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2005年11月25日 (金)

(17)◎構造改革の思想的背景(二)

 

 ペットボトル文明・敷島文明(17)

   ◎構造改革の思想的背景(二)

 大衆娯楽産業としての映画は、まずある作品が造られ、全国あるいは全世界
に配給されて観客が動員され、ロードショウが封切られる。全国のあらゆる場所
で無数の観客が同一作品を観て同一の料金を払う。一本の作品が劇場の数だ
けコピーされて配給され、コピーであるにも関わらずその上映が同一の収益を
上げる。同一の収益とは、動員された人数分だけ確実に収入が見込めることを
言うが、その段階ではコピーとオリジナルのフィルムは同じ収益を生んでいると
いうことである。

 映画フィルムを物として考えれば、それに投入した素材の原価や加工費、運
搬費などがあり、一本当たりのフィルムの値段は決まる。しかし、観客が買う対
象は物としてのフィルムではなく、そのフィルムに光と音として盛り込まれている
情報を買うのである。つまり視覚や聴覚を介して入ってくる情報の経時的な塊
(かたまり)に対して対価を払うわけである。

  情報そのものは無形であるが、これは工場製品と同じように「同一情報製品」
の大量生産(この場合はコピー化であるが)が行われていることである。観られ
ることによって「情報商品」の大量消費が行なわれている。それがどんな性質の
作品であれ、その作品は観られること、つまり消費されることによって漸次その
価値を失っていく。この形は品物の減価償却に似ており、違いは有形か無形か
だけである。

 ただし、芸術的価値の高い情報については品物とは異なる部分がある。娯楽
産業である以上、映画の作品は人々のホモ・ルーデンス(遊戯的人間)の性向
を利用した作品を造り、人々がその作品に対して、新規性、刺激性、娯楽性な
どの快楽消費的価値を感じなくなれば、その作品は消耗したと見なすことがで
きる。芸術性の高い商品というものは人々の快楽消費の次元を越え、時代の変
化に対しても超然とした価値を有する性格を持つので、通常の情報商品とは別
格に見えるが、それでも、金銭的対価をベースにした取り扱いが発生する以上、
情報商品としての一面性も持っている。しかし、芸術作品は、複製は可能でも価
値として見れば、その複製品は極度の情報劣化をともなう。

 そういう意味では、映画やテレビ番組など、通俗的な映像情報の快楽消費的
な使用は、衣服などの即物的な消耗と似ていないこともない。観劇は一つの劇
場に一つの公演しかできないが、映画は原理的にコピーの数だけ無数に同時
上映が可能である。従って映画とは、昔からあった観劇が、大衆娯楽化へ技術
的な進化を遂げた形態のメディアであるという捉え方もできるが、表現を多彩に
恣意的に加工できるという部分からすれば、すべてを生の演技、等身大の人間
だけで行う観劇とは別種のものとして考えた方がいいだろう。すなわちそれらは
情報商品であり、情報商品とは恣意的な加工や複製が簡単にできるという特徴
を持つ。特にアニメなどにその特徴はあらわれている。

 テレビも、一つの放送局が発信した映像が同時的に無数の人々の目に届く
が、人々は目にした映像に対し、映画と同様に金を払っているのである。NHK
には視聴料を定期的に払い、民放にはそれを間接的に払っている。間接的とい
う意味であるが、民放とは、資本主義社会のコマーシャリズム、特に広告収入
で成り立っている営利企業であるが、消費者はその広告を半ば強制的に見せ
られているという形で購買動機を刺激されている。この場合、厳密な意味で金
銭を払うわけではないが、非主体的にコマーシャル映像を見なければならない
時間を金に換算するという見方もできる。「タイム イズ マネー」に言われる時
間のイメージが、主体的選択的に価値のある時間だという脈絡からすれば、民
放によって強制的に見せられる商品CMにはあきらかに金を払っているのであ
る。もちろん見る側にはその感覚はないが、民放で放映される、ドラマ、バラエ
ティ、ニュース、時事番組などは、それを見るための「対価」として、CMを見なけ
ればならないという「時間貨幣」を支払っているのである。民放の番組はけっして
「タダ」ではないのである。

 小泉政権の下で、日本の経済構造は急速に市場原理社会へ置き換えらつつ
ある。この動きの中で、フジテレビのライブドアー騒動や、TBSの楽天騒動は、
その本意がキャピタルゲインによる利益獲取が目的であると自分は見ているの
だが、彼らの強制資本参入の名目は、共通して「テレビとインターネットの融合」
を掲げている。野村研究所が調べたところによれば、ブロードバンドやHDR
(HARD DISC RECORDER)が普及してきて、ハードディスクに録画した番組を再
生して視聴する際に、約過半数の人がCMをスキップして観ているそうである。
この事実から言っても、商業構造的にネットとテレビは、まだ整合性が悪いと
言わざるを得ないだろう。

 しかし、外側から広報メディアに参入するこの動きは、放送業界に巨大資本
の支配の手が伸びている現実を十分に確認させる出来事であることは間違い
ない。インターネットとテレビの融合を目指すと言えば聞こえはいいが、その実
体は市場原理に基づいて巨額なマネーを動かせる国際資本が、日本のマスメ
ディアの営業権を掌握しようとする意志にほかならない。マスメディアの営業
権とは、すなわち報道思想の統制権のことである。

 買う買わないは別として、我々は民放に出資している企業のコマーシャルを
見せつけられていることによって、その企業の製品に対しての購買意欲を触発
され続けている。消費者は、数ある商品の中でCM商品を限定的に買う確率が
高くなるという構造ができている。この形態は、経済的視点に置き換えると非常
に巧妙な経済連鎖になっている。民間企業である放送局は、不特定多数の国
民に対して、その購買意欲を触発することを条件として企業の広告料から収益
を得て会社を運営している。この広告料の多寡は番組視聴率に連動している。
つまり、経済的シーケンスとしては次の形が成り立っている。

  放送コンテンツの視聴率上昇 → 商品CMの浸透性拡大 → 購買意欲

  の上昇 → 企業収益上昇 

 当然、視聴率が低下すればこの逆シーケンスがはたらいて、民放はCM収入
が減少するわけである。ここで話を郵政民営化にもどすが、実は民放のこうい
う生存形態が、9月11日の郵政民営化を問う衆議院解散総選挙と大きな関係
があったことを指摘しておく。構造改革の問題点を展開しているときに、なぜこ
ういうことを縷々述べているかと言えば、今回の小泉内閣による郵政民営化に
も、広告収入が唯一の生命線になっている民放の宿痾(しゅくあ)が決定的な
要因として影響したからである。

 9月の解散総選挙に至る約一ヶ月の間、民放各社は小泉自民党の太鼓持ち
に成り下がっていた。郵政の民営化の是非を問うという建前なら、民営化法案
の内容を国民に明確に提示して、その内容の理非曲直をわかりやすく放送す
ることが放送局の義務だと国民は考えていたと思う。しかし、この間で、民放各
社に共通して見られたのは、何の合理的説明もないままに、小泉姿勢を賞賛
し、郵政事業の構造や、それを民営化に改革することがどういうことなのかを
いっさい説明しないままに選挙戦をむかえたことである。それのみか、民営
化に反対する少数意見を徹底的に封殺してしまうという、極端に偏頗な報道
姿勢を示したことは、業界の常識的な報道モラルとしては、あまりにも常軌を
逸脱するものであった。

 その象徴的なできごととしては、ニュース番組における司会者の異常な司会
ぶりであった。民営化に反対する識者や国会議員が討論の場に出た時、その
反論意見の核心を絶対に放送させないという、通常ではとても考えられない卑
劣で贔屓偏頗(ひいきへんぱ)な放送姿勢がとられたことは記憶に新しい。特
に、当時のテレビ朝日のニュースステーションという番組で7政党の討論会が
行われた時、新党日本の小林興起氏の発言を聞いた古舘一郎は、突然、小
林議員の発言を遮る形で、「340兆円がハゲタカにたちまち食い散らかされ
るなんて信じられるわけないでしょ。」などと異様に興奮した面もちで声をあら
げていた。これは司会者としては著しく常軌を逸する行為であった。

