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2006年7月31日 (月)

ブナ林とイワナが象徴する日本的原風景

  ◎心にブナ林とイワナを宿して日本文明の再構築を願う

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 時々、故郷の渓流を想い出すことがある。私は中学一年まで、秋田県の
雄物川水系のひとつである玉川沿いに住んでいた。この玉川に注ぐ支流
の渓流にはイワナが豊富に棲息していた。私にとって、ブナ林の渓流とイ
ワナは鮮烈な想い出として胸のうちにある。イワナという魚は私の少年期
の沢遊びの象徴だった。イワナと言っても、日本には全域的に何種類も分
布し、その上、地域や河川によって固有の斑紋や色合いを持つから、地域
によってイワナ(岩魚)という淡水魚のイメージは微妙に異なっている。

 私が親しんだイワナは、東北地方であるから、調べてみるとニッコウイワ
ナという日本固有亜種で、冷水の流れる河川の源流域付近に生涯を過ご
す陸封型の生活史を持つイワナである。白い斑紋ははっきりと出ていて、
魚体腹部には鮮やかな茜色に近い橙色の輝きを放つ固体もいた。

 私自身は渓流釣りはあまりしなかったが、当時は山沢に分け入って、イワ
ナ釣りの得意な同級生の友人の釣りを眺めているのが好きだった。私自身
はイワナを釣り上げてそれを食べるということよりも、イワナの魚体を見るこ
とが何よりも好きだった。だから、時々は水中眼鏡とモリを持って膝くらいま
での水位の浅い水流に入ってイワナを突いたこともある。その際、水中眼
鏡で渓流の淵を覗いたり、岩の下にいるイワナのそのままの姿を見るのが
楽しみだった。気が付くと身体をすっかり冷やし切って、唇が紫色になって
がたがた震えていることもしょっちゅうだった。

 源流域の水温は15度C以下であったから、子供とは言え、長く沢水に浸
かっていることは大変だった。イワナの居る沢にはカジカという小さなハゼ
科の魚も居て、その姿や顔つきはユーモラスであった。これを水中眼鏡で
上から眺めていると、保護色になっていて川底の砂や石ころの色と非常に
見事に同化していた。中にはババカジカという比較的大き目のカジカがた
まにいて、これは串に刺して炙ると何とも香ばしくて美味しかった。イワナ
は水中で見ると、生き生きとしていて、ほとばしる渓流水の透明な質感に
よく調和していた。その美しさは観ているだけでもうっとりとして時間も忘
れる思いであった。

 小学校の四年生ころであったと思うが、近所に私よりも四つくらい年下
の男の子がいて、家は養鱒も営んでいたが、彼はニジマスには目もくれ
ず、イワナだけに目を輝かせる私と同類の少年だった。ある日、イワナ釣
りに出かけようとして、竿や道具を用意していると、オラも連れて行けとそ
の子にせがまれた。その子は、釣ったら小さいのはオラにくれと言ったの
で、小さいのはやるよと念を押してその子を同行させた。狙っていたポイ
ントに真っ直ぐに着いて、私はいきなり尺を越えるイワナを釣り上げた。と
ころがそのあとは当たりがまったくないので、やむなく引き上げることにし
た。

すると、その男の子は、そのイワナはオラのものだからよこせと言った。
私は「なんでだべ?これデケェじゃねえか」と言ったら、その子はこう切り
返したのである。「あっちで見ていたら、ちっちゃいイワナに見えたから」
と。何のことはない、遠近感である。笑える話だが、これは本当のことで
ある。もちろん私はそのイワナを譲渡しなかったが、彼の欲しいという切
ない気持ちは痛いほどわかったので、「ごめんな、今度な」と言ってなだ
めたが、彼は半分なきべそをかいていたように思う。この手のエピソード
の大半は忘却の彼方にあるが、数多く私の記憶にしまってある。今の子
は、ここまでイワナにとりつかれることがあるのだろうか。昔の子供がと
りつかれた魚や昆虫に代わって、今の子が64ビットのデジタル映像に
とりつかれているとすれば、彼らの情緒を涵養する空気の匂いや、本物
の生きた自然の色彩はいったいどこから入ってくるというのだろうか。・・
話を過去に戻そう。

 私自身はフィッシングのスリルや支配感を楽しむことよりも、人里離れた
ブナ山の渓流に、このような美しく精悍な姿をした鮭科の淡水魚が息づい
ているということ自体が不思議であり、自然の懐の深さを強く感じていた。
特に周囲が鬱蒼と茂るブナ林であったことは、この魚の神秘性をいやがう
えにも高めていた。私がよく出かけたその渓流域はマムシの多さでも有名
な場所であったが、イワナの姿を見ているうちに夢中になり、マムシのこと
はいつも忘れていた。実際にマムシの姿は何度も見ていたが、襲われるこ
ともなかったから危険を感じたことはなかった。

 私は当時を思い出すたびに、沢遊びの光景を写真に撮っていたら、その
アルバムはどんなにか人生の貴重な宝物になっていただろうかと考える。
なぜなら、その場所は今も存在しているが、かつての場所ではなくなってい
るからである。渓流も照葉樹林も、つまりブナ林も残ってはいるのだが、最
も大事な要素が欠落していたのである。それは樹齢が高いブナやミズナラ
の木がほとんど伐採されて消失していたという事実である。私がそこから
離れていた40年近い歳月のうちに、渓流沿いの景観や生態系にどれだけ
深刻なダメージがあったのか、再び訪れた時に一目でそれを悟ったのであ
る。その衝撃は大きかった。私が子供の頃とりこになっていたあの神秘な
空間、あの底知れぬ、昏(くら)くて深い玄妙な森がいっさいなくなっていた
のである。

 数十年の経時的体験は、同じ人間の感覚を変えることはあるだろうし、
目に映る世界への価値の持ち方、意味の汲み取り方、感じ方も変わって
くることは大いにありうる。人の感性というものは、子供から大人になるに
従って、変わるものと、変わらないものと、新たに出てくるものと、失うもの
があるようだ。また、海外体験も内面を変える大きな転機にもなるかもし
れない。しかし、樹齢の経た、太くて樹高のある大型樹木の林立しない
奥山は、すでに先祖たちが見慣れてきた深山幽谷とはまったく違う空間と
して、その存在主体を差し替えてしまったのである。そのことは観る者の
経時的主観の差異としてではなく、現実的に、プラグマティックに山そのも
のが変容してしまったことを意味するのである。老いた樹木の存在しない
森は、押しなべて明るい若草色に染まり、その景観はいたって奇怪であ
る。

 山肌はどこを見てもゴルフ場の芝原のように無味乾燥な明るい緑一色で
ある。どこの自然林にも共通するあの心地よい濃淡、あるいは微妙な色彩
のフラクタルな諧調性がまったく見えないのである。要は、場所が同じで
も、はるかなる古代から息づく、あの悠久の自然林としての自己同一性を
完全に喪失しているのである。妙な言い方であるが、これは戦後憲法が帝
国憲法の自己同一性を喪失していることと位相的には同じことである。人
工的な開発が行われた形跡は一切なかったのだが、樹齢の経た大木がほ
とんど見当たらない光景は、里山、深山(みやま)を一つの生命体として見
た場合、これはかなり重篤な病気に罹っていることを示している。

