« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »

2006年3月30日 (木)

自爆テロも特攻も米英なくしては生まれなかったのだが・・。

 今、イラク国内は内戦状態にあるようだ。暫定政府ができて、
一応は選挙経験を有した政府になったが、とても安定した政府
とは言いがたいお先真っ暗な状態である。イスラム教シーア派、
スンニー派の宗派対立は、もはや内戦といっていいほど激化し
ており、駐留米軍に対してもイラク人の怨念は増大している。混
沌、無秩序社会が強まるばかりの現状である。本格政権樹立ま
でにはまだまだ遠いだろう。自衛隊はもう関わらないほうがいい。
アメリカの同盟国家とは言ってもイラク侵攻に加担する道理はな
い。

 昨日のニュースで、国内の六割を占めるシーア派の一部政府
組織が、スンニー派の国民を捕まえて拷問したり、殺したりして
いる状況を報道していたが、我々日本人では到底考えられない
ような凄惨な拷問と殺しをしているようである。生きたまま、頭に
回転しているドリルの歯を刺して殺したり、股から首にかけて一
直線に切り裂いたり、無残この上ない殺し方をしている。この人
たちは、わが国の特攻のみならず、シナで起きた通州事件も参
照しているのか。

 アラブの民は、もともとベドウィンと言って、家畜を放牧しなが
ら、あちこちを行き巡る不定着の生活を送っていた伝統がある
から、農耕社会的な日本民族とは当然ながらかなり性格は違
っている。我々日本人から見れば、他者や生き物に対して、残
酷になる時は徹底しているのである。遊牧民の伝統生活にお
いては、家畜を屠殺し、骨を断ち切り、皮を剥ぐ習慣が身に染
み付いているから、彼らはナイフの取り扱いが巧みだし、血に
は慣れているのだろうが、同胞に対しても似た感覚でできると
いうのだろうか。

 私自身、サウジアラビアで七ヶ月暮らしてみて、周辺アラブ国
のアラブ人と一緒に働いた経験があるが、彼らが怒ったときに、
尋常じゃないものを示したことは記憶に残っている。宗教的な侮
蔑を感じた時や、親を馬鹿にされた時などの彼らの怒りは大層
凄まじいと現地到着時に聞いていた。自分はその方向で彼らと
トラぶったことはないが、給料計算の誤解で恨まれたことは一度
ある。私は当時、プラント・エンジニアだったから、装置設置関係
の仕事でしかアラブ人と関わらず、金払いのことにはまるでタッ
チしていなかった。私が使っていたあるアラブ人は給料を私に減
らされたと誤解してしまった。

 勘違いだということを説明するために、拙劣なアラブ語で必死に
食い下がってはみたが無駄だった。そのあと、私はたちの悪い日
本人として割の合わない弾劾を受け、ナイフまでちらつかされて
往生したことがある。だからこそ、最近騒ぎになった回教創始者で
あるマホメットの風刺画に、アラブ社会が全体的な怒りを示した時
は、まさにさもありなんと思った。信仰心が篤いことは尊敬に値す
るが、我々の育った教育環境や神道的社会感性からすれば、信
仰的な部外者に対しては許容性がかなり狭いと感じる。その不寛
容は今の宗派間対立に顕著に出ている。

Saudihiro2
(SAUDI ARABIA RIYADH 郊外にて 後ろの動物はベドウィンの羊 1980年)

 私個人は、イラクに対して、アメリカの一方的、かつ暴虐な軍
事侵攻が今日の混迷の事態を招来したことについて、大きな憤
りと同情を感じている。しかし、今、生起しているこの宗派間対立
が、あるイラク人が述べていたように、アメリカ及び、イスラエル
諜報機関の画策であるとしても、(多分そうなのだろうが)同じ民
族同胞に対してここまで憎悪と残虐性を示すことには根底から抵
抗感がある。不思議なのは、アメリカの暴虐性を心底から感じて
いるはずのイラク人なら、宗派の違いを超えて心を合わせるのが
普通だと思う。同じ歴史的な逆境に生きるイラク人であれば、む
しろ団結して当然の成り行きであろう。それがたとえ、西側の諜
報機関の画策があったとしても、なぜ憎悪を増大する反対の方
向に行くのか理解しがたい。それだけ、謀略的破壊が巧妙だと
いうことなのか。アメリカの侵攻意図は、イラクに軍事的橋頭堡
を築くことによって、石油利権確保とイスラエル共和国防衛とい
う二つの意味合いがあるのだろう。

 聞くところによれば、少数派であるスンニー派アラブ人は、前フ
セイン政権時の裕福な北部アラブ人が多いそうである。その権
益を守ろうとする一部北部のスンニー派が、フセイン政権壊滅後
に恨みを晴らされていて、あとの大多数のスンニー派はそのとば
っちりを受けているのだろうか。しかし、そうだとしても正直、残酷
すぎると思う。これが生命の育たない砂漠で生き抜いた民族の正
直な姿なのだろうか。この辺は、緑溢れる豊穣な生命空間で歴史
を育んできた我々日本人がうかがい知れないところである。

 これはアラブ人を差別しているわけではない。アラブ人は日本人
とは歴史も民族性も大きく異なると言っているのである。私がアラ
ブ過激派の自爆テロと日本の神風特別攻撃が質的に異なると考
える所以はこういう歴史性の違いにもあるのである。精神風土が
違うのである。この差異が環境風土から来ているのか、人種的な
血脈性から来ているかはわからない。アラブ人は宗教の民族だと
は言えるが、決して和の民族ではないのだ。そういう違いを持った
アラブ人が、日本の特攻を取り入れて自死攻撃をやることは理解
はできるが、それが特攻隊員の末期の精神性と同質であるという
ことは断じてない。自爆テロは行為の始めから完結に至るまで血
なまぐささが付きまとっている。

 アラブ人も、マホメットが布教するまでは異教徒だったはずであ
る。布教が浸透してイスラム教徒になったのである。彼らの信じる
神の経綸の中で、異教徒にも改宗させてアッラーの偉大さを広げ
ていく展望があるとするなら、そして、テロ行為が新たなる時代の
あらたなる戦争形態だとしたら、その「無差別性」が未来の回教
徒を殺しているとはなぜ考えないのだろうか。そういう観点からも、
人の命を無差別に奪うことは、はたして神の所業に適っているこ
とだろうか。はなはだ疑問である。

 イスラム過激派の自爆テロと特攻隊を、どっちも同じ戦争行為
じゃねーのか、という、「戦争」という単一概念で括り、同質性を
アピールする感覚は、小泉純一郎の単純きわまる愚劣な二項
対立とどこかしら共通した愚昧さを感じるのである。余計なこと
だとは思うのだが、アラブ人には祖国感情が必要だと思う。彼
らのそれに相当するのはアッラー一筋であろうが、現実に国家
が危殆に瀕している今、祖国感情を盛り上げて真の敵アメリカ
に反旗を翻して欲しい。

 イスラム社会が横暴覇権国家であるアメリカを憎む気持ちは
よくわかる。歴史的にも米英のアラブ侵略は是認できるものは
何もない。英国の有名なT・E・ロレンス(アラビアのロレンス)は
中東地域を好き勝手にかき混ぜたイギリスの手先であった。ま
た、特にアメリカは人類が産み落としたニムロデ王の再来であ
る。アメリカのユニラテラリズムとはバベルの塔そのものにほか
ならない。傲慢の極地を行く国家である。白人五百年の侵略史
の中で、白人侵略帝国の総帥国家であるアメリカにまともに戦
いを挑んだのはわが日本だけである。アラブ人が終戦までの
日本を英雄視してもそれは当然のことである。

 対アメリカという意味では、私はイスラム社会にシンパシーを
持つが、無差別自爆テロという、ある意味哀しくもあり、残虐き
わまる報復方法しか取れないことと、わが国の特攻を同一視す
ることは先人たちの究極の武士道精神を汚すことになると考え
ている。特攻も自爆テロもどっちも「戦争なのだから」という不毛
のカテゴライズは、わが国の戦後を席巻したあのニヒリズムに導
くだけなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月26日 (日)

自爆テロと神風特別攻撃はまったく別物

  つい先日のことだが、ニュースで、イランの自爆テロ養成組
織に触れていた。その養成機関の女性リーダー、ラジャエファ
ール書記長は、「我々のグループの最大の目的は殉教の文
化を広めることだ これは神風特攻隊をイスラム教の言葉に言
い換えたものである」と断じた。

 このニュースは何度か繰り返して流されたから、観ていた人
も多いと思う。自爆テロという言葉が世界の人々に重大な意味
を帯びてしまったのは、例の2001年、アメリカ合衆国、ニューヨ
ークにおける世界貿易センター・ツインビル及びペンタゴンへの
同時多発テロ事件である。したがって、この「自爆テロ」という特
別の意味を持つ流れの中で、イランのある組織が「自爆テロリ
スト」を養成しているというニュースは多くの国民の耳目を引い
たに違いない。

 しかし、どのニュースキャスターも、新聞も、この自爆テロの性
格が日本の神風特攻隊になぞらえて言われたということに敢え
て反応していないのはなぜだろうか。私はこのニュースに対する
日本人の無反応を、非常に深刻な精神の病気だと考えている。
テロリスト養成機関のリーダーは、はっきりと、自爆テロは殉教
の文化であり、それは神風特攻隊をイスラム教の言葉で言い換
えたものだと断定している。つまり、わが国の特攻隊が行った、
体当たりの「特別攻撃」が、イスラムの自爆テロと同一次元の
ものであると言っているのである。