 この出来事に象徴されるように、当時の民放各局は、郵政民営化のもっとも
重要な争点であった「外資規制」の問題点を執拗なまでに放送内容から除外
する行動をとっていたことは、かなりの人々に強烈な違和感を与えていたと感
じる。今、広告代理店で世界一巨大な企業となっているのは電通である。民放
広告のすべてを扱うこの大手広告代理店は、企業と民放の間のキャッシュフロ
ーを一手に握っている性格上、民放各社に対して絶大な権限を持つという。

 もし、この大手広告代理店がアメリカの通商代表部の意向を受けた営業姿
勢をとるとすれば、これまでの対日要求である「年次改革要望書」の流れから
言って、当然ながら郵政の民営化実現に旗を振った可能性は否定できない。
だとすれば、電通に財布の紐を握られる民放各社は、放送上の思想的統制を
受けた可能性は十分に考えられる。古館一郎やみのもんたの司会者としてあ
るまじき異様な振る舞いがそれを物語っていたように思う。

 今までのことを振り返ってみるとよくわかるが、今回の総選挙に対してマスコ
ミの報道姿勢は、法案反対派の意見をまったく取り上げていないばかりか、小
泉自民党だけを一方的に賞賛する偏った報道姿勢だけが際だっていた。反対
意見をフラットな視点で意見として出さず、反対の立場が存在するという事実さ
え故意に隠蔽するという悪質な偏頗性が出ていた。反対の立場の者をすべて
一律に、「善なる構造改革に水を差す悪質な造反派」というレッテル貼りをして、
侮蔑的な排斥報道を行っていたのはまさに言語道断と言うべきであろう。
 

 

 

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(16)◎構造改革の思想的背景(一)

 ペットボトル文明・敷島文明(16)

    構造改革というものの胡散臭さ(六)

   ◎構造改革の思想的背景(一)

  今から9年前、平成8年に金融ビッグバンは起こった。それ以降、政府はさま
ざまな規制を緩和を行い、政府主導の市場制御から、市場メカニズム主導の形
態へ日本は急速に変えられていった。マスコミも巷も、ITこそ第三の産業革命、
ITこそ脱工業化への飛躍などと、さんざんもてはやしていた時代があった。確か
にITベンチャーを起こし、ストックオプションでにわか成金になる若者が続出した
こともあり、世は浮かれてIT産業振興への期待を高めたのである。

 しかし、一般国民の生活感覚はどうであったか、今さら語るまでもないことだが、
いっこうに家計の豊かさは感じられず、国内は経済的な閉塞感に満ちている有様
であった。ITが情報化社会の進展に呼応した未来の新産業として革命的振興期
に入るものとして期待されたわりには、ほんの一部の者たちを富ませたことを除
いて、その情報革命とやらは国家的景気浮揚の役に立つものではなかった。

 構造改革唱導に横たわる思想的背景には、まず第一に、フリードリッヒ・ハイエ
クやミルトン・フリードマンに連なる新自由主義がベーシックとして横たわっている。
この流れに結びついた現代的な産業としては、情報産業、IT産業というものが深
く関わっているので、一応、IT産業というものに自分がどういう時代認識を持って
いるか説明しておきたい。

 自分は当時から、IT産業が21世紀の産業形態を形作るなどという予想にはま
ったく現実感を持てなかった。なぜなら、その予想、予測の根拠として、三十数年
前に 話題になった、アルビン・トフラーの「未来の衝撃」や「第三の波」が色濃く影
響していると見ていたからである。

 トフラーの著書である「第三の波」には、世界史の技術的な時代区画を次の四
段階に大ざっぱに区分している。

 狩猟採取文明 → 農業文明 → 産業文明 → 情報文明

 これに従えば現在の文明の状況は、「情報文明」に突入しているということであ
るが、上の四つの時代区分け(文明区分け)自体があまり意味をなしていないよ
うに思える。先ず狩猟採取文明であるが、それは日本で言うならアカデミズムが
言うところの縄文時代に相当し、農業文明を稲作技術に絞って言えばそれは弥
生時代に当たるということであろうか。

 しかし、実際には狩猟採集と作物栽培の採取形態は、両者に混合的な時期が
見られるので一概に明確な時代区分を画すことはできないように感じる。同様に、
産業文明と情報文明も二分的に時代確定を行うことは現象的に無理な話である。
なぜなら情報革命と言われる情報分野も広義の意味では完全に産業文明の一
角を担っている産業ジャンル、つまりは情報産業として位置づけられているから
である。

 新聞、書籍、他の出版メディア、テレビ、インターネット、映画など、我々の身の
回りに無数に交錯するあらゆる情報は明らかに産業として成立していて、それら
は社会のインフラストラクチャーにどんどん組み込まれている。人や組織など、社
会が要求する有益な情報には価値があり、それ相応の金銭対価が投入される仕
組みが自然と成り立っている。もしも、インターネットやGPS、携帯電話などの電
子通信メディアを情報革命として、イギリスの産業革命に匹敵するものと位置づけ
ようとするのであれば、それは次世代の産業革命とでも言うべきものであって、
技術文明の本質から言うなら、昨今の情報革命とよばれるものは、技術イノベー
ションとして位置づけるものであろう。

 これらは文明の持つ複雑さ、相互通信のスピード化、効率化を格段に促進させ
たことは確かであるが、それが直ちに文明の本質を変化させたことにはならない。
情報革命と言われるものは、人類史の中で、印刷技術、活版謄写技術が発明さ
れた時からすでに起こっていたわけで、それが電子化され高速化されたことは、
技術進化の流れである。最近はあまり言わなくなったが、21世紀における情報
革命は第二の産業革命であるという言い方が鸚鵡返しのように言われた。これ
はまったく正鵠を欠いた表現である。

 情報産業の突発的な進展、そのこと自体は産業革命のように文明の質的変換
をまったく意味していないのである。産業とは、物品の産業でも情報の産業でも、
それが社会に与える経済的価値はまったく等価なのである。つまり、現代文明の
基本構造は同品種(規格品)の大量生産、大量消費という産業革命以来の枠組
みからまったく逸脱していないのであり、それは情報についてもほとんど同じ考え
方ができるからである。情報と即物的な生産品とは違うだろうと思う向きもあるか
も知れないが、人間が求める価値という部分についてはまったく同じことである。
たとえば映画やテレビを考えてみると情報が品物と等価であることがよくわかる。

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2005年11月24日 (木)

(15)◎国家の詐欺的リフォーマー・小泉純一郎

 
  ペットボトル文明・敷島文明(15)

      構造改革というものの胡散臭さ(五)
   
    ◎国家の詐欺的リフォーマー・小泉純一郎

 戦後の歴代政権で、もっとも悪質かつ非道な宰相は小泉純一郎である。
以前にも言ったが、この男は日本の解体屋であり売国奴である。

 国民思想史において、戦後とは、大ざっぱに言えば、戦前まで進んでい
た思想的ベクトルが逆方向に向いてしまった精神史とも言えるだろう。それ
は日本らしさの着実な蓄積を停止して、日本人の無意識層で求めるものと
は違った方向に進んでしまったということである。明治以来、我が国は、技
術も人文科学も欧米の必要なものを取り入れて進んでいたが、根っこには
不断の日本精神を温存してきた道程がある。

 これが大東亜戦争を経て、それまでの大事な日本的蓄積が、今度は解
体・熔解する方向に推移したのが戦後史である。ところが、日本人はほと
んど無批判にアメリカをモデルにした物質的生活をもとめ、経済成長に従
って、これでようやく欧米並みの進歩史観を持てると考えた。

 戦前までの窮乏生活は克服しなければならないものであったとしても、
その反動が、物質一辺倒の経済構造へ突き進み、ある時期は工業生産で
他国を凌駕するまでになったこともある。しかし、やがて日本は、物質的繁
栄と引き替えるように漸次、その日本魂を失っていった。

