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2005年12月28日 (水)

西村眞悟、首相待望論(8)

 
 西村眞悟氏は言う。国が成り立っていく条件として、「国益と国民の財産、安全
を守ること」が国たる由縁で、政治家はそのことを使命としなければならない。国
の安全を守ることは、日米安保におぶさっていて、今までは、対外的な国防はア
メリカの庇護の下でなんとかやってこれた。しかし、第二次イラク戦争の前あたり
から様子は変わってきて、日本は同盟国として応分の軍事負担をして欲しいという
ニュアンスが出てきている。一方、列島を取り巻くアジアの周辺状況は、シナは、
潜水艦による領海侵犯はやるし、日本を無視した形で東シナ海の天然ガス採
掘を稼動させているなど、せせら笑いながら我が国の主権侵犯を行っている。
これに対してアメリカは日中間の問題として静観を決めている。また、台湾と
シナの関係はきな臭く、いつ発火するかわからない。朝鮮半島情勢も目が離
せない。

こういうアジアの周辺状況、そして、日本の原油確保の問題を見ても、非常に重
要な中東情勢などを鑑みると、現在の日本が、もはや日米安保の傘に防衛を任
せるという選択肢は選べない状況になっている。もっとも、日米安保に寄りかかる
ことによって、日本は対外的な危機管理にほとんど真剣な神経を使わずにきた。
このために、我々は真の国防感覚から遠い意識に拘泥してしまい、六十年間も
そこに止まってしまった。このことが、日本人にまともな国家観を醸成させること
を妨げてきたという深刻な現実があった。この悪弊は吉田茂時代にその原点に
なる形を作ってしまったが、その考察はあとで行うことにしよう。国家が一人前の
国家足らんとするなら、自国の防衛は自国で行うということが大前提である。こ
のごく当たり前のことをやらなかったから、戦後の日本人の頭から、国家という
ものの観念は急速に希薄となっていった。伝統に基づかないアメリカ付与の戦後
民主主義は、偏頗な個人主義思想を蔓延させ、その結果として国民は徹底的な
アノミー(無連帯)に蝕まれた。当然、それは日本古来からの共同体観念を融解
させることになり、今小泉が推し進める新自由主義体制への構造転換は、そう
いう個人主義という名の無連帯の究極相として開花し始めたたことになる。まさ
に、GHQの撒いた種が小泉政権になって大きな結実となったと言えるだろう。

 日本人の国家観の融解は、精神相から言うなら個人主義の極相としてのアノミ
ーから、国の在り方から言うなら国防を他国に任せたからということになる。国を
きちんと保つためには、いつの時代にも富国強兵という形は不変の国是なのであ
る。そういう意味でも「国是」の塊である明治憲法(大日本帝国憲法)を、占領軍
の命じるがままに廃棄することから成立した現行日本国憲法の国是は根底から
疑ってかかるべきであろう。戦後の日本人は、国家観形成にもっとも枢要な概念
である国防意識を曖昧なままに放置し、それから逃げ続けてきた。西村眞悟氏は、
自分の問題意識の根底は国家と民族の魂の問題だと言っている。自分が西村眞
悟という男を全的に信頼し、この人物はなるべく早く日本国宰相にしなければなら
ないと確信できたのは彼の思うその自覚である。国家の魂、民族の魂、それは、
政治家として、日本人としてこれ以上に大事な心構えはほかにない。

 国民の品格が低下するのは国家観が曖昧になったときである。我々は現在だけ
をただ漫然と生きているわけではない。親の時代からも、その親の時代からも、そ
の先祖の時代からも、滔々と流れる連続性の中に生きている。人間存在の根源に
は、単に実存的な存在論だけではなく、こういう歴史的な連続性の中にある自分を
考える、あるいは自覚しないと、真の意味で生きているとは言えないはずである。
歴史的な連続性という存在感には過去だけではなく、未来の子孫たちへの橋渡し
として自分たちがこの世に存在しているのだという概念も当然必要である。このよ
うに過去時制、未来時制に自分を投射しながら、現在の自己確認を行うところに
本物の国民としての自覚が生まれる。これが歴史的存在としての国民意識である。

 我々は、大東亜戦争に敗北し、歴史的にも、国際法的にも不当な極東国際軍事
裁判を行われ、日本人が一番失ってはならない国家観、そして国防観を喪失して
しまったのである。国民が歴史の連続性から浮遊してしまったら何が起こるのか。
それは日本民族としての自己同一性の喪失である。今の日本人の無力感の根底
を占める問題の大半はそこに起因する。護憲、改憲、加憲など憲法問題を皮相的
に論議する以前に、為政者も国民も官僚もまず考えなければならないことがある。
それこそが、民族の歴史性を前提にした国家の在り方についてである。過去と未
来を背負った存在として、今の我々がこの国土に生きるなら、もっとも近い戦前の
過去を意識しないこと、あるいは極力これを忌避するような意識の在り方は決定的
な間違い、つまりは巨大な錯誤であることがわかるだろう。

 この錯誤に基づいてどんな小手先の政治観、人生観を持とうとしても、それは砂
上の楼閣であり、けっして生命を持たないだろう。自分はむしろ、戦後の日本人が
戦前を無視して生きてきたことに大きな驚きを覚える。自国の過去を否定した生き
方を選んだ民族は長くは持たないと思うからである。日本人は自国の過去否定を
しながら、なんとか秩序を保ち続け、六十年の時間を行き続けている。大東亜戦争
において、戦勝国アメリカが植えつけた「日本悪玉論」を、六十年もの長い間、後
生大事に持ち続け、それでも国を保っていることに驚きを感じる。逆説的に言うなら、
日本人とは、ここまで国家精神を蚕食されても、まだ秩序を維持して行けるだけの
巨大な民族アビリティを持っているのである。これは現在を生きる我々の力ではな
い。これは先祖たちが長い時間を弛まなく積み重ねてきたことから出来上がった巨
大な遺徳の力なのである。これに感謝し、尚且つ、先祖たちの遺徳、威徳を次の時
代に継承させて行く義務を我々は背負っている。

 人間の病気に急性と慢性があるように、国家の危機にも慢性と急性がある。こ
の戦後六十年というのは、明らかに日本国の慢性的な危機である。急性は近い歴
史では大東亜戦争だろう。この時も負けはしたが、国民は総決起的に心を合わせ
て国難に立ち向かっていった。まさに「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ」の精神で
ある。日本人は驚くべき生命力の強い民族である。教育勅語の精神を忘れ、長
い間、武士道精神を持ち続けた国民の心から、完全な「刀狩り」が行われてもいま
だに滅びないで国の秩序を保っているのだ。

 この理由がわかるだろうか。今から二千数百年前に日本という国が起こり、連綿
と続く皇統を基軸にして、国家の連続性を保ってきた過去がある。この過去の重さ、
時間の集積に涵養されてきた民族意識の練成は、日本人にとてつもない精神の強
靭さをそのDNAに刻み付けた。これが急性アノミーに陥っても、六十年も国の秩序
を維持していける日本人の底力なのである。しかし、この巨大な力も、もしかした
ら命運尽きる時が迫っているのかもしれない。9/11日の総選挙で国民は、小泉が
指揮する売国政治内閣を思考停止状態で存続させてしまったからである。

         (続く)

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2005年12月27日 (火)

隷従か矜持か、その選択は近いかもしれない

 自分のつたないブログを見ていただいている方々に言いたいが、現内閣が
自分の見ているように、国策捜査を恣意的に行い、政策に反する意見を持っ
たり、米国による実質的な植民地化に気づいた人たちが、次々と検察ファッ
ショによって、身に覚えのない犯罪名で拘束されるような事態が頻発したとき、
できれば、覚悟を持って生き抜いて欲しいのである。絶対に最後まで抵抗して
欲しい。人生を長い目で見れば、孤立無援で不利な状況に至っても、堪えて
自己の信念を貫けばあとで後悔しなくて済む。人は個人では弱いから逮捕さ
れたり拘束されたりすれば、苦しさから逃れるために嘘の自白や捏造を肯ん
じてしまうことがあるだろう。日本人は本来誇り高い人種である。もし、国策捜
査などというものに遭遇した場合はがんばって欲しいと思う。非現実的なことを
言っているように思われるかも知れないが、戦後GHQが愛国者を百万人もパ
ージ(公職追放)したように、今の政権はまかり間違えば日本を守ろうとする人
々をこっぴどく痛めつけかねないという予想はしておくべきである。小泉が言う
「抵抗勢力」の正体とは日本人であろうとする普通の人間なのである。最終的
にはこういう愛国層が標的になる可能性は大きい。

 日本人の悪い性癖には、長いものには巻かれろという処世的な諦観がある
が、現内閣の敷く路線に靡いて行っても、おそらくいいことは一つもないだろう。
なぜなら、この内閣が指向する日本社会は、日本人であることを否定しなけれ
ばならない社会だからである。国民は熾烈な競争原理にさらされ、日本的な和
の共同体は生まれない殺伐とした社会になるだろう。なぜなら、アメリカ型の社
会に地ならしされるからである。この間のハリケーン被害でニューオリンズの惨
状が露呈したように、アメリカという社会は、事実上「夜警国家」に成り下がって
いる。九割五部の貧乏人と残りの僅かな大金持ちが二極分解した世界である。