 この風景は、極端な言い方をすれば、ゴルフ場の芝生と同質の無残さ
を持つ。今から八年前のことになるが、はるか昔の記憶をたどって、私の
魂の故郷とも言えるあの懐かしい渓流に36年ぶりに行ってみた。地元の
釣り名人の同級生が同行してくれ、その渓流で中型のイワナを一匹すぐさ
ま釣り上げてくれたのだが、その沢は、私の記憶に鮮明に残る渓流とは別
ものになっていた。だから、私は当時の光景を写真で残しておけたらどん
なにかいいだろうと思っているのである。もっとも、写真や動画撮影でさえ、
当時の命ある光景が生き写しで記録できるとは思わないが、それでも鮮明
な記憶を引き出す有効な鍵にはなるだろう。

 写真は、紅茶に浸したマドレーヌの味から過去を鮮明に意識したプルー
スト効果のようなものではなくとも、当時の私の心象風景を引き出してくれ
たと思うのである。当時、カメラは高価なもので、ガキの身分である私など
には到底持てるものではなかった。今はデジタルカメラや携帯カメラがあ
り、まさに隔世の感がする。当時の渓流入りの光景を撮影していたなら、
生涯、そのアルバムを見るたびに鮮明な過去蘇生が惹起できて、どんな
に豊かな追想の旅を満喫できたかと思う。その光景は何もイワナを追いか
けたことだけではなく、春の山菜採りや秋のキノコ狩り、あけび狩り、山ぶ
どう狩りなどでも、その渓流域は私の重要な場所であった。特に秋の紅葉
のころになると、その渓流沿いの色づきの見事さは何物にも代え難い夢幻
の光景を現出していた。

 そこは、渓流の清冽なる空気と、日光に乱舞しながらほとばしる水流の
輝きが加わって、そこにいるだけで私は幸せな気分になっていた。周囲の
木々が真紅や黄色に色づく中で、アケビが真っ青になって熟しているので
ある。紅葉の中に特徴のあるアケビの葉と蔓を見つけ、注意深くそこを見
ると、陽光に輝き美しく誇らしげに藍色や青紫色に色づいてぶら下がって
いるアケビを発見するのである。その時は興奮して何度も歓喜の声を上げ
たものである。そのアケビは、故郷では「水アケビ」と言われていて、その
外見は濃い美しいブルーである。中身は、黒いたくさんのタネを宿した可
食部分があり、それはあたかもカエルの卵のように透き通っていた。食べ
てみると、とろりとして特に上品な甘味が強く、なめらかで瑞々しい食感が
口中に伝わるのである。これは至福そのものだった。

 今思えば水アケビはどのようなお菓子よりも贅沢な味だった。両親に誉
めてもらいたくて、大き目のものは中身を食べずに持ち帰った。両親は喜
んだが、その理由は中身よりも、その真っ青なアケビの肉厚な皮に対し
てだった。アケビの皮は中が純白である。そこに味付けした味噌を塗って、
炭火で炙るのである。両親はそれをニコニコ顔で旨そうに食べていた。も
ちろん、子供の私はそんな苦いものは食べ物ではないと考えていた。山
ワサビと同じで大人にならなければ賞味できない味だったのである。

 玉川にはイワナに限らず、ウグイやマスなどいろいろな魚が生息していた
が、私は特にイワナが大好きだった。あの美しい流線型の魚体や独特の
斑紋は山の神様の芸術作品である。上流の堰堤にはかなり大型の岩魚が
泳いでいるのを目にしたこともある。陸封棲息の淡水魚でも環境によっては
かなり大型になるようである。イワナが謎の淡水魚と言われるのは、棲息
流域環境が深い天然林であることと、時々、びっくりするような大型固体が
いることにも起因しているのだろう。源流に近い沢の想い出は私の少年期
の原体験と重なっている。

3_5_thumb
(これは現在のその渓流である。水は清くイワナもい
るのだが水量はかなり減少していて、沢筋全体が陽
光で明るい。つまり大木がない源流域なのである)



 ブナ林にイワナあり、イワナが川に居るとか居ないとかを突き詰めると、
山の生態学的な健康、バランスの問題に行き着く。間違っているかもしれ
ないが、原流域の冷たい渓流に生息するイワナやヤマメが一定の棲息数
でいる川の山林は生態学的に健康なのである。私は、ハタハタの増減も
川の源流域の生態系の健全さに関わっているものとみている。また、日本
沿岸部の砂浜退行の問題や、ハタハタの産卵環境悪化の状態は、河川
流域や源流域の生態的な保全がしっかりと恒常的に行われているのかに
関わっていると思う。特にブナやクヌギ、ミズナラなどを中心とする、植生の
多様な照葉樹林などがしっかりと根付いていることが重要である。

 このようなことは、多くの人たちに言い古された感は否めないが、日本人
全体が国民理念として持つべきことがある。それは、山、河川、河川流域、
そして海辺の自然が単純に独立した空間ではなく、それぞれ有機的に密
接に繋がっていて、大気的に、生態学的に巨大な、あるいは繊細なサーキ
ュレーションを持たなければ列島の自然自体が健全ではないという事実を
国民が認識する必要があると思っている。

 日本人は明治以降、欧化策を取り入れ、それは大戦以降ますます顕著
になったが、欧米化を不用意に日本列島に取り入れると国家的民族的な
自己同一性の保持に重要な瑕疵をもたらすことを早く気が付くことである。
欧米近代主義の文明は、不断の自然破壊、自然征服のアーキタイプを持
つ。日本民族は縄文のいにしえから神道文明の基層を保持してきた。それ
は自然と馴染む文明のことである。これは、自然との同化、調和を民族心
性を核として持ち、その性向を生活に取り入れてきた連続した過去がある。
神道的文明とは、自然と和むこと、自然に畏敬の念を持つことを文明の型
とする在り方である。自然と一体になり、人間社会の調和を体現する文明
精神はかつては政治にも反映していた。たとえば聖徳太子の十七条の憲
法にある、和をもって貴しとなすは、民族的共同体の核を形成する精神で
ある。日本人は、石ころ一つ、草花一本に多様な神を感じ、心を観て取る
民族である。

 今の日本は、こういう民族心性を封印してアメリカ的な物質文明に心を奪
われている。私は河川源流の世界、源流域の空気を求め続けることは、失
われつつある日本特有の天然林を憧憬し続けることであると考える。理由
はそこに日本型文明の源泉があると思うからである。現代文明、特に都市
文明の視点から見るなら、河川源流域の世界は逃避的で狭隘な世界であ
り、失われ、置き忘れた過去の原風景である。しかし、日本人は縄文の時
代からこの原風景に馴染み、そこから日本人特有の精神性を涵養してきた
のである。「水清ければ魚(うお)住まず」などと言って、清澄な源流的風景
を好まない風潮も根強くあるが、そこには、精悍かつ美麗な容姿をしたイワ
ナが元気に泳いでいるのである。神道的感性の根幹は限りない静けさと
清浄感にある。そして自然に対する畏敬の念と深い祈りなのである。ここ
にある限りない静けさへの希求は日本人の内面の原点であり、それは環
境を乱さず汚さない社会を営む型を持つのである。江戸時代の日本は、あ
る程度この形が完成されていたのではないだろうか。私はこれを、人類次
世代文明のアーキタイプとして活かすことが日本民族の使命だと考えて
いる。

