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2006年5月28日 (日)

戦艦大和(20)◎戦後日本の文明構築力は弛緩した

  ◎戦後日本は文明エントロピーを増大する方向に歩んだ

 私はなぜ、戦艦大和にこれほどまでに惹かれているのだろうか。小学生
のころにプラモデル・キットの紙箱に描かれてあった、波しぶきを上げて進
む大和の勇壮な姿に憧れた記憶は確かにあった。しかし、必ずしもそれが
今の基層的な原体験になったとは思わない。子供のころは、一番好きなも
のが、戦車やブルドーザーであった。それは無限軌道輪の力強さに惹か
れていたからである。地面の凹凸を物ともせずに進む姿にたまらない感動
を覚えていたからである。

 戦艦大和は、目に見える場所にすでに実物はなかったわけであるから、
実物のスケール感も、鉄の浮き城の剛毅な硬質感も知りようがなかった。
雑誌やプラモデルの箱に描かれた挿絵が船体を認識する唯一の情報源
であった。しかし、人が描いた挿絵からでも、その受ける印象は圧倒的な
迫力のある戦艦だと感じていた。私はその頃、道なき原野を豪快に走破
する戦車の重厚な迫力と同じような機動性を、海上の戦艦大和に感じて
いたようである。もちろん、子供なりに直観的に大和の調和の取れた美的
なスタイルは見ていたとは思うが、興味の中心はまず力強さであった。

 あれから四十年近く隔たって、自分は戦艦大和の新たな面に強い魅力
を感じ取るようになっていた。つまり、戦艦大和に対する興味や感動のファ
クターが、子供の頃と逆転したのである。それは力強さよりも、大和に顕
現された美的特質が、自分の深奥を揺らしてやまないことである。もちろ
ん、私は今でも戦艦の持つ剛毅、豪快なイメージは好きだが、今は戦艦
大和に顕現された、軍用という用途から想起する世界をはるかに超えた
日本特有の文化のデザインに尽きない興味を抱いているのである。

 前にも書いたが、戦艦大和にデザインされた秀麗かつ緻密な芸術的形
状は、建造に携わった者たちが意識して仕上げた造形性ではない。これ
は、先人たちが当時、その持てる技術の最高水準を駆使し、一つの国家
的機密プロジェクトの中で組み立てる中で無意識に出たものである。そこ
には、乗用車や電化製品など、市場に出回る民需要品のような商業主義
的な意匠、あるいは新規性を示す意図的なデザインなどは微塵も見られ
なかった。戦後日本の産業品や構築物、あるいは公共的な人工環境群
に、日本独自の文明的なデザインがまったくなかったわけではないが、文
明そのものが湧出する統一的なデザインは皆無だったとは言えるだろう。
戦後の由々しき問題点は、戦艦大和に無意識に現われた文明の美的な
統一性が、社会のどこにもほとんど表現されて来なかったということにあ
る。

 「大和」建造が計画された昭和八年当時、それはまだA140計画と呼ば
れていた。大正十一年のワシントン軍縮条約では、主力艦の数量の制限
と合わせて、基準排水量は三万五千トン以下、備砲の口径は四十センチ
以下に制限された。また、昭和五年のロンドン条約では、主力艦の建造
中止期間が五年延長されて、昭和十一年末までと決まった。

 当時の世界の軍艦事情は、米、英、日の主力艦保有比率が、五:五:三
であった上に、主力艦の建造中止機関を五年も延ばされたのである。米、
英はこの間、条約決定条件に抵触しない一万トン規模の軍艦を大量生産
することができたし、既存の戦艦を改良することができた。しかし、日本海
軍の既存艦はこの間に老朽化し、いざ英米と対峙する時には、圧倒的に
数が少ない老朽艦で、相手国の多数の最新鋭艦と戦うという悪夢を見るこ
とになった。

 ここに、ワシントン条約を脱退して超弩級大和級戦艦の設計思想が決定
されたのである。最終的に決まった大和の仕様規模は、主砲四十六セン
チ砲八門以上、副砲十五、五センチ砲三連装四基、二十センチ砲連装四
基、速力三十ノット以上、総排水量は七万トンクラス。設計大綱は三つあ
り、一つは、他国の追随を許さぬ卓越した戦闘能力を有すること、すなわ
ち量産せず、相手国の量的規模に太刀打ちできる戦闘能力を有すること。

 二つ目は、緒戦において相手に大打撃を与える主砲を有すること。その
ために四十六センチ主砲を装備する。これは戦艦決戦において相手側の
攻撃レンジの外側から優位に砲撃できること、すなわちアウトレンジの考
えである。三つ目は、機動力を重視し、仮想敵国の同型戦艦よりも、速力
において三ないし五ノットの優性を有すること、そのためには艦速を三十
二~三十五ノットにすることであった。このような設計思想は当時の国力
的な背景を考えれば当然のことであった。ここで、歴史というものを私は
考える。

 日本が、欧米列強と同列な潤沢なる物資がなく、しかも、産業革命的に
も後進的立場から出発している国であったなら、たとえ、列強に対峙する
ためとは言え、大艦巨砲思想を持てるものだろうかということである。つま
り、アウトレンジの戦闘思想を思いついたとしても、それを実現し得るハー
ドとソフトが備わっていただろうかという疑問である。

 私は国家の技術産業能力が、イギリスから始まった技術的な産業革命
の潮流だけで成り上がったのであれば、我が国は大艦巨砲戦艦どころか、
欧米の戦艦と同等のものを建造することさえ無理なことであったと思うの
である。ところが、日本はこの当時、大和級という史上最大の超弩級戦艦
を建造したのである。当時の非常に貧しい条件化でこの偉業をやり遂げ
た日本の奇跡的な国力の背景は、欧米のヘーゲル的で経時的な歴史観
では説明し得ないことなのである。

 ここにおいて、戦艦大和建造の背景に、日本という国の文明の生態史
観的な視点がそれを説明できるのである。すなわち、日本におけるオート
ジェニック(自成的)な産業技術の進展は、江戸時代の鎖国期間に十分
に熟成されており、それが土台となって、明治以降の欧米の産業技術に
適応し、ある部分ではそれを陵駕できたということである。この見方は戦
艦大和の技術史的な意味において、非常に重要で興味深いことである
が、今私が行っている考察は、大和の美学的な内実を主眼にしているか
ら、技術的な視点からのその展開は控えておく。しかし、欧米に対して技
術的な適応性、進歩性を当時の日本が持てたという事実は、日本文明の
根幹的な在り方と深く関わってくる事象でもあるから、産業技術史の生態
史観的な認識の基本は心に留めておきたい。

 話を最初の流れに戻すが、大和という戦艦に顕現された文化、芸術性
を、今は考察対象としている。戦艦大和が大東亜戦争の終焉を象徴した
戦艦であったということは、ほぼ異論はないであろう。しかし、それと同時
に戦艦大和は戦前文明そのものを、美術的モニュメントとして有した歴史
的な構造物であるから、その文明モニュメントが破壊されて海底に沈んで
しまったことは、戦前に実体として現われていたそれまでの日本文明の
形も一緒に沈んでしまったことを意味する。勘違いしてもらいたくはないが、
文明の形が沈んだという表現は、日本文明そのものの自成的な潜在力が
死んでしまったということではもちろんない。

 もしそうならば、時代に応じた日本文明の在り方や未来の可能性を展望
することさえ、むなしい発想となる。日本文明の蟻塚を創造していく、活力
や方向性が打ち出せないでいるのが戦後の日本なのである。高度経済成
長を成し遂げたことは、民族の一つの力ではあるが、戦前までに行われた
きた文明の絶え間ない建設はまったく行われていない。これから展開する
が、戦後日本のすべての社会インフラや経済発展の核には、文明が健康
体であったなら、必ず現出する美的構築物や美学的な様式性はまったく
ないのである。それは都市の景観、町並み、地方の無茶苦茶な道路行政、
環境行政にはっきりと出ている。国民の総合的な営為の結果が、荒廃し
た社会景観しかもたらさなくて、どうして文明が築けるというのだろうか。

 これはすなわち、民族の衰亡と言ってもいいだろう。戦後六十年は、日
本人の精神を涵養する日本文化の集積は行われず、その環境的な結果
としての日本文明の構築は成されて来なかったのである。これが、今の
日本人が抱える最大の問題である、日本人は戦後の世界観の大規模な
修正を行い、それと共に戦艦大和に顕彰された正統なる日本の文明性
に回帰することである。その上で、新しい文明を構築していくビジョンを探
る必要がある。こういう方向性を持つことが民族生存のための需要な課
題なのである。そのために緊急を要する第一の条件は、アメリカの属国
感覚から少しでも早く脱出することである。

 明治維新から戦前、つまり終戦時まで、日本は紆余曲折はあったが、
独自固有の文明の集積は絶えず行われてきた。これを、文明エントロピ
ーの絶え間ない減少化という姿で観るならば、明らかに戦後の日本は
文明エントロピーの絶え間ない増大に向かってきたと言えるのである。
それを文明の生態史観的な言い方に換えると、戦後日本とは、日本固
有のオートジェニック(自成的)な文明創出を停止した状態で、アメリカに
よるアロジェニック(他成的)な社会インフラと、伝統精神から乖離した他
動的な国民精神に安住してしまったという情けない事実があったという
ことである。