 小泉がインタビューを受けて、「構造改革の目的は何ですか?」と問われた
時、彼は「国民の幸せのためです」と言ったが、その国民とは二極分解した
あとの少数派の金持ちのことを指している。本来、夜警国家とは、市民(国民
ではない)生活の秩序を維持するために、必要最小限の治安や外敵からの
防衛を果たすための国家形態を言う。しかし、先のハリケーン被害において、
アメリカのFEMAや連邦警察は、被災者の住民に銃を向けた。FEMAというの
は災害やテロ勃発時の緊急出動ということになっているが、本来は自国民の
暴動を制圧するための組織にほかならない。夜警国家とは自由主義体制が
必然的にたどる形態である。小泉内閣は今、日本にアメリカ型の新自由主義
社会を築こうとして構造の変革、すなわち日本的構造の大破壊を敢行してい
るのである。天皇を戴く日本国民は国家の構造を夜警国家にしてもいいのだ
ろうか。僅かな大金持ちと圧倒的多数の貧乏人に分極する社会の中で、日
本人の警察が日本人に銃を向ける社会になってもいいだろうか。

 テレビの評論家やコメンティーターたちは、子供たちや大人の狂ったような
犯罪の続出を示して、日本社会が昔とはちがい、変質しつつあるから、自分
のことはなるべく自分で守ることを考えなければならないなどと脳天気なこと
を言っている。今の日本に強制的に起きつつある潮流はそんな生易しいもの
ではない。今起きていることは、国家構造の改変、すなわち「国替え」なので
ある。日本がアメリカの傀儡(パペット)国家に変えられているのである。国民
はあまりにもこの変化に無頓着である。自分の身の回りを守るより先に、国
を守らなければ犯罪多発国家は延々と続くことになる。

 戦後世代として昭和に生まれ、平成のぬくぬくとした現在までわれわれ日本
人は独裁政権というものの体感的実感がまったくない。日本国民はまさか、ス
ターリンやポルポトのように、血の匂いに満ちた強烈な独裁体制に日本が入
って行くなどということは想像の埒外だと思う。自分が思うに、国民は郵政民
営化、是か非かの二者択一解散総選挙に幻惑され、民主党のだらしなさも
相俟って、小泉自民党を選んでしまうという大失態を冒してしまったが、この自
民党は以前の自民党ではない。この新自民党は、小泉が靖国参拝しているか
らといって保守ではない。強いて言えばイデオロギー的には極左に近い革新
政党なのである。まったく今までとは異質な政党が出来上がり、これは事実上
の革命政権である。小泉や竹中には、国家の伝統や連続性、国柄を守るとい
う観念は微塵もない。

 国家の連続性に則っていない政権には、権威の正統性は存在しない。国体
を破壊するような政権には、天皇の下にある議院内閣制は機能しない。事実
上、現内閣は、欧米型デモクラシーとも、旧来の日本型デモクラシーとも、まっ
たく異質であり、民主主義の機能を果たさない行政構造に変異している。独裁
体制というのは、基本的に日本人に馴染まない体制だと思うが、制度上、今
の小泉には「どのような」法案でも恣意的に可決させてしまうことが可能である。
こういう体制下で、怨念と権力欲剥き出しの愚かな宰相が愚かな政策を進め
た場合、国は崩壊の道を歩むことになる。我々は、今の変化をグローバルな
時代の趨勢だとか、衣替えだとかいうように安易に考えていないだろうか。今、
進んでいることは、アメリカの傀儡政権となった小泉内閣による国家簒奪なの
である。

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西村眞悟、首相待望論(7)

 少しだけ、政治経済から離れたことを言う。自分のブログの姿勢は、政治経済
に限定したいとは思わない。本来、政治経済は自分にとってもっとも暗い分野で
ある。小泉が第一次内閣をスタートさせた当時から、なんか妙な違和感が常に付
きまとっていた。それは彼が、それまでの宰相とは性格が異なり、田中真紀子が
言ったように奇人変人の類だからと、特別、注視もしていなかったが、その違和
感は日増しに強くなっていた。特に小泉純一郎と竹中平蔵が中心となって推し進
める政策は、ある種の自分の直感であろうが、何と言うか、日本にとって非常に
良からぬ物だという印象が強くなっていた。

 そこで、不得意な経済の本やブログなどを渉猟してみて、自分の印象の正体が
徐々に見え始めてきた。それは小泉・竹中路線が現在進行形で進めている構造
改革というものの目標設定が、まったく見えてこないという事実であった。この構
造改革の先に何があるのか、どのような国家のグランド・デザインを描くのか、
彼らの言説からはまったく浮かんでこないのだ。 これは今になってわかったの
だが、かれらには日本の将来の全体像をどういう風に持って行くかというビジョ
ンが欠落している。小泉が言う「創造的破壊」には創造がまったくない。何か不
具合のものを刷新するために、既存のシステムや規制を破壊する場合、破壊と
同時に新たに作るもののビジョンを示す必要がある。このビジョンがない場合、
それはただの無秩序への破壊であり、現状よりなおさら悪くなる。基本的に小泉
の姿勢は破壊だけである。

 ところが、本当に彼らには、国家のビジョンが描けていないのかと調べていた
ら、彼ら自身がけっして口にはしないある明瞭な国家ビジョンが浮かび上がって
きた。国民にはけっして知らせたくないグランド・デザイン。それこそがアメリカ型
の新自由主義(ネオ・リベラリズム、あるいはニュー・クラシカル)経済の日本導
入である。自分は佐藤優氏の「国家の罠」を読んでいて、小泉たちが進めている、
国家デザインの巨大な転換に思い至った。官僚の腐敗や金権利権政治の旧弊
打破を名目にして、実は日本の構造転換を急いでいる。だから、愛国理念を持
つ政治家や経済学者をどんな手を使ってもつぶす魂胆が見える。植草一秀氏の
冤罪や西村眞悟氏の逮捕も、この構造変換にもっとも邪魔な斯界の実力者であ
るという理由である。ここから推量すると、小泉・竹中たちの計画の遂行には、
愛国情念の深い政治家や経済学者、その他のジャンルの識者たちのパージが
行われていくという展開だろう。ひどい内閣をまつりあげたものである。 
 
 今日の日本のデフレギャップは異常に大きくなっており、もはやこれを中途半端
な政策では解決できなくなっている。そもそも、小泉がことあるごとに発する、デフ
レの原因が構造にあるという言い方には官僚の奸佞邪智(かんねいじゃち)が含
まれている。金融政策とは言っても、西村氏によれば、同じ発想の組織が金融政
策と財政政策という二つの経済政策をばらばらに運用したことがデフレ不況の原
因だと言っている。金融政策は日本銀行、財政政策は政府の財政当局が担当し、
これらには発想の新規性も進展もなく、過去十数年間、失敗の連続であった。そ
こには官僚の硬直性と無能だけしかなかった。

 この官僚組織の硬直性を前提として政府が対策を出すから、ますます偏執的に
なり、構造ばかりを目の仇にする小泉内閣の政策が生まれた。官僚を敵視する
小泉の勇ましい発言とは裏腹に、官僚主義にどっぷりと浸かった構造改革路線
になっている。官僚主導の構造改革の奸佞邪智とは、悪いことはすべて自分た
ちの政策ではなく、構造のせいにして国民の追及から目をそらせていることにあ
る。もうひとつは、国債の額だけを強調し、国民に巨大借金を背負う苦しみという
洗脳を施していることにある。財政均衡を取り戻すという名目に隠れて、総需要
喚起という大きな目標に目が向かない。日本は内閣によって巨大債務国家を印
象付けられているが、一方では世界一の債権国でもあるから、巨大な債権で債
務を償還する方法をとってもいいはずである。たとえば、日本が保有するアメリカ
国債で日本の国債を償還すれば、今苦しめられている膨大な国債金利支払いは
アメリカがやってくれることになると西村氏は言う。

 おそらく、日本の政治家や経済学者はとっくの昔にそこには気づいていたはず
である。気づいていながら現実の政策としてまったく手を打てないのはなぜか。
そこにこそ、日本人の隷米意識が強くわだかまっているからである。

 
         (続く)

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2005年12月25日 (日)

西村眞悟、首相待望論(6)

  
 前回で述べたように、小泉構造改革路線は、総需要の喚起を如何に為すかとい
う方向とまったく逆を走っているのが問題なのである。構造改革とは言葉を変えれ
ば制度いじりであり、それは既成構造の破壊から入る。西村氏によれば、小泉内
閣は、この制度いじりに偏執するあまり、そのことがすべてにおいて万能の効果を
生むと錯覚した。歴代政権は膨大な国債発行の増額に頭を痛め、何とかして財政
の均衡を取り戻そうとあがいた。1997年に、橋本龍太郎内閣は九兆円という大増
税を行い、それまで3.4%あった経済成長率を一気にマイナス成長に導いた。

 財政赤字を埋めるために、窮余の対策として増税を行った結果が、あの底なし
の不景気につながった。これは時宜を欠いた増税が国民の総需要を落ちこませた
というきわめて単純なシーケンスによるものである。ならば、当時よりも赤字国債の
額がうなぎのぼりに増大している今、谷垣財務大臣が計画する消費税の引き上げ
計画は、下手にやると橋本時代と同じわだちを踏むことになりはしないのか。一
般論的に言って、消費税率の引き上げは自分も必要だと思っているが、時宜を見
計らって慎重にやらないと、現状のデフレ傾向をいっそう加速させる危険がある。