 このニュースを聞いた日本人は、それを、なるほどと頷いて聞
いていたのであろうか。おそらく反論の声が聞こえなかったこと
が、多くの日本人がそれを首肯していたことを裏付けているの
だろう。私はこのニュースを聞いたとき、即座にこう思った。日本
は、すぐに政府スポークスマンを通じて、例の言葉を語った組織
とイラン政府に厳重な抗議をしなければならないと。

 理由は、日本の神風特攻隊とイスラム過激派の自爆テロには、
ほとんど共通性がないということである。これは、その行動形態
も、突っ込む精神も、それに至る背景もまったく違う行為なので
ある。まず、自死という部分では似ていると思うかもしれないが、
その解釈に当たっては、両者は似て非なるものである。自爆テ
ロは殉教、特攻は殉国、イスラムの場合は唯一神アラーへの帰
依から、日本の場合は皇国への帰依からという差異はあるが、
両者とも帰依する対象を持つ宗教的情熱が自死をもたらしたも
のであるから、ほとんど同じ死の意味を持つという論調が優勢
である。

 違うのである。宗教的情熱という共通ワードを持ってきて、強引
に両者を同質のものと一括りにしている論調は、あまりにもイス
ラム社会と大日本帝国を理解していない、いわば無知と言って
もいい話なのである。

 手元に一冊の本がある。題名は「カミカゼの真実」、副題は「特
攻隊はテロではない」というものだが、著者は須崎勝彌氏、光文
社の刊行である。

VFSH0685

この本の作者は、元海軍飛行予備学生で特攻隊に居られ、戦
後はシナリオライターとして大映や東宝などで「人間魚雷回天」
や「連合艦隊」などの作品を手がけた人である。氏がこの本を執
筆する動機に至ったのは、立花隆によって、特攻隊と自爆テロ
リストが同一次元で語られていたことに抗議するためであったと
述べている。自身も特攻兵であったことから、本物の特攻隊の
心や魂を共有した側から、どうしても自爆テロと特攻の同質性
のイメージには我慢できなかったようである。

 この真摯な訴えは、当然、今回の例のニュースにも当てはま
るものであるから、氏の見解をお借りして、一応このブログにも
書いておきたいと思った。立花隆はかつて「文藝春秋」誌に、
イスラム原理主義の過激派の自爆テロ攻撃の源流も、日本赤
軍のテルアビブ空港乱射事件にあったと書いているそうである。

 日本赤軍は岡本公三を除いて、乱射した二人の日本人は手
榴弾で自爆死した。それまでの中東には自殺戦法という発想
はなかったが、これがアラブ人を感動させ、それ以降は自爆テ
ロが中東地域に発生した。標的はもちろんイスラエル共和国で
ある。立花隆はこのテルアビブと、日本の特攻と、あの9.11の
同時多発テロを、宗教的情熱というキーワードによって同じ文
脈の流れに組み込んでしまった。日本赤軍の革命闘争と、イ
スラム過激派の自爆テロと、神風特別攻撃隊、これら三者の
虚妄の系譜が出来上がってしまい、当の日本人がこの錯誤の
ロジックに飲み込まれている。

「現人神(あらひとがみ)の 支配する神の国で育った若者たち
の熱狂的な愛国心は、テロリストたちの宗教的情念に通ずる」
という立花隆の文脈に対して須崎勝彌氏は真っ向からこう言
っている。「熱狂的な愛国心とはマインドコントロールをされた
状態を意味するようだが、大正生まれの出陣学徒はそれほど
までに貧しかっただろうか。理性はそれほどに脆かっただろう
か。感性はそれほどに粗野だったのだろうか
」と。続いて次の
ようなことを書いている。

 まず、突入形態であるが、テロリストが法悦境に浸りながら
貿易センタービルに突入したという立花の解釈は妥当だろう
か。満席に近い乗客を乗せた機内は、阿鼻叫喚のパニック
状態であり、中にはコックピットを奪取しようとした動きも起こ
ったに違いない。悲鳴と怒号が飛び交う機内で、テロリストた
ちが法悦の妙味に浸るなどということは到底無理であったこ
と。

 ここからは私の意見を言うが、「攻撃的」な殉教がかろうじて
成立する状況とは、己の宗教を冒涜し、己の宗教を殲滅する
意志で攻めて来る敵に対して行う行為のみである。そのため
に、いくら異教徒であるとは言え、イスラムに敵意を持たない
一般の人々を巻き添えにする殉教行為には純粋性や大義は
微塵もない。テロの犠牲者になった三千数百名の人々の内、
いったい何人がイスラム社会を敵視していたのだろうか。また、
貿易センタービルにいた五万の人間は、憎いアメリカ人ばか
りではなかったはずである。

 一方、わが国の特攻は空中特攻、海上特攻、水中特攻、な
ど数種類の特攻形態はあるが、たとえば250Kg爆弾を搭載し
たゼロ戦特攻を見ると、搭載爆弾の重さで殺がれた速度で、
迎撃射撃や艦砲射撃の回避行動もままならない状態で一気
に敵艦に向かって行った行動は、ハイジャックし、迎撃戦闘も
なく多くの人間を巻き添えにして行った自爆テロ機とは大きく
状況は異なる。わが国の特攻作戦はあくまでも戦争行為であ
り、敵国の一般国民は一人も巻き添えにしていない。本土防
衛の最終的な手段として、そして大義に運命を投じる日本人
の形として、極限的な状況で取った戦法である。形態的にも
まったく違うのである。

 また突入時の精神的な様相は、自爆テロは報復の憎悪を込
めた殺意、すなわち過去の経緯に向かっているが、特攻は
報復の意図ではなく、国の存続、民族の存続を願うこと、つま
りは未来を見つめて行っている。どっちも血なまぐさい殺人で
はないかと言う者はいるが、行為の意味において両者はまっ
たく異なるものなのである。突入死するゼロ戦の搭乗員は憎
悪に凝り固まった殺人者ではなく、マインドコントロールされた
刺客でもない。目的は殺人ではなく、敵戦艦や空母の戦力の
殲滅であった。貿易センタービルは西側世界の経済の象徴か
もしれないが、決して反撃してこないただの建物なのである。
しかも、中にいる生きた人間は軍人ではない。これを知りなが
ら、敢えて自爆攻撃に至る精神状態とは、純粋な宗教的法悦
に近いことだとは到底思えない。宗教的パッションに浮かされ
た洗脳状態と考えたほうが理に即している。それは殉教とい
うよりも殺戮そのものを目的にした殺意である。イスラム宗教
そのものはカルト体系ではないにしても、解釈次第ではどんな
宗教も過激なカルトに移行する。

 特攻隊員の末期の精神状態をうかがえる遺書は比較的多く
残っている。靖国神社発行の「英霊の言之葉」などにも書かれ
ている。それを見る限り、彼らの末期の心境は、武士が切腹す
る心境に通じる静かなものである。澄んだ心で祖国や故郷、家
族の行く末を想っている。これはほぼ祈りに近い心象風景であ
る。このどこに、無差別自爆テロの血なまぐさい気配があるとい
うのだろう。自爆テロの発想は特攻を意識したものではあろうが、
その性格はまったく異なる空間に属しているのである。

 今回のイラン・テロ養成組織のリーダーの殉教文化による
自爆テロの説明が、神風特攻隊と同位同列に語られるのを
黙認してはならないと思うのである。これを同じものとして看
過している日本人は、心も虚妄の太平洋戦争史観の醜悪さ
に染まっている。私が言う虚妄の太平洋戦争史観とは、大東
亜戦争史観を無理やり捻じ曲げたアメリカが、戦勝国の傲慢
性によって捏造した、極東国際軍事裁判思想(東京裁判史
観)の別名である。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006年3月24日 (金)

世界一を喜んだこの爽快な感情の正体とは?