その傾向は現在に至っていっそう強まってきており、現在はその他成
的な遷移(変化)の極限、すなわち極相(クライマックス)に到達しようと
しているのである。これは文明エントロピーの姿で観るなら、増大の究
極地点、すなわちアメリカ的な新自由主義世界という、いわゆる他者文
明的な平衡地点に到達しようとしているのである。こういう戦後日本の
概括的な動性を、梅棹の文明生態史観的に言うならば、戦後の日本は、
それまでの「第一地域」の領域から離れて、明らかにアロジェニックな
「第二地域」に属するグループに入ってしまったということになる。この
変化を現代的な国際政治力学で言い換えるならば、日本はシナの華夷
秩序に再び飲み込まれようとしていることになる。つまり、日本のオート
ジェニックな連続性が中断してしまった形になっているのであり、これは
国家の自立性の破綻なのである。文明的な秩序形成能力の衰亡、す
なわち、これは日本文明の完全な崩壊が間近に迫っているということと
同義なのである。

 今の日本が突破しなければならない、民族・国家的な最大の問題点と
は、アメリカによる我が国への支配的な実態にある。この他成的な強制
力から自由になることが喫緊の課題である。これを成し遂げるための精
神的な自覚は、我が国が固有の文明を有していて、その文明の集積は
戦前まで確かに行われていたという歴史観に目覚めることである。そう
いう正しい歴史観に復権すれば、日本人は正統な文明の連続性を取り
戻し、21世紀の新たな外衣をまといながら、再び生命力に満ちた力強
い文明観で生きることが可能になるだろう。

 日本文明の復権こそが、かつて三島由紀夫が檄文で語ったこと、すな
わち、「生命を超える価値、それは日本である」ということの真意だと私は
確信しているのである。生命を超える価値と言う素晴らしい文明性を絶え
間なく築き上げていた日本は、大東亜戦争に敗北してから、その自国文
明に生きる気力を喪失した。そのため、基本的な文明創出の営為性を失
い、文明もどきであるアメリカの自堕落な享楽的世界観に取り込まれた。

 アメリカの世界観、すなわち近代主義の成れの果ての世界観は、人間
や自然的存在を愚弄するイミテーションの文明である。ここには希望も未
来も存在せず、破壊と享楽の志向性しか見えない。アメリカはすでに文明
エントロピー的に観て熱的な平衡死の段階にある。文明生態学的に観て
アメリカは、死相を伴った極相的地点に入ってしまっている。ここから世界
秩序の安定化や環境修復の可能性はまったくあり得ない。

 戦艦大和に顕現された文明の形こそ、日本が、いや、世界がその手に
再び取り戻すべき、希望の文明なのである。冒頭で、私は戦艦大和にな
ぜこれほどまでに惹かれているのだろうかと言ったが、その答えを言う。
戦艦大和こそ、忘却した日本文明の正統なる象徴なのである。だからこ
そ私は戦艦大和に、単なる憧憬を超えた熾烈な郷愁と回帰願望を覚え
るのである。

    (参考図書 前間孝則「戦艦大和誕生(上)(下)」)

 

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2006年5月22日 (月)

戦艦大和(19)◎戦前最後の偉大なる文明モニュメント

 ◎戦艦大和こそ戦前最後の偉大なる文明モニュメントである

 前回では、「戦後教育の本質とは、煎じ詰めれば、欧米の近代主義その
ものの世界観である。当然、この世界観で自国の歴史や文化、芸術を分析
しても実りある発展的な回答は得られない。」と書いた。補足すれば、近代
主義の世界観では、なぜ有効性が乏しいのかということであるが、これは
案外簡単に指摘できる。結局、この世界観は要素還元主義なのであり、機
械的単線的な世界像である。

 ここでは思考様式が単純化される傾向が顕著になる。人間の営為に関
わる複雑性や多様性すべてが、単一な要素還元主義として解釈されてし
まうという傾向が発生してしまうのである。我々戦後生まれの日本人は、
物心付いた時から否応なくこのような思考方式に従ってしまう習性が身
に付いているのである。

 戦後教育で我々が与えられた近代主義的な世界像のイメージとは、ずば
り言ってアメリカニズムである。アメリカの文明観、歴史観が西洋近代主義
というものの一つの行き着く先を示している。文明の生態史観的な見方か
らすれば、アメリカ一辺倒の世界観が、どれほど我々に誤った文化感性を
持たせてしまうかという言い方ができてくる。「西洋の没落」を書いたシュペ
ングラーは、西欧近代観念の終焉をテーマにしたが、その取り扱い方はキ
リスト教の終末論的世界時間の基底にある予定調和的な世界観によって
行われている。謂わば、ニュートン・ライプニッツ的な世界像から少しも抜け
出ていないのである。

   これを自明の理として子供たちにおしつけ、これを自明の理としてありが
たがって六十年の戦後を歩んできたのが日本である。欧米の歴史観には、
そういう進歩史観の大前提が強固に持続しており、先進地域ではギリシ
ャ、ローマ以来受け継がれてきた自分達の文明が唯一無二の文明だと思
い込んでいる。前回にも言及したが、仮に自分たちの文明に比肩できる文
明がどこかに存在したとしても、それは、やがて自分達のレベルに追いつ
いて来るものだという単線的経時的な思い込みに立脚しているのである。
これが線形的な世界観による要素還元主義的歴史観である。

 森本哲郎も言っているように、考えてみれば、このような独断的、自己中
心的、思い上がった歴史観もないわけである。世界史はヨーロッパ史が代
表すると思いこむことが、学問的に言って大きな間違いなのである。こうい
う欧米白人の傲慢な侵略性を助長するような歴史観、文明観のアンチテー
ゼとして、「文明の生態史観」的なアプローチはいたって重要なのである。
ここで再び生態史観的な文脈に戻ろう。 

 旧世界においては、高度の文明国となることに成功したのは日本、そし
て、その反対側に位置する西ヨーロッパだけである。これと中国、東南アジ
ア、インド、ロシア、イスラーム諸国との間には顕著な歴史的発展格差があ
る。誤解のないように言っておくが、ここで言う「発展」という意味は、産業革
命史的な発展経緯をたどった文化圏ということである。

 梅棹忠夫博士は、旧世界のこの2つの地域のうち、前者を「第一地域」、
後者を「第二地域」と名付けた。彼の考察によれば「旧世界を横長の楕円
にたとえると、第一地域は、その楕円における東の端と西の端に、僅少に
位置している。特に、東の部分は小さい。第二地域は、その全体地域(楕
円)の残ったすべての部分をしめる。第一地域の特徴は、その生活様式が
高度の近代文明であり、第二地域の特徴はそうではなく、前近代的な型が
多いということである。

 また、梅棹博士は言う。重要なことは、第一地域の近代化が「オートジェ
ニック (自成的) なサクセッション」の過程であるのに対し、第二地域の近代
化は「アロジェニック (他成的) なサクセッション」だと述べている。そこで私
自身の解釈を少し加えるが、第一地域と呼ばれた西ヨーロッパと日本は、
形態的に見れば確かに両者とも自成的な遷移(オートジェニックなサクセッ
ション)で近代化を成し遂げたという同一性を有しているが、質的にはまっ
たく異なるものである。それは両者における文明の質的差異によるものな
のである。

 なぜ、文明の生態史観的な考察経緯の中でそれを言ったのかといえば、
論理の道筋で多くの生態史観論者が「オートジェニック」という部分で、イギ
リスと日本を同位同値的に取り込んでしまっているからである。実はこの部
分は注意を要することなのである。ここで気をつけないと、オートジェニック
(自成的)という概念が、イギリスを中心とした近代主義の開花としての「進
歩主義史観」という、いわゆる欧米主軸的な論理水脈に流れてしまうから
である。

 そうなってしまうと当然ながら、日本論、日本文明論は最終的にまったく
意味を有さないおどろおどろしいものとなる。これを防ぐためにイギリスの近
代化、すなわちその自成的秩序には産業革命的な進展史があり、日本の
近代化に見られる自成的秩序には江戸時代の産業技術の振興史があっ
たことを強調して置く。この両者には自成の同位性、共通性はまったく存在
しない。第二地域を媒介とした間接交易があったからと言って、自成秩序
の同質性は必ずしも生まれるものではない。ただ、両者のオートジェニック
なサクセッションには、「共時性」と言ってもいいほどの不思議な同期性が
見られることは確かである。イギリスの場合は、産業革命による急進的な
技術産業立国への遷移であり、日本の場合は、ゆるやかな独自技術の
産業的発展という遷移である。今は、この視点がかなりの重要性を帯びて
いるということだけを示唆しておく。この視点を得るには、川勝平太氏の
「日本文明と近代西洋」がいい参考になる。 
 
 今行っている戦艦大和を基調にした日本文明論において、論理展開上
ではあまり詳述する必要はないが、イギリスの産業革命史的な発展史が
重要性を持つのは、欧米白人の侵略史観を考察する場合に限ってだけで
ある。戦艦大和自体が、そういう欧米的な侵略史観による攻撃性に対す
る防波堤として出現しているからである。大和に浮き出た日本美の塑型
とは、文明の統一性に顕現される民族の美的かつ防衛的な意志の表出
に他ならない。これを考察する場合、戦争や国際状況など、いわゆる周辺
的外縁的条件が、民族意識を何らかの形で触発したということはあるのか
もしれない。少なくとも、戦艦大和に顕現した日本美は国家防衛という戦
闘技術的な側面から無意識に出たものである。

 文明において、民族の営為の象徴として出てくる時代の美的なモニュメ
ントには、意識、無意識を問わず、国家防衛の意味合いが強く出ているよ
うに思う。もっとも、文明という概念そのものが、人間の統一的な営為から
出た環境的な装置群であることからすれば、この文明を守ることと国家を
護ることは同位的な概念であることは明らかである。