 時宜を見計らってやるとは、実体経済のともなった景気回復策を消費税引き上げ
よりも優先するということである。素人考えで恐縮だが、今現在の景気の上昇は、
郵政民営化法案可決の勢いを受けて海外投資筋が活発になったからであり、けっ
して日本本来の自律的復調を意味する動きではないと思う。これを単純に良性の
景気上昇と見て、消費税引き上げに踏み切ってしまった場合、橋本時代の悪夢に
比肩できないような総需要のドン引きが起き、経済はまっすぐに奈落のそこに落ち
るかもしれない。橋本龍太郎の失策を繰り返さないためには、総需要喚起策を優
先して行うことである。西村氏によれば、今の政界は総需要を喚起するにも、もは
や財源の出所がないとあきらめており、心理的に出口のない袋小路に陥っている
そうである。

 西村氏によれば、財源は三つあり、一つは国民から税金を徴収すること。二つ目
は国民から金を借りること(国債発行)。三つ目は政府紙幣発行(紙幣発行特権の
行使)だそうである。このうち、税金徴収と国債発行はすでにやり尽くした感がある
が、三番目の政府紙幣発行という財源調達手段がまったく無視されている状況に
あるそうである。方法としては、政府の紙幣発行特権行使(セイニアーリッジ)による
財源で大減税を実施するか、または、それを総需要喚起の為に投入すれば、確
実に景気は回復する。
需要が増大してもデフレ下で今まで稼動していなかった供
給能力が直ちに稼動して需要に応ずるので、決してインフレにはならない。明治維
新は、太政官札の発行という新政府の「通貨発行特権行使」により成功したのだ
と言っている。

         http://www.n-shingo.com/saisei/index.html

 小泉改革は、橋本時代の失敗の教訓を生かさず、需要を喚起する対策には消
極的どころか、国民負担を上げて需要を減退させるような政策をしている。これで
は橋本時代の失敗を上塗りして同じ過ちを繰り返すことになる。ここで、西村氏は
小泉構造改革の根本的な誤謬を指摘している。「構造を改革すれば景気が回復
する」という小泉たちの思い込みは間違いである。一般論として、デフレとは一般
物価の下落であり、この対策としては金融政策を行う以外にないのである。自分レ
ベルの知識でもこの程度のことはわかる。しかし、小泉たちは金融政策、つまり西
村氏の言う三番目の財政出動としての「政府紙幣発行」にはまったく発想が向かず
に、デフレの要因を構造のせいだけに収斂させている。そのために小泉内閣初期
では構造改革一点張りで、その一環として景気浮揚をともなわない状態での不良
債権処理を拙速に進め、景気をますます凋落傾向に追い込んだ。

         (続く)

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2005年12月23日 (金)

西村眞悟、首相待望論(5)

 
 
 西村眞悟氏は、構造改革そのものを否定してはいない。小泉純一郎、そして竹
中平蔵らが押し進める構造改革が、根本的に誤謬のもとにあることを怒っている
のである。西村眞悟という御仁を、世間はバリバリの右翼的政治家であるとか、
かなりきわどい言辞を弄ぶ失言居士だとか言って、間違った人物像を持ってしま
う嫌いがあるが、実際の彼は分け隔てなく他者を見るやさしい心根の人であり、
日本人として最高峰の国士クラスの見識を持つ偉大な人物である。そして、す
ぐれて繊細かつ有効な経済的知性を合わせ持つ、まさに得難い傑物である。日
本は今、歴史的な国家の危機に瀕している。内憂外患の極地に瀕した我が国を
救うために登場した歴史的な政治家が西村眞悟その人である。

 国家転覆を画策し、小泉純一郎を神輿に乗せて、敷島の麗道を完全破壊に導
こうとしている勢力が政権の中枢に巣食う現状は、古くは奈良時代の僧である弓
削道鏡、室町幕府三代将軍の足利義満の皇位簒奪計画に匹敵する国難に今の
日本が置かれているという認識を自分は持っている。それほど、小泉政権が主導
する今の日本は危機的な状況にある。政権中枢が姦策の砦となっている今、正
義の旗を掲げてこれを誅求できる立派な国士は、正直、西村眞悟氏しか見当た
らないのである。これを見抜いた小泉政権中枢は、西村氏を真の脅威と感じ、早
いうちにこの力を奪っておこうと考えた。それが今回の西村氏の逮捕劇である。
逮捕理由などどうでもよかったのであろう。西村氏の政治的な力を封じることが
現政権の目的である。この逮捕は紛うことなき国策捜査によるものである。心あ
る国民は現政権のこの奸意と危険性を的確に見抜いてもらいたい。今、西村眞
悟を国政の場から退ける行為は、日本の将来にとって取り返しのつかない禍根
を残すことになる。

 西村眞悟、彼の慧眼は、小泉純一郎という、歴史的に不徳な男を取り巻く連中
の奸心を見事に見抜いており、これらが国政を運営している我が国の現状を深
く憂慮している。さて、西村氏の経済的知性をこの辺で披瀝して行こう。西村氏に
よれば、景気対策としての構造改革はまったく無効であると断じている。まずイン
フレになった時を思い出すと、インフレーションとは、需要が溢れている時に供給
が追いつかなくなり物価が跳ね上がる。この時の不況とは、供給側の供給能力
が貧弱になることが原因となっており、対策としては供給サイドの構造を改革し
て、より需要に見合った多くの品物が行き渡るシステムを構築することにある。

 反対に、デフレとは、供給側はいくらでも品物やサービスを供給できるのに、需
要が少なく、品物は売れない、物価は下がる、企業の売り上げは落ちる、働く人
の給料は下がり、それでまた需要が減るという悪循環のサイクルに入る。今の日
本は典型的なデフレ・スパイラルに陥っている。この対策は需要を喚起してそれ
を増大することに尽きる。小泉政権の構造改革は、この単純明快な手順とはま
ったく逆方向のベクトルを志向している。つまり、需要喚起を行わず、供給サイド
の方にしか目を向けていないのである。これはエコノミストの植草一秀氏も繰り
返して指摘していた小泉批判の要点でもある。西村氏によれば、小泉構造改革
は、税金の無駄遣いを検証して改めることに始まり、経済の無駄をなくすること、
すなわち効率性を増して生産性を高めることを念頭に置いたものである。という
ことは、構造改革とは需要の喚起ではなく、明らかにサプライサイドだけのシス
テム改良ということになり、まったく景気回復には効果がないどころか、逆にデ
フレ・スパイラルを加速する事態を招いているのである。リストラや経済格差が
拡大し、自殺者急増や所得の二極分解が進行するという不安の中で、需要心
理がどんどん冷え込んでいるのに、積極的に供給拡大施策をとって何を馬鹿な
ことをやっているんだということである。

 ふと考えた。もしかしたら、小泉・竹中は、積極的に逆方向の経済政策を行っ
て日本経済を不況のどん底に至らしめ、日本国内の企業に、まさに第二、第三
の長銀を作ろうと画策しているのではないのだろうかと。そうすれば、弱った企
業にハエがたかるように金融外資が群がることになる。郵政民営化が国富の
外資流しだとすれば、彼らの推進する経済政策のベーシックもいわゆる「国売
り」の構造を仕掛けていると考えても間違っていないような気がする。そういう
視点で眺めると、小泉政権のデフレ加速的な経済政策は、故意に日本経済を
不況に陥れる算段であるのかと思えてくるのである。

         (続く)

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2005年12月22日 (木)

西村眞悟、首相待望論(4)

 
 民主主義的多数決で選ばれる首相は権力者であるが、世代を超え、時代を超
えた伝統的権威は時限を区切らない歴史性の中にある。だから伝統的権威は今、
現存している国民だけにある権威ではない。アメリカには伝統的な君主が存在し
ないから、国民の直接選挙で大統領と元首が一緒になった制度にしている。これ
は、最初の選挙戦で、ブッシュ・ジュニアがゴアに負けていたのをブッシュ家のコネ
と金でごまかして勝ったとマイケル・ムーアが数年前の本で書いていたように、選
挙戦の公正が疑われれば、国家を代表する元首の正統性が崩れてしまうという
欠点を持つ。

 しかしながら、日本のように歴史的伝統的な君主が存在する国家は、元首の権
威に対する信頼感は不変であり、国民は その権威で国家を信頼する土壌がで
き上がっている。ところが首相公選制とは、この伝統的権威を廃棄するという制
度なのだ。9/11日の小泉による衆議院解散は、伝家の宝刀として衆議院議員の
首を切ることができた。なぜ、これが可能だったのかと言えば、議院内閣制では、
首相は伝統的権威から任命された地位にあるからである。だから日本の首相に
は、本来は強力なリーダーシップが取れる。しかし、参議院で否決された法案を
首相自体が不服として衆議院の解散権を行使することは、法案成立によほどの
国益性と正当性がなければ日本国民は納得しないだろう。

