(17)◎構造改革の思想的背景(二)
ペットボトル文明・敷島文明(17)
◎構造改革の思想的背景(二)
大衆娯楽産業としての映画は、まずある作品が造られ、全国あるいは全世界
に配給されて観客が動員され、ロードショウが封切られる。全国のあらゆる場所
で無数の観客が同一作品を観て同一の料金を払う。一本の作品が劇場の数だ
けコピーされて配給され、コピーであるにも関わらずその上映が同一の収益を
上げる。同一の収益とは、動員された人数分だけ確実に収入が見込めることを
言うが、その段階ではコピーとオリジナルのフィルムは同じ収益を生んでいると
いうことである。
映画フィルムを物として考えれば、それに投入した素材の原価や加工費、運
搬費などがあり、一本当たりのフィルムの値段は決まる。しかし、観客が買う対
象は物としてのフィルムではなく、そのフィルムに光と音として盛り込まれている
情報を買うのである。つまり視覚や聴覚を介して入ってくる情報の経時的な塊
(かたまり)に対して対価を払うわけである。
情報そのものは無形であるが、これは工場製品と同じように「同一情報製品」
の大量生産(この場合はコピー化であるが)が行われていることである。観られ
ることによって「情報商品」の大量消費が行なわれている。それがどんな性質の
作品であれ、その作品は観られること、つまり消費されることによって漸次その
価値を失っていく。この形は品物の減価償却に似ており、違いは有形か無形か
だけである。
ただし、芸術的価値の高い情報については品物とは異なる部分がある。娯楽
産業である以上、映画の作品は人々のホモ・ルーデンス(遊戯的人間)の性向
を利用した作品を造り、人々がその作品に対して、新規性、刺激性、娯楽性な
どの快楽消費的価値を感じなくなれば、その作品は消耗したと見なすことがで
きる。芸術性の高い商品というものは人々の快楽消費の次元を越え、時代の変
化に対しても超然とした価値を有する性格を持つので、通常の情報商品とは別
格に見えるが、それでも、金銭的対価をベースにした取り扱いが発生する以上、
情報商品としての一面性も持っている。しかし、芸術作品は、複製は可能でも価
値として見れば、その複製品は極度の情報劣化をともなう。
そういう意味では、映画やテレビ番組など、通俗的な映像情報の快楽消費的
な使用は、衣服などの即物的な消耗と似ていないこともない。観劇は一つの劇
場に一つの公演しかできないが、映画は原理的にコピーの数だけ無数に同時
上映が可能である。従って映画とは、昔からあった観劇が、大衆娯楽化へ技術
的な進化を遂げた形態のメディアであるという捉え方もできるが、表現を多彩に
恣意的に加工できるという部分からすれば、すべてを生の演技、等身大の人間
だけで行う観劇とは別種のものとして考えた方がいいだろう。すなわちそれらは
情報商品であり、情報商品とは恣意的な加工や複製が簡単にできるという特徴
を持つ。特にアニメなどにその特徴はあらわれている。
テレビも、一つの放送局が発信した映像が同時的に無数の人々の目に届く
が、人々は目にした映像に対し、映画と同様に金を払っているのである。NHK
には視聴料を定期的に払い、民放にはそれを間接的に払っている。間接的とい
う意味であるが、民放とは、資本主義社会のコマーシャリズム、特に広告収入
で成り立っている営利企業であるが、消費者はその広告を半ば強制的に見せ
られているという形で購買動機を刺激されている。この場合、厳密な意味で金
銭を払うわけではないが、非主体的にコマーシャル映像を見なければならない
時間を金に換算するという見方もできる。「タイム イズ マネー」に言われる時
間のイメージが、主体的選択的に価値のある時間だという脈絡からすれば、民
放によって強制的に見せられる商品CMにはあきらかに金を払っているのであ
る。もちろん見る側にはその感覚はないが、民放で放映される、ドラマ、バラエ
ティ、ニュース、時事番組などは、それを見るための「対価」として、CMを見なけ
ればならないという「時間貨幣」を支払っているのである。民放の番組はけっして
「タダ」ではないのである。
小泉政権の下で、日本の経済構造は急速に市場原理社会へ置き換えらつつ
ある。この動きの中で、フジテレビのライブドアー騒動や、TBSの楽天騒動は、
その本意がキャピタルゲインによる利益獲取が目的であると自分は見ているの
だが、彼らの強制資本参入の名目は、共通して「テレビとインターネットの融合」
を掲げている。野村研究所が調べたところによれば、ブロードバンドやHDR
(HARD DISC RECORDER)が普及してきて、ハードディスクに録画した番組を再
生して視聴する際に、約過半数の人がCMをスキップして観ているそうである。
この事実から言っても、商業構造的にネットとテレビは、まだ整合性が悪いと
言わざるを得ないだろう。
しかし、外側から広報メディアに参入するこの動きは、放送業界に巨大資本