 今回のWBC戦に日本人はなぜかくも興奮し、かくも喜んだ
のだろうか。しかし、マスコミの論調にはほとほと呆れた。不
思議というか、なんだかなあというか、戦後、一貫して局是
が左翼的偏向報道コチコチであった各テレビ局のニュースキャ
スターたちが、イチローや王監督の「日の丸を背負って戦っ
た」という説明を誇らしげに言っていたことである。

 おいおい、それは、一貫して日の丸を忌避してきた局是
に真っ向から背く話じゃないのかと、私は突っ込みを入れ
たい思いであった。アンタラは、国民の大多数が野球ナショ
ナリズムを賞賛すれば、今までの報道姿勢を裏切って、高
らかに日の丸讃歌を歌うのかい。しかし、あれだけ頂点ま
でホリエモンを持ち上げて置きながら、一年も経たないうち
に石川五右衛門みたいに彼を大逆賊に落とした実績を見
れば、マスコミにはすでに定見も良識も皆無になっていると
いうことが良くわかる。巨大なる変節漢である。したがって、
局是である左翼視点さえ一貫しない昨今になってきたとい
うところだろう。中曽根康弘御老公も目を剥く風見鶏だ。

 マスコミはすでに左翼的ではなく、もっとたちの悪い無規
範、無節操漢に成り下がってしまったのである。こんな愚劣
なものに、毎日人々の視神経、聴覚神経を通して何らかの
情報を入れられたんじゃ、国民が愚民化にまっしぐらに進行
していくのは仕方ないことだ。マスコミ催眠で国民は思考を
阻害され、正常な判断力をすっかり喪失した。その結果、国
民は小泉純一郎という狂気の破壊者に政権をすっかり委ね
てしまった。そのために、昨年どんな国家毀損が起こったの
かと言えば、一言では言い足りないほどひどいものである。
国民は、相当以前から、いったいどれだけの国柄破壊が起
き、今現在もそれが加速的に進行していることを自覚する
知性も洞察力も失っているのだ。その話は今後も続けていく。

 それはさておいて、戦後、昭和という時代は、戦前の伝統
的日本の内実が時を経るにしたがって緩やかに漸減してき
たが、そのカーブは平成に突入してから急激に下降曲線を
描いた。失われていく国柄でもっとも顕著で深刻なもの、そ
れは「公」というものである。かつては、この日本に公徳心と
いうものがあり、人々は廉恥、すなわち、他者に対して、ある
いは自己に対して恥ずかしいという気持ちを知る心がちゃん
とあった。そのために社会にはほとんど深刻な犯罪は生起
しなかった。ちょっと前までは、小学生も女性も夜遅くまで外
を安全に歩けたのである。

 今、社会の安全度合いがどうなっているかは、説明するま
でもないだろう。国際化の時代にあって、かつては当たり前
だった「安全と水はただの神話」が崩れるのは時代の趨勢
だと言われてからも、またかなりの時が過ぎた。日本人は経
済的な低迷のせいで精神の退嬰が起きていると表面では言
っているが、実はこの深い閉塞感は、社会の変質に起因し
ているのである。戦後、もっとも深刻な社会の変質とは公の
消滅なのである。

 ある領土内に、複数の人間が居住していて、法律体系が
あれば、いわゆる「公」なるものができるということはない。
「公」というものは場所ではなく、掟(おきて)そのものでもな
い。「公」というものは民族が歴史の中で積み上げてきた、
いや、歴史の中でさまざまな試行錯誤を経て個々の人間の
内面に沈潜させたモラルの顕在化を社会という枠に集合さ
せ、認知された規範体系なのである。すなわち個々が捉え
た道徳観念を、各々の人生や、先祖からの伝承の中で内
面化し、醗酵し、それを他者と確認しあって作り上げた集積
としての内面である。

 そこには国土と個人の関係性、他者との関係性、歴史と
いう時間軸との関係性など、さまざまな観念が入り組んで
大きな構造を有している。もっとも原初的な公の観念とは、
よく言われることだが、人間一人では生きていけないとい
う言い方に示されるように、他者との関係性の中で、お互
いに了解し合える決め事や掟を作ることができる共有空間
を形成する意思である。公のミニマムの領域は地域社会で
あり、公のマキシマムの領域は国家である。国家間の関係
性は公とは言わない。私との連続性がないからである。だ
から国家間の関係は国の際(きわ)、国際と言う。

 公の定義は深く考えると難しい。つたない理解度で下手
な公の説明を試みたが、私が言いたいことは、公の最大概
念である「国家」のことをどう捉えるかを説明したかったので
ある。戦後の日本人は誤った教育のせいで、「公=国家=
軍国主義=忌避すべき概念」という短絡的な発想に囲繞さ
れてきた。そのために人々の生活感情から国家感覚、すな
わち祖国感情がすっぽりと抜け落ちてしまうという、建国以
来最悪の精神的な牢獄に閉じ込められてしまったのである。

 この話にもっとも都合よく関連した出来事が、数日前に国
家的に起こった。それが WBC戦 の優勝である。公の概念
を自分なりに七面倒くさく説明を試みたが、この公はかなり
手っ取り早く感情的に理解できるものなのである。それが日
の丸を背負って国際試合に勝利するということなのである。
王ジャパンが苦戦を強いられながらも雄々しく勝ち進み、つ
いには世界最高峰の地点に到達した瞬間、我々日本人は、
国民全部が「祖国感情」としての喜びを味わったわけである。
これが失った「公」の感覚である。私的な喜びとは次元の異
なる巨大な喜びであることに気がついただろうか。

 公とはかくも爽快なものなのである。ここでふとボクシング
の亀田三兄弟のことを思い浮かべた。その次男の大毅が、
「アニキの試合前に君が代が流れた瞬間、全身痺れた。め
っちゃ感動した。あそこでスイッチが切り替わった」と話して
いたが、あの若さで君が代の重さと偉大さを感得したとした
ら、若者にいい兆候、すなわち日本が芽生えてきたと考えて
もいいと思う。彼らがこの先勝ち進み、外人の強豪選手と戦
うとき、彼らは背中に日の丸を背負う可能性はあるのかも知
れない。

 結論を言う。公というものは軍国主義に通じる忌むべきも
のではなく、祖国というみんなの郷土に共通する同胞感情を
通して理解できる一つの大きな場のことである。この場は、
精神領域だけではなく国土と密接に結びついている。歴史
とも切り離せない。公が完全消滅に瀕した今日、奇しくも日
本の一部の選ばれた野球人たちがその場を回復させてくれ
たのである。みんなはわかったはずであるが、公、すなわち
国家意識とは、巨大で深い喜びを国民にもたらすものなの
である。人が生きるためには個人の自由だけでは生ける屍
(ゾンビ)になる。公の中で生きる感覚を得てこそ本当のライ
フなのだ。

 公が復活すれば、日本には再び安全神話も幸福感もよみ
がえるのだ。公が復活すれば拉致問題がここまで伸びるこ
とはあり得ないことである。同胞の地獄を放置しておけない
からである。公がないから我々日本人は棄民感覚にとらわ
れ、それを個人主義というごまかしの衣でくるんできたので
ある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月23日 (木)

ドシロウトが思う日本プロ野球

 いまだに日本のWBC優勝の喜びが冷めやらない。正直、
私は国内リーグのペナントレースには、かなり前から興味を
なくしていた。私はかつては巨人軍のファンだったが、それ
も中畑、篠塚、山倉、原、松本、淡口などが活躍していた頃
までである。この頃はまだプロ野球選手たち個々がパワフ
ルで華があった。たとえば、中畑などは、サードを守ってい
て、ファーストフライが上がると大声を上げながらファースト
方向に猛烈にダッシュして、強引に捕りに行くような破天荒
なプレイをやって、しばしば我々ファンを腹を抱えて笑わせて
くれた。そういうことは最近はとんとない。

 彼らの時代はそれなりに面白かった。しかし、それ以降は
すっかりプロ野球に熱いものは感じなくなり、たまに日本シリ
ーズでどこが勝つかというくらいの興味しかなくなっていた。
昭和三十年代からの記憶しかないが、プロ野球は日本の花
形スポーツだった。それがいつしかサッカーに人々の興味が
移ってしまったようである。

 なぜプロ野球が面白くなくなったのかは正直わからない。昔
は、データばかりを優先する管理野球は面白くないとか、豪放
磊落な選手たちが居なくなったからだとか言われていた。それ
はあると思う。はっきり言って好感を持てるキャラが消えてきた
感じがあるのは事実である。たとえば阪神の名物投手であった
江夏豊などはマウンドに立っているだけでものすごい存在感が
あった。今の選手にはそういう濃いキャラが居なくなったという
か、影が薄くなったと言えば言い過ぎかもしれないが、目を凝ら
して見たいという気持ちが昔よりははるかになくなった。

 ジャイアンツ人気が、近年急激に落魄の様相を呈していること
は、ひとことで言えば面白い野球を見せることができなくなってい
るからである。その一つの証左が清原を放逐したことである。年
齢とか怪我とかいろいろ判断材料はあったのかもしれないが、
おそらく清原の豪放磊落な性格が、官僚的な性格を色濃くして
きた球団側に嫌われたのが最大の原因なのかも知れない。我々
から言わせればこんな面白い選手を手放すなんてどうかしている
と思うわけである。

 長嶋茂雄氏はかつてこう言ったそうである。「凡打のゴロを捕
球するときでも、なるべく難しそうに捕らなければならない」と。そ
れが観客を球場に引き入れて、見せるプレイ、魅せるプレイであ
るというようなことを言った。これには深い真実がある。我々はス
ポーツを娯楽として楽しむとき、プレイヤーの実力を堪能するとと
もに、その人間の個性を同時に鑑賞しているのである。最近の格
闘技はリアルファイトが全盛である。しかし、それは選手の強さだ
けではなく、個々の選手が強ければ強いほどその人間の個性が
本人のファイトスタイルを決定するというか、非常に際立った様式
美が出てくるのである。戦いはただ力と力のぶつかり合いではな
く、リアルファイトを指向すればするほど、様式と様式のぶつかり
合いが花開く。観客はそこに楽しみを得ているのである。総合格
闘技のファイターには、「俺は型や流儀を離れて俺流の戦いを通
す」と言う者はいるが、それも無手勝手流という一つの個的な様
式である。