 しかし、今回のあの性急で異常な解散劇に、国民が納得する正当性がいった
いどこにあったのだろうか。テレビや他のマスコミで、一時も休まない構造改革と
か、民営化反対か賛成かという愚にもつかないワンフレーズを繰り返し、国民を
思考停止状態に持って行き、勢いで小泉自民党に勝利をもたらしたのである。
郵政事業には国民の勤労と汗の集積である膨大な国富がある。この国富の使
い道を、何が危険かという側面をいっさい俎上に乗せず、民の力でできることは
民に任せようとかで強引に押し切った。また、民営化に当たっての危険性を、真
摯に議論し尽くして、安全な形で民営化を行おうじゃないかという、すべての議員
や経済学者の意見を徹底的にマスコミから封じてしまったのである。このように、
極限的に偏頗な状態で郵政民営化法案を断行してしまった小泉は、伝統的権
威を嵩にきて、日本の政道に大きな傷をつけてしまったのである。

 小泉ウオッチャーのある人々は、小泉を自分のイメージ操作として、マスメディ
ア、特にテレビを最大限に有効に使った天才的な人物だと評価するものがいる
が、自分の見解では、小泉にはそのような才知と器用さは微塵もない。しかし、
結果的にそういう力を行使できた裏には、アメリカの徹底的なバックアップがあ
り、特にテレビや新聞メディアには、米系資本の保険会社の広告収入による言
論統制がはたらいていたと自分は確信する。あの選挙戦で小泉に有利に動い
た力には圧倒的な米国の介添えがあったと断言してもいい。米国は、なぜ日本
の郵政民営化に対してそれほどまでに執着し、膨大な金を使ったのかと言えば、
それは年次改革要望書の「要望」を実現させて、郵政資金をハゲタカが舞い飛
ぶ国際金融市場に開放させるためである。小泉・竹中路線が進めた郵政民営
化法案とは、日本の経済ダイナミズムを賦活するためではない。それはあきら
かに米国の要求に従って郵政資金を米国に供するためだけの法案である。小
泉がこれに命を賭けたということは、日本の生命線を握る膨大な国富の流出に
命を賭けたことになる。このような売国宰相はかつて出たことがない。それだけ
ではない。この国賊宰相がやっている構造改革とは、2665年の国体伝統を誇る
我が国の国家的性格を著しくゆがめるための体制変革なのである。

 そもそも、西村眞悟代議士が9/11日の解散総選挙後に開かれた民主党両院
議員総会で、『マネーゲームの世界に国民をなだれ込ませているのが小泉なん
です。あれは狙撃してもいい男なんです!』と言った、いわゆる狙撃発言の真意
は、朝日新聞などが言うように法治主義の否定だなどという脈絡にはまったくな
い。狙撃という言葉にばかり反応して、西村氏の深い憂国真情を見て取ることが
できない状況があったが、あの発言の真意は、西村氏の政治家として、また日
本国民としての揺るがぬ良心が言わせたことなのである。

 小泉純一郎は、そもそも宰相の座に座るべき人間ではない。あの男は日本の
国体を破壊するために首相権限を最大に行使している国賊的人間である。彼個
人が郵政の民営化にどのような思惑を持っていたにしろ、日本の大事な国富を、
アメリカの奸佞邪智(かんねいじゃち)に固まった欲望に沿う形で、民営化という
衣にくるんで野ざらしにすることは、単に現在の国益に反するだけではなく、伝統
的国体に対する裏切りである。

   (続く)

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西村眞悟、首相待望論(3)

 『国民主権とはあくまでも外に対して屹立する概念なのであり、それは「歴史的
共同体としての国民」が「対外的に不可侵の権利」を有するという概念である。』
と西村氏は国民主権を定義した。であるから、国民主権とは歴史的共同体を単
位として自覚して初めて成り立ち、共同体の自覚なくしてその運営はあり得ない
とも書いている。けっして個々の国民がバラバラに主権を持っている状態を指す
ものではないと。

 西村氏は言う。君主のいない民主主義国家は大統領制で、元首と権力者を同
時に選び、君主が元首である民主主義国家は、議院内閣制で権力者だけを選
ぶ。この脈略の中で、首相公選は何かと言えば、国民が直接、首相を選ぶとい
うことであり、それは大統領制である。ということは、日本における首相公選論者
のベーシックに横たわる意図は皇統の廃絶なのである。つまり、西村氏が言って
いるのは、我が国で首相公選論を唱えて実践することは、「歴史的共同体」の縦
軸(連続性)を切断することになり、その横軸(共同体結束)を解体することであ
る。西村氏は、小泉はこれを無責任に実験するのかと言っているが、まさしくそ
のとおりであり、首相公選論は国体にとって非常に危険なことなのである。

 国民主権を尊重すると言うのなら、我が国固有の国民主権、つまり、悠久の皇
統に連なる天皇を元首とする「歴史的共同体」の不可侵を体現する「主権」には、
当然、立憲君主国としての議院内閣制が妥当であると言い切っている。まったく
そのとおりである。小泉の進める「聖域なき構造改革」が稀代のペテン的様相を
持つのは、小泉自身の政治展望に国家という概念と、立憲君主国からなる正し
い主権概念が完全に欠落しているからである。以前、自分が書いたように、小泉
純一郎や竹中平蔵の政治展望には、ミルトン・フリードマン的な世界観が色濃く
反映し、政府や国家、古い伝統群はすべて個人の自由度を犯すものとして否定
する「小さな政府」論一色で占められている。簡単に言うなら小泉の国家観とは、
新興国家アメリカの亜種国家としての日本を思い描いていることになる。

 この国家展望は、今から35年前に、まさに三島由紀夫がその卓越した洞察で
見抜いた日本の姿そのものである。

    「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
    このまま行つたら『日本』はなくなつてしまふのではないか
    といふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代は
    りに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、
    富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残
    るのであらう。」(三島由紀夫)

 これを西村眞悟流に言うならば、まさに「背骨のない日本」である。

   (続く)

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西村眞悟、首相待望論(2)

 西村眞悟氏は魂の政治家である。真に日本国家の将来と日本人の安全を考
える歴史に得がたいタイプの政治家である。現今の政治家でこの男以外に国政
を任せられる者はいないだろう。そのことは、四年前に彼が出した「誰が国を滅
ぼすのか」という本を一冊読むだけで確信して言えることである。その本の「まえ
がき」にはこう書いてある。

 政治家としての基本的な考えとは何か。それは一口で言えば
 「魂のことを心がけよ」ということである。その魂とは虚空のど
 こかにあるのではない。日本の歴史と自然の山河の中にある。
 
  そもそも経済とは経世済民であることを忘れた経済論だけが
 政治なのか。小泉内閣の聖域なき構造改革も、目的は経済回
 復にあるらしい。「ぼろは着てても心は錦」というではないか。心
 はぼろでも、金さえ増えれば政治の責務は果たされるのか。

  そうではない。私の問題意識は本書末尾でも述べるが、国家
 と民族の魂のことである。・・・・中略・・・・。

  祖国に対する愛を知らない政治家は、背骨を持つことができ
 ない。・・・この祖国への愛がなければ、今後の日本の再生は
 ない、と私は確信する。

 西村眞悟氏が述べた「国家と民族の魂」、そして「祖国への愛」という姿勢は、
この著書の随所で、そのことが単なる美辞麗句ではなく、彼の本心であること
が明瞭に記されている。また、彼の行動様式には、明らかに、日本という国家、
そして日本民族という存在の連続性と一貫性が見られるのだ。それが政治家
にはもっとも重要な資質なのである。尖閣諸島の上陸と日の丸国旗掲揚は国
家国土への愛から、拉致問題で横田めぐみさんの存在を公にして、精力的に
拉致被害者救出の力となっていることは、民族同胞への愛から。これらの政治
家としての姿勢には、個人的エゴによる集票意識や欲得、ただ威張りたいだけ
の権力志向などは微塵もなく、彼の行動、発言のすべては愛国、憂国の尽きな
い情念から出ている。西村眞悟氏の情動のすべては、純粋で尽きない愛国意
識だけから湧き出ている。

 さて、小泉純一郎の首相公選論に異議を唱えた西村眞悟氏の話にもどろう。
西村氏の著書「誰が国を滅ぼすのか」によれば、戦後構造の反省として、小泉
首相筋から出た首相公選論は、「無知と無内容」であると一気に弾劾している。
無知なのは、民主主義国家なのに彼らには「国民主権」の意味がわかっていな
いことであり、無内容なのは、我が国の伝統的な国家の「かたち」が、公選論の
前提として捉えられていないからであると書かれている。

 小泉内閣はマスコミが作り上げた虚妄の人気内閣であり、その人気の実態は、
テレビタレントやシンガー的な要素が大半を占めている。そのことは、彼の数え
切れない不用意な発言にいくつも見ることができる。たとえば大相撲における優
勝力士への総理大臣杯授与時の「痛みに耐えてよくがんばったあ~っ」などとい
うタレントの絶叫のような発言は、国政を預かるものとしては品格に欠ける。最
近も朝青龍の表彰式で、「新記録!大記録!見事だ~っ!」 と絶叫した。自分
でも呆れたのは、国会答弁で、勤務実態がないにも関わらず、幽霊社員として
厚生年金に違法加入していたとして追及された際、民主党の岡田代表に、「人
生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ、岡田さんあなたの会社もそうで
しょ?」と発言したことである。「人生いろいろ」とは島倉千代子のヒット曲である。
小泉は、国政の場で、年金という非常にシビアな問題に対して、歌謡曲の次元
で答えたということは、首相メンタリティが人気を気取るタレントと変わらないこと
を示している。

