだろうか。齋藤美浜町長はテレビのインタビューで、新市
名に住民が拒否感情を示していることについて意見を求められたとき、このようなこ
とを言っていた。「住民は先んじた考え方に追いついていけないようだ」と。

 彼は「南セントレア」が表象するイメージが、はるかに未来的で、国際的で、斬新
で、進歩的だと、確固たる信念で思い込んでいるのである。自分はこれほど先を行
っているのに、住民はまったく遅れていてピントがずれていると言っているわけであ
る。この表明が全国放送で流れたために、地元民の怒りをいっそう煽ったばかりか、
日本中の心あるものたちの不興感、つまり失笑にさらに追い討ちをかけてしまった。
彼ら当事者たちには、南セントレア市という名が、あまりにも浅はかでセンスのかけ
らもない恥ずかしいものだということにまったく気づいていないのだ。実は、このような
メンタリティは、意識の底までアメリカ追従に囚われた戦後日本における負の現象の
一断面として銘肝すべきである。

 ところで、実用的に考えても、空港の南に位置する狭隘な二町のみに、空港の名
前を冠することは不自然である。名前を付けるなら、空港を中心として環状に広がっ
た区域全体を対象とするべきである。成田空港のように東京から一時間もはなれた
距離で新東京国際空港というのも現実には奇妙である。だからこの二町が、空港に
あやかって空港名を安易に拝借すること自体も感心しないのである。ところが、それ
を強引に推し進めているところに、前述した「未来遷都妄想」が作用していると言わ
ざるをえないのである。

 真に深刻な問題は、このセントレアというネーミングがしめす新市のアイデンティティ
の喪失である。セントレアという響きがいくら心地よいものであっても、この名は地名
としてはまったく空虚である。この名称には日本がまったくない。国籍がまったくない。
歴史、伝統がまったくない。郷土がまったくない。日本の歴史からも、風土からも、ま
ったく無関係に、ある日突然、空中に浮揚した名前なのである。このように、自分た
ちが属していた過去の時間も空間もすべて抹殺して、あてにならない未来を固定化し、
異様なカタカナ名称を名づけてしまう為政者の心象風景は、かぎりなく殺伐としてい
る。ここには住民の公僕たる意識も、郷土への愛情もまったく感じられない。あるのは、
英語風な名前が斬新で非常に進歩した感覚だという間違った観念だけである。アメ
リカさまさま、イギリスさまさまである。

 ある日、セントレアという造語が、異常気象時の巨大キノコのように名古屋近辺か
ら出現した。それはさりげなく瀟洒な衣をまとってはいるが、その正体はいたって不
気味である。その芽を放置しておけば、それは次第に日本全土に増殖し、やがては
日本らしさを破壊して行くだろう。この奇態きわまる造語が放つ強烈なインパクトは、
根深い社会的背景を浮き彫りにした。

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ペットボトル文明・敷島文明(5)◎遷都をイメージしての「セント」レアなのか?

       ああ、絶望のセントレアシティ(二)
        (それでも日本人なのか)

3、遷都をイメージしての「セント」レアなのか?

 まず、なんとなく最初から奇異に感じるのは、新市名騒動にゆれた地区も、肝心
かなめの空港も、これらの場所が、たとえ未来首都の最有力候補地であったとして
も、現在はただの一地方であるという単純明快な事実である。そのたんなる一地方
に、首都をイメージさせるセントラル、すなわち「中央」という言葉はできれば使わな
いほうが賢明というものではないだろうか。次の比較を見てほしい。

              和名                                 英語名
               ↓                                    ↓
   A)   中部国際空港    →      Central Japan International Airport

   B)  中央日本国際空港    →        Central Japan International Airport

  日本語は、表現表記上、ラテン語族にくらべて形容の微妙さを持ち、広い範囲の
意味を持つ言語である反面、あいまいな部分がある。それを踏まえたうえで上記の
A)、B)を見比べていただきたい。まったく同じ英訳表記でありながら、両者の和名
から受ける印象はだいぶ違うが、いかがであろうか。なにをいいたいのかというと、
日本語と英語の表現格差ということである。かならずしもすべてにおいて、日本語
は意味が幅広くあいまいで、英語は誤解の余地のないほど先鋭的に収斂された
意味になるということではないが、一般的にはそういう感じがあり英語のほうがよ
り直截に意味を伝える。

 A)の「中部国際空港」は、日本人が見れば、「ああ、中部ね。最近、中部地方に
できた国際空港か」とすぐにわかる。つまり、ローカルな場所にできた空港だという
印象を持つ。しかし、B)の「中央日本国際空港」を見たときには、どこの空港なん
だろうと一瞬戸惑うにちがいない。なぜなら、B)の日本語名称からは、すぐにぴん
とくる地域の概念が浮かびにくいからである。「中央日本」という文字は、今の日本
人感覚から言うと、「中央交通」や「中央大学」のように企業名や団体名をイメージ
させるかもしれない。そうでなければ、文字どおり日本の中心部ということになるが、
これは列島を弓なりに三分割して、その真ん中、すなわち大きなパートとしての中
央を思わせる。すぐに名古屋地方には結びつかない。

 つまり、微妙ではあるが、「中部」は限定されたローカルな地域を、「中央」は大
きなブロックとしての真ん中を感じさせるのではないだろうか。この二つの単語は、
受け止め方によってはかなり意味が違ってくるようだ。もっとも、「中央」アルプス
などという言葉もあるからややこしいのだが。