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戦艦大和(18)◎船体に見える二層の美

  ◎大和とともに晦冥に沈んだ日本美の系譜を考察する

Yamatoaa

 戦艦大和は、大型建造物として掛け値なく美しい。その美しさは、他の
戦後的な建物、たとえば近代的なドームやパビリオンのような大型構築
物よりも、飛びぬけて際立った美しさを持つ。ざっと概観しても、無骨な直
線は一本もなく、わずかにまがった流麗な曲線の集合体として統一的か
つ三次元的な造形美を構成している。どこから眺めても、曲面的な流線
構造を持つ、まさに奇跡的な造形美を醸し出していると言えるだろう。戦
艦大和が模型としても、最もよく愛好されているものであることは、第一
には、その美的造形性が突出しているからである。

 前回で、「大和に顕現した日本美の系譜」というタイトルをわざわざ銘打っ
て置きながら、肝心の「日本美の系譜」の展開までには至らなかった。今
回もそこまで行けるかどうかわからない。なぜなら、このテーマには文明
論が深く絡んでいるからである。日本に限らず、ある民族の美意識や文
化意識を探勝する時、その民族が背負い、たどってきた文明を考察しな
ければその本質はよく見えてこないと考える。

 従って、文明の統一的な一貫性から生じる美を考察する場合、ただ単に、
芸術的モチーフの様式の変化や外国の影響などを論じる系譜からは離れ
て、その文明が持つ本質的な内実に肉薄する必要がある。ここにおいて、
美を探究する人の把握する文明観がそれぞれに異なっていれば、時代が
顕現した美の解釈も当然ながら違ってくるのである。

 私自身は文明を把握する方法論として、文明の生態史観を使いたい。そ
のために、いささか、しつこいとは思うが、梅棹忠夫博士の生態史観をもう
少し確認しておこうと思う。我々のように、戦後生まれで、戦後教育で育っ
た日本人は、国家というものの文明観、歴史観に、巨大な観念的錯誤を持
ってしまっている場合がほとんどである。戦後教育の本質とは、煎じ詰めれ
ば、欧米の近代主義そのものの世界観である。当然、この世界観で自国
の歴史や文化、芸術を分析しても実りある発展的な回答は得られない。

 そうは言っても、文明の生態史観が完璧なアプローチ手法として完成され
た概念であるというわけでもない。今西錦司や梅棹忠夫が他界した今、こ
の系譜の学問が優秀な学者さん達によって、より深く、より高度に踏襲され
て欲しいと願っているだけである。私はその一人として、たとえば川勝平太
氏などに大きな期待を寄せている。文明の生態史観的な手法がまだ揺籃
期であることは、戦後意識と言われる、いわゆる国民の半睡状態を覚醒す
るという喫緊の状態に、残念ながら大きな遅滞を招いている一因にもなっ
ている。

 しかし、この文明解析手法は、欧米由来の近代主義的な方法論に比べ
て、明らかにその有効性は桁違いに高いと確信している。この観点から、
日本の文化や美の系譜を調べていくという方法を私は選ぶことが多くなっ
ている。もちろん、歴史へのアプローチも、生態史観的な手法を用いること
によって、知りたい歴史の本質を抽出したいという気持ちがある。

 私は、戦艦大和の全身的な船体に、日本という文明圏からしか生まれな
い統一された日本美の塑型を見て取ることができる。冒頭にも書いたが、
戦艦大和の美しさは群を抜いており、戦後六十年という時間に、その美し
さに比肩できるような美の構築はいまだに為されていないことを問題視す
る。これが私の戦後への解釈の重要な基底感覚となっている。

 唐突に話を飛躍させるが、栃木県の日光東照宮は、ただの「お宮」では
なく、江戸文化の凝集的なモニュメントである。有名なドイツの建築家であ
るブルーノ・タウトは、日光東照宮の入り組んだ建築様式、陽明門の華美
で色彩豊かな装飾性を見て、「あの野蛮なまでに浮華な社廟」と、思いっき
り否定的な言辞を吐いた。そして彼は、桂離宮や伊勢神宮の簡素清明な
建築様式を見て、これこそ日本の美であり、本質だと言ったことは有名で
あり、日本の多くの者たちがこの説に幻惑され、その系譜は今もって続い
ているというのが実体である。

 ブルーノ・タウトの語った日本美についての見識は、わかりやすいだけ
に非常に魅力があり、ついつい引き込まれてしまう。彼は言う。桂離宮は
ミカド文化の流れであり、東照宮はショーグン文化の流れであると。この
二層の系譜から戦艦大和の美を比定した時、戦艦大和の造形的な美の
佇まいは、明らかに桂離宮の書院造や借景をイメージさせるものであり、
伊勢神宮の簡素清冽な建築様式を髣髴とさせるものである。もちろん、
広く捉えるなら、日本刀の洗練された美しさもそのイメージに重なるもの
である。絞って言うなら、戦艦大和に顕現した様式美は、日本の神殿、
伽藍、城郭等の伝統的な建築様式に共通するイメージとして捉えること
が、もっとも自然でわかりやすい道なのかもしれない。

 しかし、ブルーノ・タウトが指摘したこの日本美の探索には、大きな欠陥
が付随している。それは日本美に固有の動的なエネルギーの存在を彼自
身が感じ取れなかったということにある。タウトの桂離宮ベタ褒めは、いわ
ゆる外国人にもわかりやすいように、観光様式化されたスタティックな侘び
寂びに通じるものであり、否定的に言うならば、箱庭(はこにわ)的、静的
な日本美学に拘泥しているようにも見える。しかし、それは間違いというこ
とではなく、局面的な解釈である。そこには、美を捕捉する視点に不足し
ている論理素材があるということである。それこそが日光東照宮に凝集さ
れた日本的情念による動的なエネルギーと空間性なのである。

 「紅葉(もみじ)の美学」を書いた栗田勇によれば、日光東照宮の二天門
に諧調的に施された、金色、朱色、黄色、緑の極彩色の装飾は、主に紅葉
の色彩と、間に混じる緑の照葉をデザインしたものであるという。金色は陽
光のデザインであろう。そうなると、タウトの指摘した、「あの野蛮なまで浮
華の社廟」という断定は、日本美のもう一つの要素を見逃していた無神経
さの証とも言えるだろう。実際は陽明門の過度と言われるきらびやかな装
飾は、我が国の照葉樹林の変化に富んだ樹相や葉相を表している。また、
二天門の上部装飾には、整然と組み込まれた升組み(ますぐみ)があり、
そこに施された緑、黄、朱、群青、金という五色の彩色は、日本の山々の
紅葉と緑葉、そして暮れなずむ藍色の空、金色はそこに照り映える夕暮
れの陽光を表している。つまり、その陽光は黄昏(こうこん)色なのである。

Photo_3
   東照宮二天門の升組(ますぐみ)


Photo_2
       (東山魁夷 「秋翳」)

 実は、日光東照宮に顕著に見られる装飾性は、ほとんどは、日本の自
然の姿を忠実に描写した非常に優れて芸術的な様式性とみなすことがで
きる。これは建築様式のみならず、欄間(らんま)様式の最高峰の芸術と
しても高い価値を持つ。こういう視点を無視して、上野アメ横通りの雑多
な空間性と日光東照宮を比定するような乱暴な試みには問題がある。多
様な装飾性が織り成す東照宮の様式美を、アジア的な雑然性と同位に
置く見方がいかに間違いであるかわかるだろう。日本美の本質は桂離宮
だけではないのである。

 そうは言っても、私自身、つい最近までは、戦艦大和の美と共通した日本
美が、桂離宮と伊勢神宮の神明造りだと決め付けていた
つまり、タウト的
系譜だけで物を考えていた過去がある。ある意味それは無理のないことで
もあった。なぜなら、戦艦大和の写真は無彩色のごく少ない枚数でしかな
く、写真がスタティックな二次元画像である以上、動的な大和のイメージは
つかみにくいものだったからである。加えて、大和という軍艦の舳先に直径
六メートルの菊花の御紋章がデザインされていることや、船の名前が「やま
と」であることも、そういう皇統系譜のイメージが強く出ていることは否定で
きないものであった。

 日本型建築物にも、戦艦大和にも、文明的統一性によって生まれた共通
した日本美の様式が出ているのである。それは大和をスタティックに眺め
れば、明らかに伊勢神宮や桂離宮の本質を感じるが、波を掻き裂いて進む
動的な戦艦大和には、日光東照宮のダイナミックな自然描写のエネルギー
に共通した「美の位相」が見えたはずである。動く大和を見られない現代の
我々には、その日本美の系譜が見えにくくなっているのである。私がなぜ、
戦艦大和のもう一層の美に思いを馳せたのかと言えば、何年か前に体調
を崩して、とある病院に入院した時、かつて、南方戦線に赴いていた八十
歳近いご年配のお隣さんから大和の目撃談を聞いたからである。

 栗田艦隊によるレイテ湾突入時であるから、その話は昭和19年10月
ころであろう。彼がどういう位置にいて、どの場所から見たのか失念した
が、停泊している大和と推進中の大和を両方見たそうである。静止した大
和は圧倒的な巨大さを示し、その威容に魂消(たまげ)たそうである。魂消
るという言い方は何度もしていたが、如何にもこの年代に合っている表現
だと思った。戦艦大和が波を切って動いた時、彼は兵隊仲間とともに唖然
としたまま押し黙って見ていたそうである。彼は色々と大和の印象を私に
語ったが、特に印象に残った感想があった。