 問題は、衆愚政治のスタイルにすっかり呑み込まれてしまった国民の無知蒙
昧にもある。国民は小泉のこういう奇態なパフォーマンスに気圧されて、彼に対
する正統な批判力をすっかり喪失してしまった。その結果、9/11日の総選挙で
小泉を全面的に支持してしまい、彼の真の奸佞邪智(かんねいじゃち)を見過ご
している。国民が郵政民営化を拙速に認めてしまったことは、歴史的な国益の
毀損をもたらすことになるかもしれない。人気があれば国政を指揮する者の勤
めが果たせるのかと西村氏は問いかけている。人気があれば首相公選論は正
しいのかという命題が生まれると。小泉は、国民直接選挙、すなわち公選論で
首相を決めれば、その首相はアメリカ大統領と同様な強権を発動できる、また、
その方が国民主権との整合性が高いと考えている。

 西村氏は言う。政治制度は各国の歴史と伝統の上に機能する。従って、首相
公選は日本では「NO」であり、アメリカ、フランスではかまわない。もしかして、小
泉は国民主権を取り違えている可能性がある。小泉は国民主権の概念を、一
人一人には主権があるから、その一人一人が首相を選ぶのは当然であるとい
う考えがあるようだが、誰でもバラバラに国家共同体を代表して外交したり、治
安維持のあり方を決定できるとすれば、それは明らかにアナーキーだと言って
いる。

 まさにそうなのである。小泉・竹中路線が進めている構造改革の終局的な目
標地点は、西村氏の推定したように間違いなく無政府主義国家であり、極左的
アナーキズムなのである。さらに言うなら、それは共同体解体であり、煎じ詰め
れば国家解体を目標にしているとしか言いようがない。日本のこれまでの社会
構造の枢要は、共同体がいかにうまく機能できるかという観点で築き上げられ
てきた。国民主権という意味は内政的に個人が一人一人有していて国政の場
に発言権を持つことではない。国民主権とはあくまでも外に対して屹立する概
念なのであり、それは「歴史的共同体としての国民」が「対外的に不可侵の権
利」を有するという概念である。

       (続く)

 

 

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西村眞悟、首相待望論(1)

我が国の戦後史は、時を経るにしたがって、「日本らしさ」が刻一刻と漸減する
道程をたどってきた。平成に入って、その減衰曲線は急勾配となり、ついには、
小泉純一郎が政権を確保してから、日本という国家のエキスは、手から砂がこ
ぼれるような勢いで失われつつある。このままではわずかに残存する最後の日
本的な良心さえも滅ぶだろう。

 この国の政治家や官僚には、日本の国土と日本国民を守るという、第一義的
な発想が決定的に欠落している。日本という国は不思議な国家である。古くは、
蒙古・高麗軍が二度も博多湾に来襲した元寇がある。この時は日本全国の神
社仏閣が心を合わせ、天に向かって国家護持の祈念を行った。また、武家や
朝廷も一致団結して国防に粉骨砕身した。特筆すべきは、この時、全国の地方
武士が決起し、外敵に対して獅子奮迅の戦いをやったことである。明治維新は
欧米の技術を受け入れ、国際的な趨勢の中で、国家を富ませ、強力にするた
めにそれまでの封建的な武家中心の社会構造を、帝国主義国家に大きく転換
しなければならなかった。

 江戸幕藩体制から維新への大変革は、真に国難であったが、江戸城の無血
開城を見てもわかるように、幕府側、朝廷側ともに傑出した国士たちが出現し
て国家の崩壊を免れている。また、宮崎学氏によれば、正史には登場していな
い史実であるが、大東亜戦争が終結した際、連合国総司令官マッカーサーが
厚木飛行場に到着するにあたり、絶対に負けを認めない抗戦勢力が玉砕覚悟
で飛行場を占拠し、飛行機の残骸を敷き詰めて司令官の到着を妨害しようとし
た。米軍は、マッカーサーが攻撃を受けて厚木に着陸できなかった場合、沖縄
から飛行機を飛ばして皇居に原子爆弾を投下する予定であった。第三の原爆
投下である。この事態に臨んでこれを見事に阻止した男がいた。

 当時の土建屋の親分である安藤明である。彼は集結していた徹底抗戦の軍
人たちを説き伏せ、飛行場の残骸をきれいに撤去してマッカーサーの到着を難
なく実現させた。しかも、彼はその後、精力的にGHQの将校たちに働きかけ、
天皇の戦争責任の回避や、天皇とマッカーサーの歴史的会見の下準備を行っ
た。安藤明はフィクサーと言われ、表には出ない人だったらしいが、国体護持
のために己の力を最大限に使いきった大物であった。昭和の国士である。この
ように、日本史においては、国家が国難に遭遇すると、決まって救国の大人物
が登場して日本の針路を決定して行くことになる。それが表であろうと裏であろ
うと。

 さて、現在に目を投じてみよう。平成の今日、日本は安泰なのであろうか。小
泉政権が発足し、彼は自分でも言ったように自民党を根こそぎ破壊してしまった。
「創造的破壊だ」と言いながら、聖域なき構造改革の呼び声で、彼は国柄の破
壊を繰り返し続けている。小泉純一郎による最大の国家破壊は郵政民営化法
案の可決であろう。この法案成立のために、彼は日本的民主主義の根幹であ
る「和ヲ以ッテ貴シト為ス」の協調精神をぶちこわし、異常な執念を持って政敵
や意見の食い違う同僚を排斥した。年金問題や外交、他の重要懸案を白紙状
態にして、郵政民営化を拙速審議のままに強引な形で通過させたのである。
その方法は、衆議院でほとんど賛否両論的な僅差で可決した郵政民営化法案
が、参議院で否決されたことを見て強引に衆議院解散総選挙に打って出たこと
にあった。

 郵政民営化の十分な説明もなく、国民をだますような形で、「郵政民営化、是
か非か」を国民に直接問いただすという名目で行った。国民は郵政事業をほと
んど問題視していなかったし、切迫した改革の気分にはまるでなかった。郵政
事業そのものがどのような仕組みなのかよくわかっていないのに、構造改革だ
と銘打って、民営化を行うと言われても国民には一ヶ月足らずでは、それがど
のような意味か、また、どのように国家経済に寄与するかなどを判断する暇
(いとま)はなかったはずである。判断しようにもマスコミが民営化法案の問題
点や不可解な箇所を一切放送せず、その点を明確に指摘できる経済学者や
政治家連中をことごとく排斥するという異常な報道姿勢が取られた事実は、現
状の国政に、明らかに思想統制が行われつつあることを示している。

 この異常な状態で、構造改革は良いか悪いかの判断を投票行為に特化させ
たことは、小泉純一郎という男が稀代のペテン師であることを物語っている。小
泉が行った解散総選挙というこの行動様式は、彼が政権に着く前に語っていた
「首相公選論」の雛形的実施である。この首相公選論に早くから異議を唱えて
いた男がいた。西村眞悟代議士である。

     (続く)

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2005年12月12日 (月)

◎(続)西村眞悟代議士とエコノミスト植草一秀氏逮捕劇の裏に

 ◎(続)西村眞悟代議士とエコノミスト植草一秀氏逮捕劇の裏に   
   (彼らの逮捕には国策捜査の邪悪な意図が透けて見える)

 ◎国権の濫用が始まった可能性がある

 小泉政権の中枢部には、政敵に対する国権の濫用を行う意志が
あり、はじめにそれは、目立たないように行われたが、第三次小泉
内閣が発足して以来、それは日増しに露骨になっているとみていい
だろう。この国権濫用の濫觴(らんしょう)としては、まず最初に鈴木
宗男氏の逮捕が上げられるだろう。小泉構造改革を直接には名指
ししていないのだが、「国家の罠」を書いた佐藤優氏は、それを次の
ように翻訳して語っている。

 『現在の日本では、内政的におけるケインズ型公平配分路線から
 ハイエク型傾斜配分路線に転換、外向的には、地政学的国際協
 調主義から排外主義的ナショナリズムという二つの線で「時代の
 けじめ」をつける必要があり、その線が交錯するところに鈴木宗男
 氏がいるので、どうも国策捜査の対象になったのではないかという
 構図が見えてきた』    (同書p292~293)

 経済構造の性格転換を、単純な見方で捉えると、国家介入型から
新自由主義型に構造転換を起こしたというように、国内で自然発生
的に進んできたという見方をすると、今生起している事象の本質を
完全に見誤る。この社会構造の切り替えは、小泉政権が、自律的、
非他動的に行っているかのように見えるが、実態は外圧による国家
構造のメタモルフォセスである。これを、ひた隠しに隠したままで政
権運営を行っているのが、小泉・竹中路線なのである。