プロ野球にもそれは言えるのである。はっきり言おう。今の日本
プロ野球が斜陽化している、すなわち人気が低落している真の
原因は、選手が個々に弱くなっているからではないだろうか。そ
のために様式美が欠落しているのである。野球は格闘技ではあ
るが、典型的なチームプレイである。ならば個々の選手は没個性
でプレイをして協調感覚を大事にすることだけでいいのだろうか。
それだけでは駄目なのである。そこには絶対にプラスαが必須
条件なのである。 私の言っていることは、ここぞという時にチー
ムのためにバントで進塁させてやるというようなことではない。球
団という個の総体であるチームが強くなるということは、個々の
選手の力量がそれぞれの「個性」を通じて最大限に発揮される
環境を作ることである。

 人間はそれぞれすべてが異なる個性を持つ。構え方、バットの
振り方、投げ方、投球フォームの一つ一つが明らかに違うわけで
あるが、それが戦い方、選手やチームの存在感をつくる要素であ
る。江夏豊も、イチローも、その他の超濃いキャラの選手たちも、
ものすごい強い個性を持っている。実力があって濃い個性の選
手を見て我々は、実力と個性は別物だと思っていたふしがある。
しかし、考えてみると個性が際立つという現象は、そのアスリート
の実力が研鑽された結果、自然とにじみ出てきた本人独自の様
式なのではないだろうか。個人のみの様式という言い方には馴
染みがないと思うが、同一個人の中である一つの「型」を連続し
て再現できるということは、すなわち様式である。これを俗的な表
現をすれば個性である。私がここで使用している個性という言葉
はそういう文脈の中にある。ゆめゆめアカ教育者たちの言う個性
と同列視しないで欲しい。

 つまり、個性的な選手は実力者であるという話につながるので
ある。個性が花開いて、観客に面白いと感じさせる選手とは、見
えないところで、星一徹、飛遊馬の父子鷹の根性主義のトレーニ
ングを積んでいて当たり前なのである。誰が指導するにしろ、ス
パルタの苦痛と自己克己の研鑽を積んでこそ、人を惹きつける
面白い個性と様式美が出てくるのではないだろうか。今の選手
たちにその要素がどれくらいあるのだろうか。時代が根性主義
を否定してからかなり時間が経っている。

 これを明確に言うと、個性的な様式美を持たない選手は実力的
には大したことはないということになる。さて、次にチームが強い
とはどういうことであろうか。それは個々の選手たちの個性的な
様式が集合して全体として理想的なシナジー効果を湧出させる
ということだと私は考えている。個性の強さは当然ながら下手を
すれば強い反発力を招く。ここで、選手たちの個性のぶつかり合
い、放散などをうまく調整して全体の整合性を取っていく技術が
監督の領分なのではないだろうか。

 素人の私が思いつくままに言ってきた。技術的には専門的な
見方はたくさんあるだろう。しかし、監督がチームの総合力を最
大限に引き上げるために何が肝心か、つまりチームの求心力と
なる采配性に必要なものは何かと考えるならば次のことが思い
当たる。それは商業主義から離れた観点で勝ちたいという強い
情念と、あとは監督自身の人徳である。このことは今回のWBC
戦で、人徳者である王監督と、超絶技巧を持つイチローとの関
係性を見てはっきりとわかった。小銭を貯めることと女だけにし
か興味がなくて、人を陥れることしかしない監督が居たとしたら
選手はきっちりとはたらくだろうか。

プロはもらっている分ははたらくと言うかもしれないが、そんな
はたらきは誰も見たくないだろう。なぜなら、商業主義の中で行
う野球がプロ野球ではあるが、戦いとは、それがほんものの戦
争であっても、スポーツ競技という擬似的な戦争であっても大義
は必要であるからである。それが、地域のためにでも、球団の
ためにでもいいが、金銭を度外視して奉仕する対象が必要なの
である。国際試合なら祖国感情が大義であり、国内試合ならば
地域の誉れであろうか。だからこそ、人徳を欠いた監督の下で
は、その大義に奉仕することはできないのである。

 プロ野球はファンを喜ばせてナンボの世界である。国内リーグ
の関係者は今回のWBC戦を見て、自分たちに欠落しているもの
が何であるか悟ったと思うのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

民主党はフキノトウなのか?

 民主党はもう存続理由を持たないのではないか。これは、今回
の偽メール騒動の不手際だけを言っているわけではない。政治に
詳しいわけではないから、正鵠を射たことは言えないのだが、そ
れでも素人なりに民主党の党是と言うか、党の方針の未定さが
はっきりと見て取れることから、この政党には野党としても存在意
義は見出せない。

 これは、昨年の郵政民営化是非の総選挙におけるころから感じ
ていたことだが、民主党には党としての一致した政治思想が確立
していないことは明らかである。当時は岡田党首であったが、小
泉・竹中ラインが進める構造改革に堂々と反意を示すことを肝心な
政策にしなければならなかったのだ。郵政民営化や構造改革の
審議のとき、唯一、櫻井充議員がアメリカの対日要求、すなわち
「年次改革要望書」の存在を問いかけ、小泉内閣の政策遂行が、
アメリカによる強制的なプログラムで行われているのではないの
かというごくまっとうな質問をしていたことは評価できる。

 そこから小泉自民党を戦略的に攻めていけば、あるいは政権の
姿勢に大きな影響を与えた可能性はあった。ところが、党の大ま
かな方針自体はそこにはなく、構造改革そのものには賛成であり、
郵政民営化にも賛成であるがうちはこういう方針を採るみたいな
あいまいな言い方に終始した。これは、与野党とも同じ政策を持
つという意味で、政治学的にはバッケリズム(Butskellism)という
ものらしいが、小泉構造改革に対して同列路線を持ってしまった
ことで、民主党の命運は決まっていたようなものである。

 民主党は、バッケリズムを採らずに小泉・竹中構造改革路線に
断固として反対し、それを貫いて行くべきであった。もともと民主
党の最大の弱点は、横路議員に代表される護憲派と、今は党籍
を離れているが正統保守の西村眞悟議員の派が混在していた
ことにある。保守とリベラルを足してある数で割ると適度な党是が
出来上がるなどということは絶対あり得ない。特にイデオロギーで
異なる者たちが混在した場合、党はまとまらない。

 私は良く知らないが、民主党の中にも従米路線の者たちがか
なり居て、それで小泉構造改革が対米要求そのままに行われて
いる現実を追求できない党なのであろうか。それなら日本という
国はお先真っ暗である。小泉を攻めようにも、イデオロギーも党
是も固まっていないのであれば何も武器を持たない間抜けな戦
士である。西村眞悟氏という偉大な政治家がいたところだけに
何か物悲しい気分になる。

 東北秋田ではフキノトウをバッケという。春の風物でおひたし
などにして酢味噌などで食すと美味しい。民主党のバッケリズ
ムは、ただ自民党に喰われてしまうだけのバッケなのか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月22日 (水)

売国内閣がイチローに栄誉賞?ふざけるな

 小泉内閣の文部科学大臣がイチローに国民栄誉賞を授与
することを検討しているとニュースで言っていた。まったく強い
不快感で一杯である。日の丸を背負い、WBC日本チームを世
界一の座にまで持ち上げたイチローの功績は、日本人として
賞賛してもし尽くせないくらい大きなものである。国民の気持
ちとしては、イチローに日本人の名誉を顕彰する立派な賞を
冠したいのは真情である。

 しかし、よく考えてほしい。今の政府がイチローに「賞」など
というものを贈る資格や権威があるだろうか。今の政府は、
小泉純一郎が総理大臣になってから続いた第三次小泉内閣
である。この政権が推し進める構造改革がいったい日本に何
をもたらしたのか。年間、三万数千人にいたる自殺者を出し続
け、所得格差は無情にもどんどん大きくなってきている。一部の
大企業や外資関係だけがうるおい、かつての日本社会のマジョ
リティを占めていた中流的な階層社会が完全に消えつつある。
中流的な意識が消えつつあると言うことは何を意味するのかと
言えば、それは社会の不安定要因がきわめて大きくなってきた
ということである。そのために、国民意識を暗い絶望感に導い
てきている。

 最近の電話詐欺や犯罪の質を見ればわかるように、日本は
安全神話が崩壊している。特にお年寄りをだます詐欺がここま
で頻繁に出てくると、思いやりや和と言う、伝統的な日本人の
民族性を真っ向からくつがえす悪質な犯罪が増えてきているこ
とを実感するだろう。これは宰相たる小泉純一郎や、その有力
側近たちに愛国情念や国民を守るという意識が完全に欠落し
ているからである。小泉や竹中を先頭とする売国政治家一味
は日本を国家ごとアメリカに売っているのである。

 小泉が最初に打ち出した「米百俵」の故事は、表面的にはハ
イエクの経済モデルを踏襲したことを示している。経済が軌道に
乗るまで我慢しなければならない時期があると。今我慢すれば
未来に希望が出てくると、「構造改革なくして景気回復なし」など
とのたまっていた。それで五年の間どうなった。自殺者が二万人
台から三万人を超えた。これでは棄民政策ではないのか。

