たわいない夢、されど慟哭
明け方に、悲しい夢を見て目覚めた。猫の夢である。夢の中で
あるから自分が何歳頃なのかわからなかったが、感覚としては、
多分若い自分の様だった。場所は見知らぬ田舎ではあったが、
感覚としては、そこが故郷の田舎であり、家からさほど離れてい
ない小川のそばである。
辺りには田んぼと用水路があり、その用水路は今と違って護
岸工事も施されていない小川で、両岸にはさまざまな草が繁茂
する昔の小川であった。夕方になって私はいつものように、その
場所へ釣りに出かけていた。ポイントを探して草むらを移動して
いると、ふと足元に白っぽい小さな物体が目に入ってきた。夕暮
れ時だったので、それは紙袋か肥料袋が捨てられていたのかと
思った。
目を凝らしてみると、その白い物体は横たわって動かない猫だ
った。「うわっ、猫の死体かよ」と、一瞬たじろいだ。
猫は手足を伸ばしたまま、無残に横たわっていたが、目は開い
ていて、その目が自分の目と合ったとき、何と、その猫はかすか
に鳴いたのである。その猫は瀕死の状態であったが、まだ生きて
いた。彼は私を見て、やっと聞き取れるくらいの弱々しい声で
「みゃー」と鳴いたのである。
その瞬間、私は悟った。その猫は一週間前に、私の家に迷
い込んできた生後四ヶ月くらいの子猫であった。仕事で出かけ
ていた両親が帰宅するまで、その子猫と一緒に遊びながら過
ごした。夕方にはすっかり、その猫を飼う気になっていたが、両
親が頑強に反対したため、がっくりしながらその猫を捨てに行
った。どこに捨てていいのかわからなかったので、戻ってこない
くらいだと思える距離を歩いて、その小川の場所に来た。そこ
はいつも釣りをする場所であった。
後ろ髪を引かれる思いで、その猫に、「ついてくるなよ」と言っ
て立ち去ろうとしたが、子猫は何度も後をついてきて鳴くので、
途方に暮れた。私は「駄目だ」と強く怒鳴って、猫を対岸の草
むらに向かって放り投げた。今度は静かになったので、ようや
くあきらめてくれたのかと思い、重く沈む気分で家路に着いた。
今、目の前に無残に横たわって力なく鳴いているその子猫こ
そ、自分が放り投げたあの子猫だった。草むらに横たわった
子猫の傍らには大きな岩の塊があり、子猫の背中には傷が付
いていた。私はあることに思い当たり、愕然とした。あの時、こ
の子猫を放り投げたせいで、子猫は岩に叩きつけられ、そのま
まこの状態で動けなくなったのかと・・。子猫は一週間も横たわ
ったまま、動けずに生きていたのである。
私は膝を折って、その子猫に謝った。「ごめん、許してくれ、
悪かった」と。涙がどうっと出て、子猫に顔を近づけ、懸命に謝
った。慙愧などと言うものではない。取り返しの付かないことが、
一週間前のあの時に起きていたのである。
嗚咽で顔を地面に近づけて子猫に謝っていた時、子猫は一
緒に遊んでいた時と同じ表情で私の顔を舐めてくれたのであ
る。何度も力なく・・。しかし、そのまま子猫は完全に動かなく
なった。私は、ただただ慟哭するしかなかった。ここで夢から
目覚めたのである。思えば不思議と言うか、奇妙にリアルな夢
だったので、目覚めてもその光景と夢の中の情動はしばらく留
まっていたくらいだった。
ひょっとしたら、私は幼い時分にそれと似たことをやったの
ではないだろうかと、今、自分を疑っている。人間には、都合の
悪い記憶を無意識にしまい込んでしまう場合があるそうである。
目覚めたら、足元に飼い猫のシロが眠っていた。こいつが、テ
レパシーで夢に物語を送ったのかな、などと思いつつ、眠い目
をこすったら、涙で濡れていた。
夢というものは、ほとんどの場合は非論理的であり、出てくる
光景は無彩色に近く、前後の脈絡がない。雰囲気としては論理
よりも情動の世界である。しかし、今朝の起き掛けの夢は、妙に
リアルで起承転結がはっきりしており、物語がそれなりに完結し
ていた。小さい頃、この夢に類似したことをやっていて、その記
憶を深層意識に閉じ込め、ある程度、年齢を経てから贖罪意識
とともに表層に夢として浮かび上がったのであろうか。
何というか、夢の光景がリアルということよりも、自分の心に惹
起された強い情動が奇妙にリアルなのであった。それは慟哭と
呼ぶに相応しい感情であった。夢というものはもう一人の自分を
知るよすがであるとは思うが、見た情景以外の解釈は自分には
できない。フロイトだったらリビドーだとか、わけのわからない難し
い言葉を使いながら性衝動か何かに結びつけるのだろうな、など
と思ったら、あの子猫にとても済まないような気になった。フロイト
は嫌いなのである。人間の性的な側面を、あたかも、その精神的
存在の本質のように捉える自虐的な学問に見える。
こんな落ちにしかできない、たわいない夢の話を書いた。(笑)
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コメント
テツ様、コメントありがとうございました。そう
ですね。幼年時代や小学生の頃というのは、世界
が神秘的で、不安であっても、なぜか輝いていま
した。自我がまだ確立されていない時分の世界認