 それは、静止していても、動いても、戦艦大和という船は、それまでの船
の概念を越えていたそうである。こんなものは見たことがないと。まず、大
きいのに驚いたが、大和には何とも言いがたい気品があったことに感動し
たそうである。そして、力強く推進する大和を見たとき、彼は生涯忘れられ
ない、名状しがたい畏怖の念を持ったそうである。それは、「大和が日本
にある限り、この戦争はけっして負けることはない」という絶対的な確信だ
った。この感慨が、当時の日本人に普通にあった「神州不滅」の心象風景
であったのかどうかはその時聞き漏らしてしまったが、少なくとも大和が体
現した国家像に大きな愛情と誇りを持ったという感じを受けたのである。
大和と遭遇した彼の衝撃が如何に大きかったか私にはよく理解できた。

 戦艦大和建造に携わった先人たちの気持ちが、船体に高雅な美を結晶
化させたこと、これこそが私独自の戦艦大和論なのである。私が感じたこ
とは、そのご年配者が大和を語っている時、彼は追体験として大きな感動
をその胸に甦らせていたことはよくわかったのである。彼はこうも言ってい
た。推進中の大和には「隙(すき)」というものがなかったそうである。

 隙ということの正確な意味はわからなかったが、推進中の大和には、ど
んなものが向かっても、とても太刀打ちできるものではない、そこには泰
然自若という表現を超える物凄い風格があったそうである。私も大和には
人一倍好奇心を持っていたから、食い下がっていろいろ聞いてみた。特に
彼の目撃談話から得た新しい情報を再構成してみると、それまで大和に
感じていた印象に新たな印象が付加されたことに気が付いた。つまり、
私には動いている時の大和の情報が異常に少なかったわけである。従っ
て、その分、その御年配者の目撃した動的な戦艦大和の印象談に強く心
を動かされたのである。その印象の中にはそれまで知らなかった新たな
戦艦大和が確かに見えた気がした。

 すなわち起動した時の大和の美的な印象なのであった。そこに見えた
大和は、もはや静的な桂離宮ではなく、日光東照宮に様式化された、我
が国のダイナミックな自然の象形化された強烈なイメージなのであった。
もちろん、そこには台風や雷雨、洪水などの荒ぶるイメージだけではなく、
変幻する紅葉空間も強く想起された。それは、象徴化され、昇華された我
が国の自然、すなわち、山處(やまと)の国の体現なのである。推進する
戦艦大和がなぜ紅葉空間に凝らされるのか。

 戦艦大和は誕生から死まで、その寿命期間のほとんどが大東亜戦争、
対米戦争そのものと同期しており、その死に様は日本人の特攻死そのも
のであった。それは、春に新芽を出してから秋に色づき、まさに落葉する
間際にいっそうの鮮やかさに彩られる紅葉の美学を想起させるからであ
る。日本人にとって、桜花の落花の有様と紅葉の輝きは、生と死の連続
性において同質である。紅葉の燃えるような輝きは、この世とあの世の狭
間(はざま)にある輝きである。これが戦艦大和の最後の旅立ちにもっと
も相応しいイメージとして私は捉えたのである。

 紅葉は「凋落の美」という叙情的でスタティックな鑑賞感覚で捉えられ
ることが多いが、それはあくまでも皮相の一面である。紅葉とは言っても、
そこには千変万化の諸相がある。陽光に映える紅(くれない)や黄色の
紅葉は、日本人の生の情念そのものから発するまぶしい紅蓮の炎なの
である。紅葉(もみじ)狩り行った時に感じないだろうか。紅葉に染まった
山の中、緩急の曲がりくねりやアップ・ダウンがある杣道(そまみち)を歩
いて行くと、近景の紅葉、あるいは遠景の山々の紅葉が、自分の位置の
在り方に呼応してダイナミックに劇的に変化していく光景を心に留めたこ
とはないだろうか。

 この風景のあざやかな変幻は、若葉色が萌える季節よりもはるかに劇
的な変化なのである。なぜならば、秋深き照葉樹林に乱舞する陽光は、
そのあざやかな原色的な色彩を増幅し、変化に富んだ山々の奥深い空
間性を観る者に迫ってくるからである。こういう動きのある劇的な空間は、
それを観ている者の情念を幻惑し、深奥から妖しいエネルギーを呼び起
こすのである。観る物の位置に従って、圧倒的な光の強弱と色相の変化
をもたらすその光景は、山里にひっそりと閉ざされて生きてきた民族の始
原的な心象風景を共振させるのである。それはあたかも、山々そのもの
が秘めていた情念を一気に解放しているかのようでもある。この光と色彩
の劇的な輻射は、まさに日本民族の裡に秘めた凄まじいエネルギーその
ものなのである。

 西欧近代主義的な感性による美学に慣れた日本人にはわかりにくい
ことなのかもしれないが、欧米人やシナ人の情念は外側に発散するが、
日本人の情念は内側に沈潜する。大雑把な言い方では、前者に属する
民族性は発散(divergence)であり、後者、つまり日本のそれは収束
(convergence)である。今は、この程度に抑えておくが、欧米の発散性
は、進取の気性というよりも侵略性向である。一方、日本の収束性という
性向は、内懐に外のものを取り込んで変容させることにある。別な言い
方をすれば、これは日本特有の文化的な「ムスヒ」のことであるが、本論
の主旨から外れるのでこの辺でやめておく。

 発散と収束、両者におけるこの関係は舞踏性にもっともよく現れてい
る。たとえば、スペインのフラメンコ・ダンスは、情念が外側に直線的に
激しく向かう。一方、日本の能の動きや日本舞踊の「舞い」は、情念が
螺旋的曲線として内側に静かに向かうのである。形態的に見ると日本
の踊りは、西洋に比べて確かにスタティックではある。しかし、目に見え
ない情念の内圧は日本の方が桁外れに大きいのである。

 日本の静かな舞いには隙がない。それは心に秘める凄まじい内圧を
保っているからである。一見、静かな風情を保つ日本人が一度怒ると、
秘められたその内圧は一気に爆発に向かうのである。話の流れにはそ
ぐわないかもしれないが、一昔前の東映のやくざ映画は、いじめ抜かれ、
侮蔑され続け、我慢に我慢を重ねたすえに、主人公の怒りがついには
爆発して敵対するヤクザを壊滅に導くというストーリーが定番であった。
昔の純粋に筋を通すヤクザにも「舞い」の原型はあった。そういう原型
は、たとえば「次郎長三国志」の山本長五郎の行動パターンなどにもよ
く出ている。究極の我慢の上に思いを爆発させるのである。

 「舞い」というのは、心を殺し、相手の攻撃や、自己に沸き起こる軽挙
妄動に繋がる想念を優雅に躱(かわ)しつつも、ゆっくりと確実に内面の
精神的なポテンシャルを高めて行く、日本人特有の心理様式なのである。
だから、観客は舞踏を観ながら、その様式に同調し、自己の内圧を高め
て行くのである。西欧の舞踏は観客でさえも発散の形を持つが、日本の
舞踏は、観客も舞う主体とともに収束の型を持つ。すなわち精神のチャ
ージである。実は、赤穂浪士の話にも、この形は、典型的な民族心理の
アーキタイプとして出ているのである。

 高倉健扮する捨て身の超人的なやくざも、大東亜戦争でアメリカに果
敢に挑んだ日本人も、アーキタイプとしては同じ型を持っているのであ
る。血まみれになって日本刀を使いこなす義憤のヤクザ、米国艦載機
の銃撃に、血の海の中で鬼神の如くに応戦する大和艦上乗組員は、
奇しくも紅(くれない)に萌える紅葉の凄まじい情念の同一性が垣間見
える。ここに見られる潜在的な民族エネルギーとは、美学的に言うなら
ば、明らかに「紅葉の美学」なのである。このような民族性が持つ普遍
的な位相は、戦艦大和の形状にも、その最終行動にも、美的形象とし
て現われているのである。

 つまり、推進起動性能を発揮した時の戦艦大和は巨大で純粋なエネル
ギーの塊なのである。隙がないという表現は、そういうことなのであろうと
私自身は合点したのである。美学において、日本と欧米が表現するエネ
ルギーは対蹠的な位置にある。欧米のエネルギーはプロメテウスの火、
あるいは太陽神アポロンである。しかし、日本のそれは、死に往く間際に
燃えさかる情念の炎であり、此岸と彼岸の境で昏(くら)く輝く紅葉の篝火
(かがりび)である。また、それは漆黒の闇の中、天岩戸の隙間から漏れ
輝くアマテラスの光でもある。荒れ狂う大波濤をものともせずに静かに推
進する戦艦大和、動きの中に見えるこの勇壮で高貴な姿は、神武東征の
御陵威(みいつ)であり、日本の自然が持つダイナミックなエネルギーで
ある。それは紅葉の山河における空間変化に凝らされる、あでやかで強
靭な日本文明の形象なのである。

  南方の戦地で、戦艦大和と遭遇したあの御年配の衝撃と感動は如何ば
かりであっただろうか。戦艦大和のとてつもない存在感は、戦闘マシーン
としてのメカニカルな迫力をはるかに越え、すでに戦艦とは思えない別の
光景がそこに現出していたと私は思う。それこそが、船体に顕現した、高
雅で威厳ある大和朝廷の弥栄(いやさか)だったのであり、神州と呼ばれ
た、類まれなる美しい国土を擁した日本そのものの顕彰なのであった。そ
れは、伊勢神宮内宮本殿の簡素清明なたたずまいと、四季折々の山河
に溢れる、荒々しく、そして繊細な自然の無意識による様式化であった。
この二層の美的本質を、戦艦大和という世界最大の戦艦に統合した統
一原理こそ、悠久という時間の橋に燦然と輝く皇統文明なのである。