 しかし、英語を母国語とする外国の人々にとってはどういう印象をもつだろうか。
彼らは Central Japanを、日本の中心部、中央部という意味でとらえるだろう。た
とえば中央アメリカ(Central America)という大きなブロックを示すように。自分だ
けの勝手な推測かもしれないが、外国人から見ると、Central Japanの字面だけ
ではローカルな場所であることを想起できないのではないだろうか。もしかしたら
行政機能が集中している場所とか、国家の中心かつ最重要な象徴性を持つ場
所であるというふうに受け止めてしまうかもしれない。なぜならセンター、セントラ
ルというのは慣習的にそういう使い方をする場合が多いからである。少しひっか
かるのはそこなのである。整理して言えば、中部国際空港( Central Japan
International Airport )は、日本人にはローカルな空港と感じ、外国人には首
都圏に直結した、日本の最重要かつ最大規模の空港と映るわけである。

 それのどこが問題なのかとおもうかもしれないが、問題なのである。なぜなら、
日本の首都東京はまだ遷都していないのであり、今、日本を代表する空港は成
田空港なのである。NARITAは日本の国際空港のれっきとした「中央」玄関口な
のである。中部国際空港が、将来、どれだけ発達する可能性を秘めていたとし
ても、現在はひとつのサブ的な空港である事実は直視するほうがいい。そのサ
ブ(副次)的な空港に、センター(中心)をイメージさせるセントラルを安易に付与
してもいいのだろうか?中部国際空港は、常滑市沿岸から伊勢湾沖合3Kmの
ところにある。新東京国際空港が、成田に開設されたから通称「成田空港」とい
うように、常滑沖に作られた空港は「常滑国際空港」が一番すなおでわかりや
すいと思うがいかがであろう。中部国際空港という名前は、外国人に首都圏を
連想させてしまうので不適切なのである。
 
  これに加えて該当地域の住民が、遷都、遷都と踊り狂っていても、まだあの地
方は”未遷都”なのであるし、将来、実際に遷都が実現してみたら、意外にも他の
県だったりしないとも限らない。ましてや、セントレアが遷都をひっかけた「セント」
レアであったら事情はなおさら悪くなる。言うまでもないが、遷都が実現しなかっ
た場合は永久に意味のない名前として残ることになるからである。しかし、委員会
はなぜここまでセントレアに固執するのだろうか。強引に推測するなら、この地区
の行政をつかさどる連中の頭には、遷都構想という幻想が、まちがいなく現実化
するものとして根づいていて、無意識に自分たちは首都圏在住の人間だと思い込
んでいるのかもしれない。まあ、はっきり言えば、いなか者の東京コンプレックスが
転じて今回のセントレア狂騒をまねいたのではないだろうか。実際に他の市名候補
には遷都麗空(セントレア=セント+レイ+エアーなのか?ひどい造語感覚だ)と
いうのもあった。そう考えると、この両町協議会の脳天気な頭の具合が見えてくる
ような気がする。名古屋地方は東京遷都の第一候補地と言われただけに、この
地域の為政者たちがこぞってはりきる気持ちはよくわかるのが・・。

 人でも、地域社会でも、大きな夢、すなわち壮大なビジョンを持つことは好ましい
ことである。だが、その願望があまりにも強烈で、あこがれの段階を通り越し、下手
に現実から遊離すると、それはすでに願望から妄想に変質するのかもしれない。あ
るいは過激カルト教団の洗脳状態に近いステージに舞い上がっているのかもしれ
ない。そこまで辛辣に言わなくても、浮き足立って視野狭窄を起こしているように見
える。。そう思える間抜けさ、滑稽さ、近視眼的な情動が今回のセントレア騒擾に
は色濃く見え隠れするのである。

  余談ではあるが、「中部国際空港」を英訳するなら CHUBU International Airport
でいいのではないだろうか。執拗に突っ込んでしまい、すこしは忸怩たる思いもある
のだが、もうひとこと言えば、今現在使用されている英訳名の  Central Japan Inte
rnational Airportは、和訳すれば「中部日本国際空港」となる。意地悪く考えると、
故意に「日本(Japan)」を抜いて、「中部国際空港」とよぶのは、字数の省略というよ
りも、「中部」を「中央」とイメージさせたい姑息な計算がはたらいているのではない
だろうか。「中部日本」と記してしまえば、それはまちがいなくローカルなエリアをさ
すことになるからである。言いすぎだったら当事者のみなさんにもうしわけないが、
それでも「セントレア」にくらべたらはるかに罪は軽いだろう。なぜなら、国際空港
という性格に関わる呼称の「セントレア」は日本国という自主権を持った国を想起さ
せない名前に見えるからである。どこか外国の地名のような印象を与えているから
である。これは日本の国柄から逸脱した命名感覚である。また、地名の意義に関
わる「南セントレア市」も、あきらかに郷土性から遊離した軽薄極まりない名前である
と言える。

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ペットボトル文明・敷島文明(4)◎奇矯なる地名を聞いて、あいた口がふさがらない

   ああ、絶望のセントレアシティ(一)
    (それでも日本人なのか)

1、奇矯なる地名を聞いて、あいた口がふさがらない

  今年の前半、メディアを沸かせたあるひとつのニュースについて少し考えてみた。その話
題とは、当時はテレビなどを沸かせてご存知の方も多いと思うが、それは愛知県知多半島
南部に位置する二つの町、美浜町と南知多町の合併に関して起こった珍騒動のことである。
両町合併計画の新しい市の名前が、奇妙と言うか非常にユニークな名前で一時的に話題
になった「南セントレア市」の話である。

 二町の合併に伴う新しい市は、その奇態なネーミングのために、たとえば、ネットにおい
ても多くのスレッドが立ち上げられ、その命名の是非については喧々諤諤(かんかんがくが
く)の話題をふりまいた。それに関連したブログや掲示板を当時ランダムに眺めてみた。中
には真摯な考察に満ちた疑念の声もあったが、大方は怒りを混じえた嘲笑的な意見がか
なり多く見受けられた。