 化石燃料や原子力燃料をこれでもかと燃やし尽くす産業革命型の燃焼
文明はすでに破綻の様相を見せている。時期はずれの大豪雨や台風で、
今国土は散々な目に遭っている。戦後に単一樹種の植林で荒れ果てた
山々は異常な降雨を潅水する能力を持たず、泥土や土石流が里を埋め尽
くす被害が毎年続発している。そのことは、アメリカ大陸や、アジアを含め
たユーラシア大陸も、一様に激越な異常気象に遭遇していることを見れ
ば、日本以外も同じ原因による気象変化を蒙っていることがわかる。地球
バイオスフィアは二酸化炭素による大気的撹乱で一時的に恒常性を失い、
人類を痛めつけるだろう。しかし、いずれまた恒常性(安定期)を持つこと
になるだろうが、その時、人類は現代技術文明という化石燃料完全依存
の文明形態を変えざるを得なくなる。この時、何がモデルになるのかを問
いかければ、それは我が国の神道感性を基盤に入れるしか道がないこと
に気が付くであろう。ここに日本民族が経過した2666年の皇統時間が役
に立つのである。

 国土とは、分割できる有価証券の一種だというような経済資本主義的な
考えが国民を支配しているが、国土とは国家の庭なのである。国家の庭
はそこに生きる人種と同様に国土的連続性を持つ。また土地とは生命を
生み出し、生命の継続性を担保する場でもある。国土とは、列島全体に
生命同志のつながりを保全する有機的な媒介であること、また、それは
悠久の時間を耐え抜いてここに存在しているかけがえのない過去の歴史
を背負った実体であることなどを思うことが大事である。イワナとは里山の
奥の原流域に位置する日本型自然の象徴である。

 何万年も昔に、イワナが陸封されて現在の渓流に生き残っているという
事実に深い畏敬の念を持つ必要がある。昨今は、ブナ林の保全とかイワ
ナやヤマメを大切にしろとか、皮相的、局限的な環境保全思想が出てい
るが、我々生物はこの地球上に、この生物圏(バイアオスフィア)に単独
では存在できないという自覚が必要であり、その感覚を文明の基層的要
素として取り入れる姿勢は喫緊を要すると思うのである。注意していただ
きたい。単独では生物の存在はないという存在認識こそ、日本文明、す
なわち神道文明の枢要的な概念なのである。

 ここに生物学者の今西錦司博士が発見した共生的生物相の生態学的
概念があり、欧米世界が自明のもとしているダーウィン的進化の仮説を真
っ向から否定する考え方が日本人から生まれているのである。日本人の
共生調和の思想は、古くは神武天皇の八紘一宇思想に見られ、近くは大
東亜共栄圏構想となって出てきている。日本人のアーキタイプにはこの調
和の形があるのであり、それは日本列島固有の調和的かつ恒常的な自
然から培われたものなのである。それが日本的進化論の骨子であり、文
明の骨格である。

 産業革命を契機に人類が起こした現代文明の最大の瑕疵は、環境問題
と大量破壊兵器の過剰生産、過剰備蓄にある。殺戮兵器とは一方で大規
模な環境破壊を招く。生産において環境エントロピーを増大させ、その使用
において結果的に何百倍何千倍の環境エントロピーの増大を招く。そうい
う黙示録的な現状世界の打開に最も必要な思想は、この地球にとって持
続可能で環境負荷の少ない文明モデルである。それこそが、縄文以来進
化してきた我が日本の神道感性である。しかし、日本人自らが鎮守の森
の思想を忘却した今、まず日本人自身がそれを思い起こす必要がある。
それは日本文明への根源的回帰である。

 奥山の原生林を通る渓流空間は、忘れられた日本民族の瑞々しい原初
的精神の象徴なのであり、民族の美的感性の中心である。これが基本と
なって過去の日本人は「豊葦原瑞穂國」という始原的な農耕文化を形成し
平和的共存の原点を持ったのである。奥山の清澄な渓流に何を見、イワ
ナに何を感じるか。それは里山の奥にある天然原生林の原初的な光景
なのである。熊襲を征討し蝦夷を平定した日本武尊(やまとたけるのみこ
と)は、伊勢の国に入り、能褒野(のぼの)という地で崩御した。息を引き
取る前に故郷の大和を偲んで詠んだといわれる有名な歌がある。

  倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 
 倭しうるはし

 この歌は日本人全体に共通する故郷の原初的心象風景と言われるが、
ここに描写される風景の中心には、原生的ブナ林を流れるイワナの住む
渓流があるのである。

 欧米の自然収奪型の文明は終焉を向かえている。これからは過去の日
本の調和型共生型の、環境に負荷をかけない、内面的な精神性を涵養す
る文明形態に転換して行く方向性が模索されるだろう。我が国の神道文明
とは、地球環境(ガイア)の恒常性を志向し、それを祈る心から成り立って
いる。イワナとブナ林は、私個人の懐古的逃避性を意味しているのではな
く、日本が悠久の自然とともに生きてきた稀有な国家であること、また、そ
の文明形態が、山川草木と調和する固有の形を持っていることを確認する
指標なのである。

 渓流の清澄な水流とは、本来の日本人の精神そのものなのである。

 

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2006年7月29日 (土)

BSEリスクの米国産牛肉は日本人をどこまで怒らせるか

 別冊正論Extra03の巻頭で、評論家の日下公人(くさかきみんど)氏が、
昨今の日本に勃興してきたナショナリズムについてこう述べている。

 『いまや日本人は総体として、先の大戦に敗れて以後「この国」には不要
なものとしてきたナショナリズムに目覚めてきた。その切っ掛けを作ってくれ
た恩人は、アメリカのクリントン前大統領、中国の江沢民前国家主席、北朝
鮮の金正日総書記長、ロシアのプーチン大統領の四人である。端的に彼ら
に共通していたことと言えば、日本に対しては、どれだけ無礼な振る舞いを
しても、どんな嘘をついても構わないと思っていたことである。』

つまり、このナショナリズムを喚起させた人物は、クリントン、江沢民、金正
日、プーチンの四人であり、確かに彼らの言動や対日姿勢は日本人をかな
り怒らせてきている。日下公人氏は、これでようやくマッカーサーの催眠術
から目を覚ましたと書いているが、はたしてそうだろうか。私はマッカーサ
ー催眠術、すなわち東京裁判の桎梏から日本人はまだ解放されていない
と見ている。確かに、日本人は何でこんな無礼を浴びてまで我慢せにゃな
らんのだと思っている人々は増えてきている。