 それはさておき、ハイエク的社会とは、強い創造的な個人や企業
が主役になり、他の個人や企業の動力的牽引力になるということで
ある。「隷従への道」を見ると、政府や国家に象徴されるあらゆる全
体主義的計画主義的思考は、本来、歴史が長い間に築いた自生的
秩序を阻害し、一面的、画一的な価値を押しつけることで自由を剥奪
してしまうという考え方である。自生的秩序とは今で言う複雑系のシス
テムを念頭に置いたものである。市場の失敗を何らかの人為的コン
トロールで修復することはできないという見方は、ケインズ的な政府
介入制御の考えと対極に位置するものである。

 一方、ミルトン・フリードマン著「政府からの自由」を読むと、フリード
マンはハイエクよりもむしろ確信的な政府不要論者である。自分は、
今の日本が罹っている巨大な構造疾病、つまり構造転換は、ハイエ
ク的転換と言うよりも、フリードマン的転換と言った方がより近い気が
する。アングロサクソン流の新自由主義者たちが支配する、現代ア
メリカの思想的潮流とは、「拒否できない日本」で、関岡英之氏が書
いているように、政府の市場へのあらゆる干渉行為は、アメリカの建
国理念に反すると、はっきりと言い切っているフリードマン的思想が
完全に主流となったように思うのである。アダム・スミスの自由主義
を踏襲し、ハイエクから始まった新自由主義の流れは、フリードマン
に充分に練られてからロナルド・レーガンに受け継がれ、「小さな政
府」というスローガンの理論的支柱を形成した。いわゆるレーガノミ
クスである。

 このフリードマン流の自由主義が、現在に至るアメリカの経済潮流
であり、グローバリゼーションのベーシックとなっている。つまり、アダ
ム・スミスの現代的進化形態であるフリードマン流の経済思潮が、今、
日本を覆い尽くそうという構造改革の眼目なのである。近年、世界中
を暴風雨のように荒らし回っている金融自由化の波は、このフリード
マンの思想に支えられている。

 自由化の波という世界潮流は、蓋然的に発生したものではなく、東
西冷戦後のアメリカ一極体制を押し進めるために、マネタリストたち
が戦略的に行っているものである。小泉首相が血眼になって驀進し
た郵政民営化法案は、その成立に実は、巨大な二つの思惑の実現
が託されていたのである。一つは、今まで何度もブログ上で書いたよ
うに、民営化の直截的な目的は、アメリカの対日要求である「年次改
革要望書」に従って、日本市場への外資参入時の障壁を撤廃するこ
とにあった。つまり、政府保護の完全撤廃による郵政資金の自由化
である。これによって、簡保と郵貯資金が開放型経済系の枠組みの
中に無防備な形で放り込まれることになった。

 斯界のさまざまな人たちが指摘していることだが、小泉政権は郵政
会社の持ち株比率で、外資枠を20%以内にする安全基準の条文造
りをしなかった。成立要求の審議をのらりくらりとかわし、ついに解散
総選挙後の特別国会でも未審議のままに終わった。また郵政株式
会社は保有資金の20%しか外国債券を取得できないという安全弁
となる条文をついに入れることはなく現在に至っている。郵政資金の
キャピタル・フライト(資金逃避)や外資による侵攻に関する質問に対
し、小泉・竹中両氏は言を右顧左眄して取り合わなかった。このきわ
めて奇異と言える外資規制審議の一貫した忌避は、郵政民営化の真
の目的が、日本経済の賦活化とは別の場所にあることを示している。

 郵政民営化のもう一つの目論見は、小泉首相が再三繰り返したよ
うに、構造改革の要に郵政民営化があり、これを突破することで、す
べての聖域なき構造改革が可能になるという言い方に含まれる真意
にある。これは、日本の経済構造を上述のフリードマン的新自由主義経
済へ相転換することを指し示している。西村眞悟氏の問題発言とされ
た『マネーゲームの世界に国民をなだれ込ませているのが小泉なん
です。あれは狙撃してもいい男なんです』と言う中で、「マネーゲーム
の世界」と彼が言っているのは、フリードマン的新自由主義経済を指し
ており、マネーゲームというのは、グローバリゼーションにおける金融
工学(フィナンシャル・エンジニアリング)的な侵出を意味している。

 アメリカの言う市場開放とか、市場の自由化というものは、国と国
とが対等の国力を持ち、軍事力や財力が均衡している条件のとき
だけ、いわゆる「自由競争原理」の意味が成り立つ。実際の世界
は、アメリカだけがはなはだしく国力の点で突出していることを考え
れば、世界各国が不均衡な状況で、市場を完全自由化すれば、国
力、金融力の勝っているアメリカの一人勝ちという結果しか招かな
い。ここに門戸開放の悪どさ、胡散臭さがある。この形は、今から約
150年ほど前に黒船の威力で結ばされた、かの悪名高い不平等条
約である日米修好通商条約の形と基本的には一緒である。

 郵政民営化とは、国民が汗水流して稼ぎ、国家による安全な担保
を信じて預けた膨大な郵政資金、つまり国富が、最終的にはアメリカ
の国庫に流れて行く仕組みの構築なのである。小泉純一郎及び竹中
平蔵は国を売る政策遂行に血道を上げたのである。

 平成15年に、全国木材産業政治連盟が主催した講演会で、植草
一秀氏が行った小泉批判の中には、次のような言動がある。

 『一般的には改革派と抵抗勢力に分けられるが、中身をみると
  「亡国派と救国派」勢力という表現の方が正しいような気がす
  る。我々が日本の国益を守る。国益とは日本の物は日本人が
  持つ。これが民族自決であり、日本の資産を全部外国の人が
  持つ状態を植民地という状態で、それは避けるべきである。』


 植草氏のこの言い方は、小泉・竹中路線が体現する生の実像をそ
のまま表現しており、まさに自分たちの祖国日本を強く憂慮する高潔
な国士としての物言いなのである。このように本物の国益的姿勢で
小泉経済姿勢を糾弾できる植草氏は、現政権の売国的な方針から
すれば、非常に目障りであり、それは当然ながら、アメリカの自国利
益に反することになる。植草氏に被せられた冤罪は破廉恥罪であり、
これは本人の人格を将来にわたって否定しようとする非常に悪質な
国家犯罪である。これほど不名誉な濡れ衣が着せられたことを鑑み
れば、植草氏が現政権にとって如何に邪魔な存在であるかが窺い
知れる。植草氏、西村氏の逮捕事例を見ても、時の政権が自分たち
の目論見に邪魔であるからと言って、個人に対して検察の力を不当
に行使することは、法治国家の国是としてあってはならないことであ
る。自分は植草氏に期待を寄せる一人であるが、日本に数少ない国
益的な感性を持つ経済学者として是非ともその才能と辣腕を余すとこ
ろなく揮っていただきたいと願っている。たくさん読んだわけではない
が、今まで目に触れた植草氏の文献を読む限りにおいて、難しい部
分はわからないながらも、氏の高潔な人柄と国を想う気持がひしひし
と伝わってくる。自分の力は微々たるものであるが、植草氏の潔白を
機会ある毎に言い続けて行こうと思う。なぜなら、国難に瀕している
今の日本に、どうしても必要な経済学者だからである。

 西村氏は小泉構造改革の中身の危うさをよく見抜いている御仁で
ある。聖徳太子の時代から、民族的、共同体的な「和」を国是とする
日本人に、日本人の宰相自らが、主体的に非日本的な市場原理至
上主義システムを敷設することは、国益的観点、あるいは民族自決
の精神から言っても、売国的所業と言えるだろう。これが狙撃発言
の真意である。これを日本に導入することは、すなわち国体の否定
を意味することになる。我が国にとって死生を決する大問題である
のは、この新自由主義導入で必然的に生起する思想的な改変が、
伝統構造の徹底的な破壊を目指すことである。
ずば
り言えば、日本
において、それは皇室の消滅を要求することになる。
その端的な動
きが、小泉内閣の、「皇室典範に関する有識者会議」での、女系天
皇容認への動きである。万世一系の皇統、すなわち国体の本義を
破壊する方向性を明確に示している小泉首相は、弓削道鏡による
皇位簒奪に匹敵するような大逆罪を犯そうとしていることになる。

 小泉施政が持つ排外的ナショナリズムの根幹には、最終章として
皇統の破壊画策がしっかりと腰を据えているのだ。彼の靖国参拝は
こういう国家転覆の意図をごまかす、いわばカムフラージュでなので
ある。西村眞悟氏がこういう地獄の宰相を許すはずがないのである。
それを敏感に察知した小泉内閣中枢は、明確なターゲットとして西
村氏を国策捜査の俎上に上げたのではないかと自分は見ている。

 文藝評論家の山崎行太郎氏も言っているように、西村代議士の
逮捕は意図的な西村潰しである。西村氏の小泉批判は、上述の
流れを踏まえてやっているので、これはポピュリズムを基調として
大衆を誑(たぶら)かす現政権にとっては致命的なリスクを背負っ
ているということになる。従って、西村氏が小泉施政のインチキ性、
売国性を国民に大々的に流布する前に、可罰的違法性の範囲内
にある要件を以って、強引に逮捕に踏み切ったのである。可罰的
違法性というのは、厳密に言えば犯罪ではあるが、誰もがやって
いる軽微なもので、通常それには司法の謙抑的効果が働いてお
り、逮捕には至らない。