 総じてこの問題に関心をよせる者は、「南セントレア市」という新名称にはほとんど嫌悪感
に近い否定的な印象を持っていたようである。最初、この二町合併後の新市名をニュース
で聞いたとき、自分はあっけにとられたというか、わが耳を疑った。なんと異様なカタカナ文
字なんだろうと。「これが市名なのか?いったいどこのアホが?」テレビニュースで唐突にそ
の名を聞いたときは、正直呆気に取られただけでなく、しばしの思考停止に陥った。自分の
生活空間とは直接関係ないことなのだが、ほどなくして何ともいいがたい怒りがふつふつと
沸いた。

 怒りの理由はあとで述べるが、説明によれば、当時、新しく開港する中部国際空港の愛
称がセントレアで、その名前を合併が予定される新市に冠するというか、借用したらしい。
セントレアとは、中部のセントラルと、空港のエアーポートのエアーをつけ足した造語である。

セントラル(CENTRAL) + エアポート(AIRPORT) =セントレア( CENTRAIR )  

 二つの英語を足して新語を作ることはよくあることだから、この造語自体にさしたる抵抗感
はない。まして、この言葉が何か新たに開発された家庭製品のたぐいの”愛称”であるのな
ら、ああそうかとやりすごしてしまいそうである。わが国は、古来から外来の文化を吸収し、
それを日本人特有の感性で造りなおしながら日本の土壌に定着させてきた長い歴史を持
つ。文字、芸術、農作物、工業技術、政治体制など、外来のものを多岐にわたり国柄として
取り入れてきた。

 ご存知のように、日本語の名詞には外来語や和製英語のカタカナ言葉が少なからずある。
たとえば、アフターサービス、ガードマン、テレビゲーム、ナイターなどである。だから、一地
方にある新空港のニックネームが、たまたまセントレアという和製英語で名づけられてしま
っても、それはさしたる問題ではないと思われるむきもあるだろう。そう思うことは折衷文化
を得意とする日本人なら、あるいはごく自然なのかもしれない。しかし、ちょっと待ってもらい
たい。今回、自分のみか日本中の多くの人びとに、ある種の強烈なインパクトをもたらした
「セントレア」という呼称は、反響が大きかっただけに無視できない、なにかしら重要な社会
的背景が潜んでいると思うにいたった。したがってセントレアを数あるカタカナ言葉のひとつ
に加えておしまいというわけにはいかなくなったのである。今から、それがなぜかを自分な
りに考現学的に考えてみたいと思う。

2、「セントレア」って、それは新種の花なのか?

 「セントレア」の名称は、最近、愛知県の常滑市沖合いにできた中部国際空港の愛称を
拝借してできたものである。このネーミング自体は、中部国際空港株式会社が商標登録し
てあるが、法律上は自治体名に使用してもかまわないらしい。「南セントレア市」は、例の
両町の合併協議会の中で、かなり初期から出ていた名称らしい。事の起こりは、この珍
奇な名称が、住民の総意や全国公募の結果とは無関係に協議会主導で決められそうに
なったことで急激に住民の怒りを喚起したのみか、全国の心ある人々に嘲笑的な気分を
いだかせてしまったのである。あまりにもネガティブな反響があったせいか、協議会は2月
27日の住民投票で再度、新市名の是非を「住民」に問うことに決め実行に移した。

 その結果、独り暴走したこの新市名は完全否定され、そればかりか、合併そのものま
でも立ち消えになってしまったのである。住民の意向を無視して、勝手な市名を強引に命
名したことが合併計画自体をもつぶしてしまうことになった。こういう事例はまだほかにも
あったらしいが、この一連のセントレア珍騒動は、テレビやネットを通じて格好の物笑いの
タネにされてしまったようである。それは当然といえば当然であるが、実はこの騒ぎを単な
る一過性の時事ネタとして見過ごせないわけがある。

 「南セントレア市」は、新設される国際空港にあやかって世界にアピールできると、両町
協議会委員による意見集約で決定したが、全国公募で寄せられた330件の名称にこの名
はなかったのである。くりかえすが、合併協議会の中から忽然と湧いて出てきた名前なの
である。実際、この奇矯な市名を発案した人物がだれなのか、ニュースなどを見るかぎり
では特定できなかったのだが、この名前に鬼(もの)狂いというほどの執念をいだいている
齋藤宏一美浜町長が出所である可能性がかぎりなく高いように思う。しかしながら、本考
察は命名者の特定が目的ではなく、あくまでもこの「セントレア」という造語が意味する深
刻な背景を浮き彫りにしたい。

 セントレア(CENTRAIR)という造語を見ると、セントラル、すなわち中央という言葉が強調
されていることは明らかである。ぱっと見れば、英語のCENTERの派生語のように見えるか
ら、この言葉を造った意図には、日本の「中心」、若しくは「中央」という意識が強く投影され
ていることがわかる。自分は、合併にちなんだ「南セントレア市」という市名だけではなく、
その語源となった中部国際空港の愛称である「セントレア」という造語自体にも極度の不
快感(不安感でもあるが)をおぼえるものである。したがって、本論評で展開する批判は、
セントレアという名称を考えた者、賛同した者、それにあやかった者たちすべての意識を
対象とし、かつ問題にするものである。それに加え、この空港はすでに稼動しているが、
セントレアをのほほんと許容し、これになんの抵抗も感じないで利用している一般の利用
客の無神経さ、民度の低さにも、現今の日本人が陥っている国籍感覚の深刻なる危機を
見るのである。

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2005年10月17日 (月)

