戦艦大和(5)◎末期の眼と歴史の背骨(二)
戦艦大和(5)◎末期の眼と歴史の背骨(二)
浮上せよ大和、祖国蘇生のために
◎末期の眼と歴史の背骨(二)
吉田満は、昭和27年8月に発行された「戦艦大和ノ最後」の中で、
大和沈没に際し、重油の海に投げ出され、極度の疲労と海水の寒さ
で、まさに凍死寸前にある極限的な状況の中、急激な意識の透明性、
静寂性を体験していることを記している。その時のことをこう書いてい
る。
『フト思フ 貴重ノ時、眞ノ音楽ヲ聴キ得ルハ、コノ時ヲ措キテ
他ニアルベキカ 聴クヲ得ベシ ワレ今素直ナラバ必ズ聴クヲ
得ベシ 類ヒナキ一瞬ヲ得ベシ
-ーー 空白 死ノ如キ静寂
サラバワレ、自ラノ音楽ヲ持タザリシカ カノ愛着、カノ自負、
スベテ偽リナリシカ ーー 待テ、今聴キシモノ、胸ニ蘇リタル
モノ、何ゾ
マサニシカリ、「バッハ」ノ主題ナリ 耳馴レタル ワガ心ノ
糧ナル主題ナリ 』
(昭和27年版ではp107、昭和56年版ではp113にある)
吉田満は、後の昭和56年の改訂版では、この箇所の「バッハ」ノ
主題ナリの箇所に、『耳馴レタル ワガ心ノ「無伴奏ソナタ」ノ主題
ナリ』と曲名を付け加えている。死に直面し、最終的な生存への諦観
を持った時、吉田満の脳裏には、J・S・バッハの「無伴奏バイオリ
ン・ソナタ」が去来した。この体験は、末期の眼と言うには不正確か
もしれない。なぜなら視覚的な意識の変容ではなく、自らの内面に音
楽を聴いたからである。彼は、末期の状況に臨んで、自らがかねてか
ら愛好していたバッハの旋律を心静かに自分に蘇らせたのである。そ
のソナタが、どの組曲にあるどの曲なのか、吉田満が亡き今となって
は永久に知る由もないが、それは問題ではない。彼にバッハが蘇った
ということが私にとっては重要なのである。
吉田満のこのエピソードに私が強く惹かれたのは、私自身も似た体
験を持っているからである。私の場合は、ある病気で呼吸不全に陥り、
余命が持つのは今日か明日かという時に至ったとき、完全に死を観念
したことがある。その時、不思議な静寂に包まれたように気分が落ち
着いて、呼吸の苦しさが軽減し、やはりバッハの音楽が静かに自分を
とらえていた。その曲は「フーガの技法」であり、晩年のバッハが未
完成で終えた最後の旋律であった。私もバッハが特に大好きで、その
音楽を心の糧だと思っている。吉田満とは状況が全く違うが、彼の末
期の経験は、死の深淵を覗いた者の忘我から出たものだということは
わかるのである。戦艦大和の存在は、日本的霊性の具現を強く感じる
とともに、頗る神秘的でさえある。そして、その格調高い存在感は、
人類至宝の音楽芸術であるバッハにも共鳴する神秘性を持っているの
である。従って、吉田満が大和の轟沈場面に遭っていた時に、末期の
忘我の中にバッハを聴いたことを書いていたことには何ら違和感も感じ
ないどころか、戦艦大和の最後に際しては、実に調和的なエピソードで
あるという印象を受けたのである。
末期の眼は、それ自体が人間というものを根源的に問う意味では非
常に興味深い一つのテーマなのであるが、ここでは戦艦大和が主題で
あるから、それに即してこの話題を関連付けることにする。私が今、
言おうとしていることは、人間の感情の中で、ふと稀に湧いてくる非
個人的な感情のことである。それは無論、末期の眼だけではなく、前
述したデジャ・ブ心理やプルースト的な現象など、人それぞれに、い
ろいろとあるに違いないのである。それがどんな類のものであっても、
共通して言えることは、それが非日常的であり、没我的であり、視野
狭窄的な現在性を越えている感情であるということなのである。
その非個人的、超個性的な感情も、結局は個人が感じているという
部分では、すべて個人的な感情に含まれることになるのであるが、言
いたいことは、私的な感情のほかに、個を超えた、より大きな次元の
感情の存在を自分なりの言葉で示したかっただけである。かつて、こ
の超個人的、超個性的な感情に強い興味を持ち、さまざまな文学者や
世界の偉人などを、その感情だけに焦点を当てて特異的に、体系的
に研究しようとした作家がいる。それはコリン・ウィルソンという英国の
作家であり、彼は今から50年くらい前に「アウトサイダー」という著書で
一躍有名になった人である。彼の博覧強記な興味の対象はあらゆる
分野に及んでいた。彼は、非日常的なその意識の拡大を、人間心理
の未知の機能領域として当時、X(エックス)機能と呼んでいた。
(続く)
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