世界一を喜んだこの爽快な感情の正体とは?
今回のWBC戦に日本人はなぜかくも興奮し、かくも喜んだ
のだろうか。しかし、マスコミの論調にはほとほと呆れた。不
思議というか、なんだかなあというか、戦後、一貫して局是
が左翼的偏向報道コチコチであった各テレビ局のニュースキャ
スターたちが、イチローや王監督の「日の丸を背負って戦っ
た」という説明を誇らしげに言っていたことである。
おいおい、それは、一貫して日の丸を忌避してきた局是
に真っ向から背く話じゃないのかと、私は突っ込みを入れ
たい思いであった。アンタラは、国民の大多数が野球ナショ
ナリズムを賞賛すれば、今までの報道姿勢を裏切って、高
らかに日の丸讃歌を歌うのかい。しかし、あれだけ頂点ま
でホリエモンを持ち上げて置きながら、一年も経たないうち
に石川五右衛門みたいに彼を大逆賊に落とした実績を見
れば、マスコミにはすでに定見も良識も皆無になっていると
いうことが良くわかる。巨大なる変節漢である。したがって、
局是である左翼視点さえ一貫しない昨今になってきたとい
うところだろう。中曽根康弘御老公も目を剥く風見鶏だ。
マスコミはすでに左翼的ではなく、もっとたちの悪い無規
範、無節操漢に成り下がってしまったのである。こんな愚劣
なものに、毎日人々の視神経、聴覚神経を通して何らかの
情報を入れられたんじゃ、国民が愚民化にまっしぐらに進行
していくのは仕方ないことだ。マスコミ催眠で国民は思考を
阻害され、正常な判断力をすっかり喪失した。その結果、国
民は小泉純一郎という狂気の破壊者に政権をすっかり委ね
てしまった。そのために、昨年どんな国家毀損が起こったの
かと言えば、一言では言い足りないほどひどいものである。
国民は、相当以前から、いったいどれだけの国柄破壊が起
き、今現在もそれが加速的に進行していることを自覚する
知性も洞察力も失っているのだ。その話は今後も続けていく。
それはさておいて、戦後、昭和という時代は、戦前の伝統
的日本の内実が時を経るにしたがって緩やかに漸減してき
たが、そのカーブは平成に突入してから急激に下降曲線を
描いた。失われていく国柄でもっとも顕著で深刻なもの、そ
れは「公」というものである。かつては、この日本に公徳心と
いうものがあり、人々は廉恥、すなわち、他者に対して、ある
いは自己に対して恥ずかしいという気持ちを知る心がちゃん
とあった。そのために社会にはほとんど深刻な犯罪は生起
しなかった。ちょっと前までは、小学生も女性も夜遅くまで外
を安全に歩けたのである。
今、社会の安全度合いがどうなっているかは、説明するま
でもないだろう。国際化の時代にあって、かつては当たり前
だった「安全と水はただの神話」が崩れるのは時代の趨勢
だと言われてからも、またかなりの時が過ぎた。日本人は経
済的な低迷のせいで精神の退嬰が起きていると表面では言
っているが、実はこの深い閉塞感は、社会の変質に起因し
ているのである。戦後、もっとも深刻な社会の変質とは公の
消滅なのである。
ある領土内に、複数の人間が居住していて、法律体系が
あれば、いわゆる「公」なるものができるということはない。
「公」というものは場所ではなく、掟(おきて)そのものでもな
い。「公」というものは民族が歴史の中で積み上げてきた、
いや、歴史の中でさまざまな試行錯誤を経て個々の人間の
内面に沈潜させたモラルの顕在化を社会という枠に集合さ
せ、認知された規範体系なのである。すなわち個々が捉え
た道徳観念を、各々の人生や、先祖からの伝承の中で内
面化し、醗酵し、それを他者と確認しあって作り上げた集積
としての内面である。
そこには国土と個人の関係性、他者との関係性、歴史と
いう時間軸との関係性など、さまざまな観念が入り組んで
大きな構造を有している。もっとも原初的な公の観念とは、
よく言われることだが、人間一人では生きていけないとい
う言い方に示されるように、他者との関係性の中で、お互
いに了解し合える決め事や掟を作ることができる共有空間
を形成する意思である。公のミニマムの領域は地域社会で
あり、公のマキシマムの領域は国家である。国家間の関係
性は公とは言わない。私との連続性がないからである。だ
から国家間の関係は国の際(きわ)、国際と言う。
公の定義は深く考えると難しい。つたない理解度で下手
な公の説明を試みたが、私が言いたいことは、公の最大概
念である「国家」のことをどう捉えるかを説明したかったので
ある。戦後の日本人は誤った教育のせいで、「公=国家=
軍国主義=忌避すべき概念」という短絡的な発想に囲繞さ
れてきた。そのために人々の生活感情から国家感覚、すな
わち祖国感情がすっぽりと抜け落ちてしまうという、建国以
来最悪の精神的な牢獄に閉じ込められてしまったのである。
この話にもっとも都合よく関連した出来事が、数日前に国
家的に起こった。それが WBC戦 の優勝である。公の概念
を自分なりに七面倒くさく説明を試みたが、この公はかなり
手っ取り早く感情的に理解できるものなのである。それが日
の丸を背負って国際試合に勝利するということなのである。
王ジャパンが苦戦を強いられながらも雄々しく勝ち進み、つ
いには世界最高峰の地点に到達した瞬間、我々日本人は、
国民全部が「祖国感情」としての喜びを味わったわけである。
これが失った「公」の感覚である。私的な喜びとは次元の異
なる巨大な喜びであることに気がついただろうか。
公とはかくも爽快なものなのである。ここでふとボクシング
の亀田三兄弟のことを思い浮かべた。その次男の大毅が、
「アニキの試合前に君が代が流れた瞬間、全身痺れた。め
っちゃ感動した。あそこでスイッチが切り替わった」と話して
いたが、あの若さで君が代の重さと偉大さを感得したとした
ら、若者にいい兆候、すなわち日本が芽生えてきたと考えて
もいいと思う。彼らがこの先勝ち進み、外人の強豪選手と戦
うとき、彼らは背中に日の丸を背負う可能性はあるのかも知
れない。
結論を言う。公というものは軍国主義に通じる忌むべきも
のではなく、祖国というみんなの郷土に共通する同胞感情を
通して理解できる一つの大きな場のことである。この場は、
精神領域だけではなく国土と密接に結びついている。歴史
とも切り離せない。公が完全消滅に瀕した今日、奇しくも日
本の一部の選ばれた野球人たちがその場を回復させてくれ
たのである。みんなはわかったはずであるが、公、すなわち
国家意識とは、巨大で深い喜びを国民にもたらすものなの
である。人が生きるためには個人の自由だけでは生ける屍
(ゾンビ)になる。公の中で生きる感覚を得てこそ本当のライ
フなのだ。
公が復活すれば、日本には再び安全神話も幸福感もよみ
がえるのだ。公が復活すれば拉致問題がここまで伸びるこ
とはあり得ないことである。同胞の地獄を放置しておけない
からである。公がないから我々日本人は棄民感覚にとらわ
れ、それを個人主義というごまかしの衣でくるんできたので
ある。
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