 実際はアメリカに日本の国富を流出させる機構作りをせっせと
やっているだけなのだ。その典型が郵政民営化であった。ハイ
エクモデルというのはごく簡単に言うなら、一部の金持ちや企業
を優先して儲けさせれば、やがてはそれらが動力機関車の役割
を担って、他の大多数の企業や国民を牽引して国全体の経済が
持ち上がるという論理である。日本社会は、ハイエクやフリードマ
ンの新自由主義を取り入れたかに見えるが、何のことはない。小
泉自身にはまったく経済学的な展望は皆無であり、彼は米国エ
ージェントである竹中平蔵の政策指針を鵜呑みにして実行してい
るだけである。竹中の指針とは、完全なる従米政策である。つま
り、現今内閣の政治指針は米国を宗主国とする完全植民地に日
本を改造する目的しかない。このような政府を我々は受け入れて
いるのだ。

 イチローの話に戻すが、文部科学大臣の小坂 憲次がイチローに
国民栄誉賞を付与するという話は、イチローのみか、日本国民ま
でも冒涜するひどい話なのである。言っている意味がわかるだろう
か。小泉現行内閣には日の丸がまったくない。国家意識がまった
くない。それは現内閣が売国内閣だからである。イチローや王監
督率いる日本野球チームが、WBCで初代チャンピオンになったこ
とを国民全体が歓呼の念を持って祝ったことは、日本人に国家の
栄光を体現したことを喜んでいるのである。この状況を見て、小泉
売国内閣がイチローに国民栄誉賞を贈るということは、日本国に
対する冒涜以外の何物でもない。日の丸を愚弄し、国民がおとな
しくしているのを見計らって、女系天皇肯定を盛り込んだ皇室典範
改造を、党議拘束をかけてまで強引にやろうとした小泉純一郎。心
から日本を捨て、国民を棄て、皇統を捨てようとしている内閣が、
日の丸に熱い血をたぎらせたイチローにいったいどんな栄誉を与
えるというのか。正直に何かの賞を与えるのなら、イチローには
「抵抗勢力筆頭賞」を与えたいわけだろう、おまえらは。心にもな
いことをやるなと言いたい。

 日本国の名誉を高めてくれた大功労者のイチローに、売国内閣
が関与することは我慢ならないことなのである。現内閣が関与せ
ずとも、国民はイチローたちに大きな喝采を送っている。それだけ
で十分なのである。心に、日本ではなくアメリカしかない売国内閣
が下手に賞など出したらイチローの愛国心を侮辱することになる。

 小泉・竹中路線が崩壊し、日本に愛国内閣が誕生した暁には、
イチローたちに真の国民栄誉賞を与えることを考えればいい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

祖国感情が招いた初代世界王者

 王ジャパン、本当に良くやってくれた。日本はWBC初代世界
チャンピオンとなってしまった。これで、体格の劣る日本人でも、
欧米やラテン系民族のパワー野球に互角に戦えるどころか、
戦術と覇気で見事に勝てることを証明した。

 何も野球のみではないのだが野球というゲームは、俗に風
向きと呼ばれる得点ベクトルが、不思議とどっちかのチームに
顕著に傾くスポーツである。大事な場面でミスが出ると、立て
続けにミスが続出したり、逆に、幸運なプレイが出ると次々に
似たような得点につながる良いプレイが出ることがある。今回
の決勝戦にはそういう「傾き」が特に目立っていた。この得点ベ
クトルがどっちのチームに向くかの契機は、運不運の不確定
要素も確かにあるのだが、それよりも、チーム全体の気力や
執念が強力に作用しているように見える。

 キューバチームは予測もそうだったが、実際に見ていても、
パワーと技術に秀出ていて、誰が見てもものすごい強豪チー
ムであったことは間違いなかった。しかし、日本にはこのチー
ムの圧力を跳ね飛ばす力が芽生えていたのだ。チームに順
風の流れを呼び込むには、ワザと気力の合体なのだが、今
回の王ジャパンには明らかにそれ以外の要因が働いていた。

 それこそが前回で触れたイチローを中心とした祖国感情な
のである。イチローは、MLBのマリナーズでプレーしているうち
に、日本人としての自己同一性に強く目覚めたようである。そ
の意識変容が強かったのでマリナーズ球団との間で、WBC
出場に当たっての揉め事を振り切って日本チームに参加した
らしい。この時、ヤンキースの松井秀喜が参加する意思のな
いことを知ってかなり怒ったということは、イチローの WBCに
かける思い入れがどれほど熾烈であったかがよくわかる。

 イチローは野球を通じて日本の優秀さを世界に誇示したか
ったのである。話は少し逸脱するが、ブルース・リーが好きな
私は、ここでブルース・リーがハリウッド映画に賭けた情熱の
理由を思い出した。1960年から1970年当時は、シナ人が世
界で三流扱いをされていることにブルースは心を痛めていて、
シナの伝統武芸であるカンフーを、アメリカ映画を通じて世界
に知らしめたいという気持ちが強くあったことが、ハリウッド映
画参入への動機だったのである。ブルース・リーと言う一天才
には強い祖国感情・民族感情があったのである。 イチローの
気持ちにもこれと似たところがあって、祖国の日の丸を世界
の舞台で燦然と輝かせたいという気持ちが心を強く占めてい
た。

 この祖国感情が発露となったイチローの気持ちが、チーム
全体の志気を極限的に高めたのである。そして、アメリカの
あの恥ずかしい審判として名を上げたボブ・デビッドソンの判
定くつがえしが、王監督以下、チーム全員の負けじ根性に火
をつけた。私にはデビッドソンのあの理不尽な判定ひっくり返し
が真珠湾攻撃直前のハル・ノートとダブって見えるのだ。あれ
じゃ誰でも怒る。それから、韓国戦に二度続けて敗れたことは、
野球の先輩格としての日本チームに強い屈辱感を与え、なん
とかこの雪辱を晴らしたいと思うようになっていた。試合が終え
たとき、ベンチに残って泣いていた選手がいたことでもそれは
わかる。

 日本中があきらめムードになり、チームも帰国するしかない
と思ったとき、メキシコ・アステカの神は日本に微笑んだ。メキ
シコがアメリカに勝利して、日本チームに準決勝、決勝への道
がいきなり開かれたのである。そういえば、アステカの神も太
陽神であり、わが国のアマテラスも太陽神である。三度目の韓
国戦からは、日本チームの内圧は極限的に高まり、強烈な結
束感がお互いに生じていた。心身ともに最高の闘争状態にな
っていたと思う。これを実現した直接のトリガーは明らかにイチ
ローである。祖国日本の栄光を背負ったイチローの精神的励起
がチームの潜在力を賦活した。この状況が、日本で見ている多
くの国民に感化を与えないわけはない。

 今日の熱狂はものすごいものだった。日本中の老若男女が、
日本チームの一挙手一投足に目を瞠り、熱狂的に応援したよう
である。普段、野球に興味のない者まで感動して見ていた。もし
も、この試合が日本のスタジアムで行われていたら、たぶん戦
後の巨人・阪神天覧試合よりも熱狂的な応援が行われていただ
ろう。日の丸を背負ったイチローの気持ちが日本全土に伝播し
たことは今の日本では画期的な出来事であったと思う。

 日本人が元気がないのは、経済的低迷や政治的混迷のせい
だけであろうか。実はそれは局面的な理由であり、本当は国家
意識の低下が真の原因だと自分は思っている。今の日本は、
政治に日の丸がまったく見えない。政治家の精神に日本が育
たない。国民は潜在意識の中でこういう閉塞状態に辟易してい
るのだ。こういう中で、イチローが王ジャパンのみか、日本人の
精神をあっという間に日の丸の栄光にいざなってくれたのであ
る。この意味は単にスポーツの勝利を超えて非常に大きい。

 国家意識も愛国情念も皆無どころか、日本の国体(国柄)破
壊を天職と心得ている亡国宰相・小泉純一郎よ。今回のWBC
優勝にけっして次のような言葉を吐くんじゃない。それはイチロ
ーたちに対する冒涜だ。

”よくやったあ! かんどうしたぁ ”
 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月20日 (月)

イチローは日本に目覚めた

 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC) で、日本は韓国戦第三戦目で
圧勝した。面白いことに、WBC が開催される直前までは、この大会は日本
では一部のプロ野球ファンを除いてはほとんど関心を持たれていなかった。
実は、私自身もあまりこの世界大会に興味を持っていなかった。ただ、私
の年代はほぼ例外なく、O、N(王・長嶋)を圧倒的な実在のヒーローとして
憧れた世代であるから、監督である王さん率いるチームが少しでも勝ち進
んで、世界の王の名声を再度高めて欲しいという気持ちはあった。

 その程度の関心しかなかったのだが、対アメリカ戦で起きた例のタッチ
アップ判定を見ていて強い怒りが巻き上がった。テレビでこれを見ていた
いた日本人は、私のみならず、例の球審がやってしまった、あまりにも無
体な判定くつがえしに、心底怒ってしまったのである。私なんぞは、あのい
かつい顔をした白人審判の理不尽な行動に、白人至上主義の傍若無人さ
を見た気がして、しばらく憤然としていた。このことは、当然ながらもオリンピ
ックで頻繁に起きる、白人優位判定に自動的にリンクして私の怒りを倍化さ
せたのである。対戦相手が東洋人やラテン系民族ならば、アメリカに多少の
えこひいきをしても当然だという胸糞悪い根性がありありと見えていた気が
する。黒人奴隷を牛馬のようにこき使い、原住民インディアンを殺戮しながら
建国し、国力を蓄えてきた国柄に恥じないキャラを体現した行動様式であっ
た。評論家の中には、タッチアップは主審が判定するものであり、主審がそ
う見えたのだから仕方ないと訳知り顔で言った者がいたが、この場合は怒
って当然である。主審権限が優先するなら、近くで見ていた最初に判定した
審判の判断に従うのが合理的な問題処理であったはずだ。

