政権とともに変わる公務員さんの顔
我々一般の国民は、公務員さんに対して、日ごろ、どういう風に思って
いるのだろうか。正直、あまり意識していなかったというところだろうか。
公務員とは「公」、「務」、「員」、すなわち公(おおやけ)の職務に携わ
る人である。直接、我々が公務員さんに日常的に接する場所は、たと
えば市町村役場であり、そこではさまざまな手続きを行う。一昔前は、
役場の公務員にしても、郵便局員にしても、旧国鉄の職員さんにして
も、公務員のイメージは厳格で取っつきにくい感じであった。まあ、公
務員さんと言ってもいろいろな種類の公務員さんがいるが、ここでは
イメージとして役場の公務員さんを念頭に置いている。一昔前は、国
民はお役所の職員さんに対し、少々の揶揄を込めて「親方日の丸か」
とか、応対に不快な思いをした人は「やつら、威張りくさりやがって」な
どと言っていたことがある。
ところがである。押しなべていかつい感じだったこの公務員さんたち
が、いつの間にか豹変した。柔和になっていたのである。窓口はすべ
て訪れる人間に対して柔らかく親切に応対するようになってきた。なん
か奇妙だなあと思っているうちにどこへ行っても公務員さんは親切にな
っていたのである。
国民は、そのおかげで市役所などに行く時の憂鬱感が大幅に軽減し、
役所は対人ストレスを受ける代表格からいつしか除外されていた。警
察署でさえもそうである。昔のお巡りさんは「おい、こら、まて」式のコワ
モテであったが、最近のお巡りさんにはそういう態度を取って市民に嫌
われたら大変だということで始終ニコニコしているようだ。
私は齢五十を過ぎてふと考えた。これは、日本に民主主義が根付き、
いわゆる「お上」が国民に対して、支配的に威張る時代は過ぎ去り、一
般国民も公務員さんも分け隔てなく、民主主義社会の中で、お互いの
人格や権利を尊重し合ういい時代が到来しているということなのだろう
かと。すぐに、いや違うなこれは、むしろ逆だなと気づいた。
時代を通暁して公務員さんと国民の関係を見ると、そこにはお上、す
なわち国家と国民の関係性の変遷がはっきりと見えてくるのである。何
も難しいことを言うつもりはない。ことは簡単である。公務員さんが親し
く感じ、全般的に国民に対して親切になり、威張った人々という印象が
抜けている今の世相とは、怜悧な見方をするなら次のことが言える。
戦後民主主義による個人主義が、人々の価値観を個の自由に収斂さ
せ、個の自由はいつの間にかミーイズムに取って代わられた。その結果、
国民は、自己が公(おおやけ)と連続しているという意識を大幅に希薄化
させてしまった。公というのは規範であり、秩序であり、社会性である。そ
の公が、漸減的に溶解へ向けて進んできたのが、昭和の終わりごろから
平成の今にかけてである。この公(おおやけ)意識の溶解が漸減的に進
んだことと、公務員さんの柔和な態度現出は、明らかに相関関係を持っ
ていたのである。
私は思う。国家とは、国民の存在理由(レーゾンデエトル)を与えるため
の秩序であり縛りである。それは過去の歴史の積層という連続性から成
り立っている。つまり、人々が自由に幸せに生きる保証を与えてくれる大
きな枠である。この確かな枠があってこそ、国民はのびのびと個人生活、
そして社会生活が送れるのである。おおやけの最大公約数が国家であ
る。私の言いたいことはこうである。国家というものが磐石であってこそ、
国民は「ちゃんと生きる」よすがを持つことができるのだと。
ただ、重要なことは、この国家という枠が、国民の幸福の根幹である存
在理由を与えるためには、十分な歴史性を背負っているという条件があ
る。つまり、先祖たちの弛まない営為の集積と時間の流れを土台にして
国家というものは意味を持つのである。今の日本人は国家を背負ってる
のだろうか。戦後、我が国は外部からいきなり不慣れな世界観を付与さ
れた。それは、西欧近代主義によって生み出され、アメリカによってソフィ
スケートされ先鋭化された「民主主義」というものである。先鋭化された
という意味は革命を経て出来上がったものという意味である。当然なが
ら、この革命民主主義の本質は伝統時間の集積を全否定する。これが
戦後の日本から日本らしさが漸減し、今まさに消滅の前夜に立たされて
いる主な理由である。我々が憧れたアメリカのモダンな世界観というの
はそういう日本破壊の型を持っていたということである。
国民は国家を背負い、国家は国民を背負う。この相補関係は歴史の