ペットボトル文明・敷島文明(3)◎失調した日本精神と経済停滞の淵源に

        失調した日本精神と経済停滞の淵源に

 神が授けてくれた比類のない至尊の国土を、日本人はなぜかくも醜悪に改変してしまっ
たのだろうか。なぜそうなったのか、その淵源をたどってみると、これが一筋縄ではいかな
い。ここでは、とりあえず思いついたことから言っていこう。簡略に言えない部分もあるが、
思い切って総論的に俯瞰すると、戦後史における日本人の意識の変遷が伝統的な街並
みや郊外の風景、また景観等に重大かつ深刻な破壊と無秩序をもたらしたことが主な原
因としてあげられるだろう。

 日本人がよかれと思い目標として掲げてしまった欧米的志向がその主因である。裏を
返せば、建国以来、日本民族が営々と築き上げてきた一貫した伝統精神が棄却された
ことに起因して列島の景観は変容してしまったのである。単純に欧米的志向とは言って
も、ヨーロッパは伝統的な街並みを美しく保存しながら現代に至っている国が多い。国土
の景観に関して言うならヨーロッパには彼らなりの美意識があり、各国の特徴的な景観
はそれなりに保たれている。景観論的な感性で言うなら、戦後日本がたとえばフランスな
どをモデルにした場合、その社会体制の影響力は無視して考えると、少なくとも今よりは
景観の破壊は少なくて済んだかもしれない。しかし、一般的に言って欧米のどの社会観
念、あるいは世界観をお手本にしたとしても、日本人が自国の自己同一性を置き忘れた
ら結果は大差なかったかもしれない。

 ここで言う日本における風土的景観の凋落に直截的に影響したと思われる淵源は、ず
ばり言って戦後の日本人がアメリカ一国だけを文明モデルに据えてしまったことにある。
実はこのことを短めに説明することは容易なことではない。これをきちんと説明するには、
アメリカと日本の係わり合いを歴史的経緯において、経済衝突、文化衝突、技術衝突、
軍事衝突など、文明的衝突の観点から言わなければならないだろう。文明と一口に言っ
ても、その包括する範囲は広いから、自分ごときがすべてを語る知識もなければ俯瞰も
ないのだが、一人の日本人として感じた範囲で述べるつもりである。

 私のような一介の庶民が、国家間のマクロな係わりを大上段に述べても限界があるので、
自分の生活感覚からあまり乖離しない範囲で考えを展開していきたい。戦後の日本は敗戦
の焦土から歯を食いしばって頑張り、経済的にはわずか十五年くらいの短期間で立ち直った。
このあとは世界の奇跡と言われた高度経済成長を成し遂げ、曲がりなりにも今日に至ってい
る。今、「曲がりなりにも」と形容したが、平成現在の日本は、その経済は曲がりに曲がって
奈落の底が待ち受ける崖っぷちまで来ているようだ。経済の凋落と日本的景観の変容とは
直接的には無関係だが、両者の原因はまったく同じところに端を発している。

 そのことをいっぺんに言うことはできないこともないが、それでは実感的な理解を皮相的なも
のにするので、モザイク的に話をしながらそのエッセンスを積み重ね、ことの真相を全体像とし
て浮かび上がらせてみたい。戦後の日本人は負け戦のあとで、明治以来の皇国史観的な自信
をすっかり喪失してしまった。茫然自失に陥った彼らは、食料や物質に飢えていたこともあり、
当面の生存目標を、いわゆる食うこと、生活することだけに絞ってしまった。また、そこへ絞ら
ざるを得ないほど国家はミニマムレベルまで疲弊していたのである。これが終戦直後における
闇市時代の空気である。

 私はこの当時を生きていないから、その本当の雰囲気については正直わからない。後の時
代に生まれた者の勝手な推測として言わせてもらえれば、闇市当時の一般的な日本人は、
たぶん、死が当たり前であった大戦のストレスから解放され、これから存分に生きられるこ
とを信じ始めた。そういう生存本能的な部分で安堵していたに違いない。その安心感は激越
な戦争空間からとりあえずは脱出できたことにあった。国民には、戦争そのものに対する釈
然としない思いはまだ鮮明に残存していたにせよ、各自はある種の開放感を得ていたので
はないだろうか。当時、今では想像できないほど食物や衣服など、生活物資が困窮のき
わみにはあったわけだが精神的にはある種の安堵感に満たされていたように思う。この当
時に生きる人たちの写真を見れば一様に明るい顔をしていることからそれはうかがい知れる。

 闇市を生活の起点として再出発した日本人は、とりあえずは食べて行くこと、生活して行く
ことに全神経を集中し、日本人特有の相互互恵的な共同体の力を発揮して、戦後の経済体
制は瞬く間に復興を遂げていった。ここには朝鮮戦争特需もかなりの追い風となった経緯もあ
る。この大復興で弾みをつけた日本経済は、このあと世界の羨望を招来するほどのミラクルな
高度経済成長期に突入した。しかし、当然ながら、この右肩上がりの経済成長は順風満帆に
進むことはなく、右顧左眄(うこさべん)しながらも平成にいたって完全に失速した。あとで説明
するが、我が国が右顧左眄したことも、経済失速の憂き目に遭って、今国民の大部分が呻吟
していることも、そのほとんどの原因がアメリカ一国の不当干渉によって生じていることである。
大東亜戦争はアメリカの勝利をもって終息したが、日本の経済及び精神領域におけるアメリカ
の影響は、いまだに有形無形の影響力となって日本民族を苦しめている。日米関係の歴史上、
アメリカが日本を真の同盟国として遇したことはただの一度もない。そのことはアングロサクソ
ンの本家筋にあたる同盟国のイギリスでさえ同様なのであるが。