 しかし、ひどい国際感性である。スポーツは厳然とした公平性が担保さ
れてこそ、競技の意味があるわけだが、規則の番人である審判があのよう
な恥知らずを露呈すると、国際スポーツ親善と娯楽の意味が雲散霧消して
しまうのである。王監督の言うごとく、かの審判の異常判定は、野球発祥の
地としてのアメリカ自体が、その見識を問われ兼ねないという異常な行為で
あったと考える。スポーツ親善は確固たる国際交流の一つであるから、アメ
リカは審判団32人のうち、22人をアメリカ人で占めるWBC組織のあり方を反
省し、今回のありえない審判の行為を正式に世界に謝罪するべきなのであ
る。そうでなければホスト国として無礼極まりないだけでなく、世界に恥ずか
しいことになる。

 とにかく、これが日本人のスポーツ・ナショナリズムに火をつけて、今は俄
然、WBCが熱狂的な目で見られているのは面白い現象である。一番興味
深いことは、今回の騒動で、日本チームがイチローを中心にして一体感に
目覚め、日本本来の共同体的結束を瞬時にして築いてしまったことである。
こうなったらチームは強い。二回目の韓国戦では惜しくも敗れたが、その奮
闘振りには目を瞠(みは)るものがあった。6:0で圧勝した三回目の韓国戦
では、チーム自体に鬼神が乗り移ったごとく鮮やかな活躍が見られた。日
本チームに二連勝したとき、韓国メディアは「日本の野球における自信を完
膚なきまでに叩き潰した」という論調を繰り返して報じていたらしいが、日本
はそういう報道はしない。日本人は、韓半島人に対してコンプレックスを持た
ないから、勝ったことをことさら大げさに吹聴する意識もない。これは民度の
違いである。

 イチローは野球を通じて熱血的な祖国愛に目覚めていることは間違いな
い。彼はメジャーリーグに移籍して歴史的な成績を残し、天才肌のクールガ
イと言われながら、国籍や人種を超越した完全な実力主義だというイメージ
で見られていた観がある。しかし、今回のWBC戦で彼が見せた一面は、強
い祖国愛で野球をやっていた一人の熱血的な日本人プレーヤーであったこ
とは特筆に価する。彼が、祖国愛という自己同定にいつ目覚めたのかはわ
からないが、少なくとも今のイチローは、日本を強く意識している一人の愛国
プロ野球選手である。このイチローの日本的情念がチームの全員に伝播し、
チームを一丸にして大きな力を発揮したのは間違いない。イチローの思い
は、偉大な王監督に恥をかかせたくない、立派な成績で凱旋帰国させたい
という強い敬愛の念もあった。その長幼の序の気持ちが核となって、チーム
全員に日本精神をみなぎらせたのである。本来、イチローは能力主義の典
型のような感じで見られていたはずである。実は私も彼の欧米的な個人主
義的姿勢に好感情は抱いていなかった。力や技があれば、どこの世界でも
一流で通じるのは道理ではあるが、日本の外に一歩出たら日の丸を背負う
のは当然であるという観点からは評価できないと思っていた。しかし、今は
彼の心に厳然と芽生えた日本が強く鎮座している。この彼を嫌うことは私に
は不可能である。

 こういうイチローの気持ちは、かつての日本にあった和の共同体精神その
ものに限りなく近いものだと思われる。これは、日本人の行動様式にかつて
は普遍的に見られたもの、つまりは、長幼の序を中核にした「和を以って貴
しと為す」という、あの十七条憲法の精神である。日本という国は、人々が
心を合わせたとき、もっとも巨大な潜在力を発揮できる国なのである。この
民族性向はいつの時代でも自然な形で発揮してこそ、日本人本来の力と秩
序が形成できるのである。然るに、戦後、時の経過を経るにしたがって、こ
の結束力は融解し、あらゆる社会から結束力の解体現象が生じている。つ
まり、アンバンドリングである。すべてのものがアンバンドリング、すなわち発
散の方向に向かい、共同体的結束力が壊滅状態に瀕してしまったのであ
る。このために日本人の産業的パワーや経済力はもとより、独自の文化を
創出していく力さえ地に落ちてしまった。

 日本が無理やり身にまとうこととなった、米国的民主主義の方向性は、国
民精神のアンバンドリングとして民族を衰退に導いた。戦後の日本は、その
民主主義のベーシックに流れる近代主義というものの本質をよく見極めずに
単純な形で導入した。それは、自らが長き間にわたって培った精神のバンド
リング、すなわち国民的共同体意識を放擲してまで導入に値するものなの
かどうかをまったく考えずに60年の歳月を費やして今日に至った。その結果
がどうであったのか。これは言うまでもないことだが、すでにはっきりとした
マイナスの結果が出ているのである。すなわち、個々の人間からも、社会か
らも、社会の総体と言うべき国家からも、一様に「国柄」というものが抜け落
ちてきたのである。すなわち、醜くゆがんだ個が突出して、公が崩壊したの
である。

 日本の国柄、それは日本を日本として性格づけるすべてのオリジナルな
特徴を言う。米国が中心となって進める経済イデオロギーは新自由主義と
呼ばれるものである。これは平たく言えば、市場原理主義による世界の均
質化を志向する一つの思想である。これはターゲットにするすべての国家
の独自構造を解体に導く危険な本質を持っている。この単色で無機的、優
勝劣敗構造のグローバリズムを取り入れた世界に生きる人間は、否応なく
先祖伝来のライフスタイルを保つことができない状況に置かれ、そこには人
間として生きる本来の自然な状態さえ望めないという機械論的な性格に彩
られた社会しか選択の余地がなくなるのである。これは実質的な破壊その
ものである。            
                                                            
 話を野球に戻すが、イチローがWBCに賭けた、いわゆる「彼らしくない」情
熱の正体は明らかに日本人としての祖国感情である。それは今の日本にも
っとも欠落しているベーシックな感情体系であり、その精神は民族共同体意
識から来ている。イチローが奮起してこの感情を鼓舞したことによって、チー
ムが一丸になり、対韓国第三回戦では、本来の実力を十分に発揮できたの
である。イチローが行ったこの感動的な共振作用は、日本人の共同体意識
のアーキタイプ(原型)とも言える祖国感情、郷土愛感情を呼び覚ました。イ
チローは本物の国際人になったのである。

 近代史において、日本人の精神のバンドリングがもっとも顕著にあらわれ
た歴史的事象とはなんであろうか。それは大東亜戦争である。特に対米戦
末期における日本人の精神的結束は世界の常識の範疇を超えていた。
そういう精神の位相からも、あの戦争の意味を汲み取ることは重要である。

 それはともかく、イチローよ、明日のキューバ戦でも強い共振作用を起こし
て、オールジャパンを奮起させ、世界一になってくれ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月10日 (金)

茶々逝く

 茶々逝く

VFSH0118

ブログに書くことではないかもしれないが、一昨日の夕方、
飼い猫の茶々(ちゃちゃ)が死んだ。

 尿管に詰まりが起きて尿が出なくなる病気になり、獣医さん
に駆け込んで処置してもらったが、回復するタイミングが遅れ
たのか、予後がはかばかしくなく、だんだん衰弱して三日後の
一昨日、息を引き取った。腎臓がやられて尿毒症が劇的に起
きたのだろうと思うが、もっと早く獣医さんにつれていけば良か
ったと悔やまれてならない。まだ十ヶ月しか生きていない。まっ
たく慚愧の至りである。

 プロフィールには、自分のことを「ネコ好き」とは書いているが、
自分を特にネコ好きだと意識したことはあまりない。私は田舎
で育った小さい自分から、捨てられた子猫をよく拾ってきて母に
何度も怒られた記憶があるし、周囲にはいつもネコが居るよう
な環境にいたから、ネコが居て当たり前の感じに慣れているだ
けである。

 五十路を過ぎた今まで、ネコは何度も飼っている。通算すると
十数匹になるだろうか。そのネコたちを飼うきっかけは、ほとん
ど迷いネコや捨て猫を拾ったことから始まっている。あとは、彼
らが生んだ子猫を育てたものである。

 茶々も、そういう迷いネコから生まれた一匹である。茶々の母猫
は、三年前に家に迷い込んできた茶トラ模様のメスの子猫だった。
この茶魔(ちゃま)は、ほとんど家には居ないネコで、厳寒の真冬
でさえも食事の時を除いては屋外に居るか、どこか自分のテリトリ
ーに行っているか、一日の中で、ほとんど姿を見ることがない。来
る(帰宅する?)ときも早朝か深夜なので、滅多に見かけることが
ない。