 そして、いつしかその日本お得意の優位的な経済力さえも、アメリカから
のフィードバックでしか機能しない国になり果てていた。アメリカにあこがれ、
アメリカを無批判にモデル化したことによって、我が国の政治家、経済人は
おろか、国民マジョリティにいたるまでアメリカの底意地の悪さに気づかず
に今日にいたってしまった。

 見渡せば、いつしか日本の経済力はアメリカの損失や赤字を補填する機
構に造り替えられていた。シナや朝鮮は、教科書や靖国参拝に小うるさく口
出しして、そのチンピラ度をあますところなく開陳しているが、これらは目に
見えるだけにまだ防御の余地はある。

 しかし、アメリカの悪質さは日本人の内面のリフォームと同時に経済構造
のリフォームまで着実にやっていることだ。表面的には協調の型を取りな
がら実際は有言無言の対日圧力を常套手段としている。ある意味、これは
東京裁判史観の継続的形態の一環とも言えるだろう。なぜなら日本人自身
がこの不平等協調路線に気がついていないからである。「アメリカと仲良く
すればすべて上手くいくのだ」という、小泉首相の言が代表するように、ア
メリカに従うことが十全であると大多数の国民が思っている。このすり込み
は、第三者から眺めれば典型的な思考停止であり、紛う事なき隷従である。

 生意気なことを言わせてもらえれば、経済の本質は伝統と民族性、つま
りは国柄とともにある。百の国家があれば、百態百様の経済体制ができて
当たり前だと考える。なぜなら経済は政治に従属し、政治は国民思想と国
体に依存するからである。

 考えてみたことはないだろうか。規制緩和をいう場合、規制の基準をグロ
ーバル・スタンダードに依拠している現実を。規制緩和を自己反省的に、自
律的な判断でやっているかのようにみんな思っているかもしれないが、実
は世界標準のようなことを言いいながら、アメリカが勝手に押しつけている
のである。規制緩和をすることによって、自国経済の自由度が高まるかの
ような思いこみでやっているが、実際のところはアメリカ経済の利益誘導シ
ステムに組み込まれ、結果的には巨大な国益毀損をもたらすことになるの
である。

 談合はよくない、ずるいなどと、頭ごなしで言われているが、今の日本人
は談合ということを真剣に考えたことがあるのだろうか。誰に言われてそう
思いこんだのか。かつてアメリカは言った。「ダンゴー」は国際貿易上の絶対
悪であると。そう言われた日本人は、何も考えようとせず、無批判にその通
りだと思っていたのではないだろうか。

 公共工事の落札価格を、市場原理にまかせて青天井にしておいたら、
民間企業は激越な競争にさらされ、受注が不安定になる。大手(ゼネコン)
が不安定になれば、傘下の中小企業体も不安定になる。

 そこで談合制度を利用して、事業受注を持ち回りにすれば、仕事は安
定的に確保されることになる。これは弱者を路頭に迷わせないための日
本型の構造と言える。いわば社会の安定装置の一種である。もちろん利
権傾斜という弊害もあるが、全体としては救済的であると言えるだろう。

 実は、この見方は、親日家であり、アングロサクソンのビルトッテンさん
の考えであるが、なるほどと思う。日本型の経済システムとは大ざっぱに
言って、社会不安を極小にしようとする考慮が働いていたのだ。これをア
メリカ型の経済構造に強引に変える政策が、現今の構造改革の本質な
のである。

 ところが、アメリカ型のマーケット原理至上主義は大ざっぱに言って社
会不安を増大する方向に進む。なぜなら、この経済構造のベーシックは
アメリカの国是である新自由主義(ネオ・リベラリズム)にあるからである。
この思想の根底には社会ダーウィニズムを基調とする無慈悲な弱肉強食
があり、金銭の多寡だけに価値基準をもうけるその優勝劣敗構造が社会
不安を限りなく増大するからである。

 これは一例なのだが、談合絶対悪というのは日本発信ではない。同様
に、規制だらけの既成構造が諸悪の根元だと言う小泉・竹中路線も、前
提として完全な錯誤にもとづいている。規制の構造が悪いから景気の長
期低迷をもたらすと言うが、構造改革と景気の相関関係は判然としてい
ない。かつて、あのバブルを扇動したのは銀行である。三十年前は、民間
資本の九割は元本の確実な利殖投資に回され、あとの一割はハイリス
ク・ハイリターンの株式、債権、不動産等のバクチ性の高い投機に使われ
ていた。しかし、1990年を越えると、その割合が逆転した。バクチ系の投
機が九割を占めたのである。それは、その間に財務の自由化という「規制
緩和」が行われたからだ。

 銀行は堅実な投機路線から、バクチ性の高い不動産投機などに入れあ
げ、見さかいなく金を貸しまくった。これがバブルを招き、不良債権を産み
落としたのである。もちろん、戦後思想によって日本人の快楽消費志向
が臨界点を越えたことも精神サイドの原因として上げられる。

 規制とは社会構造を維持するために、長い歳月の中から必要とされて
必然的に生み出されたものである。あらゆる規制の中で官僚の傲慢さか
ら出た規制などわずかなものである。ほとんどは日本社会特有の相互扶
助精神が発露しやすい状況をつくるために編み出された考えである。わ
かりやすく言うなら「和の社会」を維持するための重要な装置として機能
するものが規制なのである。

 このように歳月をかけて作られたものには、みにくい苔も繁茂するが、
総じて民族性(国民気質)と、長い試行錯誤の末にできあがっているもの
が多い。これを表面の汚い苔だけを見て全面的に破壊すると歴史の
有用な知恵の蓄積までが破壊されるのだ。

 戦後構造の悪い面の是正や建て直しは必要であるが、中には先人た
ちの貴重な知恵が構造化しているものもある。これを残存させてより良い
方向に発展させて行くのが歴史に連なるものの責務ではないだろうか。

 そういう観点から言えば小泉政治は悪質なリフォーム政治である。構造
改革の内実をまったく示さずに、ただかけ声だけで破壊だけに狂奔する
異常な内閣である。彼の手法というか、単純な意気込みに近い信念には、
これまでの旧弊な経済構造や社会構造は、時代の変化にまったく対応で
きず、これをそのままにして置けば、社会や国際関係に重大な支障を生
じ、能うる限り、これら旧構造を破壊しなければ、日本の再生は不可能だ
と思いこんでいるところがはっきりと見える。

 なるほど、そのように単純な図式を描けば国民はわかりやすい。だが、
単純明快であるということと真実を言い当てているということは必ずしも
一致しないのである。戦後、日本が日本人独自の力で経済を復興し、
奇跡的な経済成長を成し遂げたのは、かならずしも外的環境が整ってい
たからだけではない。この復興劇の根底には、日本人ならではの力の結
集と民族性が発揮できたからである。そこに息づいていた伝統を背負っ
た日本的感性こそ、戦後の社会構造の枢要な柱となっていたのではない
のか。

 戦後構造は、単に敗戦焦土のゼロ状態からできあがったものではない。
完膚無きまでに破壊された終戦時の日本は、そこから、社会インフラを築
くに当たり、戦前の知恵をそのまま継承して新たに戦後構造を築き上げ
ている。さまざまな分野に戦前は踏襲されているが、戦後の新技術に関
して顕著な事例を挙げると、たとえば新幹線を開発するとき、車両の自励
的な振動問題は深刻であり、それを克服した技術が、零戦の振動防止技
術であった。また、トヨタの生産方式は、その原型的システムを戦艦大和
の建造方式に見倣っている。ホテル・ニューオオタニの展望回転ラウンジ
も、戦艦大和の砲塔回転技術を取り入れて実現したものである。

 表面の錆び付きや腐敗が気になるからと言って、この構造すべてを破
壊したら、歴史が膨大なエネルギーをかけて築き上げた「日本的価値」も
崩れてしまうのだ。それは国家に対する反逆と同じ意味を持つことになる。
今、小泉純一郎が行っている「構造改革」という政策指針は、明らかに国
家破壊である。国体の破壊である。この熱狂的な構造破壊には、国家戦
略も未来展望も愛国情念も見ることはできない。これに気づかない国民
は、相当程度、ものごとを洞察する悟性が鈍磨しているとしか思えないの
である。