 我が国の国土変容の原因が何に起因しているのかを考えるとき、終戦直後の数年間は日
本人の精神変遷に直接の原因をもたらした期間であっただけに、けっして避けては通れない
関門なのである。戦後60年を経た今、日本は国際的に自立していたと言えるだろうか。終戦
から六年八ヶ月間の被占領期を過ぎ、サンフランシスコ講和条約が発効されて日本は独立と
国家主権を回復したことになっている。この時、ダレス(後の合衆国国務長官)は、講和条約
締結の前提条件として日本に再軍備を執拗に迫ったが、吉田茂は消極的であり、自衛隊は
立ち上げたが、国防の主務をアメリカ駐留軍にほとんど預けてしまった。形としてはマッカー
サー憲法をそのまま温存し、アメリカに日本国の実戦的防衛を任せた。この後、吉田は経済
復興路線に国策を絞ってしまった。

 自主憲法制定も行わず、自国を守る軍隊も成立させずに60年を漫然と過ごしてきた日本
は、独立国家にはなれずに亜種国家の地位に甘んじていなければならなかった。誰が見て
もこれはまともな形ではない。吉田茂に代表される当時の日本国民は重大な選択の誤りを
犯していた。我が国を共産勢力進出の防波堤にするために再軍備を迫ったアメリカの意図
があったとしても、日本が真に一人前の自主独立国家になるチャンスはこの時にあったわけ
である。この時点で、かつて東京裁判を敷いたマッカーサーは、すでに大東亜戦争における
日本の自衛戦争の側面をはっきりと認めていた。しかし、日本は自国の命運を地中海の古
代国家カルタゴの宿命に委ねてしまったのである。カルタゴはローマ帝国と果敢に戦ったが
敗北した。ローマはカルタゴから刀狩を徹底的に行った。刀を忘れたカルタゴは、商業に邁
進しそれは圧倒的な成功を収めた。しかし、すぐにローマに占領され、ローマはカルタゴ
に街を造った。カルタゴという国家はそのまま溶解してしまったのである。

 平成17年の今日、米国の傀儡政策を獰猛に推し進めていた小泉政権は、ついにごく
少数の、日本人の良識を保持した政治家たちを駆逐し、ほぼアメリカの対日要求そのま
まの反国益的な政策実行に着手した。現実に進行するこの悪夢はローマ帝国(アメリ
カ)に食い荒らされるカルタゴの運命そのままである。我が国はグローバル経済に対抗
する最後の防波堤を失いつつあるが、このまま現政権を放置すると名実ともにアメリカ
合衆国の完全な植民地と化すだろう。

 軍隊を持たない国は滅びる運命にあるのである。国策を誤り、一人前の国家になりきれ
なかった日本は、60年の時をかけてアメリカの事実上の属国化を強めてきたのである。
ここで話を国土的景観の縮退増悪にもどすと、まともな国家になりきれず、商業的亜種国
家の道を選んだ日本人は、当然ながら自国の民族的自己同一性を自覚できなくなってし
まったのである。民族的自己同一性とは自分が日本人であるというもっとも原初的な自覚
のことである。これが保てなくなってしまったということは、日本の文化、経済、教育、国際
交流、国家的ビジョンの創出など、すべてにわたって悪影響を与え続けていることになる。

  国策の誤りも大問題だが、日本人が全体的に和魂志向を捨てたことが現在の日本カル
タゴ化を招いた元凶とも言える。明治は和魂洋才が生きていたのだが、今の日本は「洋魂
洋才」であり、民族のDNAが完全に沈潜麻痺してしまった状況と言えるのである。もっと先
鋭的に言うならば、現在の日本は完全に「米魂米才」に変容してきているのである。戦後の
我が国は、特にアメリカの文明観をモデルにしたことが大間違いであった。これが民族の一
貫した伝統観念を根こそぎ汚染した。歴史的に言うならば日本人の意識をここまで汚してし
まった元凶はずばり言って東京裁判史観にある。東京裁判が日本人の脳髄に注入した非
伝統的、非民族的な欺瞞の民主主義は、アメリカが占領期を通じて強制的に付与したもの
である。

 マッカーサーは言った。アングロサクソンが45歳の大人だとしたら日本人は12歳の子供
である、従って未熟な子供は教え導かねばならないと。彼がそれを言ったときは本気でそう
思っていたようだ。しかし、昭和天皇陛下に謁見したときからおそらくその意識は自律的な
訂正を強いられたに違いない。私は、極東国際軍事裁判が無理やり抽出した、日本人を
対象とした洗脳史観、すなわち東京裁判史観は、日本民族にとっては開闢以来、民族の
清らかな性質を消滅させ、その精神ベクトルを変えてしまった日本史上最悪の捏造史観だ
と捉えている。

 今まで述べたことと景観美の関係であるが、この説明段階にあれば言いやすくなってい
る。つまり要約すれば、一人前の国家に住むという自覚が持てない国民には伝統的に涵
養されてきた民族特有の美的意識も溶解しているのである。この状態で都市計画や郊外
計画を案出し、それを実行したとしても出来上がるのは秩序も美的景観も生まない醜悪な
国土改変だけなのだ。実際にこの60年間で日本人が国土をどのように変貌させたか、そ
れはとくに説明を要しないと思う。日本中、どこに住むものでもそれは目にできるからであ
る。景観に対して創造的観点を持とうとする者なら、現状に酸鼻きわまる景観が現出した
淵源がどこにあるのかをまず見極めるべきである。そこからしか現状の打開策は生まれ
ず、そこからしか未来への展望を探ることはできないからである。

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2005年10月14日 (金)