連続性によって担保される。戦後の日本人は国家を価値否定し、それを
背負うことをやめた。その結果、概念としての国家は希薄化し、国家は
日本人、つまりは国民を背負えなくなってきている。これが日本国民を
囲繞する真の危機である。これから脱出し、国家という概念に実体性を
取り戻すためには、歴史のレジティマシーを日本人の心に甦らせること
である。つまり、神話が示すアーキタイプを再び心に確立することである。
何も難しいことはない。神武から連綿と続く天皇を中心とした国体観念
を持つだけでそれは見事に復活するのである。なぜなら、先祖が踏襲し、
次代に引き継いできたことを我々も踏襲し、また次代に引き継ぐというご
く自然だった日本人の在り方に戻ればいいだけである。今の日本人が
元気がない真因は、国家のあり方を見失ったために、自己の顔さえも
のっぺらぼうのようになんだかわからない顔になっていることにある。
この話から、公務員さんを見つめなおしてみると、ある帰趨にたどり着
く。それは、公務員さんが厳格であって欲しいということだ。親方日の丸
をしっかりと背負って欲しいということだ。国民に対しては憮然と応対し
ていてもよい。埴輪や能面の顔をして窓口業務を行っても良い。頼むか
ら公務員さんは国家の権威を代行しているという強い誇りを持って仕事
をして欲しい。警察官は昔のような近寄りがたい威厳を回復して欲しい。
たとえば、いきなり現れたら、子供が思わず泣いてしまうような警察官
の方が安心だ。たとえば鬼平のような。それでこそ治安は守られる。
私は、日本の公務員がコワモテ顔になることを望む。公務員さんと関
わる国民はおどおどとその顔色を伺うような感じになって欲しい。公務
員さん、つまり、官吏の皆さん方が取っつきにくいということは、国家が
確かであるという証左なのである。今の国民は、公務員が所得の面で
も、福利厚生の面でも格段に優遇されていると感じ、羨望の念と若干の
怒りを持って眺めている人たちは多い。しかし、これはとんでもない言い
がかりなのである。公務員さんは好不況に関わらず、身分と所得は充
分に保証されてしかるべきであり、退職後の保証も一般国民よりは格
段の恩恵を受けて当然である。それほど、公務員さんの仕事は厳格で
大切ものなのである。
公務員さんが厳格で鬼瓦のような表情を持つ国の国民は幸せであ
る。不幸せなのは、公務員さんが揉み手をし、破顔一笑して、桂三枝
のように「いらっしゃあ~~いっ」と迎えるどこかの国である。それは
国家が溶解していることを、この目で確かめてしまうというつらい現実
なのだ。
国家とは厳格な秩序である。その国家の権威を代行する職業は、そ
の秩序を体現する任務を背負うわけであるから、おのれの生き方を律
し、けっして悪いことはしないという自律的な精神を保持する宿命を持
つ。これが国民に安心感を与えるわけであり、そのことによって国民は
おのれの生活感を確かに獲得できるのである。
その意味で公務員さんの役割は大きい。公務員さんが悪いことをしな
いということは、それだけで国民の倫理規範の涵養になるのである。
母親が子供と役場に行く時、子供は道徳のモデルを公務員さんに見る
ことだろう。子供は思う。あの人たちは怖い顔をしているが悪い人では
ない。家庭とは違う何か別の大事な事をやっているんだな、だから近
づきにくいんだなと思うのである。
ここに、子供たちとおおやけの接触がある。学校は駄目である。先生
に公がない。なぜなら、先生は「国家は悪いことするんだぞ~っ、公は
野放しにすると戦争するんだぞ~っ」と教育するからである。子供をの
びのびと育てよう、人格を認めて大事に教育しようとして子供たちから
石を投げられ、火傷を負わされる。そこで、先生は言う。「公徳心が必
要だな、こりゃ」と。あんたらが公を駄目だと教えたんじゃないのか。最
も日本的なる公と隔たっているのは先生方かもしれない。その代わり、
彼らは新しい公になっている。すなわち、それは「先公」という呼ばれ方
をする威徳のない「こう」である。
これを読まれた方々は、公務員さんの顔つきと「おおやけ」の話の関
係か、ふ~ん、そういうのどかな見方もあるのか、じゃあ、これまでの話
で、特に「落ち」はないんだなとお思いだろう。落ちはあるのである。
さて、ここからが落ち話。
ニコニコ顔の公務員さんが、ふたたびいかつい顔になるような兆しがあ
る。だがそれは私がくどくどと述べたような与太話ではない。小泉路線と
は、日本をアメリカ型に造り替える完全なる売国路線である。その行き着
く姿は、極左急進的な無政府状態である。それは新自由主義という一種