 正しい歴史認識も、国家展望も、国体認識も持たない宰相が推進する
構造改革は、昨今、世間を騒がせている悪質リフォーム詐欺となんら変
わるところはない。口先三寸で国民の耳目をたぶらかし、国家の体裁や
国柄を内部からはなはだしく毀損しているからである。かつて、カルト教団
「オウム真理教」は、皇居上空、首都上空から劇毒のサリンガスをばらま
く計画を持ち、これが破壊活動防止法の対象として俎上に上げられた。
非常に慚愧に耐えないことに、これは破防法と戦前を重ね合わせて怯え
た反日世界観の勢力の反対で没になってしまった。国家の破壊をたくら
んだ者や集団が「破防法」の適用対象となるのであれば、郵政事業の国
策的改竄で、百兆円以上もの郵政資金が国の外へ流出する構造を意図
的にもたらした内閣もその対象範囲に属するのではないだろうか。国土
や国民の生命をはなはだしく危険に導く集団が破防法の適用に値するの
であれば、国民の財産をはなはだしく毀損させる内閣もまた同罪と考え
て不都合はないだろう。
 

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2005年11月23日 (水)

(14)◎小泉政治の異質性

ペットボトル文明・敷島文明(14)    
   
   構造改革というものの胡散臭さ(四)

     ◎小泉政治の異質性

 小泉政権は、構造改革というものを推進すれば、はじめは失業者や倒産
企業が増大し、国民は痛い思いをするが、やがては改革路線が軌道に乗り、
景気は大幅に回復されるという論調を繰り返す。

 しかし、彼が政権についてから足掛け五年目、景気は一向によくならない。
11月になって株価が上がってきた兆候はあるが、これは第三次小泉内閣が
発足し、その実態が「外資導入積極推進内閣」であり、その手始めとして、か
ねてからアメリカが強制要求していた郵政民営化が決定したからである。

 第三次小泉内閣が発足して、日経平均株価が四年半ぶりに14000円台を
回復した。これに対する世評は、小泉首相と竹中平蔵総務相(前経済金融
相)が共同で強引に行われている「小さな政府」づくりが、景気の本格回復と
構造改革のよりいっそうの進展をもたらすと市場が評価したためだと言われ
ている。しかし、それを評価した市場とはどこの市場をさしているのだろうか。

 はっきりといえることは、この評価に関与した市場なるものが日本ではな
いことはたしかである。この市場とは、以前から、日本の財産や権益を虎視
眈々と狙っていた外資が、ここぞとばかり参入の勢いを増したからである。
小泉首相は、「構造改革を進めてきた結果、景気回復軌道に乗ってきたこ
となどを反映しているのだろう」と語っているが、この株式市況が日本国民
のためではないことは明らかである。一見、長期不況を脱出するかのような
期待を持たれるこの景気は、国民生活における購買力向上とはまったく関
係ないと思われる。経済の素人そのままに言わせてもらえれば、これは、ほ
とんどマネーゲーム上の期待だけで出ているものだろう。

 経済上の成長はあっても、相変わらず、中小企業は倒産し、自殺者は増
大するだろうし、家計部門は不況感から脱出できないだろう。日米構造協
議から続く日本型経済構造の解体は、多くの低所得者層とわずかな高所
得者層の二極分化を推し進めているからである。過去の経済成長下にあ
ったときの日本型経済構造は、経済学者の内橋克人氏が言うように、日本
企業には付加価値の高い独創的な技術が少なかったために、量産効果の
生産原理という単一の行動原理しかなかった。国内では、高度経済成長以
来、単一商品の大量生産、大量消費、短サイクル、大量廃棄のシステムが
一つの型として固定してしまった。時代が進展し、日本型の量産拡充主義
はアジア、特にシナに移ってしまった観がある。

 しかし、時代は産業革命時の単一商品大量生産による分配構造が終焉
を向かえ、今や、個々消費者のオンデマンドによる、即応答、即必要性の
個性的な商品が求められる傾向に移りつつある。この傾向は、さらに加速
し、資源の有限性や環境などの条件から、これからは、多様な特徴を実現
しながら長持ちする製品造りに向かう必然性を持つだろう。高度成長期は、
テレビやクーラー等の電化製品や自家用車などの物理的拡充が主目的で
あったが、これからは生活のトータライーゼーションに準じた文化生活の拡
充が求められる。実はこのことは国民個々の生活様式だけの問題ではなく、
国家の未来展望の中で行われるべき性格のものなのである。これについ
てはこれからたたき台として考えを展開するつもりであるが、その前に今の
小泉政権が志向する世界がどんなものであるかということと、その世界が
日本人にとっていかに異質であり、危険なものであるかを述べてみたい。

 そこで、この経済構造の変化への対応において、はたして今の小泉体制
の国家展望、志向が、時代の要請に合致したものであろうかという強い疑
念がわいてくる。

  小泉首相のお決まりのワンフレーズ・ポリティクスに、必ず構造改革という
言葉が出てくるが、今まで一度としてその「構造」なるものの性格や成り立ち
など、その詳細な説明を聞いたことがない。これは彼一流の、説明せずして
相手に考えさせる戦術なのであろうか。あるいは一部で言われているように
首相自身がほとんど難しいことや込み入ったことを考えられないから、そう
いった単純な言語フレーズをとっているのか、その辺のことは問題の本質で
はないから今はやめておく。しかし、テレビ時代のアピールとしては、ワンフ
レーズ・ポリティクスは、国民大衆に覚えられるには非常に有効な手段であ
ることは間違いないだろう。

 しかし、困るのはその短いセンテンスの繰り返しからはけっして国家展望
の全貌や未来図が出てこないことである。逆に考えると、構造改革や郵政
民営化を「命がけ」で行うと言っている小泉首相には、国家ビジョンがまった
く欠落していることから、その構造改革自体の目的性が思いっきり曖昧にな
っていることが否が応でも浮き彫りになってくるのである。彼の構造改革路
線には国家目標が存在しない。それどころか構造改革そのものが明らかに
目的化しており、しかも、その構造改革の要(かなめ)に郵政民営化を収斂さ
せるという異様な形を持たせている。このことが、郵政民営化は国家戦略と
はまったく無縁な部分から発生していると考えざるを得なくなるのである。

 

 

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2005年11月13日 (日)

天然もののうまみ

VFSH0715

 今から二十日ばかり前のことであるが、父が近くの沢すじを
散策したときに天然もののシイタケを見つけてきた。

 沢のそばに転がっていた直径20センチばかりの短い倒木に
生えていたそうである。数は写真のものだけである。

 秋田の田舎に住んでいたころは当たり前のように食べていた
天然シイタケであるが、静岡に移り住んでからは滅多にお目に
かかれず、覚えている限りではこれが四回目である。

 シイタケは栽培物も非常に大好きであるが、やっぱり天然物
にはかなわない。普段シイタケを食べるときは生のままかるく
火にあぶり、まだあつあつで香ばしいうちに醤油をたらして食べ
るのが好きである。これがたまらない。(書いていてつばが口中
に出てくる)

 しかし、静岡生活40年の中で、たった数回しか見つからなか
った天然物はほんとうに貴重であるから、いつもの食べ方はで
きなかった。

 どういうふうに食べたのかと言えば、それは吸い物である。
まずシイタケを焦げ目がつく程度に適度に焼く。それから細か
く刻んで吸い物椀に入れる。そこへ沸騰したお湯を注いでしば
らく待つ。

 そして飲める温度になったら、適当に好みの加減の醤油を入
れる。これでできあがりである。茶漬けのようにただお湯を注ぐ
だけ。下手にダシをとったり味付けはしない。このシンプルなや
り方が自分はいちばん好きである。これにグルタミン酸系の調
味料を入れたりしたら間違いなくアウトである。山の神様が怒
る。

 とくに吸い物にこだわっているわけではないが、山採りシイタ
ケの吸い物はほんとうに旨いのである。

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2005年11月11日 (金)