 しかし、まだこの怒りは真のナショナリズムには遠いような気がする。クリ
ントンが日本を軽視する形で中国を称揚して戦略的パートナーとまで言い
切ったことは記憶に新しい。この時、日本の一部はざわめいたのだが、総
体としては日本はアメリカとの信頼関係を信じていたようである。ところが
今頃になってわかったことであるが、クリントンは宮沢と会談した折、すで
に年次改革要望書の原案をしっかりと敷設していた。そのことは関岡英之
氏の「拒否できない日本」を皮切りに、米国の宗主国気取りの実体を暴い
た本が続々出始めているにも関わらず、マスコミはそれについて終始沈黙
し、国会もそのことに触れないようにしている。

 その事実こそ日本人が真に目覚めてないことの証左である。昨今の中国
の領海問題、韓国との竹島問題、北朝鮮の拉致問題、これらは確かに国
民の怒りを買ってはいるのだが、これはまだ本物ではない。香山リカ氏の
言うプチ・ナショナリズムというレベルであろう。その最も象徴的な人物は小
泉純一郎である。日本人はまだ東京裁判の呪縛が解けていないのであ
る。

 ところで、いよいよアメリカ産牛肉が日本に入って来る。BSE対策をなおざ
りにしているとほとんどの日本人が感じている段階で、政治的圧力によって
輸入を解禁するこの状況は日米の興味深い動きを予想させる。私は日本
人がどれくらい米国産牛肉を購入して食べるのかに強い興味がある。おそ
らく、日本人の民族的な潔癖性を考えれば消費者の食指はほとんど動かな
いだろう。これに対して、中間流通業者は悪いことをするものが出てくるの
かもしれない。

 たとえば、米国産牛肉を第三国経由で輸入し、生産国表示をメキシコ産
だとか、他の国にするとなど偽装することがあるかもしれない。また、国内
の流通過程で産地のすり替えが行われるかもしれない。しかし、今回は日
本人全体が米国産はリスクが高いと感じているから、姑息な手段でごまか
すことは無理だと思う。今の日本人は牛肉を常食的に食べないことに慣れ
てきている。たまには食べたくなるかもしれないが、たとえばそれは月に一
度の贅沢として国産牛、あるいはオーストラリア産の高級牛肉を食べること
になるだろう。

 贅沢な食事の楽しみに食のリスクをわざわざかける必要がないからであ
る。私が強い興味を覚えることは、日本人が米国産牛肉を消費しないと知
った時のアメリカの反応である。その時、アメリカがどんな態度を取るのか
およその予想はつく。国民が食べなければ当然輸入量は激減する。その
時、アメリカは日本政府に対してどういう要望を出すのだろうか。たとえば
スーパー301条のような通商的な制裁条項を立案して発動するのだろう
か。

 あるいは、国民に米国産牛肉を消費するように然るべき国策を講じろと
言うのだろうか。アメリカがどんな強制力を発動するのかわからないが、お
そらく政府は国民の反意と米国圧力の狭間に立って呻吟することになるの
だろう。それでも、国民は食の安全を優先するとしたら政府は手の打ちよう
がなくなる。つまり、結果としてはこうなるだろう。アメリカが日本の要望に
折れてBSE対策をきちんと行うか、あるいは今までの姿勢を踏襲して頑強
に日本を恫喝するかである。

 後者の可能性が強いが、私はアメリカが恫喝に入ってくれた方がいいと
考えている。なぜならアメリカが直接日本国民の神道的潔癖性という文化
を侮辱し、頭ごなしに日本の食生活を非難してBSEのリスクを有した牛肉を
ごり押しする事態になった時、日本国民の総意的な怒りの湧出が非常に
重要だからである。どんなお人よしでも食いたくないものを無理やり強要さ
れ、しかも金を払わなければならないとしたら怒る以外にない。この怒りの
喚起がアメリカによる東京裁判史観の呪縛解除にストレートに繋がる可能
性はあるかもしれない。少なくともアメリカの理不尽さが今に始まったこと
ではないという自覚を持つことは大事である。それに、また特定危険部位
の混入という米国側の手落ちは必ず起こるだろう。

 この時、米国は全面輸入禁止は駄目だと今から言って牽制しているが、
そのこと自体がアメリカの検査体制の杜撰さを露呈している。日本人が納
得するわけはない。特定危険部位が入ったら国民はますます食いたくなく
なる。しかし、アメリカは日本を異常に潔癖すぎると言って強硬に非難する
だろう。つまり、アメリカは日本人の文化を否定しているのである。私はアメ
リカがBSE問題で、日本人を家畜同然の存在とみなしていることを徹底的に
見せ付けてくれればいいと考えている。この問題はとことん揉めたほうがい
い。日本政府の弱腰は揉める胆力さえも持たないが、国民が頑強に突っぱ
ねた場合は米国に阿諛追従するわけには行かないだろう。

 米国産牛肉問題は嗜好や値段の問題ではなく文化の違いの問題であ
る。この問題を究極まで詰めていくと、異質な文明同志の齟齬ということに
なる。アメリカは近代合理主義の確率論でBSEのリスクを認識し、日本は神
道的潔癖性から全頭検査を要求する。所詮噛み合わないのである。ここで
我が国の捕鯨禁止の経緯を考えてもらいたい。国際捕鯨委員会は、1982
年に商用捕鯨の全面禁止を決議した。日本や韓国など数ヶ国が反対した
が、日本はアメリカに恫喝されてやむなく従うことになった。国際捕鯨委員
会とは言っても実質は国連と同様にアメリカの傀儡組織であった。戦後、ア
メリカが日本に行ったことは刀狩りばかりではない。食文化の破壊もやって
いたのである。米食からパン食切り替えの奨励、そして伝統的鯨食の禁止
である。小麦の輸出と牛肉の輸出のためである。アメリカ産牛肉輸入には
そういう背景もあるのである。

 つまり、米国が行っていることは、イスラム教徒にキリスト教に改宗しろ
と強要していることと本質的には同じであり、相手側文化の徹底的な無視
と侮辱なのである。これは彼らが唱えるグローバルスタンダード経済の一
つの本質でもある。日下公人氏は、日本人を怒らせたら本当は怖いんだぞ
と随所で言うが、いつその怒りが出るのかと思う。BSE問題に私が期待して
いることは、政府が米国と玉虫色の妥協を図ったとしても国民がそれに従
わないということである。そこへ米国が強圧的に畳み掛けて来た時、はたし
て日本人全体は最終的にどういう反応をするだろうか。

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2006年7月26日 (水)

生ワサビの美味い食べ方を伝授する




 伝授すると言うほどの大仰なものではない。私自身
が、奥義伝授とか極意伝授など、そういう類の言葉が
持つ古風な響きが好きなのである。自分の好みを伝
授することは相手の嗜好もあることだし別に伝達され
なくてもいっこうにかまわない。強制性はまったくない。(笑)

 私はプロフィールに生ワサビが大好物だと書いた。こ
こ数年、私は知人と南伊豆や西伊豆などに行くことがよ
くあるが、帰りはお土産屋さんでワサビ漬けを買ってくる
のが楽しみである。天城は有数の山葵産地でも有名で
ある。実はこのワサビ漬けの質の良し悪しはワサビ漬
けを作っている方々の良心によっている。