のルソー教に基づく日本国家のインスタント食品化だからである。
アナーキーとは限りのない「自分」のことである。限りのない自分が何
人か寄せ集まれば、そこは無政府空間である。これが我が国に起ころう
としている。すると、今の政府、つまり、小泉を筆頭とする新自由主義者
たちの集まりは必ずこういう仕掛けを施す。
この無秩序は警察権力できちんと治める。警察は反乱分子の国民を
なるべく効率よくお縄にするように、そして公務員は、盗聴盗撮しても良
いからしっかりと国民を監視するようにという号令が下される。その一つ
のはっきりとした兆候が共謀罪法案である。法務省の説明は、国連総
会で採択された越境組織犯罪防止条約の国内法化のためだと言う。マ
フィアとか蛇頭などのはっきりした犯罪組織なら意味はわかる。
しかし、法務省が準備した法案の中身は、国際犯罪を指定する越境
性はなく、対象範囲が国内のサークルや結社や会社のようなごく普通
の組織性を範囲にしているように思う。国際犯罪防止というよりも、これ
は明らかに国内に焦点が向けられており、その意図は犯罪を未然に防
ぐことではなく、現政権批判を封じる言論統制にある。つまり対象のター
ゲットはただの国民なのである。国民を組織犯罪から護るという触れ込
みで、実は国民自身の言論表現をがんじがらめにする目的がこの法案
である。戦時下の危急存亡時ならいざ知らず、こういう準平和状況で、こ
のような治安維持法的な思想を持つ法案が策定されるということは、内
閣がファッショ化しているという確かな証拠なのである。また、マスコミが
この法案成立を側面援護している。つまり、他のニュースを執拗に拡大
再生することによって、この危険な法案の審議過程と成立に煙幕を張っ
ているのである。本当に悪質極まりない。
私が、小泉純一郎という男を、なぜ売国宰相、国賊と呼ぶのかその
輪郭が見えてきたと思う。小泉は日本の国柄を破壊して、新自由主義
社会を打ちたてようとしている。新自由主義とは思想的に国家を無政
府状態に置く。「小さな政府」とは、煎じ詰めれば無政府社会のことで
ある。そしてこのイデオロギーの行き着くところが夜警国家なのである。
今、なぜ「共謀罪法案」かと訝っている人たちはこれで疑念が晴れた
と思う。これは小泉構造改革路線の必然的な帰結なのである。何の不
思議なこともない。直視した方がいい。我が国は小泉たちの奸策によ
って夜警国家に堕そうとしている。加えて、完全監視社会、密告社会
がこれに付随する。夜警国家とは、新自由主義社会が遷移して極相
化した社会のことである。そこには究極の格差二極分解構造が現出
する。この典型的なモデルがアメリカである。それは、この間のニュー
オリンズ・ハリケーン被災で世界にまざまざと知られてしまったことで
よくわかると思う。日本もこのまま小泉構造改革を推し進めて行けば、
持てる一割の富裕層と、赤貧洗うが如しの持たざる九割の貧民に分
極化するだろう。
どうであろうか。前半の話は冗談ぽく書いたのだが、後半の落ち話は
リアルそのものである。小泉改革は軸足を矛盾した二つの考えに置い
て国民を騙し続けている。一つは「小さな政府万歳」とだけ言って、けっ
してその経済構造が新自由主義であることを言わない改革指針を持つ
こと。もう一つは、彼の靖国参拝に見える正統派保守主義の顔である。
もっともこの顔は保守のポーズをしているだけであり、その本心は極左
的かつ虚無主義的な色合いの濃い個人主義である。つまり、日本の歴
史性からは完全に遊離した欺瞞の保守主義なのである。靖国神社境内
を歩む彼の心には英霊は存在しない。
小泉の悪質なところは、保守の顔をした急進的な国家破壊者だから
である。しかも、その目的は、アメリカ国益のために日本の国柄を積極
的に破壊していることにある。国民を恣意的に統制する人権擁護法案
が先送りになった。彼は今度は任期中に共謀罪の強引な成立を狙って
いる。我々国民は国家の命運が、この詐欺師の綱渡り的な一挙手一
投足で左右されている現実を把握しなければならない。
ついこの間は、党議拘束までかけて皇統破壊を目指す皇室典範の改
正を企んだ。そのあとは人権擁護法案である。そして今は拙速に共謀罪
をごり押ししようとしている。今までの宰相で短期間にこのようなことをや
ったリーダーがいただろうか。小泉の政策行動のすべてが日本の完全
解体を目指しているのである。
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