ペットボトル文明・敷島文明(13)◎構造改革というものの胡散臭さ(三)

 11、構造改革というものの胡散臭さ(三)

 解散総選挙前に、「郵政民営化はすべての構造改革への入り口である、
この程度の改革ができずしてどうして他の改革ができるのか」と小泉首相は
何べんも繰り返した。一方、平成13年の自民党総裁選で小泉首相は、終戦
記念日の靖国神社参拝は何があっても決行しますと公約し、日本遺族会や、
首相の靖国参拝を願う国民の票を獲得した。しかし、総裁に就任した年はお
ろか、五回目になる今年の8月15日にも首相の参拝は実現しなかった。何が
あっても行くと言っていたあの強固な決意はなんだったのか。

 日本国総理大臣という重職にあって、終戦記念日に靖国神社に祭られてい
る英霊を参拝することは、我が国の戦後史上もっとも重要な責務であり公約
ではなかったのか。小泉首相の靖国参拝は明らかに人気取り、票取りのパフォ
ーマンスである。靖国参拝を人気取りの道具として使った彼には英霊尊崇の
気持は微塵もなく、240万柱を超える尊い御霊(みたま)に対する冒涜である。

 首相の言によれば郵政改革は「この程度」だそうである。郵政民営化が「この
程度」ならば、終戦記念日の靖国神社参拝は、重要度において、「この程度」以
下なのか。実際は外交や年金問題など、優先すべき政治課題は山ほどある
わけで、今回のように審議不十分のまま郵政民営化を拙速に強行してしまっ
たことには違和感のみが残る。8月15日を指定した公式参拝は実行しない、
就任時の公約である新発国債30兆円枠は意も介さずに破った。こういう破天
荒な公約無視の中で、なぜか郵政民営化の公約だけは強引に推し進めた。
この行動には首尾一貫性がなく政治姿勢として偏頗な行動である。解散総選
挙には以上の理由で公約実行の大義名分はまったくない。さらに奇妙なこと
は、郵政民営化に反対する自民党議員たちを小泉首相が「倒閣勢力」と決
め付けたことである。

 いわゆる小泉首相や国内マスコミによって、造反議員という心外なレッテル
を貼られた議員たちの中には、民営化そのものには賛成であるが中身に疑
義があるのでこれを素直に承諾できないという人たちもいた。しかし、小泉首
相はそういう意見も、すべて倒閣をたくらむ敵対勢力と位置づけ、聞く耳を持
たないという姿勢に終始していた。国会の審議というものは、賛成か反対か
の議決を得るまでに法案の中身を審議検討することであり、それが議員たち
の主要な職務というものである。したがって同じ党内に反対意見があるのが
普通のことであって、ある法案に反対意見を提示した議員を謀反人、すなわ
ち倒閣議員として処罰の対象にするなどということは近代デモクラシーの中
では起こりえないことなのだ。

 しかし、今回はマスコミも内閣に加担して、郵政民営化という、ごく内政的
な問題のために党の重鎮たちを魔女狩りにして党から追放してしまったので
ある。心ある人たちにはよく考えてもらいたい。郵政民営化とは、構造改革の
一環にある一つの考え方であって、言わば、低迷した経済の賦活手段として
出てきたものに過ぎない。この「手段」の有効性を論議する中で疑念を表示し
た同僚議員を、利権固執、小泉否定の謀反議員として放逐する事態がどれ
ほど異常なことかわかるだろうか。これを冷静に眺めると、ここまでして行わ
なければならなかった郵政民営化には、国家の自主的な法案作成から成立
への通常の流れとはまったく異なった大きな力がはたらいていると考えざる
を得なくなる。

 このことは、小泉・竹中路線には公約実現以外に何か切迫した事情がある
という推測が出てくるのである。このような経緯の前に、関岡英之氏の著書、
「拒否できない日本」が昨年の春に出版されていて、その中で、アメリカの対
日要求である「年次改革要望書」の存在が浮き彫りにされている。この要望書
は、「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本政府への米国
政府の年次改革要望書」という長いタイトルが付けられていて、在日アメリカ大
使館のホームページに和訳で載っている。形式的には日米双務的であるこ
の文書は、実はまったく互恵的な要素はなく、徹底して米国利益に基づいた
内容になっている。十年前の開始当時のものは閲覧できないが最近のもの
は見ることができる。

 この対日要求が意味する日米関係は経済摩擦などという生易しいもので
はない。端的に言えば最後通牒という意味で、分割された小型のハルノート
である。提言の概要は、電気通信、 情報技術(IT)、 エネルギー 、医療機
器・医薬品 、金融サービス 、競争政策、 透明性およびその他の政府慣行、
法務サービスおよび司法制度改革 、商法、 流通など、日本の社会構造の
ほぼすべてに渉っている。完全な内政干渉であり、日本の自主権への露骨
な侵害である。日本の国家体制の解体指令書に等しい意味を持つものであ
る。著者の関岡氏も言っているが、不思議なことはアメリカがこの対日要望
書をまったく隠していないのに、日本政府がひた隠しにしていることである。

 経済方策、指針とは国家主権の肝要な部分である。それに対してここまで
微に入り細に入り日本の経済構造や社会構造に口を出し、強圧的にそれを
実行させている状況に日本人の大多数の人が気がついていないという異常
な事態が、ここ十年来続いているということである。我々は靖国神社参拝や、つ
くる会の教科書に対してシナや韓半島から否定的な言動を浴びせられ、そ
れを内政干渉だと言っているが、不思議なことにアメリカが行っているここ十
年来の深刻な「内政干渉」に対しては沈黙を守り続けているし、広報もまった
くないのである。アメリカが、同盟国、友好国の蓑に隠れ、アメリカ国益に沿っ
て一方的に行われているこの内政干渉については日本は完全に無防備にな
っている。この状況は国内にいる親米勢力が、間違っても国民に反米感情を
喚起させないように躍起になっているということでもある。東京裁判史観の惰
眠をむさぼる国民が覚醒することを恐れているのである。これが戦後日本で
進行したもっともやっかいな病弊であり、小泉政権が、歴代政権の中で、その
病弊のもっとも深刻な増悪として表れたのである。

 小泉政権が狂気の執着心をもって断行した今回の郵政改革法案は、国益
とは違う次元で行われたものであり、アメリカの対日圧力に抗しきれずに実行
されたものである。小泉純一郎という男は、郵政事業の民営化を叫び始めた
当初は彼なりの考えを持っていたかもしれないが、アメリカ通商代表部は早く
から彼の民営化案に目をつけ、彼を強力にバックアップしてきた可能性があ
る。このアメリカの徹底的な擁護が小泉純一郎にあったから、第二次小泉内
閣が旗揚げする時も、自民党内部の反小泉陣営は心ならずも彼の総理総裁
就任を黙認する状況にあった。この当時、「反小泉を鮮明にしてアメリカに睨
まれたら政治生命を失うことになりかねない」という風評が立っていた。この
時点で反小泉派は、今彼を継続させても、あとでなんとかなるという甘い読み
があった。この時、小泉首相に対するアメリカのバックアップが日米関係にど
ういう意味を持つか深く考えていたら打つ手はあったのではないかと思う。

参考図書 
関岡英之「拒否できない日本」 文春新書

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2005年11月 9日 (水)

ペットボトル文明・敷島文明(12)◎構造改革というものの胡散臭さ(二)

  10、構造改革というものの胡散臭さ(二)

 2001年に出た、山家悠紀夫(やんべゆきお)著、『「構造改革」という幻想』
という本に、「構造改革という言葉は、きわめて幅広い、あいまいな、要する
に何でもその概念の中に取り込める言葉であることは注目しておく必要があ
る」と言っている。また、構造改革という言葉には方向性がないということも
注意事項として指摘している。つまり、今回の解散総選挙で、小泉首相が
「民営化は是か非か」と二項対立に持っていったことが、どれほど馬鹿馬鹿
しく内実をともなわないアピールであったか、そういう観点からもよくわかる。
構造改革路線の一環として郵政民営化をぶち上げたのはいいのだが、国家経
済の展望や政策ビジョンを一切言わずに、民営化に賛成か反対かで国民意
志を問いかけたことは政治家として、また一国の宰相として愚劣きわまる態
度であったと言えよう。