 このように、戦艦大和に顕現された日本美には、二層にわたる美の系譜
が、完成された形として統合されていたのである。

(参考図書:栗田 勇「紅葉の美学」)

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2006年5月21日 (日)

戦艦大和(17)◎大和に顕現した日本美の系譜

 ◎大和に顕現した日本美の系譜

 戦後時間は、今、六十年を越えて経過しようとしている。この間に日本は
戦艦大和に比肩できるような何か時代的な美のモニュメントを創造し得た
のだろうか。この問いに私はノーと言わねばならない。この問いかけを、皮
相に解釈した場合、我が国の戦後は、戦艦大和よりも規模の大きな時代
的なモニュメントを多数造ってきているではないかと思うかもしれない。

 たとえば、造船で言うなら、戦艦大和の大きさをはるかに凌駕するマンモ
スタンカー類であり、テーマパークで言うなら、全国各地に散らばっている
多種多様な大型テーマパークがあるじゃないかという思いである。私が言
いたいのは、規模、形、枠としてのモニュメントのサイズを問いかけたので
はなく、文明というものの統一性が、時代に応じて生み出す美の祖形的構
築があったのかどうかということなのである。

 ここにおいて、前回、なぜ私が文化と文明を考察したか、その主意を明ら
かにして置こうと思う。私は国防観念というものが、官民、為政者を問わず
国民の美意識が基(もとい)となって出てくるという考え方を持つ。これがあ
るから、伝統や文化に湧出する日本美を、ただイベント的、観照的な対象
として捉えているわけではなく、文明の方向性や質を決定していく重要な
動的要素として捉えているのである。

 こういう思想潮流から観た場合、文化と伝統、あるいは、それらを包含す
る総体的な文明というものに、美というものが様式的、装飾的に、そして
統一的に現れてくるということは、それを芸術的な側面だけで捉えるので
はなく、文明の装置群を構成する重要な契機として見る視点を養う必要が
あると考えている。従って、戦艦大和という構造体に湧出した無意識の美
は、戦前の文明観を忠実に顕彰した一つの明確な形(様式)なのである。

 戦艦大和に顕現された美は、時代が戦争という動乱にあって、戦艦とい
う国家防衛のための戦闘マシーンに無意識に生まれた美である。しかし、
この日本美は、時代が平安朝や江戸期のような太平であろうと、日清、日
露、大東亜戦争時のような怒涛の戦乱期であろうと、明らかに統一的な文
明性から湧出するものである。私が言いたいことは、時代を超えて通底す
るこの美の本質に深く迫る行為は、その時代時代の民族意識や文明観を
端的に表していると思っているからである。歴史を過去に遡って追体験す
るということは、先人たちの情念や発意に対し、後追い的に共振し共感す
ることであり、その時代の全般的な心象風景を探る行為である。

 私の日本認識の中心として、戦後の日本は明らかにある種の亡失の上
に歩んでおり、その亡失の対象とは民族の生命力にとって必要不可欠の
重要度を持っていたと看做しているからである。果たして、戦後に亡失し
た戦前の本質とは一体何であったのか、それを問いかけ、その姿を鮮明
にすることで日本民族の営為の志向性を探ることは可能だと考えている。
そのために文明と文化というものをある程度は概念的に把握して置く必
要がある。少なくとも、戦前の日本の姿とは、国家神道によって出来上が
ったいびつで硬直的な国家像ではない。そこには建国以来の文明的な水
脈が確かに存在したことを失念してはならないと考える。

 前の記事では梅棹忠夫博士の説に倣い、文明の定義を自分なりの解釈
で述べた。ここでは、その話の延長をもう少しやらなければならない。文明
とは人間と人間を取り巻く装置群であり、システムである。その装置群の総
体は、人間の営為によって築き上げられた環境システム群でもある。この
システム群を具体的に言えば、諸々の構築物、建築物、組織、制度類、工
業体制、芸術類、交通網、教育システム、行政システム、情報システムな
どが上げられる。こういうものを含めた一切の総体的な環境を文明と定義し
てもいいだろう。

 では、文化とは何かと言えば、人間の精神的な営為によって築き上げら
れた諸々の動的な人間的装置系と言える。これは私自身の捉え方である
が、文化は文明に包摂される、より狭義の概念ではあるが、文明との決定
的な差異は、常に人間の作為が直接関与する能動的発展的な価値の大
系である。非常に強引な言い方が許されるとするなら、逆に文明とは、能
動的な文化の集合体が、ある時間内にそれなりの統一性と秩序を伴って
発生した、静的な結果としての環境装置群と言えるだろう。

 私自身が勝手に考えていることなのかもしれないが、文化と文明の定義
が紛らわしいのは、文明が文化よりも広義の概念であるにも関わらず、そ
れはスタティックな環境としての性格があるということであり、文化は文明
に包摂されるが、それは能動的であるということである。これも強引な言い
方ではあるが、文化が時系列的な発生の契機となり、結果として文明が出
来上がるという図式も成り立つのである。しかし、注意すべきことは、前述
したダイアクロニカルな(経時的な)線形性で考えているのではないという
ことである。能動的な文化大系が、人間の営為を存在論的に媒介して、結
果として静的な文明に至るという文脈である。すなわち、文化によって有機
的にデザインされた環境装置群が文明である。ならば、遺跡とは何である
のかと考えた場合、そこには生きた人間がいないのであるから、装置群は
機能を停止している。従って、それは文明の形骸的残滓であり記録であ
る。

 文明の生態史観論で戦艦大和を見た場合、大和は、時代における文明
的統一性が非常に明瞭に顕現した一つの完成された装置である。もちろ
ん、戦艦大和という一つの際立った装置を、軍艦として機械的、機能的に
分析することは可能であるが、ここでは戦艦大和に顕現した日本美に絞
り、日本論的な集約として考察してみたい。

 ある掲示板でこういうことを言った者がいた。国際関係において、日本と
いう国は「固定論理」を嫌い、「情況論理」のみで動く宿痾を持った国だと。
まあ、文脈からして彼なりの独特な歴史観があったにせよ、この言い方で
は不穏当と言うか、重大な誤解を招く惧れがある。情況論理だけが国際
関係の動力学的要素だと断定した場合、日本は受動性しか持てない国で
あるという硬直した方向付けになってしまうからである。

 もしかしたら、彼の言いたかったことは、文明の生態史観で言うところの
オートジェニック(自成的)、あるいはアロジェニック(他成的)ということだっ
たのかもしれない。その文脈で言うならば、情況論理と固定論理の対比的
考察は初めて意味を有してくる。もちろん、ここでは国家の固定論理がオー
トジェニックに、情況論理がアロジェニックに対応している。

 生態史観の最も特長的な視点は、近代化をサクセッション、すなわち遷
移(せんい)として捉えることにある。こういう動力学的な国家観は十分に
考察する価値がある。しかし、国家同志の関係性に対し、ダイレクトに固
定論理、情況論理というスタティックな二項対立概念を用いても実相から
乖離するだけである。そこで、その固定論理的な国家姿勢、情況論理的
な国家姿勢を意味ある手法として捉えるためには、西欧の近代主義的な
歴史解釈を応用することではなく、生態史観的に動的に思考する必要が
ある。私としてはまったく賛同できないアプローチではあるが、日本という
国が情況論理だけで動きやすいという見方を深めるのであれば、彼は固
定論理と情況論理という二値論理に拘泥せずに、環境に応じて自らを適
応させてていく空間を確保するという能動的な第三の視点、すなわちニッチ
(niche)に該当する概念を提示する必要があった。

 生態学に馴染みのない人のために少し解説するが、森林生態学では、
特に遷移(Succession)と極相(Climax)という概念を用いる。ニッチ(niche)
という概念も文明の生態史観にとっては非常に重要な概念であり、むしろ
それが生態学の本質と言えるものであるが、今の時点では、遷移と極相
というものを簡単に説明して置く。

 わかりやすいように森林生態学の初歩的な概念を用いれば、植生は不
変固定的なものではなく、条件の変化に適応した動的な多様性を開示す
る。この動きを遷移と言う。そしてこの遷移が最終的に行き着く平衡状態
を極相と言うのである。ある森林を一つ複雑な生物体として観た場合、こ
の生物の生存力として環境の変化に適応するために遷移という衣替え的
な動きを行う。そして、環境の変化に適応する諸条件に整合した植生を持
ったとき、この森林は極相として一種の平衡状態にいたる。

 国家の動力学的な国際対応も、その都度に自成的、他成的な差異は
生じるにしても、微妙に、あるいは劇的に遷移と極相を繰り返しているの
である。そして、国際関係が文明と文明の衝突という側面もあると考える
なら、他国家との関わり方如何においては、民族の美意識も微妙にかつ
劇的に揺動するのである。ただし、国民に統一的な文明観が持続してい
るならば、その美意識の極端な揺らぎは起こらず、むしろ外来のものを取
り入れて、日本は自然に美の変容(止揚)を行うことができるという巨大な
キャパシティを持っている国である。

 戦艦大和とは、その意味でも技術的に黒船を取り込んだだけではなく、
我が国の文明の統一性において、見事に美意識を顕彰させた格好の事
例なのである。

(参考図書;「文明の生態史観」梅棹忠夫)

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2006年5月19日 (金)