 良心というと穏やかな感じではないが、ワサビ好きの
私がそう言う理由(わけ)は、市販の物に不味いワサビ
漬けがあまりにも多いからである。ワサビ漬けが美味し
いということ、すなわちその品質の高低は、ワサビ自体
をたくさん使っているということと、良質な酒粕を使って
いるということに尽きる。たったこれだけでワサビ漬けは
この上なく美味なものになる。

 ところが、あまたある市販の物は妙な味付けをしたり、
ワサビ自体の量を減じたりして感心しない。山葵(ワサ
ビ)というものはそれ自体が特殊な山菜である。清涼な
湧き水が豊富に湧出している環境のきれいな場所でな
いと良質のワサビはできないのである。

 ワサビが好きな人は何も自分だけではなく大勢いる
と思う。その人たちはワサビの一番好みの食べ方をどの
ようにしているのだろうか。多分、私の知らない食べ方が
あるような気がする。一般の人は、茎と葉っぱの付いた
植物としての生ワサビをなかなか手に入れられないと思
う。今はスーパーなどでも生ワサビはそろえてあるが、完
全な姿をしたワサビ本体にはなかなかお目にかかれない。

 実はワサビは茎も葉っぱも非常に美味いのである。ワ
サビの根茎を摩り下ろして、刺身につけて食べるのは全
国一般的であり、特にそれについては説明しないが、ワ
サビ漬け以外で、茎と葉っぱを効率よく美味しく食べる
調理方法は案外知られていないのではないかと思う今日
この頃である。では私が秋田育ちの母から伝授された方
法を披瀝しよう。

 用意するものは、生ワサビの茎と葉っぱ、これに根茎も
あるとなおさらいい。まな板でこれらを細かくみじん切りに
する。あと用意するものは高熱に耐えられる密閉容器(タ
ッパー)である。その密閉容器に先ほどの細かく切ったワ
サビを入れ、その上からヤカンなどで沸騰させた熱いお
湯を並々と注いでしっかりと蓋をするのである。この時、
中の蒸気圧で開いてしまうような容器だと良くない。あ、
そうそう、ワサビとお湯の比率は目分量で1対2、あるい
は1.5対2くらいがいいと思う。

 容器の温度がかなり下がってきたら、そのまま冷蔵庫
に入れて一晩寝かせておく。これで仕上がりである。蓋を
開けると絶妙なワサビスープが出来上がっているのだ。
それをスプーンなどで小皿に取り、醤油を適当に混ぜて
食す(あるいは飲むというほうが適当か)のである。口中
から咽元を通る時、鼻につんと抜けるワサビ特有の清冽
な香気はたまらない。しかも透明な液体の上品な辛さは
食べる者を至福の境地にいざなってくれるのだ。

 信じてもらえないかもしれないが、このワサビ総体(?)
の抽出液体は和食の王道なのである。是非お試しあれ!
尚、副次的効果として、多少の鼻の詰まりは即解消され
る。もしかしたら、この調理法は秋田県のある地方では
ごく常識的な食べ方なのかもしれない。ワサビをそのよう
に食べたことがない方には是非ともお勧めする。ワサビ
が好きな人ならば必ずやみつきになること請け合いであ
る。

 ワサビの味をひとことであらわすなら、それは奥山深山
の清澄な空気の衝撃である。馥郁(ふくいく)として凛冽な
る香気は口福、鼻福そのものである。(^^) 

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2006年7月23日 (日)

現行日本国憲法失効論、補遺

 この間の記事、「現行憲法廃棄、そして創憲への道」で、ある読者から下
記の批判コメントが寄せられた。このお人の批判の根拠というものは何だ
ろうかと考えると、投稿文には思想的スタンスが書かれていないので今一
よくわからないが、大日本帝国憲法を神聖視した愚かな論法であるという
指摘があった。それも含めてもう少し現行憲法失効論を文明論的に考察
してみようと思う。

***************************

 馬鹿も甚だしい。高橋氏のタイプは帝国憲法に戻そうとしてい
るが、実は帝国憲法に強烈な『憧れ』と『畏敬』の念に溢れた『だ
け』で『神の託宣を書き止めた』『聖典』のように崇め奉ってるだけ
である。

 したがって、『旧来の憲法下に戻れば全てが変わる。』と思い
込んでいる『だけ』であり、それに対して理由も理屈も情勢の判
断も冷静な分析もない。

この頑迷なくらい憧れ、崇め奉る姿勢は高橋氏が冒頭で非難
した戦後、憲法を一度も改正しないようにし、解釈などの誤魔
化しでやってきた勢力となんら変わりはない。

 彼らは現憲法を『聖典』と崇め奉る一派である。彼らは彼らで
『現憲法を堅固に維持していれば日本は平和であり続ける。』
とかたくなに思い込んでいる『だけ』の一派である。それに対し
て理由も理屈も情勢の判断も冷静な分析もない。

 つまり現憲法を改正することを強行に反対し、聖典のごとき扱
いをしている勢力も高橋氏も同じなのである。 が、当人はソコ
の所に少しも気が付かず、鏡に映ったおのれをコキ降ろしている
だけなのである。コレを馬鹿といわずなんと言おうか。

まぁソコら辺に気が付かないからこそ、コレだけ馬鹿げた文章を
ブてるのであろう。

****************************

  上では、私の試論に理由も理屈も情勢の判断もないと言っているが理由
と理屈は十分に述べたつもりである。情勢の判断については、現行日本国
憲法の廃棄が、現実的に可能な現状かどうか、それについて冷静に現状
分析を行っているのかという指摘だと考える。私の試論の要諦はこうであ
る。現行憲法の廃棄が方法論的に可能かどうかを検討することはもちろん
重要であるが、その前提としてまず先にクリアーしなければならない国民
意識のことを問題にしているのである。

 国民は戦後七年間の占領時代に、ほぼ完全に東京裁判史観に洗脳され
たままであり、その呪縛が解けていない状態で改憲論、廃憲論はまったく
実効性を持たないということが私の論点の土台なのである。つまり、方法論
という現実的な次元に到達する前に、憲法理念が属する文明観をはっきり
と自覚する必要があると考えている。欧米由来の文明観を参考にすること
は大いに有りうるが、それを全面導入して自国の固有文明を全否定するこ
とは、はたして道理にかなったことかどうかを戦後の日本人は検討する必
要がある。この作業を行わずして改憲、廃憲への道はあり得ない。

 自己弁護するわけではないのだが、私は大日本帝国憲法に復帰すれ
ば、戦後の問題のすべてが解決するとはけっして思っていない。私の言い
たいことは、帝国憲法が孕んでいた日本特有の文明的内実、すなわち国
柄・国体に対する想いであり、そこからの連続性を取り戻さなければ日本
人の国民精神の復活も、正しい実効性を持つ憲法論議も不可能だと捉え
ているのである。そういう文明論的な正統性の問題を度外視して、法律学
的なカテゴリーだけでは戦後憲法の問題を扱うことはできないと考えてい
る。