 構造改革も民営化も言うなればただの手段である。政治家は、手段論を目
的論にすりかえてはならない。特にそれが一国の宰相ならなおさらである。今
回の郵政民営化は、小泉首相を先頭にして、取り巻き連中がこぞって民営化
に問題点を収斂させた。あたかもそれが国家の展望であるかのごとく。この状
況を異常内閣の暴走と捉えないで漠然とした期待を付託してしまった国民は、
やがて悔やんでも悔やみきれない大きなツケを払うことになるだろう。

 郵政制度の改革を叫ぶならば、郵政制度の構造を明確にして、その是々非
々を鮮明に浮き彫りにし、何をどう改革するのか、そうすればどのような効果
が得られるのか、構造改革にともなう痛みが不可避なら、何が痛みとなるの
か、改革に潜むリスクとは何かなどを国民にわかりやすい形で提示する義務
がある。しかし小泉首相は、構造改革という語義の曖昧さの中で、郵政構造
の不具合を、ただ「民でできる業務を官でやっていることは無駄であり、小さな
政府の原則に反する」というような言い方で示してきた。郵便局員、つまり郵
便事業に携わる公務員が好き勝手に税金を使って組織を官僚天国にしてい
るということなら、それは言えるかも知れないが、郵便事業では一切税金を使
わずに独立採算で行っている。

 そのどこがどういう風に無駄なのだろうか。今の形は無駄どころか、都市
部、過疎地域を問わず、同じ質の郵政サービスを受けられることは地域社会
や国家の安定に充分寄与しているという見方のほうが自然なのではないか。
このまま行くと、やがては郵政事業もジリ貧になると予測したからと言って、
それが即、民営化しか解決策がないという選択肢に結びつける方が恐ろしく
奇態かつ短絡的な話である。

 現今の構造改革路線に与するものたちは、構造そのものの姿をあいまいに
して、改革が是か非かという論法に短絡的に持っていく。問題は、改革是非論
の論理基盤を、「小さな政府vs大きな政府」、「官僚vs民間」というような、本
質論から遊離した二項対立にすり替えていくことにある。本質論とはこの場合、
民間対官僚というような対立論の中にはない。民営化問題の本質はずばり言
って「国家論」なのであるということを今の日本人は失念しているのである。
日本という国家が郵政事業を通してユニバーサルに国民に配慮している現状
が大事なことであり、これが国民の信頼と安心感につながっていることが大
事な認識なのである。このあとの項で言うつもりだが、小さな政府という言葉
が表象することは、ミルトン・フリードマンが描いた政府像にこの日本国を限り
なく近づけていくという考え方なのだ。重要なことは国家でなければできな
い役割を鮮明に把握することであろう。この観点が欠落した構造改革など国
体破壊にしかならないということである。

 また、郵貯、簡保に蓄積されている膨大な資金、350兆円が有効に活用され
ずに有効性のない財投や特殊法人に回っていると言うが、そういう無駄な使い
方の主体が郵便事業側にあるかのような錯誤を国民に与えているのが小泉・
竹中路線である。入り口出口論の中で、これを正すには入り口である郵政事
業を民営化して資金の流れを絶つことであると言っている。紺屋典子氏など、
いろいろな人から指摘されていることだが、郵政事業の金融面は国民から集
めるだけである。この金の使い道を制御しているのは郵政側ではなく、財務
省(旧大蔵省)である。したがって特殊法人の無駄遣いを止めるためには財
務省を厳しく監督すればいいという話である。郵政側犯罪者説は成り立たな
いのである。このように今回の郵政民営化論は構造改革と言いながら、肝心
な構造不具合のビジョンを曖昧にしたまま強引に推し進められるという異常さ
ばかりが目立った推移であった。

 この郵政民営化のドタバタは、昨今の歴代内閣が進めてきた構造改革路
線の矛盾点や曖昧さをあますところなく象徴したできごとであったと感じる。
「既存の制度は、昨今のグローバリズムの急激な進展の中で、情報インフ
ラや社会の変化に対応できずに制度疲労を起こし、これが日本における現
状経済の長期低迷の根本的な原因となっている」という言い方もよく聞くパ
ラグラフである。また、こういう言い方もある。「日本経済の持続的な成長が
再復帰するためには、金融システムや経済・産業面での構造改革が不可
欠の要件である」など。また、小泉内閣出現以前と以後とでは構造改革の
ニュアンスが違ってきている感じも受ける。それは、以前の場合はそれまで
の既成構造を経済史の道程と見做し、特に強くは否定せずに時代の変化に
応じて変えて行く論調だったが、小泉以降は既成構造そのものを諸悪の根
源として否定的に捉え、まさに憎悪に近いラディカルさを持ってその改革を
訴えているよう見える。この先鋭さの背後には何があるのだろうか。

 世の中は、経済に何か変調が起きたときは、議員さんも、マスコミも、有
識者の皆さんも口をそろえたように、構造改革が進まないからだ、最初は痛
みをともなうが構造改革を喫緊にかつ強力に進めるべしという論調が圧倒的
に支配的である。しかし、経済のド素人としての私は非常に奇妙に思うので
ある。あまりにも経済に疎いからそう思うのかもしれないが、そもそも「構造」
というものの明確な定義が一般化していないのに、その構造を改革するとい
うことがどんなことなのかわかっているのだろうか。そういう曖昧な状況で賛
成だ、反対だという判断ができるのだろうか。小泉首相は「創造的破壊」とい
う言葉も使っていた。これも字義通り受けとれば、時代に合わない官僚主導
の構造を破壊して、もっとましな構造を新たに再構築するというように一応は
解釈できる。しかし、構造そのものがよくわからないのに、それをどのように
破壊して、どのように組み立てなおすのかをわかりやすく説明しているのだ
ろうか。またそのダイナミックな破壊と改革によって得られる社会の方向性と
か国家のビジョンなどは明確に描写されているのだろうか。

 自分の乏しい知識の範囲でしか言えないのだが、構造改革とは、1970年
代から1980年代以降に、国際的に登場してきた新自由主義(ネオリベラリズ
ム)にその考え方を負っている。新自由主義とは、政府の積極的な民間介入
を嫌い、個人の自由と責任において行う競走と市場原理を最重視する考え方
である。国家から民間への経済介入と福祉国家を志向するケインズ主義を経
済疲弊の元凶と位置づけ、19世紀的な自由放任主義に経済体制を作り直そ
うとする思想である。特に政府からの縛りを否定して自由主義を取るものであ
るが、そこで使われている「自由」とは、主に経済活動の自由を指しており、
それは徹底した市場原理至上主義を志向するイデオロギーである。

 参考図書

1、 『「構造改革」という幻想 』 山家悠紀夫 岩波書店

2、「政府からの自由」 ミルトン・フリードマン 中央公論社

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ペットボトル文明・敷島文明(11)◎構造改革というものの胡散臭さ(一)

  9、構造改革というものの胡散臭さ(一)

  現在の小泉内閣は「構造改革内閣」と言われている。国家のグランドデザインとしての
構造改革路線は、何も現自民党内閣だけではなく、民主党もその路線を志向している。
そもそも、この構造改革とはいったいどういうものだろうか。小泉自民党は第一次内閣の
時から構造改革という言葉を、これでもか、これでもかと乱発していたし、今も相変わらず
政策発表の枕詞のようにがなりたてている。しかし、私は構造改革の「構造」というもの
がどのように定義されているか、小泉首相、あるいはその側近たちの説明を一度たりと
も聞いた覚えはない。