識は、まだ親離れしていないせいか、胎児の延長
のように茫洋と漂っていて、なんとも心地よい感
じがありましたね。
私とテツ様の幼少期の体験的世界が似ていると
思うところは、おっしゃっている通り、茜色の夕
焼けの光景です。夕焼けの斜めの陽光が、山々や
建物に反射している風景が好きで、暮れ行くまで
見つめることがよくありました。
夕暮れの静謐と、あの独特な暖かさを持つ黄昏
間際の陽光はもっとも好きなものの一つでした。
切ないのだけれども、やさしいあの情景は子供心
に浄福感を見ていました。イメージとしては、あ
の有名な「赤とんぼ」という唱歌ですが、何とも
言えない日本的慕情なんですね。
私が書くことは、一見右翼的で超タカ派のよう
なイメージで見られることが多いみたいですが、
実際の私は幼年期の夕暮れ時のまったりした慕情
が心の基層になっています。父母が働いている時
、田んぼのあぜ道で夕方まで独りで遊んでいた記
憶があります。ですから、夕暮れ時を描いた絵画
や、スパイダーズの「夕日赤く」などという歌に
は強く反応します。(笑)
幼少年期は自我を確立するために、世界と触れ
合う大事な時期ですが、私はまだ自然が健康だっ
た時期に、自然溢れる故郷でその時代を過ごすこ
とができて幸せな人間だと考えております。幼少
期の私は、人工的な侵食のない恵まれた自然に触
れながら世界認識を行い、その原体験が今も、考
え方や思想、感性の背景に生きていることを実感
します。
投稿: 高橋博彦 | 2006年6月 3日 (土) 01時12分
ルーシー様、こんばんは。お久しぶりです。
「待ちぼうけの家」、少し読ませていただきま
した。なんか、まろやかな語り口の中に、彼女
特有の鋭い視点がありますね。
投稿: 高橋博彦 | 2006年6月 3日 (土) 00時42分
>夢の話を読んで、急激な懐かしさと郷愁につつまれました。胸をしめつけられるような記憶の断片が脳裏をよぎりました。それもはっきりとした映像としてではなく。小学校低学年の頃まで、自分には自分と他人の区別がついていなかった感覚がありました。そしてこの地上を風や光で満たす空間とはなんなのか、よくわかりませんでした。父に「このなんにもないのは何?」なんて聞いた記憶があります。自分も他人もなく、みんな繋がっていて、同じ考えと痛みを持っているのではないかというような、自分と他人を隔てるものがないのではないかと感じていたので、その間に存在する空間(空気)がなんなのか不思議に思ったのではないかと思います。要するにまだお母さんのお腹のなかにいたようなドヨ~ンとした感じだけが残っているのです。未熟な少年期だったのかもしれません。他の子にくらべると言葉も少し遅れていて、両親は大変心配したようです。通っていた木造平屋の小学校は南に霊峰富士に正対し、西には甲斐駒ケ岳を一望し、風がいつもさわさわ吹いている丘陵状の山里にありました。遊びでくたくたになった身体を陽光であたためられた校舎の板張りの壁にもたれて真っ赤な夕日が沈みながら富士の高嶺を茜色に染めるのをぼんやり眺めていました。背に当たる校舎の板張りの感触、頬をなでてゆく涼しい風のここちよさが今はよく思い出されます。この場所で過ごす夕刻の静かな時間が私は大好きでした。不思議なのは、40を過ぎた頃から、今の自分を根底で支えているのは、この幼少期~少年期における潜在的な身体感覚の記憶が多くの部分をしめているのではないかと感じるようになったことです。夢とは人間が見ることができるあるいは意識し記憶できる空間・時間とは別次元の空間・時間がつねに人間に寄り添い、身体のある要求が起こったときに身体感覚の浄化作用として現れてくれるのかも・・・・などとつらつら考えました。
投稿: テツ | 2006年6月 2日 (金) 10時56分
お久しぶりです。
本日また寄らせて頂いたところ、「慟哭」という活字を見て少し動揺(?)致しました。 「慟哭」の意味する切ないところではなく、先日ブログを通じて知り合ったある随筆家で、個人誌を書いておられる女性の方がいらっしゃるのですが、その個人誌のタイトルがまさしく「慟哭」なのです。
早速、内容に興味を持った私は購入致しました。そして、今日その詩集「慟哭」が届いていたのです。500円という控えめな値段とは違い、とても立派で丁寧に作られた書籍でした。 内容は戦争体験からなる詩集であり、文集です。
まだゆっくりとこれから読むところですが、高橋さんにも是非ご紹介したく思った次第でした。(笑)
もちろん、私の勝手なオススメですので、興味がありませんでしたら構いません。
ただ、その方のブログにも時折戦争についてや社会の矛盾などの記事もあり、参考になるかとも思います。
その方の謙虚な、それでいて視点の鋭いブログは高橋さんにもきっと満足(?)して頂けるかと存知ます。(ちなみに、その方のプロフィールのところに個人誌「慟哭」の紹介も載っています)
一度、覘いてみてはいかがでしょうか~。
アドレスはこちらです。
http://kiichigo15.cocolog-nifty.com/blog/
投稿: ルーシー | 2006年6月 1日 (木) 23時01分