ペットボトル文明・敷島文明(2)◎日本人の温和な性格と水辺

          日本人の温和な性格と水辺

 日本人は水について今しばらく考えてみた方がいいと思う。私の年
代の人たちは、子供時代の水の豊かさ、美しさが心に焼き付いてい
るはずである。日本は戦争が終息し、七年間のGHQ占領統治期
、あるいはそれ以後も、アメリカの物質的な生活環境の豊かさに魅
せられ、アメリカの物質文明を唯一のお手本にして、わき目もふらず
に働き続け、高度工業化による世界屈指の生産国に成り上がった。
人々はひたすら生産活動に邁進し、列島の至る所を工場群の拡張
に奔走してきた。それにくわえて、最近では全国的な生起として見ら
れるが、市町村郊外には大型店舗が乱立し、列島各地にはくまなく
道路網が張り巡らされた。これによって先祖代々慣れ親しんでいた
日本特有ののどかな田園風景はすっかりその面影を潜めてしまっ
た。

 戦後の高度経済成長を経て以後、縄文以来の緑豊かな国土はす
っかり変貌してしまった。公共事業として行われた全国規模の国土
改変は、列島至る所に滾々(こんこん)と湧き出ていたあの清らかな
水を無残にもかき消してしまった。かつて、すべての時代に在って日
本人をたゆまなく慈しみ続けてくれた、あの豊葦原の美しい国土、こ
れこそ神が日本列島に与えた世界最高の贈り物であった。それを享
受していた長大なる時間スケールからすれば、戦後わずか数十年
で、世界に比類のない我が国の美しい国土は悉く醜悪な表情に塗り
変えられてしまった。

 国土の見た目の醜悪さは、そこに住む人々の心象風景さえも醜悪
なものに変えて行く魔力を放つ。特に昨今の日本人は、一刻も止む
ことのない国土毀損に呼応してますます醜くなってきているように見
えるのは私だけであろうか。間違ってはならないのは、日本人が先
天的に醜悪な民族心性を持っていると言っているのではない。元来
の日本人は、その昔、来航した宣教師や商人などの感想によれば、
性質温和にして誇り高い民族であると共通して語られていた。和を
愛し、突出した利己主義を嫌う民族であることは論を俟たないと言え
よう。しかし、戦後日本人の自国民に対する考え方はまったく逆転
し、日本人は他国を侵害した恐るべき性悪な民族だという自己認識
が強く出ている。このような誤った日本人観は、すべて敗戦のドサク
サにまぎれて日本人の伝統精神を改変しようとしたGHQ(連合国軍
最高司令官総司令部)による捏造史観がもとになっている。

 日本人はお人好し過ぎるのである。終戦後、いくら有無を言わせな
かった七年間の占領統治時代があり、その間に繰り返し東京裁判
史観を刷り込まれてしまったとは言っても、二千年以上もの長い間
に培われた伝統的な民族心性を変えてまで、戦勝国であるアメリカ
の言い分がすべて正しいものだと信じ込んでしまったことは異常なこ
とである。これは、あきらかに自己反省の行き過ぎであり、巷間言わ
れる、いわゆる自虐の領域にあたるものである。日本人の伝統も含
めて、その長い歴史の集積、総括がすべて悪いものであったと一言
で片付けられるだろうか。

 事実はまったくその逆である。疑うことを知らない無垢な民族精神
が本来の日本人である。その謙虚で澄んだ日本人の心性を育んだ
ものこそ、比類なき日本の美しい風土なのである。話は少し逸脱す
るが、明治の神社合祀令に激昂して熾烈に反対した南方熊楠は、
欧風化の機運が興隆していた当時にあっても、拙速性急な国土改
変が民族心性に深刻な悪影響を与えてしまうことを骨の髄まで知っ
ていたに違いない。それは彼が粘菌研究の生物学者としてだけで
はなく、民俗学者としての深い洞察力からも、ことの重大さを認識し
ていたからにほかならない。

 かつての日本民族の控えめで清澄な性格を醸成したものは、その
たとえようもない麗しい山河や海浜であり、無限に湧き出ていた清冽
な水流である。特攻隊が、その最後の書き置きに「神州(しんしゅう)
護持」と書き記したのは、必ずしも郷土愛だけから出たものだけでは
ない。神州とはこの日本列島全体の比類ない美しさを、彼らの末期
の目で認識した最大限の形容詞なのである。我が国の国土の美し
さ、すばらしさをあらわすのに、これ以上のふさわしい言葉があるだ
ろうか。

 事実、当時の日本には伝統的な麗しい風景がまだ至る所で見られ
た。曰く、山紫水明(さんしすいめい)、白砂青松(はくじゃせいしょう)
である。この二つの簡潔な四文字熟語で形容される風景は、素直に
目に映える通りに言葉に表したものである。まさに神の拵えた風景
なのである。この言葉が生きていた時代の日本人は世界で最高の
幸せを享受していたと言えよう。今の日本人には、その言葉が表現
する内実の残滓さえ既に消え失せている。 特攻隊を美化してはい
けないとわけ知り顔で言う人たちがいるが、特攻隊の最後の意識
は、民族精神が最高度に顕証された、言葉では言い尽くせない美し
い行為であると私は確信している。しかも、その行為に殉じたときの
特攻隊員の意識は日本人らしさがもっとも強く出たものだと思う。こ
れはけっして私の希望的観測ではない。彼らは人生の終焉に臨ん
で、この美しい日本に生まれたことを心から感謝しつつ、子孫に何物
にも変えがたいこの宝物を手渡すために命を捧げる覚悟を決めたに
違いない。あれからわずか六十年、悠久の時を経て培われたあの
純粋無垢な民族精神は一体どこに消えたのだろうか。これを書きな
がら荒涼とした灰色の街並みを想起して無念の涙がこみ上げてくる。