 これはまともな社会というもののバランス感覚というか、一種の
見識である。しかし、今の小泉政権下では謙抑主義がまったく機
能しない状況になっていて、干渉主義に移行しているということで
あろう。内閣や検察の恣意次第で誰でも逮捕できるということにな
り、それは現代版魔女狩りが開始されるということである。

 この状況では、小泉施政に批判的な愛国者は次々と毒牙にかか
ることになってしまうのではないだろうか。にわかに平沼赳夫氏や
亀井静香氏が心配になってくる。彼らは清廉であっても、可罰的違
法性狙いが恣意的に行われたら、原理的には誰でも検察のターゲッ
トになりうるからである。国民はこれから唐突に逮捕される政治家や
有名識者たちが不自然に続出したら、国策捜査の疑いをかけるべき
である。

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2005年12月11日 (日)

◎西村眞悟代議士とエコノミスト植草一秀氏逮捕劇の裏に

◎西村眞悟代議士とエコノミスト植草一秀逮捕劇の裏に
(彼らの逮捕には国策捜査の邪悪な意図が透けて見える)

 今回の西村眞悟代議士の逮捕は、五年目に入る小泉政権が推進
する構造改革の流れと決して無縁ではない。彼が唱え、実行しつつ
ある構造改革そのものが反国益的性格を持つことが強く影響してい
るのだ。ずばり言って、小泉首相の政策展望の基底には、日本とい
う国柄の破壊、つまりは、日本を日本たらしめている、多様な属性の
徹底的な解体を目指す意図が確実に出ている。

 わかりやすく言えば、この首相は、日本人特有の精神風土として、
日本人の眼に見える形で、あるいは見えない形で、すべての社会階
層に伝統的に息づいている人間同士の信頼からなる相互扶助精神、
協調的付き合い方、許容性など、国民的美質をことごとく無効なもの
とする社会に造り替えようとしている。この国柄の破壊政策は、もち
ろん精神風土のみならず、過剰すぎる規制緩和やその他の経済的
な構造改悪に及んでいる。その筆頭に上げられるのが郵政民営化
である。

 大東亜戦争に敗北し、占領軍に植え付けられた戦後民主主義体制
を六十年も続けてきたことの「負の総決算」として、我が国は今、その
代価の残額のすべてを、小泉政権によって支払わされかねない状況
に陥っている。経済に疎い自分でもよく見えるが、小泉純一郎が政権
を発足してから着実に進む日本変革は、開闢以来、国家の性格が、
今まで日本人が経験したことのないような異質性に置き換えられてき
ている。この異質性の内実にはさまざまな見解があるだろうが、今、
はっきりと言えることは、日本らしさが急速に消滅しつつあるというこ
とである。これを民族の主体的な精神相から言うなら、日本人の心の
亡失ということである。

 これらの日本亡失はさまざまな分野に及んでいるのだが、今、政治
経済に限って言うなら、この社会的変異を視覚的によく示しているの
が、2004年4月、エコノミストの植草一秀氏の冤罪逮捕であり、9/11の
解散総選挙であり、民主党議員の西村眞悟氏の国策逮捕である。植
草氏は、かねてから、小泉・竹中経済路線は国益に反するという徹底
的な政策批判を繰り返し、精力的にマスコミ、特にテレビで訴えていた
時期があった。それは単に感情論や夜郎自大的な物言いではなく、一
流のエコノミストらしくきちんとしたデータ提示と理論に裏打ちされた言
説であった。

 平成15年5月9日、全国木材産業政治連盟主催の講演「日本経済の
現状と展望」では、彼の時局分析では、かなり手厳しい小泉・竹中批判
を行っている。「改革なくして成長なし」という小泉首相の言葉とは裏腹
に政策が完全な失敗を繰り返していることを強く指摘し、景気が低迷して
いるときの緊縮財政政策の危険を訴えた。小泉路線の転換、すなわち
サプライサイドの逆効果性を指摘することから始まり、内需喚起型の
景気回復策を提起した。不良債権処理問題でも、注意すべき点は、経
済を改善させながら行うのが常道であるにも関わらず、現政権のやり
方は、経済を悪化させながら、不良債権処理のルールを不明確に行う
という、タイミングを考えない拙速性が逆の効果をもたらしているという
指摘をしている。金融の抜本的な一括処理は、日本経済が余力を残し
ていた当時は効果が出たと思うが、今のように低迷を続けているとき
は却って、企業倒産は増大し、銀行は破綻するというものである。事実、
その通りに推移しているのが現状である。

 植草氏の指摘など、国益重視の経済学者の意見を参考にするなら、
景気低迷をもたらしている小泉・竹中路線の構造改革は、景気浮揚を
いつまでもさせないことが、彼らの政策上の真意なのではないかと思
えてくる。小泉首相は以前、「丸ビルやディズニーランドが混んでるか
ら不況ではない」と言ったらしいが、植草氏はこれに鋭く水を差す。不
況とは供給力が需要量を上回り、そのギャップが大きい状態を指すと。
また、小泉施政初期から、彼の「米百俵」が悪質な嘘であることを見抜
いていた。すなわち、今の痛みに耐え、よりよい明日を目指すという名
目は、その政策遂行の愚かさ、理論の不構築、展望のなさから、現状
構造改革を継続する限り、よりよい明日などというのは幻想で、より痛
い明日しか来ないことを指摘している。

 現内閣が、故意に不況を促進するという作業仮説を立てると、小泉・
竹中路線の背後にいるアメリカの意図が見えてくる。これは決して陰
謀論でもなんでもなく実際に起きたことであるが、米系ファンドのリッ
プルウッドは長銀(現新生銀行)を10億円で買収し、1200億円を増資
した上で、2004年2月の上場時には2300億円という上場利益を得た。
不況を放置して置いて企業倒産をどんどん増やす。これを一番歓迎し
ているのがアメリカであり、不良債権ビジネスに乗り出し巨額な利益を
紡ぎだす魂胆を持っている。俗にいうところの禿げたかファンドである。
       (続く)

     参照URL
     http://www.zenmoku.jp/moku_kankei/keiei/uekusa_lec/

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2005年12月 7日 (水)

シギたつ沢の秋の夕暮れ

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 時々、柄にもなく「山家集」などを開いて西行法師の短い言葉を味わう。
下は特に好きな歌である。

   こころなき身にもあはれは知られけり

   鴫(しぎ)たつ澤(さわ)の秋の夕ぐれ

 西行法師は住まい定かならぬ漂泊の旅人である。冒頭の茅葺き家屋の
写真とこの歌とは、直接関係はないのだが、西行が好んで使う「秋の夕ぐ
れ」のフレーズを読むと、なぜかこういう写真の風景が瞼に浮かぶ。

 鴫(しぎ)という鳥をつぶさに見たこともないし、こころなきと言っている西
行自身の孤独な漂泊の気分も推し量れない。しかし、この歌には、自分の
幼年時代にまつわる、何かしら強い淋しさをともなう記憶が結びついてい
る。自分は、山菜やキノコなど、山の幸が豊かだった奥羽山系の山裾に育
ち、恵みの秋には親に連れられてよく山に行っていた。

 幼いときは両親に背負われて一緒に山へ行っていたようだ。入った場所
や、歩いた道筋などはまったく記憶にないが、断片的に複数の場所の光景
は脳裏にまだ残っている。両親や見知らぬ大人が、樹間に散らばっていて
腰をかがめながら何かを採っている姿である。たぶん、それは「落ち穂拾
い」ならぬ、キノコ狩りの情景だったのであろう。

 紅葉に晩秋の冷風が吹き付け、舞い落ちた木の葉は降り積もってくすん
だ赤茶色の絨毯を形成していた。樹林から照り刺す木漏れ日を浴びて、そ
こは異様に美しく輝いていた。おそらく、そこは谷間に位置する樹林であり、
山の陰になっていた薄暗い場所だったと思う。雲間から放たれる太陽光線
は、いつもは薄暗い深閑とした樹林を銀色の空間に染めていた。この銀色
の樹間を透して、何条もの木漏れ日が落ち葉で埋まった地面を照らす光景
は、この世にあらぬ幻想美を醸し出していた。

 その光景はあまりにも美しく幻想的で、子供心にも強く焼き付き、それか
ら五十年を経た今でもあざやかに想い出すことができる。言いたいことは、
自分はこの時、ただ耽美的な時間に入っていただけではなく、非常に強い
孤独感があったということである。そばには両親や他の大人たちがいたは
ずであるが、なぜか奇妙に淋しい孤立感があった。後年、本居宣長の「も
ののあはれ」に関心を持ち、それについていろいろ思うにつけ、この「もの
のあはれ」を感じる心こそ、日本人の美意識や民族性向を解くキーポイント
であると確信するようになった。「もののあはれ」については、本居宣長だ
けではなく、和辻哲郎や斯界のさまざまな人たちが立派な考察をしており、
いまさら自分ごときが、それについて何か目新しいことを言うつもりもない。

 しかし、ある時代に誰かが詠んだ和歌や俳句を、違う時代に見ず知らず
の人が鑑賞する場合、この膨大な時間の距離をむすぶための連続性、共
通感性というものが想定されなければ文学の内実を伝承することは事実
上不可能であろう。

