ペットボトル文明・敷島文明(12)◎構造改革というものの胡散臭さ(二)
10、構造改革というものの胡散臭さ(二)
2001年に出た、山家悠紀夫(やんべゆきお)著、『「構造改革」という幻想』
という本に、「構造改革という言葉は、きわめて幅広い、あいまいな、要する
に何でもその概念の中に取り込める言葉であることは注目しておく必要があ
る」と言っている。また、構造改革という言葉には方向性がないということも
注意事項として指摘している。つまり、今回の解散総選挙で、小泉首相が
「民営化は是か非か」と二項対立に持っていったことが、どれほど馬鹿馬鹿
しく内実をともなわないアピールであったか、そういう観点からもよくわかる。
構造改革路線の一環として郵政民営化をぶち上げたのはいいのだが、国家経
済の展望や政策ビジョンを一切言わずに、民営化に賛成か反対かで国民意
志を問いかけたことは政治家として、また一国の宰相として愚劣きわまる態
度であったと言えよう。
構造改革も民営化も言うなればただの手段である。政治家は、手段論を目
的論にすりかえてはならない。特にそれが一国の宰相ならなおさらである。今
回の郵政民営化は、小泉首相を先頭にして、取り巻き連中がこぞって民営化
に問題点を収斂させた。あたかもそれが国家の展望であるかのごとく。この状
況を異常内閣の暴走と捉えないで漠然とした期待を付託してしまった国民は、
やがて悔やんでも悔やみきれない大きなツケを払うことになるだろう。
郵政制度の改革を叫ぶならば、郵政制度の構造を明確にして、その是々非
々を鮮明に浮き彫りにし、何をどう改革するのか、そうすればどのような効果
が得られるのか、構造改革にともなう痛みが不可避なら、何が痛みとなるの
か、改革に潜むリスクとは何かなどを国民にわかりやすい形で提示する義務
がある。しかし小泉首相は、構造改革という語義の曖昧さの中で、郵政構造
の不具合を、ただ「民でできる業務を官でやっていることは無駄であり、小さな
政府の原則に反する」というような言い方で示してきた。郵便局員、つまり郵
便事業に携わる公務員が好き勝手に税金を使って組織を官僚天国にしてい
るということなら、それは言えるかも知れないが、郵便事業では一切税金を使
わずに独立採算で行っている。
そのどこがどういう風に無駄なのだろうか。今の形は無駄どころか、都市
部、過疎地域を問わず、同じ質の郵政サービスを受けられることは地域社会
や国家の安定に充分寄与しているという見方のほうが自然なのではないか。
このまま行くと、やがては郵政事業もジリ貧になると予測したからと言って、
それが即、民営化しか解決策がないという選択肢に結びつける方が恐ろしく
奇態かつ短絡的な話である。
現今の構造改革路線に与するものたちは、構造そのものの姿をあいまいに
して、改革が是か非かという論法に短絡的に持っていく。問題は、改革是非論
の論理基盤を、「小さな政府vs大きな政府」、「官僚vs民間」というような、本
質論から遊離した二項対立にすり替えていくことにある。本質論とはこの場合、
民間対官僚というような対立論の中にはない。民営化問題の本質はずばり言
って「国家論」なのであるということを今の日本人は失念しているのである。
日本という国家が郵政事業を通してユニバーサルに国民に配慮している現状
が大事なことであり、これが国民の信頼と安心感につながっていることが大
事な認識なのである。このあとの項で言うつもりだが、小さな政府という言葉
が表象することは、ミルトン・フリードマンが描いた政府像にこの日本国を限り
なく近づけていくという考え方なのだ。重要なことは国家でなければできな
い役割を鮮明に把握することであろう。この観点が欠落した構造改革など国
体破壊にしかならないということである。
また、郵貯、簡保に蓄積されている膨大な資金、350兆円が有効に活用され
ずに有効性のない財投や特殊法人に回っていると言うが、そういう無駄な使い