 現行憲法の最大の問題点とは何か。それは我が国の過去の国体的内
実の連続性が断ち切られているところにある。従って、現行憲法の成立理
由及び継続的存在理由そのものは根源的に問われなければならない。日
本という国家の総体的歴史性から鑑みて、現行日本国憲法の存在理由(レ
エゾンデエトル)を問いかけねばならないのに、戦後は一貫してそれに背を
向け、不戦憲法は人類の宝典だとか、平和のモデル憲法だとか、美辞麗
句でごまかし続けてきた。かなり大勢の人が美名憲法の名の下に自己陶
酔的、自己詐術的な言い逃れをしてきたが、それはもはや通用しなくなっ
てきている。存在理由とは、我々が信奉する現憲法に歴史の正統性があ
るかどうかということに尽きる。

 たしかに、良いとか悪いとかは別にして、現行憲法は戦後60年の継続時
間がある。この時間をどう考えるかということは重要である。しかし、それよ
りもはるかに重要なことは、戦前文明、戦前国体と有機的に繋がった連続
性をどうやって復活するかということにある。私は戦前の日本に戻れと言っ
ているのではない。戦前の日本が確かに保持していた伝統的連続性を現
代に取り戻す必要があると言っているのである。

 歴史時間は新しい時代に向かって常に動いており、その方向性は不可
逆である。従って、昔をどんなに憧憬しても、歴史時間のベクトルそのもの
は変えられない。だが、伝統的日本精神を復活することは可能である。け
っして古い過去の時代の古い入れ物を再構築しろとは考えていない。従
って次のような指摘は見当違いである。

>帝国憲法に強烈な『憧れ』と『畏敬』の念に溢れた『だけ』で
>『神の託宣を書き止めた』『聖典』のように崇め奉ってるだけ
>である。

 確実に言えることは、明治憲法が属していた世界には、国家の伝統に
基づいた国柄、国体が存在したということである。では終戦から今日まで
の戦後時間には、国柄や国体が存在しないのだろうか。また皇紀2666年
の中に戦後時間の60年は意味を成さない時間だったのかという深刻な問
いかけがあることも承知している。この戦後空間の自己同一性は確実に
現実のものだったわけだから、そこからの連続性はどのように処理する
のかということがある。

 今、我々が過ごしている時間は、要するに新しい時代である。だからと
言って、その文明的内実に過去時間の集積を全否定することは国家のあ
り方として確実に間違っている。戦後空間の文明史観は、断言しても良い
が西洋近代普遍主義である。それはすなわち進歩史観なのである。進歩
史観とは過去を全否定して、未来に人間や文明が完全化するという幻想
に基づいている。それと同じ位相を持つのが、キリスト教的時間軸で言う
なら予定調和説、至福千年説であり、マルクス・レーニン的時間軸で言う
なら共産革命なのである。

 これは端的に言って、フランス革命のジャコバン党の理念、つまりはロベ
ス・ピエールらの革命理念なのである。現行日本国憲法の理念はそのフラ
ンス革命の流れに基づいた典型的な革命憲法だと私は認識する。そうい
う意味で左翼的な法思想に基づいた左翼憲法なのである。この源流にあ
る哲学はジャン・ジャック・ルソーである。

 このような左翼世界観で造られた憲法でも、60年も求心力を保っていら
れたのはなぜか。その求心力こそ天皇条項だったのである。この憲法の
やっかいなところはそこにあるのかもしれない。象徴天皇が現行憲法に
組み入れられたことは、GHQは西洋近代主義の左翼思想に皇統の連続
性をリンクさせてしまったのである。西洋近代主義と皇統は文明的に不整
合である。だから帝国憲法の第73条が適用された時に、国体の連続性
か、帝国憲法の失効かの二者択一を迫られることになったわけである。
日本は咽元にナイフを突きつけられて、心ならずも帝国憲法の失効を認
めざるを得なかった。

 ここで、天皇が象徴化されたという部分には、明治憲法理念の失効化
が行われたことが「象徴」されていたと考えられなくもない。立憲君主制が
廃棄されながらも、新憲法には象徴天皇制が堅固にリンクされてしまった。
これによって、西洋近代主義の内実しか持たない非日本的な憲法が今日
まで命脈を保った感は否めない。GHQ上層部は考えた。日本人は与えら
れた憲法体系が何であろうとも、天皇条項さえ付帯していれば安心して
憲法を遵守する民族である。だから帝国憲法の精神を完全に抜き取り、
その中身を国民主権の近代憲法思想に置き換えるに当たって、天皇の政
治的権能は完全に無力化し、その上で天皇と国民の関係を存続させるこ
とにした。これが現在の象徴天皇制である。

 もう少し詳しく説明しよう。GHQの当初の目的は、日本人の神道的民族
性と天皇体制の完全破壊にあった。しかし、よく日本人を観察してみると、
国民と天皇の精神的なつながり(紐帯)があまりにも堅固であることを認め
ざるを得なくなった。GHQの日本人研究は徹底していた。ここにルース・ベ
ネディクトの書いた「菊と刀」などが参考にされたことでもそのことはよくわ
かる。アメリカという国は良くも悪くも戦略的行動様式が徹底しており、彼
らの占領支配があった7年間は、日本民族のその後のあり方に致命的か
つ決定的名な影響を与えてしまったのである。

 つまり、やむなく天皇体制の存続を決定したGHQは、天皇をどのように扱
うかで腐心し、結果として出したのが天皇を国民の統合的シンボルとして
位置づけたのである。これが今の象徴天皇制度である。天皇という存在だ
けに限って言えば、国民の側から見て立憲君主制であろうと、政治権能を
失った天皇象徴性であろうと大した差異はなかったのである。この表現は
誤解を与えるかもしれないが、差異がないという意味は、時代がどのよう
に変化しようとも日本人が天皇を認識する精神の有り方には基本におい
て変化がないということである。それは江戸から明治に劇的な国家変容を
起こしても日本人の自己同一性は常に変わらなかったように、天皇も外見
的衣替えをしても、その御存在の内実は時代を超えて不易であることを意
味する。

 なぜなら、天皇は歴史的に観て常に雲の上の人であり、政治的権威とは
本来的に隔絶された御存在だからである。天皇は国民精神の中心的支柱
であり、日本文明の憧れである。天皇は日本的霊性の本体である。この認
識、この精神的基層は不変であると考えている。庶民がどれほど努力して
も、政治的術数を講じても、絶対に天皇にはなれないし、なろうとする存在
でもない。その意味で天皇は皇統を背にして、肇國以来、国家時間の連続
性にあって、時間を超越した歴史的客体としてある聖なる御存在である。し
たがって、天皇は時代によって区分されることもなく、国民からも、武家から
もいっさいの身分からも聖別されていた特殊な存在であった。その視点で
言うなら、明治期からの天皇の軍神化、及び天皇大権付帯は歴史的に観
て特殊な状況であったことは言えるだろう。