 何かあれば構造改革、構造改革とオウムのように繰り返すが、構造というものの姿を
明確に定義し、その上で、そのどの部分をどのように変えて行くか、あるいはどのような
政策的見地で変革するのかを、しっかりとわかりやすく説明してもらいたいと思うのは私
だけであろうか。たとえば構造改革推進論者には、既存の「構造」を蓋然的に諸悪の根
源と断定し、何が何でも構造を造り変えるんだという言い方をする者がいるが、それだけ
では実態として国民はほとんどわかっていないのである。既成構造は諸悪の根源云々
と言う前に、どこがどのように悪いのか、どういう経緯でそうなったのかを最低限度は説
明してもらわないと国民には判断の下しようがない。

 そういう意味では、今回の郵政民営化の是非を問う衆議院解散総選挙は最悪だった
と言える。これについては、民営化に反対か賛成かという不毛の二項対立に選挙の争
点を絞る小泉首相の愚劣さはもとより、それに大した抵抗も示さずに選挙に赴いた国民
もこぞって思考能力が低下しているとしか考えられない。郵政民営化を論じるにあたっ
て最も重要なことは法案の中身である。この中身を、国会も国民もマスコミも充分に考え
ようともせずに、改革はいいことだから賛成である、とにかく改革の灯(ともしび)を消し
てはならないと、短兵急な結論に持っていってしまった。

 この選挙結果は、はなはだしく国家の命運を左右しかねない事件であったと自分は認
識している。「改革」という言葉が、乗り越えなければならない問題点を解決するという意味
で使われているのであるならば、誰一人として改革に反対するものはいない。しかし、改
革と称するものの中には注意しないと、実際は国家や国民利益を著しく毀損するかもしれ
ない内容を持つ「改革」もあり得るという考慮と視点は絶対に必要である。その危険な可
能性をクリアーにするためには、改革法案の中身を充分な時間をかけて審議する必要が
ある。

 小泉首相や竹中金融相(現総務大臣)は充分に審議時間を費やしたと言っている。しか
し、肝心なことは何一つ討議されていないではないか。仮に本質に迫る質疑応答があった
としても、その中の重要な箇所が、議事録として国民に公表されなければ、国民にとって
は審議そのものが存在しなかったことになる。 少数の心ある議員さんが質問した、キャピ
タルフライト防止など、いわゆる外資防衛の件は、マスコミによって故意に隠蔽されたまま
である。特に選挙前一ヶ月間のテレビの状況は異常と言う以外にないほど外資防衛論を
シャットアウトしていた。

 毎年十月に出されているアメリカによる対日要求である「年次改革要望書」が、マスコミ
に取り上げられて議論の俎上に乗せられることはついになかった。この要求書は日米二
国間で双務的だと推進論者は語るが、要求度の強さを見れば、明らかに一方的な米国の
強制要求としか言いようがないものである。ずばり言うなら、この要望書は植民地国家に
対して宗主国が出す命令書そのものである。小泉内閣側が非常に悪質で巧妙なことは、
外資防衛論を故意に飛ばし、中身を論議し尽くしたように見せかけながら民営化に賛成
か反対かを国民に問いかけたことである。

 国会で審議に時間を費やしたことは事実であるが、その中身は欠陥審議というか、法
案の持つダークサイド部分の安全対策論議を故意にパスしたり、それに触れないで置こ
うという姿勢が強く目立った国会であった。国民は国民で、数ある重要な政策懸案の中
で、郵政民営化だけを、なぜここまで急ぐ必要があるのか奇異に感じなかったことが異
常であると言えるだろう。小泉総理の郵政改革是非論にそのまま乗って、自民党に票を
投じた国民は、中身を検討する前にこう考えたに違いない。民営化は、政府が以前から
進めていた構造改革路線の一環だから悪いはずがないと勝手に思い込んでしまったの
である。小泉首相を、官僚や閣僚に法案を丸投げすると小馬鹿にしていた国民が、今回
の総選挙では逆に郵政民営化を小泉・竹中ペアーに丸投げしたのである。これは非常
に非論理的であり完全な思考停止である。テレビは各局ともに、郵政民営化論議の関
係者が出演した時、アメリカの対日要求の事実を言おうとした出演者の口を例外なく封
じていた。あたかも郵政民営化にアメリカが係わっていたという事実そのものを隠蔽する
かのように。

 異様なほど短兵急な郵政民営化是非を問う総選挙、もう一つは、首相公約実行の偏
頗性を指摘できるだろう。それは8月15日の靖国神社参拝における公約不履行と、国
債30兆円枠の公約を無視して170兆円に増額してしまった中にあって、郵政民営化だ
けは命がけでやり遂げると異常な執念を燃やしたことである。なぜ郵政民営化だけ突出
的にやる必要があったのだろうか。長年活躍した党の重鎮たちを、ただ郵政民営化に反
対しただけだというのに永久追放を行わなければならなかった異常さはただごとではな
い。ここには、国益とはかけ離れた次元で、アメリカとの密約を小泉首相が実行したと受
け取るのが自然である。また党の重鎮たちを既得権を手放さない悪の守旧派と見做して
追放した裏には、日本型の政治システムをことごとく破壊するという強力な意志が見えて
いる。

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2005年11月 7日 (月)

ペットボトル文明・敷島文明(10)◎閑話休題

  8、閑話休題:経済知らずのぼやき

 前項7では、国家財政の逼迫を招いた原因が奈辺にあるかというところ
で終わった。その原因を考えようとしても経済音痴の自分にはかなりの無
理がある。そうは言っても、現在陥っている平成の大不況には、経済学と
か、経済政策以外の何かしら根深い要因が働いていると考えざるを得な
い。一国の経済のダイナミズムが、その国に住む国民一人一人の生命力
の大きさに依存する面を考えた場合、現代の我が国の国民は、国家史上
類を見ないほどの精神的疲弊にあると言えないだろうか。

 その前に、多くの人たちと同様に、自分の過去を顧みていろいろと後悔
することはあるのだが、その中でも自分に経済学というものの素養を積ま
なかったことが最近になってとても悔やまれる。今、齢(よわい)五十を超
えて、世の中の出来事や歴史、国際情勢などを見たとき、経済というもの
をある程度理解しなければ、さまざまな社会的事象の本質を捉えることは
難しいことに気がついてきた。

 ミクロでは個々の人間の在り方、そしてマクロでは国と国との在り方に
密接に関わってくる経済は、人間や社会、そして文明というものの本質に
迫る重要な世界の一つである。しかも、現今人類の共通課題である地球
環境問題も経済抜きには何も語れない状況にある。そして、経済は政治
と不可分に結びついており、時には戦争の火種にもなる。大東亜戦争の
直接的な契機は、ABCD包囲網という欧米列強の日本への兵糧攻めか
ら始まった。それは経済的ないじめであり、日本は自衛のために立たざる
を得なかった。これもことの起こりは経済問題である。

 狭義の意味で言えば、経済とは社会という営利装置を機能させるため
に財や物、サービスを交換する仕組みであり、その流れを扱う学問が経
済学である。オレには経済なんぞ知ったこっちゃないと思いながら来たつ
もりでも、人間、五十年も生きていると、いつの間にか経済的人生を歩ん
できたことに気がつく。人間は社会的動物、宗教的動物、政治的動物、
遊戯的動物であるだけではなく、明らかに経済的動物でもある。

 人間は社会の一員として存在している以上、経済という枠に囲繞(い
じょう)される宿命にある。これは広義に考えれば、ロビンソン・クルーソー
のように無人島で孤独にサバイバルする人間にも当てはまるだろう。無
人島暮らしでも、生きるためには自己の置かれた環境から食物の採集
や栽培をしなければならず、雨露を凌ぐためには自然の物を利用してハ
ウスをしつらえる必要がある。ここでは、自然と自己との間に物の流れ
が生じ、採集 → 消費、排泄 → 食物連鎖、という生態的連環(ルー
プ)が生じる。