方の主体が郵便事業側にあるかのような錯誤を国民に与えているのが小泉・
竹中路線である。入り口出口論の中で、これを正すには入り口である郵政事
業を民営化して資金の流れを絶つことであると言っている。紺屋典子氏など、
いろいろな人から指摘されていることだが、郵政事業の金融面は国民から集
めるだけである。この金の使い道を制御しているのは郵政側ではなく、財務
省(旧大蔵省)である。したがって特殊法人の無駄遣いを止めるためには財
務省を厳しく監督すればいいという話である。郵政側犯罪者説は成り立たな
いのである。このように今回の郵政民営化論は構造改革と言いながら、肝心
な構造不具合のビジョンを曖昧にしたまま強引に推し進められるという異常さ
ばかりが目立った推移であった。
この郵政民営化のドタバタは、昨今の歴代内閣が進めてきた構造改革路
線の矛盾点や曖昧さをあますところなく象徴したできごとであったと感じる。
「既存の制度は、昨今のグローバリズムの急激な進展の中で、情報インフ
ラや社会の変化に対応できずに制度疲労を起こし、これが日本における現
状経済の長期低迷の根本的な原因となっている」という言い方もよく聞くパ
ラグラフである。また、こういう言い方もある。「日本経済の持続的な成長が
再復帰するためには、金融システムや経済・産業面での構造改革が不可
欠の要件である」など。また、小泉内閣出現以前と以後とでは構造改革の
ニュアンスが違ってきている感じも受ける。それは、以前の場合はそれまで
の既成構造を経済史の道程と見做し、特に強くは否定せずに時代の変化に
応じて変えて行く論調だったが、小泉以降は既成構造そのものを諸悪の根
源として否定的に捉え、まさに憎悪に近いラディカルさを持ってその改革を
訴えているよう見える。この先鋭さの背後には何があるのだろうか。
世の中は、経済に何か変調が起きたときは、議員さんも、マスコミも、有
識者の皆さんも口をそろえたように、構造改革が進まないからだ、最初は痛
みをともなうが構造改革を喫緊にかつ強力に進めるべしという論調が圧倒的
に支配的である。しかし、経済のド素人としての私は非常に奇妙に思うので
ある。あまりにも経済に疎いからそう思うのかもしれないが、そもそも「構造」
というものの明確な定義が一般化していないのに、その構造を改革するとい
うことがどんなことなのかわかっているのだろうか。そういう曖昧な状況で賛
成だ、反対だという判断ができるのだろうか。小泉首相は「創造的破壊」とい
う言葉も使っていた。これも字義通り受けとれば、時代に合わない官僚主導
の構造を破壊して、もっとましな構造を新たに再構築するというように一応は
解釈できる。しかし、構造そのものがよくわからないのに、それをどのように
破壊して、どのように組み立てなおすのかをわかりやすく説明しているのだ
ろうか。またそのダイナミックな破壊と改革によって得られる社会の方向性と
か国家のビジョンなどは明確に描写されているのだろうか。
自分の乏しい知識の範囲でしか言えないのだが、構造改革とは、1970年
代から1980年代以降に、国際的に登場してきた新自由主義(ネオリベラリズ
ム)にその考え方を負っている。新自由主義とは、政府の積極的な民間介入
を嫌い、個人の自由と責任において行う競走と市場原理を最重視する考え方
である。国家から民間への経済介入と福祉国家を志向するケインズ主義を経
済疲弊の元凶と位置づけ、19世紀的な自由放任主義に経済体制を作り直そ
うとする思想である。特に政府からの縛りを否定して自由主義を取るものであ
るが、そこで使われている「自由」とは、主に経済活動の自由を指しており、
それは徹底した市場原理至上主義を志向するイデオロギーである。
参考図書
1、 『「構造改革」という幻想 』 山家悠紀夫 岩波書店
2、「政府からの自由」 ミルトン・フリードマン 中央公論社
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