 外部的な力によって天皇から天皇大権が剥奪されても、我々日本人の
精神の根幹には大した重要性を持つことはない。したがって、GHQの取っ
た象徴天皇制は、当初の日本人を安心させ属国統治をやりやすくしようと
した目論見としては成功したわけである。こうして天皇条項で粉飾された
国家防衛の魂のない近代主義憲法が戦後に作動することになった。しか
し、このことが日本人の魂を腐食させ続けており、それはすでに危険な領
域に達している。我々日本人が民族的な退嬰に陥ったのは、立憲君主体
制が廃棄されて天皇が象徴化されたからではない。理由は日本人が歴史
を失ったからである。完全なる過去否定が日本人の魂を浮遊させたのであ
る。

 日本人の先祖崇拝は神道的感性であり原初的なものである。敬神崇祖
の民族性は過去を否定しないところにある。従って、戦後文明の核である
過去否定を前提とした進歩史観は日本人には完全に不整合である。不整
合ではあるのだが、事実として60年の物理的な歴史時間があり、その時
間は日本人の精神性に決定的な変容をもたらしている部分もある。これは
これで無視することはできない。だが、このまま進むことは民族の滅亡に
突き進むしかない。なぜなら歴史の連続性によって出来上がる背骨を持た
ないからである。これを取り戻さない限り、日本は無国籍状態になるだけ
である。

 現行憲法を改憲ではなく廃棄せよと考えるのは、それによって国家の形
態を元の状態へ復帰せよと叫ぶのではなく、まず最初に我が国の文明の
有り方を真剣に模索してもらいたいということが前提になっているのであ
る。国民意識としては戦後の進歩史観一辺倒の誤りを反省し、国民精神
の方向性を元の文明が孕む連続性に回帰させようということなのである。
それには国民の一大覚醒が必要だと考えている。つまり、他者による強
制力で行われた「日本国憲法成立」という「革命」を払拭するためには、革
命ではなく「覚醒」が必要なのである。この覚醒が為されてはじめて、今の
時代に即した憲法思想が生まれるものと考える。従って、上の人が私の
憲法論を解釈改憲派と同質であると批判したことは完璧に的外れである。
私は文明論的見地から現行憲法の存在論的な無効性を冷静に主張した
だけである。

 物事の順序として、憲法から文明は作ることができない。なぜなら憲法
の存在そのものが文明が確立していることから来る結果(アウトプット)だ
からである。文明が初めにあってこそ、憲法思想が生まれるのである。憲
法が生まれてから文明の構築が始まるわけではない。平たく言うなら、日
本人が日本に目覚めれば憲法思想も無理なく自然にでき上がる。そうい
うことを考えているわけである。

 具体的には、現行「日本国憲法」は革命憲法であるから、日本国民の総
意的な否定意見が起これば廃憲は可能である。それを背景として国会に
発議され、国会議員の2/3以上の賛意を以って議決に至れば現行占領
憲法は失効する。革命憲法の失効が起これば、憲法の拠り所は自動的に
大日本帝国憲法に帰属することになる。あとは時代の趨勢や要請に応じ
て改憲して形を整えることである。ただし、この時点で日本人はもとの日本
を取り戻しているという前提を持っていることが肝要な点である。

 余談だが、明治憲法と現行日本国憲法を比較して文明的な視点から論
じようとする時、国民は天皇をどう考えるか、天皇とは何であるかを考える
ことは避けられないことである。私のような一介の凡庸な者が、天皇を堂
々と考えたり説明を行ったりすることは不敬であり荷が重過ぎる。しかし、
日本文明の核に、日本的霊性の核に存在するこの古い家柄の連続性を
真正面に見据えなければ文明論的憲法論は成立しないのである。古事
記の初頭部分(天地の初め)には三柱の重要な造化の神様が登場して
くる。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神である。

 このうち高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と神産巣日神(かむむす
ひのかみ)の二神は、建国から今日まで、この日本という国を強く特徴付
けたある重要な特性と深く関わる神様である。高御産巣日神は天照大神
を天岩戸から出し、神産巣日神は若い頃の大国主神を蘇生させた。つま
り、この二神は物事を生み出す生命力の象徴なのである。日本の神道文
明の根幹には、常にこの二神による造化作用、すなわち「ムスヒ」の形が存
在していた。いわゆる「むすび」である。海外から入ったものを良いものだ
けを取り入れ、それを日本的に変容させ、最後には日本に根付かせると
いう作用のことである。日本人の精神のアーキタイプにはこの「ムスビ」の
力が備わっているのである。そしてこれは日本の歴史の動力学に反映さ
れ、民族の原動力を発揮してきたのである。

 日本民族の巨大な受容性、すなわちこのムスビの神道的受容性こそ、
たとえば明治維新の動乱を乗り切った底力であった。明治維新に当たっ
て日本は和魂漢才から和魂洋才に転換した。つまり、欧米の近代思想、
近代技術など、文明的に和合的する部分を積極的に取り入れ始めたの
である。近代文明の摂取によるムスビである。大きな視点で捉えてみると、
このムスビの力学が大東亜戦争以降はすっかり働かなくなってしまった
のである。これは憲法が近代普遍主義になったからではない。敗戦のショ
ック、そして極東国際軍事裁判の蠱毒(こどく)によって、日本人自らが自
国文明をどこかに置き忘れたからである。

 戦後の日本は文明形成力を失ったまま、夢遊病者のように歩み続けて
いる。これは文明の生態史観で言うと、必然的にアロジェニック(他成的)
な推移(遷移)の形を取っている。それも、以前の第二地域のアジアに於け
る他成的な遷移よりもはるかに劇的な他者志向型文明に成り下がってい
る。他者志向型文明というのも実は正確ではない。事実はアメリカの属国
文明化なのである。文明的視点に立って言えば、今の日本は、かつての
力強いオートジェニック的文明から、主体性を欠いた病的な他者志向の
アロジェニック的文明に変遷してしまったのである。

 私はこの病的な大転換が憲法に起因するとは考えていない。繰り返すが
憲法は飽くまでも文明出力の一つの帰趨に過ぎないからである。日本民
族の懐の深さは民族自身が一番自覚していないのかもしれない。私は
時々こう思うことがある。戦前も戦後も、実は民族のオートジェニックな力
は厳然として継続しており、日本民族は巨大な欧米文明を呑み込もうとし
ているのではないのかと。文明のムスビを行おうにも、相手があまりにも
巨大過ぎて造化の神さまが難儀しているのかもしれない。欧米文明がな
ぜ咽元につかえてしまい、日本人はなぜこんなに苦しんでいるのかを考
えてみれば、私には白人五百年の侵略史があったこと、そしてそれが欧
米文明の蠱毒(こどく)としていまだに破壊的な有毒性を持っていることに
思い当たる。