 ご飯だけ食べにくるネコでも飼い猫と言うのかどうかはわからな
いが、子猫を生むのと育てる場所は明らかに我が家であるから、
飼い猫と断定してもいいだろうと思う。深夜、餌がなかったりする
と、私の枕元に来て催促することがある。その時、久々に顔を見
て「おお、おまえか、元気だったか」と言うくらいである。茶魔(ちゃ
ま)という名であるが、べつに小林よしのり氏の「おぼっちゃまくん」
からいただいたわけではない。三年前に家の庭に迷い込んでき
た時、生後四ヶ月くらいで、かなり険しい顔をして牙をむき、攻撃
的な感じだったので、茶色い魔物という意味で「茶魔」と名付けた。
しかし、我が家に慣れてきた頃は険がすっかり取れ、やさしい感
じの子猫になっていた。

 茶魔は今まで二度ほど子猫を生んだ。一度目は四匹生んだが、
三匹は死産で生き残ったのは、雄ネコのちびだけだった。ちびは
今、元気で長男をやっている。茶魔は、子育ては甲斐甲斐しくしっ
かりとやったので、確実に良母ネコであるとは言える。子供がある
程度大きくなると、また放浪ネコのように外ネコになってしまうので
あるが、時々ネズミを捕ってきて子猫に与えることがある。その茶
魔が昨年の五月、二度目の子猫を四匹生んだ。一匹はようやく目
が開いた頃、野良猫に襲われて死んだ。そのあと、二匹はもらわ
れ、残ったのは雄ネコの茶々だった。もらい手がなかったので、一
部、家族の反対に遭いながらも飼うことにした。この時点でネコは
すでに二匹居たからである。

 三匹になったところへ、今度は子猫のシロが家の前に捨てられ
ていたのでそのまま飼うことにした。この子は土砂降りの雨の中
で、二日も放置され、かろうじて鳴くだけの体力しか残っていなか
ったが、茶魔の乳を飲んで急速に体力を回復し、今ではもっとも元
気なネコに育っている。そういうわけで、この三年間で、いっぺんに
飼い猫が四匹になってしまった。シロは茶々とほとんど同時期に生
まれていると思うが、不思議なことに、茶々とは兄弟以上に仲のい
い関係になった。

 ネコと暮らしてみた人はわかると思うが、ネコは自分の好きな人間
に対しては、故意にその人間の行動を邪魔することがよくある。本を
読んでいると、本の下に来て頭で本を突き上げたり、パソコン作業を
していると、いきなりキーボードのそばに上ってきたり、床に新聞を広
げて見ていると、真ん中にでんと居座ったりする。人間が困ることがわ
かっていてそういう真似をするのである。ネコにしてみれば、「くだらな
い」ことをしていないで、もっと自分と遊んで欲しい、もっと自分を意識
して欲しいという意志表示なのかもしれないが。

 私がネコ好きなのは、ネコという存在そのものや、ネコの行動様式、
生態が、現代文明に対するアンチテーゼになっているからである。い
わく、急ぐな、論理的になりすぎるな、時間にとらわれるな、人間や権
威に隷属するな、等々である。ネコライフの基本は、あくまでもマイペ
ースで高貴な品質を持つというところにきわだった特徴がある。人間
のように科学万能主義、思想、宗教などに溺れて自己を見失うことも
ない。ネコはネコ特有の揺るぎない時間感覚で生きている。ネコは不
思議で興味の尽きない動物である。

 茶々は鳥の羽が先端に付いているごく普通の普及版ネコジャラシ
が大好きで、必死に遊ぶネコだった。身体が大きいので相手になっ
てやるこっちは、冷や冷やものであった。普通のネコよりやや大型で
手足が太く、爪が長いのである。真剣にじゃれついているときは気を
抜くと怪我をするおそれがあった。顎の力も強く、いったんくわえると、
なかなか離さないのであった。それが思いっきりジャンプして向かっ
てくるのである。ネコジャラシ遊びも優雅どころじゃなく、こっちも真剣
だった。

 夜遅く帰宅すると、茶々は薄暗い玄関先で、招き猫座りで自分を待
っていた。そのあとは大変である。トイレにしても、風呂にしても、行く
ところには執拗につきまとって離れないのである。風呂に入っていると、
外側からニャアニャア鳴いて、入れてくれるまで鳴き続けるのだ。仕方
なく風呂場に入れてやると、興味深そうに洗い場にちょこんと座って、
浴槽に浸かっている私を眺めているのである。湯けむりの中でネコが
人間の入浴を眺める図は奇妙である。それがほとんど毎回で、最近
では一緒に風呂場に入ることが多くなっていた。何度もネコは飼った
ことはあるが、こういうことをするネコは茶々が初めてだった。

 夜はベッドの足下にシロと一緒に寝ていた。とにかく、家の中では、
常に私のそばに居ないと我慢できないネコだった。最近ではあまり
にも邪魔で、よく叱ったり、頭を叩いたりしていた。

 その茶々が一昨日死んだ。あんなに元気だったのにこれほど突然
に死なれるとは・・。

 もう、足にまとわりつく茶々は居ない、膝にいきなり上ってくることも
ない。歩きを妨害されることもない。ネコジャラシをくわえて私の目の
前に来て、遊んで欲しそうな顔も見せない。入浴の時、いつもは居て
当たり前の茶々が風呂場に座っていない。

 若いとき、何度失恋しても、喧嘩に負けても、涙を流したことはない。
だが、一昨日まで当たり前に居た茶々が居ない今日は、何度拭って
も頬が濡れてくる。諸行無常、かけがえのないものは失って初めて気
が付くものなのか。そんな風に思ったところで、もうどうにもならん。わ
ずか十ヶ月で逝くなんて想定外なんてもんじゃない、理不尽だ。

  茶々よ、もしできるものなら、また茶魔の腹を借りて生まれてこい。
好きなだけ遊んであげるから。

VFSH0212
 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年3月 6日 (月)

小泉構造改革は国家を脆弱にする

世界各国の実力野球選手が覇を競うWBC(ワールド・ベースボー
ル・クラシック)が開催された。この競技に松井秀喜は出場しなかっ
た。これにイチローが激しく怒ったそうである。たかが野球、たかが
娯楽スポーツじゃないか、そんなことにしゃかりきになる必要はない
のじゃないか、と言ってしまえば語弊はあるかもしれないが、それ
でもWBCをボイコットした松井を怒るイチローの心根には正直うれ
しい気持ちになる。

 五輪にしても、ワールド杯にしても、国を背負って戦うことに意味
があると思っているからである。荒川静香選手の、日の丸国旗を手
にした「凱旋氷上パフォーマンス」を、NHKが故意に放送しなかった
ことが象徴しているように、政府も含めて今の日本には、おしなべ
て国家意識が薄弱化しているのである。国家意識の消失傾向は、
大東亜戦争贖罪史観及び戦争忌避感覚の究極的な帰結として生
じたものである。

 今回のトリノ・オリンピックでの惨敗も、コーチや選手、そして現政
府に国家意識が薄れたことが大本の原因であると自分は思ってい
る。もう一つは、小泉内閣の強引に押し進める構造改革によって、
企業モラルには社会性が欠如し、市場原理のみでコーポレート・ガ
バナンスを行う風潮が蔓延したことにある。企業には利潤追求とと
もに、社会を堅実に営むための手助けを行うという、いわゆる企業
責任もあると思う。それは企業でできる社会貢献、社会福祉である。
このような日本的な企業風土や美風がすっかり廃れた社会にあっ
ては、当然ながら企業精神に国家という観念はなくなる。

 従って、企業に国家意識がなくなれば、世界的に通用するレベル
の能力を有したオリンピック選手やスポーツ選手を育てて国際舞台
に送り出そうという意欲がなくなる。今までは、会社名を背負った抱
え込みの選手が活躍すれば、企業自体の名誉とともに抜群の宣伝
効果が得られるという二重の効果が期待できた。しかし、新自由主
義的な構造改革の余波で、企業は宣伝効率のよいマスコミ媒体を
使うことしか考えなくなってきている。当然、オリンピックなどはメダル
を獲れる可能性に賭けていては宣伝効率が悪いし、スポーツに金を
かけることが無駄なものという意識が出てきている。従って、選手が
のびのびと実力を鍛えるフィールドがなくなってきているのも事実で
ある。これは企業の考え方に如実に国家意識が欠落したことの一つ
のあらわれと言える。

 フィギュアスケートなども、荒川が金メダルを獲り、浅田真央などの
人気も相俟って、選手を育てる機運が高まってきているが、決定的な
問題が生じている。それはスケートリンクが急速に全国から消えてい
るのだ。これも、間違った方向性を持つ構造改革を進めたために社
会に余裕がなくなって経済的な維持が出来なくなったからである。リ
ンクの経営者たちは利用者の激減で採算が取れなくなったと言うが、
一般利用者自体も遊技やスポーツに金をかける余裕がなくなってき
ているからである。

 「小さな政府」とはリカード、フリードマンなどの新自由主義(新古典
派)経済学からきているが、要は、政府の影響を極力狭めて、市場の
自由性にすべてを任せようとする考え方なのである。自由市場に高
度な調節機能、すなわち神の見えざる手が働いているというアダム・
スミス以来の考え方である。しかし、素人の自分が考えてみても、こ
の流れには違和感がある。難しい経済原論では説明できないのだが、
市場と自由が強力にリンクした場合、社会という枠組みが、金銭や証
券至上主義に特化されてきて、社会規範や伝統的観念が押し殺され
てしまうところにこの経済の最大の欠点がある。つまり、簡単に言えば、
経世済民思想とは対蹠的な方向性を持つ非人間的な改革と言えるだ
ろう。この捉え方を敷衍すれば、人間の幸福原理を市場経済のみに収
斂させ、そこには公徳観念や公益性などいう領域は消滅してしまうの
である。公益性の最大級の消滅とは国家概念の崩壊なのである。マクド
ナルドやポップコーンを食うことにしか幸せを感じないどこかの大国と同
じレベルに成り下がっていいのか。ルソー的な革命哲学を究極まで煎じ
詰めるとああいった馬鹿国家になってしまうのである。