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ペットボトル文明・敷島文明(1)◎失われた美しい水辺

     失われた美しい水辺

 最近、外を歩いていると、ミネラルウォーター入りのペットボトルを
携帯しながら、さまざまな場所でさまざまな人たちが恣意的に水を飲
む姿がよく見られるようになった。また、私も時々使っているが、ビタ
ミン剤、ミネラル剤などの多様なサプリメントを服用する人たちが増え
た。

 時代が発達して、人間は手っ取り早く必須ミネラルや、望むビタミン
剤を体内に入れることができるようになった。しかし、この現象を文
明の発達として手放しで喜んでもいいのだろうか。私はミネラルウォ
ーターやサプリメントを補給する昨今の日本人を見て、つくづく欧米
由来の現代文明というものの暗部を考えざるを得ない心境になるこ
とがある。

 世の中には昔から、身体に良い食物に対して造詣の深い人たちが
いて、時代時代に食の研究や工夫に注目してきた来た人々がいる。
我が国で言うなら、たとえば「養生訓」を書き残した貝原益軒などが
あげられるだろう。これら古(いにしえ)の人々が、現代のペットボト
ルの存在を知ったとき、はたしてどんな感想を持つのだろうか。特に
水入りのペットボトルに対してはどんな気持を抱くのだろうか。

 ペットボトルウォーターは、何処~の名水とか、海外産の物などが
売られている。これを持ち歩いて随所で好きなときに飲用するスタイ
ルは、実は江戸時代などの古い時代から行われている。いにしえの
人たちは、ペットボトルに相当する物として、瓢箪(ひょうたん)や竹
筒に飲料水を入れ、これに栓をして旅に出たのである。この持ち歩
き形態は現代のペットボトルと同じであるが使用目的はまったく異な
っている。つまり、携帯の水を飲む目的がまったく異なっているので
ある。昔の人たちは、陸路の交通手段がほとんど徒歩だったので、
一定の距離を歩いたり、山越えをしたときは当然水分補給を必要と
した。しかし、水を飲む必要がある場所は、街道でもなかなか川や池
が見つからない所や山路などであった。

  現代人がペットボトルの水を飲む場合とは、江戸時代の旅人の場
合とは著しく異なっている。飲料水を常時携帯して恣意的に飲む行
為は昔と変わらないのだが、飲むという行動目的が違うのである。
昔はたんに飢渇を癒すために飲んだが、現代人の場合はそのほと
んどが「身体に自然で良い水分」として意識して飲んでいるのであ
る。つまり、サプリメンタルにミネラルウォーターを飲んでいるのであ
る。サプリメントとして飲む水の典型がミネラル成分を強力に付加し
たスポーツイオン飲料水である。

 サプリメントと一口に言ってもさまざまな種類がある。ビタミン剤、カ
ルシウム剤、有機アミノ酸、ミネラル剤、etc。これらについては、どこ
かのドラッグストアーに行けばその陳列棚に所せましと多種多様な
サプリメントが置かれているから、その種類の多さは実感としてわか
るだろう。今提起している現代飲料水に焦点を当ててみると、ペット
ボトルウォーターなどはさしあたりミネラル・サプリメントの部類に入
るのだろうか。

 身体に良い水として売られているミネラル・ウォーターであるが、こ
のことは現代から江戸時代に遡らずとも、昭和三十年代、すなわち
今から数十年前のことを振り返ってみるだけで、如何に異常な販売
品目であるかがわかると思う。飲料水であるが、今から時代的にほ
んの少し前まではミネラルウォーターとナチュラルウォーターは完全
に同義語・同一物として見られていたはずである。しかし、現代では
ナチュラル・ウォーターの定義が思いっきり変更されてしまったことに
気がつく。

 日本が高度工業化する以前は、大小河川の水は、急峻な山岳部
の源流から里山を通り、海にたどりつく河口部までの流水をナチュラ
ル・ウォーターと考えていたはずである。つまり、長大な河川のどこ
の水をとっても、それは「自然水」という概念で捉えられていた。自然
水とは、煮沸しなくても消毒しなくてもそのまま飲用水にできるという
ことでもあった。一部の鉱毒含有河川を除き、全国の河川が飲用に
適していたのである。

 しかし、現代は源流から河口まで、ほとんどの流域河川の範囲に
入る水を自然水(ナチュラル・ウォーター)とは呼べない状況になって
いる。なぜなら下流域に下がるほど、化学汚染や生活雑排水の汚
染が加わり、それはもはや自然水とはとても言えない、人工的に改
変された液体に変化しているからである。ようするに死んだ水であ
る。従って、現代人が自然水だと認識しているのは、源流に近い細
い沢水か、あるいは本当に源(みなもと)の湧水地点の水を指してい
る。河川の悠久なる存在時間に比べて、混じり気のない自然水の認
識範囲がこれほど短時間で変わったことは人類史の中でも特筆する
項目に値するだろう。

 ここまで言うと、私の言わんとする深い危惧をもうすでに察している
かたがたも多いだろう。ほんの数十年前までは、ごくありきたりに、
自然に流れる川などでそのまま飲めた水が、今ではそのほとんどが
飲用に適さない状態と化しているという否定できない事実がある。こ
のわずか数十年の間に日本ではいったい何が起きたのだろうか。そ
れは、戦後復興にともなう急速な工業化や宅地化にともなう道路整
備のインフラなどで、かつて我が国にあまねく存在していたうるわし
い水源や河川、緑と動植物があふれる美しい水辺が圧倒的に侵食
され、壊滅したからである。