の支配の手が伸びている現実を十分に確認させる出来事であることは間違い
ない。インターネットとテレビの融合を目指すと言えば聞こえはいいが、その実
体は市場原理に基づいて巨額なマネーを動かせる国際資本が、日本のマスメ
ディアの営業権を掌握しようとする意志にほかならない。マスメディアの営業
権とは、すなわち報道思想の統制権のことである。
買う買わないは別として、我々は民放に出資している企業のコマーシャルを
見せつけられていることによって、その企業の製品に対しての購買意欲を触発
され続けている。消費者は、数ある商品の中でCM商品を限定的に買う確率が
高くなるという構造ができている。この形態は、経済的視点に置き換えると非常
に巧妙な経済連鎖になっている。民間企業である放送局は、不特定多数の国
民に対して、その購買意欲を触発することを条件として企業の広告料から収益
を得て会社を運営している。この広告料の多寡は番組視聴率に連動している。
つまり、経済的シーケンスとしては次の形が成り立っている。
放送コンテンツの視聴率上昇 → 商品CMの浸透性拡大 → 購買意欲
の上昇 → 企業収益上昇
当然、視聴率が低下すればこの逆シーケンスがはたらいて、民放はCM収入
が減少するわけである。ここで話を郵政民営化にもどすが、実は民放のこうい
う生存形態が、9月11日の郵政民営化を問う衆議院解散総選挙と大きな関係
があったことを指摘しておく。構造改革の問題点を展開しているときに、なぜこ
ういうことを縷々述べているかと言えば、今回の小泉内閣による郵政民営化に
も、広告収入が唯一の生命線になっている民放の宿痾(しゅくあ)が決定的な
要因として影響したからである。
9月の解散総選挙に至る約一ヶ月の間、民放各社は小泉自民党の太鼓持ち
に成り下がっていた。郵政の民営化の是非を問うという建前なら、民営化法案
の内容を国民に明確に提示して、その内容の理非曲直をわかりやすく放送す
ることが放送局の義務だと国民は考えていたと思う。しかし、この間で、民放各
社に共通して見られたのは、何の合理的説明もないままに、小泉姿勢を賞賛
し、郵政事業の構造や、それを民営化に改革することがどういうことなのかを
いっさい説明しないままに選挙戦をむかえたことである。それのみか、民営
化に反対する少数意見を徹底的に封殺してしまうという、極端に偏頗な報道
姿勢を示したことは、業界の常識的な報道モラルとしては、あまりにも常軌を
逸脱するものであった。
その象徴的なできごととしては、ニュース番組における司会者の異常な司会
ぶりであった。民営化に反対する識者や国会議員が討論の場に出た時、その
反論意見の核心を絶対に放送させないという、通常ではとても考えられない卑
劣で贔屓偏頗(ひいきへんぱ)な放送姿勢がとられたことは記憶に新しい。特
に、当時のテレビ朝日のニュースステーションという番組で7政党の討論会が
行われた時、新党日本の小林興起氏の発言を聞いた古舘一郎は、突然、小
林議員の発言を遮る形で、「340兆円がハゲタカにたちまち食い散らかされ
るなんて信じられるわけないでしょ。」などと異様に興奮した面もちで声をあら
げていた。これは司会者としては著しく常軌を逸する行為であった。
この出来事に象徴されるように、当時の民放各局は、郵政民営化のもっとも
重要な争点であった「外資規制」の問題点を執拗なまでに放送内容から除外
する行動をとっていたことは、かなりの人々に強烈な違和感を与えていたと感
じる。今、広告代理店で世界一巨大な企業となっているのは電通である。民放
広告のすべてを扱うこの大手広告代理店は、企業と民放の間のキャッシュフロ
ーを一手に握っている性格上、民放各社に対して絶大な権限を持つという。
もし、この大手広告代理店がアメリカの通商代表部の意向を受けた営業姿
勢をとるとすれば、これまでの対日要求である「年次改革要望書」の流れから
言って、当然ながら郵政の民営化実現に旗を振った可能性は否定できない。
だとすれば、電通に財布の紐を握られる民放各社は、放送上の思想的統制を
受けた可能性は十分に考えられる。古館一郎やみのもんたの司会者としてあ
るまじき異様な振る舞いがそれを物語っていたように思う。
今までのことを振り返ってみるとよくわかるが、今回の総選挙に対してマスコ
ミの報道姿勢は、法案反対派の意見をまったく取り上げていないばかりか、小
泉自民党だけを一方的に賞賛する偏った報道姿勢だけが際だっていた。反対
意見をフラットな視点で意見として出さず、反対の立場が存在するという事実さ
え故意に隠蔽するという悪質な偏頗性が出ていた。反対の立場の者をすべて
一律に、「善なる構造改革に水を差す悪質な造反派」というレッテル貼りをして、
侮蔑的な排斥報道を行っていたのはまさに言語道断と言うべきであろう。
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