 文治6年(1190年)、西行法師が73歳で自寂してから、自分が生きる
平成のこの時代まで、およそ八百年もの歳月がへだたっている。しかし、
自分は幼年時代の上述の体験を踏まえて、西行法師の例の歌をよく理解
できるし、何度読んでみても、何とも言い難い寂寞とした叙情的光景が自
己に甦ってくるのだ。芸術性の高い俳句だからと言ってしまえばその通り
だと思うが、八百年後の自分にも、当時の西行法師の高度な寂寥感はひ
しひしと深く確実に伝わってくる。これは考えてみれば不思議である。

 ところで、今、寂寥感(せきりょうかん)という言葉を使ったが、この言葉
自体は、現代という慌ただしい時代にはもはや死語と化しているのかも
しれない。情報化、高速輸送化がめまぐるしく発達し、人々は自由にスピ
ーディに空間を移動することができる世の中になった。人々はこれが文明
の進化だと任じている。しかし、なぜだかわからないが、昔、科学に幻想
的なバラ色のユートピアを夢見た当時のような幸福感はいっさいわき上が
らない。情報化、高速化が世界に普遍性をもたらすに従い、人々は寂寥
感を味わう暇(いとま)さえ放棄しなくてはならなくなった。

 西行の時代と現代という二つの時代には、環境や時代感覚において大
きな隔たりがある。もっとも大きな隔たりは、心理的な時間感覚の差違で
あろうか。効率を優先する今の時代は、心理的な時間感覚さえも凝縮す
る傾向にある。人間の心は、本来はさまざまな景色に彩られているはず
である。ここに効率的な時間感覚を優先させたら 、必然的にその多様な
いろどりをその場の価値観で取捨選択してしまうことになる。その中でも
確実に棄てられてしまうものの一つが寂寥感なのである。なぜならこれ
を持ち続けることは負け犬を意味するからである。その判断は、「時間を
有効に使えない奴」という査定である。つまり、本来は人間として高貴さ、
優雅さを獲得するために絶対に必要な時間、これを、内面を醸成する時
間と言い換えてもいいが、これを持つことは現代社会では罪悪なのであ
る。

産業革命をターニングポイントにして、この革命の波に乗れた先進的な
諸国は、豊かな工業製品、人工的な住環境、多種多様な情報を手にす
ることができた。しかし、それと引き換えに内面の時間感覚を極端に変
化させてしまった。この事象について人間はかなり無感覚である。心理
的な時間の覚知は主観に依拠しているので、それを計量的に客観化で
きないということは問題をむずかしいものにしている。大方は産業革命
以前の世界を、漠然とではあるが不毛で退屈な時間に支配されていた
と見ている。

 そのように、当時の時間感覚をネガティブなこととして見る気持には、
現在の時間感覚が、前提として「普通」のことだという考えが含まれて
いる。歴史という流れの中で、時代の精神的な価値を考察する場合、
現在だけを特化して絶対化することはできない。従って、産業革命以
前の時間と現代の時間は相対的な関係しか持ちえない。その脈絡か
らは「退屈で不毛」な時間とは、効率と合理性に収斂した現代時間に
価値をおくか、はたまた、静けさとゆったりした空間の時間に価値をお
くかで見る位置が変わる。思考上の作業仮説としてこういう方法があ
る。西行の時代に生きる人間と、現代文明社会に生きる人間の自己
確認、つまり日本人としての自己同一性を得るためには、どちらの時
間帯に属することが日本人として最適なのかという試論を立てるので
ある。深く考えなくともこれは自然に見えてくる。方法論としては、日本
の歴史や文学史を俯瞰すれば、日本人に決定的に付随しているある
一つの性向をたどれば充分である。それこそが「もののあはれ」という
ものである。

 今、世界では、アメリカが押し進めるグローバリズム、つまりは新自由
主義の台頭を受け入れてきているが、この潮流は市場原理至上主義で
あり、人間不在の世界を指向する。ここでは主人公が人間の精神ではな
く、流動するマネーだけである。これは人間の自由や主体性をマーケット
にゆだねてしまうという機械論的な世界であり、もっとも不自由な社会構
造なのだ。この感覚を人間の精神生活に介入させると、人間は夢を見た
り、本源的な感動を得られなくなる。これを日本人に当てはめれば、グロ
ーバリスムというのは、日本人から芳醇な時間を奪い去り、その内面に
ある貴族性を剥奪してしまう悪魔の潮流であると断言してもいい。本物
の人間らしさや時間の豊饒性を取り戻すこと、すなわち、日本における文
藝復興を求めるなら、グローバリズムを命を懸けて否定するべきだと考え
る。

 長い伝統に裏打ちされた民族の精神からしか、本物の文明時間は取り
戻せないのだ。今の国際市場には、「神の見えざる手」などというものは
存在しない。そこには、みずから進んで「高貴なる時間」を棄て去った金
の亡者たちの薄汚れた手があるだけである。アダム・スミスの時代のよ
うに、人間が神や他人を素朴に信じられた頃ならともかく、今、勃興する
グローバリゼーションの波は、働く人間(ホモ・ファベル)として、遊ぶ人間
(ホモ・ルーデンス)として、経済的人間(ホモ・エコノミクス)として、人間と
いうものの、種々の要素によって築き上げる、すべての制度や文化を破
壊するだけである。国際市場という、国家も民族も伝統も文化もないとこ
ろにできる、観念的な金融市場、そのような人間の徳性や規範を無視し
たところにできあがる自動調節機構(神の手)などというものは、ホッブ
スの自然権と同様に、日本人には思いっきり胡散臭いのである。

 六本木ヒルズに寝泊まりして最高級のワインを呑む、いわゆる勝ち組連
中に寂寥感を求める意識はあるのだろうか。生存競争に負けるからないに
に決まっている。ないのにセレブとはこれいかに。現代の金銭貴族は時間
の奴隷である。彼らの眼には、魂の漂泊貴族・西行は究極的な負け犬と
して映るのだろうか。西行法師は、冒頭で例にあげた短い句で実に興味
深いことを示唆している。

  「こころなき 身にもあはれは知られけり」

 つまり、自分のような卑賤な家なしでも、もののあはれは知っているぞと、
強い謙遜の中にも高貴なプライドを示している。このことは、この時代には
高貴な身分の者たちの専売特許として「もののあはれ」があったというこ
とである。どうであろうか。現代のセレブたちにとって、もののあはれや
寂寥感というものは、絶対に忌避すべき貧乏人、すなわち、物乞いの世
界を意味する恐怖の対象となっているのではないだろうか。おそらく、ヒ
ルズ族のホラエモンとかドザエモンにとっては、宮中歌会の場面などは
厭うべき無駄時間としてしか捉えられないはずである。ここで、彼らが一
旦、虚業最前線から退き、有り余る金と有り余る時間を掌中にした時、
彼らが「消費する時間」の豊かさとはいったいどんなものであろうか。そ
こで経験する彼らの時間とは、西行法師が得た無量の精神空間とは対
蹠的な空間にあるものなのだろう。すなわち、それは内面の乞食(こじき)
である。

 現代技術文明というものが内包する情報の画一性、反自然性、拡大主
義、心的時間感覚の加速性等、これらの性格は人間精神の沃野を破壊
する暴力性を付随させていることは深く考える必要がある。梅棹忠夫の
文明史観に倣えば、文明とは種々の文化や種々の技術体系による装置
群の総体を言う。そうであるならば、この装置群の中には、人間精神の
沃野を圧搾しないための安全弁を設ける必要があると考える。その鍵と
なる要素が時間感性である。しかし、これは現代文明の効率性、合理性、
激越な競争性などに背反する性格を持つので話はやっかいである。

  寂寥感というものを、ただ単に、さみしげなこと、孤独なことという風に
とらえて、そんなものはなくても別にかまわんではないかと思う向きもある
だろう。しかし、そこが現代という時代の陥穽なのである。日本人特有の
この寂寥感というものは、やはり日本人特有の「もののあはれ」に通じる
民族のDNAに刻印された重要な性質なのである。これが日本人に宿る
ことによって、我々は春の桜を観賞し、秋の照る山もみじを鑑賞できるの
である。そして、時には赤穂浪士の忠節に涙することができるのである。
また、時代を超えて先人たちの息吹を感じることができるのである。寂寥
感は日本人の美学的性質の核を形成するものなのである。

 日本人が、寂寥感を放擲したら、萬葉や古今和歌集の世界がほとんど
理解できなくなるのは理の当然と言えるだろう。それを失えば、特に季節
の虫の音を愛でるなどという日本人固有の感性領域はすっかり消滅して
しまうだろう。ただ・・、理屈としてはそうであるが、事実上は消滅していな
いのである。夏になれば多くの人たちが風鈴や虫の音を楽しむし、秋には
スズムシやコオロギの鳴き声を聴き、ススキの穂に哀歓を見る。冬には松
ヶ枝に嫋々(じょうじょう)と吹き付ける風の音を聴く。この自分にしても、
西行法師によってつづられた一片の言の葉を媒介にして、今の体験とし
て正確にその意味を感受しているのである。この事実は何を意味するの
だろうか。これを掘り下げた場合、もしかしたら、日本人の民族性の一端
を垣間見ることができるかもしれない。

 時の長い河をへだてて伝わる情念や情景を再現可能にさせているもの
こそ、日本人に特有の「もののあはれ」ではないだろうか。「再現」と言え
ば、科学や物理学などの実験的な再現性をイメ