戦艦大和(16)◎文化及び文明について。私見

 ◎文化及び文明、私見

文明について少し考える。我々はヨーロッパの文明、アラブの文明、アジ
アの文明など、比較的簡単に「文明」という言葉を多用するきらいがある。
文明というのは、当然のように自明であるように思われているが、実はそ
の定義となると非常に難しい面がある。文明というものの本質は何である
のかと考えていくと、大きく捉えるならば、ある時間内における人類の営為
の総体的な顕現という見方がある。

 以前、文化と文明について以下のように考察したことがある。英語で文
明はcivilization、文化はcultivationに相当する。どちらの用語も日本語で
は「文」が付いているので、これらの語感が与える印象は実に紛らわしい。
私自身、論述をしていて、この二つの言葉を使用するに当たり、意味上の
明確な区分を意識せずに使っている場合が多いようだ。今までこの両者の
用語については、さまざな論議が交わされており、いまだに確たる定義は
ない状況にあると思う。

 文明と文化を区別して考えるようになったのは19世紀のドイツかららしい
が、私なりに二つの大きな区分を言うためには、まず、「文明の生態史観」
を書いた梅棹忠夫の説を借りて説明した方が効果的であろう。私の文明史
観は氏の文明史観にかなり近いからである。表現は異なるがそこに通暁す
るベーシックなものは非常によく似ている。彼の生態史観的な方法論では、
文化の概念には二つの捉え方があって、一つは、文化というものが通時的
(ダイアクロニック)な前後関係において文明と比定されていること。もう一
つは、文化と文明が不即不離の関係であり、両者が同時存在的、かつ併
存的(パラレル)な関係を保っているということ。これは文化が文明に包摂さ
れるということにおいてはより明確な位置づけと言えるだろう。

 通時的ということの意味であるが、たとえば文化人類学者のM・エリアー
デなどが、文化という語を用いるときは、先ず文明というものを、近代以降
の現代文明と位置づけ、伝統的に調査研究してきた未開社会の文化的要
素を集合的に文化として捉えている考え方がある。つまり未開社会の文化
とは、やがては現代文明に至る経時的過程の途上にあるという見方であ
る。不正確な言い方ではあるが、端的に言うなら、文化の集合的要素が時
間的な後追いとして、ついには文明に至るというリニア(線形的)なベクトル
を持つということである。

 梅棹忠夫はこの考えを否定する。実は私もこの通時的関係には異を唱え
る一人である。この考え方の基底には、未開社会とは、我々が属している
現代的生存空間とは時間的距離によって隔たっているとする考え方であ
る。文化というものが文明という、より大がかりな枠の中に包摂される概念
であると考えたとしても、私の感想を言うならば、この考え方の根底には、
欧米人特有の近代主義をベースにした短絡的な進歩史観の傲慢さ、放埓
さが横たわっている。つまり欧米的進歩史観のいかがわしさが出ているの
である。

 現代技術文明は、高度に進化したさまざまなテクノロジーで成り立ってい
るから、明らかに、「高度技術文明」とは言うことができるだろう。だが、これ
を人類の最終モデルとして理想化、絶対化するのは間違いである。現代技
術文明以外にも文明は多岐多様に存在し、過去にも多く存在してきたから
である。例えば青銅器文明があり、鉄器文明があった。また土器文明があ
り、我が国の縄文時代のように、照葉樹林型の森林文明もあったわけであ
る。

 物質的な方向に出るか、精神的な方向に出るかの違いはあるが、ここに
文明という概念にとっては、成熟度、あるいは価値上の差異は存在しない
わけである。歴史の経時的推移が即進歩であるという通念は悪しきダーウ
ィニズムの弊害であろう。しかし、欧米白人が好んで概念化しているこのダ
イアクロニック(通時的)な進歩史観は、今も有効に彼らの基本的な世界観
に染み渡っているのである。今は展開をしないが、彼らの線形的な文明観
には、キリスト教特有の予定調和的な終末論的世界時間が深く関わってい
るのかもしれない。キリスト教的な経綸感覚と、ダーウィンの「種の起源」に
言われる進化の仮説的時間感覚を、彼らは、その概念的対立があっても、
実は両者を矛盾なく受け入れているようにも見える。

 文化とは歴史的伝統空間の中で、古代から連綿と引き継がれた人類の
営為がその基層概念を為しており、文明とは、文化と同時存在的に発生し
たさまざまな装置群、システム群の総称を言う。文化文明論を展開するとき
りがないが、我が国、日本の民族的時間は数千年、国家的時間は約二千
七百年である。この永い時間の中には、日本特有の数え切れない文化の
集積があり、数え切れない装置群、文明の出力があったのである。これら
には天皇を求心力とした滔々とした連続性があり、巨大な力や能力が蓄え
られているのである。これを探る日本論は興奮と可能性に満ちている。

 文化とは、膨大な装置群や社会制度群で成り立っている文明という環境
の中に生きる人々が、精神的投影を行った秩序ある出力という風に私は解
釈している。つまり、文明とは歴史の中における環境の総体であり、文化と
はその中から湧出した人間の精神性から形作られた営為の総称ということ
になる。これを言うと、文明は環境なのであるから自己目的を持たないが、
文化は精神の表出であるからそこには人類が何を目指しているかという
「自己目的」があると考えてもいいだろう。

 神話の精神的雛形、あるいは十七条憲法のような掟群、現代ではマスメ
ディアなどの公共媒体など、歴史の中において、さまざまな文化の湧出、そ
して文明の要素である環境装置群を見れば、そこには民族が何を志向して
いるかが見えてくるのかもしれない。歴史考察や民族学とは、このような視
点から見ることによって、人間の本質を探る行為なのであろう。それはとり
もなおさず、自分とは何者なのかという問いかけへの探訪なのである。

 日本人として先祖のたどった歴史や営為の本質を追体験する行為とは、
人間存在の意味を探る重要な旅なのである。

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2006年5月17日 (水)

戦艦大和(15)◎黒船超克は民族の悲願

  ◎黒船超克は民族の悲願としてあった

 ふたたび、戦艦大和に見える船影の美に迫ってみたい。以前に書いた
「戦艦大和(13)◎船影に見る亡失の日本美」と少し重複するが、私は現
在の日本が失っている万古の日本美が実は戦艦大和ともに沈んでしまっ
たと考えている。そのことを、先の記事で導入的に次のように書いた。

 日本人の心に「お国」が甦らなければ、日本美は復活しないのである。
別な言い方をすれば、日本美が国民意識に戻ってくれば、先祖たちへの
敬愛も、子孫たちの幸福も願うことができる。そうなれば、磐石な国防意
識も必然的に出てくる。日本人とは、国家の安泰を祈る気持ちが強くある
ときが一番幸せを感じる国民性を持つ。何度も言うが、護らねばならない
ことをしっかりと認識することが大切だと思うのである。「お国」とはそうい
うものだと考えている。

 つまり、日本人が本来の伝統的な美意識を日常的な佇まいとして気持
ちの中に甦らせなければ、結果的に、祖国、未来、国防に対して愛情を
持って考えることはできないというのが私の基本にある。しかし、日本美
を復興させようと言っても、美の本質は説明しづらいほど多岐にわたり、
それぞれに多様性がある。従って、これは一筋縄では行かないのである。
また、生活環境の激変によって、子供たちが自然環境から重要な美意識
や情緒を涵養することが難しい情況になってきている。

 たとえば大店法規制緩和による郊外風景の人工化などである。高速輸
送化や生活環境のコンクリート化によって、人々の社会環境にいわゆる
「遊び」の空間がなくなっていることも重要である。昭和30年代は、いたる
ところに空き地や野原があり、親子でキャッチボールをしたり、野花を摘ん
だりするいわゆる「ゆとり空間」があったが、日本が経済成長を遂げるに従
って、ゆとり空間に使われていた土地は急速に地価担保空間となり、子供
たちが自然と触れ合える空間は閉ざされて行くことになった。このことは、
コンクリート護岸工事によって川辺空間や海辺空間が危険な場所に変化
してしまったことも大きい。

 里山や自然の川辺に親子で遊べる空間が消滅したことが、どれほど日
本人の情緒涵養にマイナスの効果をもたらしたか、はかり知れない影響が
ある。親が子に、人間の基本として何か重要なことを伝えるためには、言
葉や背中を見せるだけでは足りないのである。それを自然に行うために
は、古来から変わらない野辺や河原の自然の舞台装置が不可欠だったの
である。野辺や川辺や海辺は、教育のための絶好の教室だったのである。
親の愛情や権威はそこでこそ、効果的に子供に伝わったのである。

 戦後、日本人がどんな重要なものを失ったかと問うなら、それは間違い
なく日本人特有の「情緒空間」であると言うことができる。子供たちが育つ
過程で、大人の世界に憧れ、夢を持ち、人として将来に健康な希望を求め
ていくためには、この情緒空間の存在がはかり知れない重要度を持ってい
ることは間違いない。これが、社会性、道徳性を育み、日本人としての伝
統的な美意識を継承させて行くよすがとなる。

 何度も言うが、美意識は他者への愛情だけではなく、郷土や国家に対す
る強い愛情を生む。これが国防意識の醸成には不可欠なのである。考えて
みればこれは当然であろう。守ろうとするものに愛情があるから守る気持ち
になるのである。愛情がないものをどうやって守るというのだろうか。戦後の
教育や社会整備の基本にあった思想には、この愛情教育が皆無であった
ことは考えねばならない。知育や効率だけに絞った教育が我が国に何をも
たらしたのか。それはミーイズムに拘泥するという、謂わば美意識とは対
蹠的な便益性と享楽性である。これはいまさら多くの説明を要しないであろ
う。