 このループの中で人間が採取行為や栽培行為にコントロールを行った
場合、たぶんに原始的ではあるが、これも一種の経済活動と言えるだろ
う。ここには物だけの流れが生じているわけではない。たとえば、無人島
に野生のヤギ、サル、鳥類など、さまざまな動物がいて、餌を撒いて彼ら
を手なづけるとする。飼うまでには行かなくても敵対関係を持たず、お互
いに信頼関係が成り立てば、そこには物だけのやり取りだけではなく、
サービスのやりとりが行われることになる。動物たちが近づいてくれるこ
とによって孤独感を慰められるという一種のサービスが行われる。孤独な
人間はこれに対して動物たちに餌を与えたり、あるときは刺さったトゲを
抜いてやるサービスのお返しをするわけである。また、番犬の役目を果た
してくれる動物もいるかもしれない。まあ、人間と動物の混交状態を社会
と呼べるかどうかはわからないが、ここでは、少なくともお互いの了解の
下にサービスのやり取りが行われるわけであるから、これは立派な経済
活動である。

 若いころは、経済などは、自分の世界とはかけ離れていて直接関わり
合いはないものとばかり思っていた。ましてや、技術畑にある自分に、経
済は無縁の世界だとして無関心を貫いてきた。しかし、人間がホモ・ルー
デンス(遊戯的人間)、あるいはホモ・ファベル(労働的人間)を宿命づけら
れた動物である以上、経済的人間(ホモ・エコノミクス?)であることからは
逃れられないのである。

 こういう意味からも、経済を知ることは、人間や社会を知ることに深く関
わっていて、大きく言えば、人間の営為の総体としての文明を知ることに
つながるのである。そういうことを自分で気づいてきたのが五十歳近くに
なってからだからどうにも救いようがない。過去の自分が抱いていた経済
というもののイメージは、たとえば、金利や担保と言えば、シェークスピア
の「ベニスの商人」に出てくるユダヤ人金貸しのことを、株と言えば、クリ
カラモンモンの博徒を思い浮かべていた。要するに経済というものを、
堅気の世界とは異なるマイナーなイメージに置いていたのであった。

  最近では、経済を文明の一つの装置と考える視点が出てきた。科学技
術も現代文明の典型的な装置の一つではあるが、技術の無節操な拡散
というか、エントロピーの増大によって、生物化学兵器や核兵器などによ
って人類は存亡の危機を招来している。同様に現代の資本主義経済も、
その無節操で暴力的なグローバリズムの世界浸透によって世界を貧困と
不毛の荒野に変えてきていると確信する。経済と科学技術の無秩序化に
よって、世界の環境は青息吐息の状態に近づいている。だから、経済に
対するイメージは、経済の重要性に目覚めた今でもすこぶるよくないので
ある。最近の映画で「スピード」というのがあったが、その内容は、爆弾魔
がバスに爆弾を仕掛け、ある一定の速度以上で走り続けないとバスが爆
発するという何ともひどい設定の物語であった。速度計に連動して起爆ス
イッチが作動する仕掛けは、現代文明の負の側面を象徴しているように
思える。

 いずれ、このことはじっくりと考究するつもりであるのだが、現代科学技
術文明という途方もないエネルギーの渦は、いったん走り出したら、立ち
止まったり、休憩したりできない地獄の方向性が生じているように思う。
人類がよりいっそうの幸せを追求するという名目で走り始めた文明が、い
つしかそれ自体のはずみ車を高速回転させ、巨大なジャイロのようにそ
の方向を定めてしまった観がある。

それは、あたかも乗っていた馬車が御者自身の思惑を超えて暴走し、
制御不能となってしまったような感じである。陸海空の高速輸送網や電
力のための石油消費は地球バイオスフィアの二酸化炭素濃度を上げ、世
界各地に異常気象の牙をむき出し、核兵器は個人で携帯可能なほどに
小型化されてきている。こういう中で、経済はアングロサクソン社会のみに
通用していた市場原理「至上」主義経済が、グローバル・エコノミクスとし
て世界に普遍性を持たせようと、その暴力的な浸透性を如何なく発揮し
ている。我が日本も、過去十年くらい前からその荒波を食い止める防波
堤が崩れてしまっている状況である。

 資本主義経済は、資本の投入を休みなく続けなければならない宿命を
背負っている。その上、膨張的、侵略的性格を宿しているのである。これ
は共産主義経済でも同じである。要は、個人や企業が国家になっただけ
の話である。現代経済ががもたらす文明の時間的加速感、労働的加速
感は人間性を破壊する方向に進んでいるようにしか思えない。もちろん、
それは環境の絶え間ない破壊を防ぐ装置さえ内蔵していない絶望的な
文明システムに見える。と・・、このように悲観的な見方ばかりしたら埒も
明かないので、どこかに希望を見出せるよう、経済というものも不得意な
りに考えてみたい。

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2005年11月 1日 (火)

ペットボトル文明・敷島文明(9)◎大合併の背景に潜むある思想

          ああ、絶望のセントレアシティ(六)
       (それでも日本人なのか)

  7、大合併の背景に潜むある思想

  平成の大合併の動きには、よく言われるあの「失われた十年」の後から政府が一貫
して志向してきたある背景がある。経済に明るい多くの人たちが、出口の見えない平
成大不況は、経済用語で言うところのいわゆる「合成の誤謬」が多層に組み合わさっ
て起きているという論調を展開している。このことは経済音痴の自分でも素直にうなず
ける。合成の誤謬とは、良かれと思って決断実行した、個々人のミクロな行動の集積
が、社会全体のマクロなダイナミズムにとっては決定的に悪く作用するという現象であ
る。不況になればどの企業も苦しくなる。各企業は危機意識を持ち、こぞって内外に経
営の合理化を発動する。企業の場合、経営部門、生産部門などの非効率な部門は削
減したりカットしたりして機動的に企業経費を節減して利益率を高めようとする。この経
費節減のもっとも効果的なものが、手っ取り早く言えばリストラ、首切りである。国内の
多くの企業がこれを進めれば、巷は大勢の失業者であふれ、社会不安が増大する。
その結果、消費行動の急激な低下を招いて景気後退が深刻化する。

 個々の企業はベストの対策を取ったように見えても、個々の集まった全体としては、
社会にマイナスの力が働いて景気は後退してしまうことを「合成の誤謬」と言うらしい。
これは、企業経営だけではなく、その場その場の政策などにも言えるだろう。この多
層にわたる合成の誤謬の中に、地方の合併も含まれていると思うのである。自治体
を合併(合成)して行政機能の合理化や分権化の強化を行うと言っても、それは機械
論的に捉えた行政機能の効率化という一局面でしか捉えていない。自治体という全
体を構成する有機的な諸要素は無視されている。この合成作業が全国的に行われ
た場合、出来上がる国の形とか、国家的な経済ダイナミズムにどのような影響が出
てくるかなどをきちんと予測し、その描画を国民に示した為政者は誰もいない。地方
の合併そのものは、過去にも明治と昭和の二回に分けて行われているが、その時
の合併理由はある意味、歴史の必然に駆られて行った面が強いから全体としては
首肯できる。

 しかし、今回の平成の大合併は、財政面の補完視点からと、機械論的な行政効
率を目指しただけという社会システムの無謀な単純化にしか見えない。無謀という
意味は、地域の主体性の強化(地方分権)、地域経済、文化の振興とは逆行する
構造改革だからである。明治の大合併は徳川時代からの封建的な自然集落(村
落共同体)を、日本の近代化に適合させるために行政的統合を目指したものであ
り、約300~500戸の単位で行われた。日本が列強と対抗するために、欧米的社
会インフラを敷くことによって近代化に対応し、殖産興業の振興と挙国一致体制
(富国強兵策)を推進する国策に合致するものであった。また、昭和の大合併は、
戦後の新憲法下、新制中学校の設置基準の単位で行われ、その設置管理上の
目安として8000人が規模となった。明治、昭和ともに合併によるマイナス効果は
多々あったにしても、国策としてはそれなりの合目的性はあったと考える。

 そこで、平成の大合併であるが、市町村の統合合併という強行策は、国家的に
見てはたしてどんな妥当性を持つというのだろうか。そのことを考える前に、緊急
政策として地方交付金を減らさなければならない財政の逼迫がなぜ起きたかを考
える必要がある。結論から言ってしまえば、政府の経済政策の失敗が原因である
ことは異論がないであろう。国の財政逼迫がなぜ起きたのかを分析し、総括する
ことのほうが先決である。

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