 小泉-竹中路線が進めている現構造改革の方向性と内実は、今述
べた新自由主義の欠陥を最大限に内包した欠陥改革なのである。こ
の構造改革を押し進める竹中平蔵の言い分は、構造改革路線に批判
的な者すべてを、「抵抗勢力」と断定し、自分たちが進めている構造改
革を蓋然的に正義の改革であると強弁していることである。この間のテ
レ朝のサンデープロジェクトでも、経済学者・内橋克人氏が、「今の構造
改革は弱者切り捨て、強者優先である」と投げかけたところ、竹中は激
高して、「抵抗勢力はすべてそういう言い方をして既得権益を守る」など
と見当違いのことを言ったらしい。

 小泉構造改革の本質とは、日本社会をアメリカ型のシステムに置き換
える政治的な作業なのである。つまり、故意に格差社会を構築する構造
の「改悪」なのである。たかがスポーツ、されどスポーツであるが、今の
社会構造、雰囲気のままでは、何も熟慮しないで暴力的に行う「小さな
政府」思想のおかげで、選手たちは国際社会で活躍できる実力を養え
ないだろう。国民が当然のように楽しんでいたスポーツの世界にさえ、
小さな政府の悪影響が波及しているのである。国民生活にもたらすこ
の構造改革の直接的な影響は、一般家庭や、中小零細企業に死活的
な破壊を起こしているのである。わずかな国民や一部の大企業ばかりが
極度に潤い、大多数の国民や中小零細企業が塗炭の苦しみに喘ぐ構造
社会、はたしてこれがまともな国家と呼べるのだろうか。「国家」とは国の
家と書く。国という家庭に住む一億数千万の大家族が、互いに助け合
わずに兄弟姉妹、親子、孫などを犠牲にして弱肉強食を目指したら、家
庭が円満に存続できるわけはない。

 しかし、小泉・竹中という稀代の売国奴たちが目指す日本はそのよう
な日本なのである。とにかく、小泉・竹中路線を存続させれば存続させ
るだけ、日本は奈落の底にまっしぐらに突っ走ることになるのである。
東西冷戦構造が崩壊し、世界は共産主義の無力性を認識した。しかし、
それに代わって台頭してきたのが、資本主義のいびつな申し子である
新自由主義であった。日本人が錯誤を犯した最大の見方は、共産主義
と日本型共存システムを同列視して、伝統的な「和のシステム」を駄目
な方式とみなしたことである。この結果、小泉たち国賊が進める新自由
主義に経済の活路を期待するというとんでもない間違いをやらかしたの
である。すなわち、ケインズ的な要素は共産主義の悪夢としてすべて否
定するという歴史的な錯誤に陥ったのである。グローバリズムにどうや
って適応するかではなく、このようなヤクザ型国際経済にどうやってノー
を突きつけ、一国の独立を維持して行くのかが重要である。日本がそれ
を率先することによって、他のアジア諸国に欧米型強者優先の経済に
免疫性と強力な抵抗性を示し、模範となる姿勢が望ましい。このまま行
けば大東亜戦争以前の白人覇権の世界に逆行することになる。

 この観点で、他のどの国にも脅されないでやっていくためには、日本
は国軍をきちんと有し、核武装を整えるべきである。軍事的に弱いから
いつまでもアメリカの属国から抜け出せず、シナには舐められるのであ
る。まともな軍隊がない国にまともな経済国家を期待すること自体に大
きな無理がある。アメリカに言われて改憲するのは間違いである。やる
なら核武装まで睨んで、一気に廃憲し、明治憲法を復刻してから新憲法
を造るべきである。命のないパシフィズムは日本人の魂を蚕食するだけ
である。日本人よ、日本刀の美しさをよく噛みしめて、凛とした自尊の心
持ちを思い出せ。

 日本は小泉的な魑魅魍魎に揺曳している場合ではない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月 3日 (金)

小泉を信じる者は自分の良心を疑うべし

 自民党がここまで執拗に永田議員や民主党の首を絞めにかかるの
は対党姿勢から言えば当然のことである。しかし、それにしても表面
に出てがなり立てている逢澤自民党幹事長代理は、猿侯(おんこう=
猿のこと)のように品格のない下卑た顔である。弱った相手をサディス
ティックにこれでもかと責め立てる逢澤の顔はまったく醜い。(まあ、
こいつは嫌いなんだの一言でいいのだが)

 逢澤は、あの3人のイラク人質事件の時、中東に赴き、格好だけつ
けて何の政治的な仕事もなし得なかった無能な人物である。そんな奴
が、まるで鬼の首でも取ったかのごとく猿顔の歯をひんむいて意気猛
々しく永田を責めている。醜いことこの上ない映像である。本来ならば、
党首の小泉純一郎が堂々と民主党の非を言うべきであるが、奇妙な
ことに彼の物言いは豆腐のような柔らかさだ。一応、形としては逢澤
みたいな下っ端の小間使いみたいな奴に民主党攻撃をやらせておい
て、これ以上、発火物を出さないようにしたい意図が見え見えである。
小泉周辺の自民党員に深刻な後ろめたさがあるのは間違いないだろ
う。

 自民党は余裕綽々で民主党に寛容な姿勢を示しているのか、それ
とも、逢澤の猿攻撃に輪をかけて突っ込みすぎると、藪を突っついて
蛇を出すことを恐れているのかのどっちかだろう。おそらく後者だろう。
小泉自民党と堀江の関係性に拭いがたい胡散臭さがつきまとってい
るのはもはや常識だろう。

 メール騒動でドタバタしていたら、いつの間にか一般会計予算案が
通過していた。国民の血の結晶である税金の使い道、内訳の審議を
まったく国民に見せることなく知らないうちに通過させてしまった。議
会制民主主義は、国民の代表が国会で大事な懸案を必死で審議す
るところに本分があると思っているが、これではその機能が死んでい
るに等しい。

 多くの国民は小泉政権の奸佞をなぜ見抜けないのだろうか。小泉
政権の本性とは、占領当初のマッカーサーGHQの占領統治体制の
再構築なのである。その政策骨子はすべての日本的なるものの廃
止にうち立てる、民主主義社会と言う名目のアメリカ型インフラ、そし
て天皇制度の撤廃なのである。今、日本人はまともな政治家を見つ
けたいと思ったら、その指標を「反米」で見抜くしかないのである。日
本が陥っている問題のすべての元凶はアメリカの対日画策にある。
現在進行中の構造改革も日本のためではなく、アメリカ国益一辺倒
のベクトルを持っていることを認識するべきである。小泉の任期はあ
と半年ほどであるが、この間に気をつけないと女系天皇容認の皇室
典範改正案が成立する可能性は十分にある。とにかく、これだけは
なんとしても阻止しなくてはならないだろう。

 日本人の性向として、付和雷同的に一つの方向にワーッとなだれ
込んでいくことが多々ある。これが良い振り子現象として働けばいい
のだが、悪くするとレミングの集団自殺みたいな自滅的な爆走をしか
ねないダイナミズムを産むこともある。私はいずれそういう大きな動き
が起こると考えている。日本人の振り子的な揺動が、今度は反小泉
に動くとき、よく覚えておいた方がいいことがある。

 それは現政権で小泉マンセーを叫んで自己保身しているような政治
家は日本を建て直し、先祖の意志を継続していく力などまるでない、寄
生虫のような存在であることを知るべきである。反小泉の幕開けが起
きたとき、郵政民営化に諸手を挙げて賛同した政治家連中は意識的に
排斥する必要がある。それでなければ、日本はアメリカのよこしまな奸
策からいつまでも逃れられずに民族の生命を衰弱させていくだけである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 1日 (水)

ホリエモンは米国統治の象徴である

 宮崎学氏編集の「直言」の中で、経済学者の植草一秀氏が次のように
言っている。

重大なことは、ホリエモンが小泉政権の「改革」政策の象徴だったことだ。
昨年9月11日の「刺客」選挙で小泉政権はホリエモンを全面支援した。竹
中総務相は「改革は小泉純一郎とホリエモンと竹中平蔵がスクラムを組ん
でやり遂げます」と絶叫していた。ホリエモンが象徴していたのは、「弱肉
強食」、「拝金主義」、「外資優遇=対米隷属」、「市場原理主義」、「格差
社会」だった。

    http://web.chokugen.jp/uekusa/

 小泉純一郎が進めている構造改革は、植草氏が述べているように拝金
主義、対米隷属、市場原理主義である。この構造改革の本質を一言で言
ってしまえば弱肉強食である。戦後から六十年、この間の日米関係を俯瞰
するとある一つの見方が浮かんでくる。それは戦後の日本が時間を経るに
従い、徐々にあるいは急激に