 戦艦大和は数葉の写真しか残っていないが、それでも最近はC.Gやイラ
ストなど、大和の美しい復元図が目に入るようになった。日本人は、戦艦大
和をただ珍しい時代の巨大戦艦というモニュメントで見るよりも、この戦艦の
船影に髣髴と現れた日本人の美意識の原型を見るべきである。大和を美し
いと感じる日本人が今どれくらいいるのかわからないが、もし、大和の船影
に万古不易な日本美の塑像を感じ取る日本人がいるなら、それは民族の
DNAが共鳴したからにほかならない。そこには戦後亡失した日本美がたし
かに存在しているのである。

 時代時代で、日本特有の文化や文明を作っていくことにはさし当たって
の喫緊性はないのだが、国家防衛というものは明らかに緊急性がある。
国家防衛とは言っても現実には二種類のものがある。一つは文字通り軍
事的な国家防衛の構えである。もう一つは、実はこれが戦後日本人の最も
大きな問題であるが、日本人の精神における内面的な防衛観念のことで
ある。戦後の我が国は、東京裁判史観を基底にした教育や、具体的にア
メリカ任せで軍事を忌避してきた特殊な事情のため、人々は国防意識に
かなり疎い情況に陥ってしまった。

 私は、歴史における日本人の心理的な風景として、戦艦大和という存在
は、黒船というものに対し、国家防衛の心象的象徴として現れた軍艦だと
考えている。戦艦大和を否定的に語る人々は、例外なくこの戦艦が、時代
に遅れて出来上がった前時代の遺物のように言う。たとえば、時代は航空
戦主力に移っているにも関わらず、海軍は大艦巨砲主義にこだわるという
大愚を犯し、巨額な経費と手間をかけて無用の長物を造った。これだけの
経費とエネルギーを注ぐのであれば、その分を性能のいい戦闘機製造や
航空母艦建造に費やすべきだったとか、さまざまな批判を言う。

 大和に対するそれらの否定的言辞は、プラグマティズムに見るなら確か
にその通りであり否定すべきところは何もない。しかし、私は思うが、米国
との艦隊決戦を考えた時、先人たちは黒船という幕末の圧倒的な脅威に
対して、いかにそれを超克するかという命題を持っていたような気がする。
もちろん当初は、戦艦や空母の保有数などの差異を考えた時、日本は米
国と同じように量産する手立ては取れないわけであったから、戦艦大和と
いう超弩級戦艦に戦いの一点集中的な突破力を求めたことだろう。

 しかし、それを実現した時には、すでに時代が航空戦主力に移行してい
た。ここには確かに戦艦大和の悲劇性が存在していた。しかし、先人たち
は必死で大艦巨砲主義にこだわった。これを、今の我々は愚かにもほど
がある、海軍は何という頭の固い旧弊な考えから抜け出なかったのだろう
かと、半ば呆れ顔で問う。しかし、この当時の先人たちが大艦巨砲主義に
こだわった理由を深く見つめると、私にはどうしても幕末の黒船襲来を思い
浮かべてしまうのである。これが、元寇時の蒙古・高麗軍の襲来とどこが
違うのだろうか。明らかに両者とも、海を越えてやってきた軍事侵攻であ
る。

 幕末の先人たちは、黒船が象徴する西欧の圧倒的な国力や軍事力に
対して、心底から恐怖感と惧れを抱いた。つまり、このままでは遅からず、
我が国は奴隷国家に成り下がり、先祖たちの思いも皇統も灰燼に帰すこ
とになると。おそらく、今の我々には想像を絶するような危機感とともに熾
烈なる国防意識に目覚めたと考える。先人たちは考えた。黒船を凌駕す
る強い「黒船」を自らの手で作り上げねばならぬ、それが為されてこそ、日
本は欧米に劣らぬ自主独立の地位を護れるのだと。

 つまり、日本人が戦艦大和建造に異常なまでに固執したのは、黒船を
精神的に超克したかったという民族の悲願があったと考えるのである。
もちろん、大和の46センチ主砲は、米国戦艦がパナマ運河の川幅から
その大きさを制限され、主砲対決になった場合、砲弾の到達距離上の
優位性から作られたことが第一のプラグマティックな建造目的ではあっ
た。すなわちアウトレンジの戦闘思想である。しかし、大和建造に携わ
った者たちの無意識の底流には、黒船の超克という民族の精神的な大
悲願があったのではないだろうか。私は大和を考える場合に、そのこと
は忘れてはならないと考えている。

 あとで述べるが、戦艦大和の船体に顕現した美には、国家に対する
民族の無意識の愛情が出ている。そこには、建造に携わった人々の熾
烈な国防意識が、結果として造形的な美を表出させたのである。 美は
愛情を育み、愛情は守る対象を鮮明に映す。国防意識の根底には国家
に対する愛情が不可欠であり、そのためには、伝統的な美意識を復活さ
せることが肝要なのである。
 

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2006年5月14日 (日)

バッケの語源について考える

G11_2   

 今日は「バッケ」のことを少し書く。カサが開いていない、まだつぼみ
状フキノトウを味噌と合えたものを、秋田県ではバッケ味噌、あるいは
バッキャ味噌と言う。あ、そうそう、バッケとは東北地方で言うフキノトウ
のことである。

 これを食すと、ほんのりとした苦味を伴い、春の香りを凝縮したような
味わい深い料理である。フキノトウ特有の苦味が大人の嗜好を満足さ
せてくれる。

 バッケ味噌についてはネットでもたくさんの記述があるから、今では
特段珍しいものではないが、「バッケ」の語源となると、これはまったく
諸説紛々で、これぞという定説がないというところが本当だろう。バッケ
の語源を知っても知らなくても別にどうってことはないのだが、バッケと
いう言葉自体が面白いので、やっぱりどんな言葉の発生をたどったの
か私自身は昔から興味があった。バッケとはいったいなぜそういう名
前になったのだろうか。

 比較的に有名なところは、『みちのく 南部の方言』(田一二三 著)と
いう本に書かれているものらしい。それによれば、ばっけの語源は、
 
  ○ 花のようで つぼみのようでもあり 半開の意

  ○ 早春にポックリ 芽を出し開花するので ポックリの転化
       ポックリ → ポッケリ → ボッケ → バッケ 

  ○ 花が盤状に開くことから、盤開が促音化 

  ○ アイヌ語 makayo の転

 ネットで調べると、上の内容が多く出る。花のようでつぼみのようで
もあり半開の意と言われても、それがなぜ「ばっけ」なのかよくわから
ない。ポックリの転は信憑性はまるでないと思う。盤開(バンカイ)が
バッケに移行することも、なんだかなあである。それなら「バンケ」と
言うほうが自然である。確かめてはいないが、このバンケは山形庄
内地方の呼び方となっているようである。とすると、盤開語源説も有
力なのであろうか。

 そこで不肖、私の説なのであるが、私は以前からバッケという言葉
が仏教説話から出てきたものだと考えている。バッケの語源は優曇
鉢華(うどんばつげ)という言葉から来ているのではないだろうか。法
華経というお経があり、その中の「妙法蓮華経方便品第二」というお
経の中に次の箇所がある。

    仏舎利弗に告げたまわく、是の如き妙法は、諸仏如来、時に乃し
之を説きたもう。
優曇鉢華の時に一たび現ずるが如きのみ。

  ここで言われている優曇鉢華は、一般には優曇華(うどんげ)として
知られていて、仏または転輪聖王がこの世に生まれる時、一度だけ
咲く聖なる花のことである。想像上の花である。優曇鉢華をなぜ覚え
ていたかであるが、昔、母が読んでいた法華経の中に、偶然その言
葉を見つけ、へんてこな言葉だなあと記憶に残っていたからである。
「うどんげ」という神秘の華がロマンティックだなあと思っていた。ただ
し、その時の記憶では優曇法華(うどんばっけ)という文字で、ふりが
なまで書いていたように思う。確かその時、「ああ、バッケの名の由
来はここから来たんだな」と一人合点したことを覚えている。従って、
この優曇法華(うどんばっけ)に記憶の誤りがあれば、この自説はい
たってあやしいものとなる。優曇鉢華のほうは最近知ったものである。

 さて重要なことは、「優曇鉢華」をどう読んできたのかということであ
るが、これは「うどんはつげ」とか「うどんばつげ)とか言われていたら
しい。この「うどん」の最後尾に付いている「ばつげ」が「ばっけ」となっ
たのではないだろうか。フキノトウは多分、かなり昔から食べられてい
て、それを食すことは、春の風物詩というよりも、当初は有難い薬と
して用いられた可能性がある。実際に、蕗(フキ)やフキノトウは健胃
剤として用いられた形跡がある。

 山菜類、薬草類では、一般に苦味のあるものは胃に良いとされてい
るからである。ここからフキノトウはありがたい薬草として古代の人々
には重宝されていたのかもしれない。ありがたいと言えばお経である。
そのお経に、フキノトウをイメージさせるありがたい言葉として、三千年
に一度咲く神秘の花、優曇鉢華(うどんばつげ)をどこかの和尚さんが
見つけ、鉢華(ばつげ)という言葉をフキノトウに名づけたのが、いわゆ
る「バッケ」の語源だと私は考えている。フキノトウが開き始めた、つま
り、半開状態の姿が、三千年に一度咲くという優曇鉢華のイメージと
ぴったり重なったのである。

