ペットボトル文明・敷島文明(8)◎セントレアシティ、それは日本合衆国化の象徴的都市
ああ、絶望のセントレアシティ(五)
(それでも日本人なのか)
6、セントレアシティ、それは日本合衆国化の象徴的都市
地方分権などと言っても、まったく実効性の伴わない虚妄の口説に聞こえる。
市町村が巨大化することに何らかのメリットが存在するとすれば、それは住民
サイドのメリットではなく、あきらかに行政サイドの管理効率によるメリットであ
る。もう少し押し進んで想像をたくましくすれば、住民不在、政府ごり押しの大
合併運動は、アメリカの州制度をモデルにした、「日本合衆国」化の下準備で
はないだろうか。
アメリカと異なるところは、地方の多様な自治体をまとめることによって、中
央からの支配構造の簡素化、効率化を目指しているのかもしれない。自治体
数を縮小することによって、支配力、統制力の集中化をはかり、数字的な行政
効率を上げていく目的に見える。その際、郷土色とか、地方の個性などは阻害
要因だと考えているような気がする。現状の地方自治体の多様性とは、行政効
率的視点で見れば支配統制の分散を意味しているのであろう。こういう考え方
は、人権革命によってできた新興国家・アメリカによく似ている。
日本は、聖徳太子や大化の改新辺りから中央集権体制を強めこそすれ、弱
めることはなかった国である。いつの時代も、天皇の御陵威(みいつ)を国家の
最上位に置きながら、常に中央集権の形をとってきた。行政機能や権威、ある
いは徴税システムが地方に分散して、列島が調和的な国家にいたる姿は日本
では考えにくい。今から十年ほど前に、金融ビッグバンがあって、金融業界に
規制の壁が奔放に取り払われ、経済構造が露骨にアメリカに似てきても、この
国の政治の中枢はあいかわらず首都に鎮座する。江戸時代の封建制度を思う
と、もし、この時代に将軍家という求心力がなく、地方には藩という自治体だけ
が散在していたら日本はとっくに分解していたに違いない。ましてや、将軍家と
朝廷の併置存在は日本の社会をきわめて理想的に安定させていた、精緻きわ
まる統治構造であったと考える。
金融ビッグバンで日本の大手銀行同士が合併し、最近では銀行と証券会社
の合併も行われた。しかし、この合併は、地方の合併とは異なり、外資圧力に
対する共闘姿勢がとらせた究極の形態であり、一種の防御(免疫)反応である。
ここで自分が一抹の不安に思うのは、地方市町村の性急な合併が、ただの国
家財政建て直しの見地だけで行われているのかという素朴な疑念である。もし
かしたら、自衛隊のイラク派遣と同様に、地方合併にもアメリカの強制力がはた
らいているのではないのかと勘ぐってしまうのである。この疑念は、以下に述べ
る大店法(大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律)
改正、撤廃の動きの一連のプロセスが進行した時も、アメリカの傍若無人な強
制力が働いていたことに端を発している。
かつて、アメリカの露骨な圧力のもとに、大店法は改正され、橋本総理の時
代には完全撤廃された。日本各地の郊外には、ここぞとばかり、さまざまな大
規模店が進出するようになった。そして、一昔前は里山や田んぼであった場所
に、バイパスや道路が敷設され、その沿道(ロードサイド)には、あっという間に
大型チェーン店がビルトインされてしまった。このため、日本各地における市町
村郊外の景観は今日のように様変わりしてしまい、昔からのどかな田園や里
山は、どこもかしこも無機的で画一的な風景で占められてしまった。
多様な植生に彩られ、蝶やトンボが輪舞していた、あのなつかしい里山の雑
木林は、あとかたもなく無残につぶされてしまった。里山の樹齢の高い天然林
は切り開かれて、ゴルフ場となり、色だけは緑の禿山に変貌した。郊外の豊か
な田園や畑はつぶされて更地にされ、そのあとには極彩色の看板や毒々しい
蛍光塗料の大型店舗が林立した。このため、各地域の駅前にあった商店街は
軒並みシャッターを降ろし、街は駅を中心として郊外だけがドーナッツ状に発展
し、中心部は取り残されたように閑古鳥がないている。街の経済は郊外稼動型
に移行してしまい、中心部はさびれて空洞化してしまう風景が日本のいたると
ころに見られるようになった。
大店法改正による郊外稼動型の街づくりと、平成の市町村大合併、そして地
方の郷土色や歴史の連続性を断ち切ったカタカナやひらがな地名の出現。これ
ら三者は、一見、相互には何の関連性もないように思える。しかし、自分にはこ
れらの異なった行政指針が、ひとつのビジョン、ひとつの思想で緊密にリンクし
ているように見えるのである。それはアメリカが特に近年推進してきたグローバ
ル経済の動きにシンクロした動きなのである。言うならば、現代日本の主体性
のない行政感覚が生んだ、歯止めの利かない効率化ではないだろうか。日本
には伝統と国民性が反映したケインズ型の日本式資本主義経済が戦後の成
長ベクトルを築いていた。しかし、昨今はグローバルスタンダードの侵食が強
烈にはたらき、それは日本国内の経済や社会システムの劇的な改変にまで
及んでいるのである。
アメリカの言うがままに、ほとんど何の検討もないままに、アメリカ型経済構造
をモデル化し、日本経済の固有性も無視して、社会構造の転換をごり押しした
のである。行政が漠然と展望し、かつ無慈悲に推し進めているのは、庶民と乖
離した、夢のない画一的な効率化、たとえば規制緩和、規制撤廃の名の下に
行う無秩序な社会構造の単純化なのだ。この思想や背景には、郷土の文化も
伝統もなく、大資本と消費者の「相互利便」だけという、限定的な性格のみに絞
られた行政展望を実現化する。これはあきらかに郷土環境の破壊、文化環境の
破壊、伝統の破壊である。この単純化、効率化を小泉総理は行革と名づけてや
たらに奮闘し、日本人の郷土帰属意識や、伝統的に続いた健全な地方コミュ
ニティを精力的に破壊しているのである。
江戸時代の経済学者が志向した経済思想は、経世済民(けいせいさいみん)
という考えかたであって、今のビジネスの概念とは異なるものであった。それは
経済活動にあっては、単なる利潤追求ではなく、活動そのものに、徳をもって人
や世の中の役に立つことが肝要だとされていた。その感性は昭和の時代が進
むにつれて、戦前よりは漸減していったのだが、わが国は高度経済成長から昭
和のバブル直前までは、そういう経済気風はある程度踏襲されていた。
しかし、バブル以降、日本経済の雰囲気は、アメリカが推し進める、血も涙も
ない弱肉強食の市場原理至上主義一辺倒に衣替えしてきたのである。現代平
成日本は、構造改革などと言いながら、国家の権威から来る健全な監視やフィ
ードバック機能をぶちこわし、資本の多いもの、利に目ざといものにだけ利益を
もたらす極端な優勝劣敗構造に変質しはじめている。ここに、勝ち組と負け組
みの単純な二極階層化が進んでいる。この形はアメリカがはるかに先進国で
ある。先進という言葉はもちろん強い皮肉である。アメリカが掲げる進歩史観
の本質が世界にとってどのようにいかがわしいものであるかよく考えていく必
要がある。
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