 まず飲み水に関して言うが、つまり、街中や電車の中でペットボト
ルの水を飲むことが、特に日本人にとってどれほど異常なことなの
か、どれほど馬鹿なことかを、どんなに言って言い足りない気分であ
る。水道水さえ信用できずにペットボトルウォーターを飲む光景は、
世界でもっともきれいな水に恵まれていた我が国にとっては、歴史
的に見ても実に異常な事態を呈しているのである。ペットボトル・ウォ
ーターは現代文明の基本構造に潜む致命的な欺瞞を象徴する一つ
の指標でもある。

 かつて、この国は豊葦原の瑞穂の國(とよあしはらのみずほのく
に)と呼ばれた。それは豊かな葦原と水がなみなみと張られた美田
の国という意味である。至る所に清流が湧き出ていたし、川面は豊
かな葦や水草で覆われていた。貯水池や、静脈のように枝分かれ
した小川には豊かな淡水生物が棲息していた。今は碁盤の目のよう
に区分けされた整然とした田圃がそろっているが、その周辺の景観
は以前の面影をとどめないほど変わり果てている。収穫効率を最優
先した現代農法が普及した結果、田舎の風景は味気ないコンクリー
ト構造物の用水路が、芦原や豊富な水草に満たされた水辺にとって
代わった。

 ドジョウやナマズなどが居ないコンクリート用水「路」は整然と無機
的な流れを呈し、そこにはただ田圃に機械的に水を供給する「供給
回路」としての機能しかなくなっていた。コンクリート三面張りの用水
路は、淡水生物にとってはほとんど棲息不能の環境である。以前の
用水路は、田圃の形状に合わせて手掘りだったために、水深には深
浅の高低差がつき、導水しないときでもすべての川底が干上がるこ
とはなく、深い場所には溜り水が残り、そこには小魚などが生き残る
ことができた。また、水底が泥質のためドジョウやタニシなどが潜り
込んでいることができた。

 農業用水路だけではないのだが、日本中の大小河川にはコンクリ
ート護岸工事が施され、流路の途中にはダムや堰が設けられ、河川
の様相は一変してしまった。また、流路そのものが直線化したために
流速が早くなり、緩やかな流れを好む生物も駆逐されてしまった。私
が小さいとき、家のそばの田圃の用水路には、コイ、フナ、ハヤ、メ
ダカ、カジカ、数は少なかったがトゲウオ(トンギョ)もいた。少し水量
の多い小川には虹鱒や岩魚も泳いでいた。

 水質はどうかと言えば、そのまま飲めるようなきれいな河川水はす
でに消滅したと考えていいだろう。以前、とは言っても終戦後である
が、昭和三十年代、四十年代の前半には、里でもまだそのまま飲め
る小川は各地にたくさんあった。高度経済成長期に移ってから、日
本の河川は急速に死の川に変貌していった。生態環境を無視した上
流部の森林破壊は、天然林から人工林への置き換えである。そして
水を堰き止めるダム群、加えて垂れ流し状態の工場排水や生活雑
排水などで河川の汚濁はその自浄作用をも破壊してしまい、全国の
河川を死の汚濁流や枯れ河川に変えたのである。河川が人工的に
改変されていない時代、汚染されていない時代は、その水を水処理
プラントなどで処理せずに、そのまま生活用水として使用できただけ
ではなく、場所によっては生のままで飲用ができたのである。それ
は、森林や河川の持つ自浄作用が完璧に働いていたからである。

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2005年10月 4日 (火)

伊豆半島、奇岩奇観のある海辺

VFSH0292

  この間の日曜日と月曜日に西伊豆の某所湾内に素潜りに行ってき
た。ここは堂ヶ島に近い某有名ダイビング・スポットである。周囲は奇
岩、奇観の宝庫とも言える荒々しい景観の海辺である。

 二日とも写真が示すように非常によく晴れていて、到着したときは
期待に胸を膨らませたがすぐにその期待は裏切られた。強風とまで
は言えないが断続的に風が吹いていた。十月初旬にしては気温は
かなり暖かく、まだ夏のような感じの二日であった。

 沿海の波が強く、湾内も波力が減衰しているとは言え、海底の砂を
巻き上げるには充分な力を持っていた。午後の二時ごろ、海のまん
前の宿にチェックインし、そこからウエットスーツに着替えてエントリ
ーした。水温は暖かく、ロングじゃなくとも半袖のスーツでもいいくら
いだった。

 あまり遠くに行かなくとも湾内は急激に深くなっていて、岸近くでダ
イビングをやるにはよい場所である。しかし、マスクから覗き見る海
底は、深さ2メートルでもぼやけていてよく見ることはできない状況だ
った。加えて水面は波の攻勢で余分な力を使った。小魚の群れや中
型の魚は見かけたが、このような透明度の悪い水中ではじっくりと観
察して楽しむゆとりは持てなかった。

VFSH0328

 抜群に晴れた日であったし、情報では前日の透明度が15mだった
から、期待値が高かったせいもあり、かなりの消化不良というか不
満が残った。翌日の月曜日も鮮やかに晴れていて前日よりも風は弱
く、ひょっとしてこれは行けるかなと思ったが、海中の状況はあまり
変化がなくてがっかりした。救いは宿がきれいで食事が抜群に美味
かったこと。そしてタイプの異なる温泉露天風呂が四つもあり、ゆっく
りと冷えた体を温められて爽快だった。その露天風呂は渚から二十
メートルくらいの場所にあり、潮騒を聴きながら湯につかり、贅沢な
気分になれたことはそれだけでも得した気分になれた。

 まあ、潜りには恵まれなかったが今回はよいスポットを見つけたか
ら来年に期待しよう。

VFSH0300

 

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