 バッケという言葉が東北地方に分布していることも、この説を裏付
ける重要な示唆がある。雪深い東北では、厳しい冬から春の訪れを
首を長くして待ちわびている。この春の知らせを雪の間から教えてく
れるのがバッケなのである。これも吉兆というか、ありがたい季節の
到来を象徴する野草である。身体にもよくて春を知らせてくれるあり
がたい野草とくれば、優曇華を連想させたのかもしれない。しかし、
フキノトウをそのままに優曇華と呼んでしまったらあまりにもおそれ
多いので、鉢華(ばつげ)と呼んだのだと思う。それが転じて「バッケ」
になったわけである。・・心もとないが多分そうなのだと思う。

 また、優曇華の正式名称は優曇波羅華(うどんはらげ)、ウドゥ
ンバラ・プシュバと言う説明もあった。これにしたところで、波羅華(は
らげ)の波羅(はら)は、バラゲと読むことはあったかもしれない。ハラ
ゲ → バラゲ → バッケ と転じたかも知れない。まあ、これはかな
りこじつけに近いと自分でも思うのだが、ポックリがバッケに転じたと
いう解釈よりはまだましなのかなと一人合点している。

 優曇華は竹取物語にも出ていて、かぐや姫がくらもちの皇子に命じ
た難題の一つに、私をお嫁に貰いたかったら、優曇華の花を取ってく
るようにということが書かれている。優曇華の意味は、一般に非常に
希少な瑞祥を言うが、雪の中に若草色のつぼみを見つけたとき、古
(いにしえ)の東北人は、きっと、感動を持って春の瑞祥をそれに見た
に違いない。従ってフキノトウはウドンバッケの「バッケ」と呼ばれたの
であろう。

 この解釈は牽強付会の部類に入るのだろうか。

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2006年5月12日 (金)

戦艦大和(14)◎臼淵大尉遺訓の瑕疵

  ◎吉田満著・「戦艦大和ノ最後」に書かれた残念な瑕疵

 吉田満の書き著した「戦艦大和ノ最後」は文学的には非常に貴重な戦記
である。感情を抑制し、戦国絵巻物を観るように、大和の最後を再現したそ
の記述は、圧倒的な臨場感を持って心に響いてくる。ただ、文学的、戦記
的には偉大な作品ではあっても、この作品にはどうしても肯じることができ
ない箇所がある。それに対してはきちんと反対の存念を述べて置かなけれ
ばならない。なぜなら、問題の箇所は明らかに当時の思想的な立場や歴史
的な現実にまったく符合しない世界観で書かれていたからである。

 問題の箇所とは、戦後、すでに何度も本やテレビ、映画などで強調され、
好んで取り上げられているので、吉田の「戦艦大和ノ最後」を読んだことの
ない人々にもかなり知れ渡っているものである。それは1981年版「戦艦大
和ノ最後」の36ページに書いてある、哨戒長・臼淵大尉の語った以下の箇
所である。

「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日
本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当
の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われ
るか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日
本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」

 「戦艦大和ノ最後」を最初に読んだときからずっと心にわだかまっていた
箇所である。この部分は、はっきり言って、吉田満の全体を通しての書き方
や、当事の時代に揺るぎなく流れていた精神性にまったく反した世界観で
書かれている。これは明らかに戦後民主主義に付随した欧米的な進歩史
観で書かれているのである。水上特攻作戦という、謂わば不帰の覚悟で赴
いた乗組員が、「本当の進歩を忘れていた」と断言したとしたならば、臼淵
大尉はみずから大東亜戦争史観を否定して、アメリカ側の太平洋史観を肯
定したことになる。当時の大日本帝国軍人はけっして言わないことである。
したがって、吉田のこの作品に流れる時代性に対して、この箇所の記述は
思いっきり不調和なのである。

 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日
本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当
の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、・・・」

 
この文脈は、一見、精神主義偏重を棄てて、欧米の技術的な合理主義を
徹底しないと、戦争にも経済的な国際競争にもけっして勝てないのだという
教訓を言っているように見える。しかし、ここに言われる真意とは、明らかに
欧米がたどった近代主義的な「進歩史観」を全肯定していることにある。こ
れは、別な言い方をすれば、日本の伝統的な精神を全否定する文脈に帰
結しているのである。大東亜戦争とは明らかに思想戦であった。ここには、
自衛戦争を遂行しながらも、民族の深層では白人の侵略主義から有色人
種を解放するという思想戦としての歴史的な意義があったのである。

 政治評論家の田原総一郎のように、大東亜共栄圏構想を否定する者は
圧倒的に多いが、当時の国民意識の根底には、すべての欧米白人に対す
る人種差別、侵略主義に対する「破邪の聖戦」の気持ちがあったのであ
る。これを、「進歩」優先という脈絡で否定した場合、結果として、その精神
は東京裁判の帰結に合致してしまうことになる。これは自国史否定、つまり
は国体・国柄否定以外の何物でもない。したがって、吉田が付け加えたこ
の箇所は、戦後という未来から強引に持ち出して、無理やり縫い合わせ
、当時にはけっしてあってはならない世界観なのである。

 このような精神の逆転現象は皇軍兵士にはけっして起こりえないものだっ
たはずである。なぜなら最後の決戦に当たってそのような心構えを持ったと
すれば、それは当時の言葉で言う紛れもない非国民なのである。従って吉
田は臼淵大尉にあり得ない話をさせたのである。私は有名なこのエピソー
ドにはかなり以前から強い不快感を持っていた。ヒットした映画・「男たちの
大和」でも確かこのエピソードはキャッチコピー的に使われていたと記憶し
ている。その一つの前提的な解釈を以ってしても、映画「男たちの大和」
が、時代的な空気の再現に完全に失敗している作品であることは明らか
である。

 戦前の日本精神を凝縮したように最後を迎えた戦艦大和に、この戦後的
な進歩史観は、あまりにも強烈な時代錯誤と言う以外にない。まったくあり
得ない話である。吉田がこの箇所を書いていたときは、彼の心に、大東亜
戦争史観から太平洋戦争史観への逆転現象が生じていたとしか思えない
のである。そうでなければ精神の均衡を疑うことになる。マスコミや出版物
が好んでこの箇所を取り上げ、それが、あたかも戦艦大和の時代的な教訓
であるかのように書かれているのは、戦前否定を当然とする今の時代感覚
ではごく当然のことだ言えるのである。しかし、吉田自身が戦前から戦後の
狭間で書いた「戦艦大和ノ最後」に、戦前が持つ価値観を疑念視する気持
ちが若干芽生えたことに、我々後世の人間が責める資格はないにしても、
二百数十万人の戦没者の御霊(みたま)を慮った時、「臼淵遺訓」の捏造は
やはり、腹に据えかねる歴史の捩じ曲げと感じるのは私だけであろうか。

 吉田の本には、吉川英治、小林秀雄、三島由紀夫、河上徹太郎、林房雄
など斯界の蒼々たる人々が跋文を寄せている。彼らは吉田が書いたその
部分に疑念を抱かなかったのだろうか。小林秀雄などは、巻末の跋文に、
「正直な戦争経験談」というタイトルで寄稿している。その中に、「今度のも
のはよほど手を加えたものだと聞いたが、」と書いていることを見れば、吉
田満が当初に書き下ろした原稿に、そうとう手を入れて書き直したものだと
思われる。その過程で、吉田自身の戦後的価値判断が、例の臼淵大尉の
言葉となって書き加えられたのであろうか。

 実は、この箇所に対する私自身の割り切れなさ、違和感、疑念は、八杉
康夫氏の著書「戦艦大和 最後の乗組員の遺言」を読んで氷解した。八杉
氏がこの箇所はあり得ないと断言してくれたおかげで、自分のもやもやした
気分は晴れたのである。やはり、臼淵大尉のあの話は戦後民主主義的な
感覚から出たものであると、私の推察どおりのことが書かれてあった。

 臼淵大尉の戦後民主主義的な世界観から出た例の「訓話」は、吉田自身
の進歩史観的な気持ちの変遷から出たものであり、そのことは彼の偉大な
作品の信憑性と品位をかなり低下させていることは残念なことである。その
部分だけが、最後の戦艦大和の精神だったかのようにマスコミに流布され
てしまったことは、戦艦大和の史実的な検証に悪影響を与えてしまってい
る。大和三千名の乗組員の死が無駄死にであったという戦後評価もかなり
根強く残っているが、そういう見方にも、この臼淵訓話は強い影響を落とし
ている。

 臼淵大尉は、あのようなことを言っていないわけである。それどころか、彼
の実際の胸中とはまったくかけ離れた嘘を書かれてしまったことは、幽冥
の世界にいる本人に対しては侮辱であろう。この点で吉田はあの格調高い
世紀の名作に瑕疵を残したのである。返す返すも残念でならない。吉田が
他界した時、幽冥界では、臼淵大尉が吉田の頭をゴンと叩いて、「吉田、俺
はあんな戯言は言っとらんぞ!」と一喝したことであろう。 

 この箇所と合わせて、著書の最後の方に書かれてあったことであるが、
大和の生存者が救助艇の船べりをつかんだ時、救助艇の指揮官が、その
手首を軍刀で 斬ったと書かれている箇所も、すでに嘘であると判明してい
る。この事実も、当時の軍人を不当に貶める格好の材料として用いられた
ならば「戦艦大和ノ最後」の価値を大きく損ねる効果を持っているのであ
る。

 臼淵大尉の進歩史観的な遺訓エピソードと手首斬りの箇所は、読者に
等しく混乱を与えることになり、あってはならない記述である。だが、そうは
言っても、吉田満の「戦艦大和ノ最後」が、全体を見れば、一大戦記文学と
して孤高の生彩を放っていることは間違いない。それだけに、この二つの
誤った箇所は、この作品の完結性をそうとうに阻害していることが悔やまれ
てならない。

 

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2006年5月