 悠久なる自然から培った調和と平和を希求するアーキタイプを持つ日
本文明が、殺戮と自然破壊、欲望の加速を是認するアーキタイプを持つ
文明を簡単に「ムスべ」ないことは当然といえば当然であろう。戦後日本
は自国神話の否定から出発し、自国神話を持たない促成国家アメリカを
手本とした。逆である。アメリカが日本を手本にする形こそ本来的なので
ある。アメリカ文明の本質というのは西欧近代主義と、産業革命から勃
興した欲望資本主義の極端な収斂から起こった特異な文明である。他
国の資源や資本を強欲にかき集める欲望拡充型の本質を持っている。
たとえば、ダーウィンの進化論仮説を基にしたハーバード・スペンサーの
唱えるような典型的な社会ダーウィニズムの国である。力による適者生存
の法則を信じて実行する国家である。ここには人類が目指すべき徳性も
公共性も調和的様式もまったく育たないのである。我々日本人には天皇
という自然との調和を体現し、歴史を超越した憧れの対象がある。日本文
明の真の優位性がそこにある。

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2006年7月19日 (水)

現行憲法廃棄、そして創憲への道

    ◎文明的見地から考察した現行日本国憲法失効論

  憲法とは何だろうか。我々国民は、憲法が国家の最高法規であり守るべ
き法体系であることを知ってはいるが、憲法が我々にとって何であり、如何
なる意味を持つのかということになると、それを真に捉えている人ははたし
て何人居るだろうか。最高法規というものは国家の治め方、すなわち統治
原理の最高基準であり、一日も休めない国家運営の仕方を決めていく指針
である。憲法がない国家とは、混沌、野蛮な無政府状態と同じことである。

 なぜ私のような法律に不明なただの素人が、取っつきにくいながらも憲法
という、日常性から離れたものを必死に考えてみようとするのだろうか。そ
れは戦後に成立した現行憲法が、とうの昔に機能不全を起こしていたにも
関わらず、その場その場の目先の都合に合わせて、解釈だけをごまかすこ
とによってどんどん進んだ結果、深刻な行き詰まりに遭遇して身動きが取
れなくなってきたからである。これは、憲法でしか対峙できない大きな諸問
題が、すでに法律論的な解釈では打開できない局面に到達していることを
示唆する。

 特にそのことは、国防、軍事に関する事柄において顕著になっている。
今、日本が遭遇している国際環境は、中国と我が国の領海問題、尖閣諸
島の領有問題、韓国と我が国の竹島問題、北朝鮮による拉致犯罪やミサ
イル攻撃など、我が国の主権と安全がぎりぎりの局面で脅かされ、実際に
侵害を受けている。この危機的な状況下でも、我が国は護憲的な基本を崩
さずに、背水の陣的な場所で打つ手もなく立ち往生している有様である。こ
の状況は国家崩壊の一歩手前なのである。

 国防というもっとも大事なことを根本まで突き詰めずに、60年間も表面上
の解釈改憲でごまかし続けてきたことの深刻なツケ付けを今支払わされよ
うとしている。この解釈改憲のひどさは、与野党両者の対立軸の中にもき
わめて明瞭に見られる。最も端的な例は自衛隊の憲法上の規定であろう。

 憲法第九条の二つの項目を、時代の状況に応じて解釈改憲しながらそ
の場その場で自衛隊の存在規定を行ってきている。わからないのは、武力
の行使に自衛権の行使は当たらない、戦力に自衛力は含まない、自衛の
ための戦いは交戦権の否認にあたらないというものである。九条を素直に
読み込めば、自衛権による戦いと、交戦権による戦いが別個のものである
などいう解釈の余地はまったくないはずなのである。このいい加減な解釈
改憲がどれほど日本人の精神を混乱させ、その深部を蚕食したか言っても
言い足りないくらいである。

 第一、好奇心旺盛な子供の問いに、この問題を明確に答えられる大人は
一人も存在しない。交戦権否定の中で、唯一自衛権による戦いは例外的で
あるなどと言ったら子供は目を丸くして「なぜ?」と問いかける。国民の生命
財産は他国の攻撃から守る必要があるからだよと答えたら、子供は、じゃ
あ戦いは駄目なものじゃないんだ、必要なことなんだと即座に思うだろう。
つまり、子供にとっては防衛を考えたら交戦権否定はありえないのである。
逆に子供が交戦権を否定したら、すでにそこには自衛という力の行使もあ
りえないことになってしまうのだ。子供は矛盾の包摂を許さないからである。
こんな簡単なことを解決もせずに延々とごまかした上に、その問題を思考
停止に置いてきた今までの方法がこれ以上続けられない状況に立ち入っ
てきている。

 交戦ということは、その目的が自衛であろうと、他の目的の戦いであろう
と言葉上では、二つあるいは複数の主体同士の戦いなのである。そこには
戦力の相互行使という以外の意味は存在しない。九条が規定することは、
武力行使の放棄、戦力不保持、交戦権否認である。どう考えてもここに、自
衛の戦力は例外であるなどという解釈は出てこない。ところが現在の日本
ではそれがあるということになっているのである。従って九条は自衛隊の存
在そのものを否定しているにも拘らず、自衛的武力行使だけは例外扱いさ
れ、存在してはならない自衛隊にその戦力行使を付託しているのである。

 このような矛盾した形で国家の運営を行わざるを得ない憲法は棄民的憲
法、すなわち国家の自殺を志向する内実を有した憲法と言えるだろう。つま
り子供にさえ説明不能な憲法内実と現実の乖離は、戦後日本が抱え込ん
だ文明的な矛盾そのものの雛形にもなっているのである。これは現行憲法
が占領下のさなか、日本のあらゆる「武」の力を永久に封じ込めるために作
られた自縄自縛の憲法だからである。

 従って、日本民族の魂もなく国家の正統性もない現行憲法は、ただ第九
条を改憲なり撤廃すれば問題の本質が解決されるというものではない。
我々は現行憲法の存在そのものを根底から否定する必要がある。つまり
廃棄した上に、帝国憲法の連続性を持った我が国固有の憲法を創出する
必要がある。ところが、非常にやっかいな問題がここに出てくるのである。

 現行日本国憲法はも最も改変しづらい性格に出来上がっている。すなわ
ち硬質憲法である。部分改正はともかくも、全文改正をして事実上の廃棄
に持って行こうとしても、手続き上やっかいな問題が立ち塞がるのである。
それは現行憲法上の手続きを以って全文改正的に現行憲法を撤廃しよう
とすれば条文上の禁則事項に抵触するからである。改正を謳った憲法第
96条には、改正に当たって憲法の自己同一性の保持、すなわち現行憲法
の基本思想を保持したまま行わなければならないという条件が付与されて
いるからである。つまり現行憲法には帝国憲法に復帰できない自縄自縛の
インターロックかかっているのである。

 ここで、現行日本国憲法の改正条文を見てもらいたいので下に記す。

 第9章 改 正 

第96条 
 この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、
これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認
には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票におい
て、その過半数の賛成を必要とする。

2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、こ
憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

   現行憲法全体を、別の憲法大系に置き換えるために、大きな枠で全体的
改憲を試行しようとすれば、第96条にある、「この憲法と一体を成すものと
して、」という付帯条文に明らかに抵触することになり、事実上手続きが不
可能である。「一体を成す」という意味は、憲法を成立させる基底となる文
明原理を変えてはならないという意味に解釈できる。もう少し次元を落とし
て言えば、この改正条項ではいわゆる「国体」を変更することはできないと
いうことになる。ここで言う国体とは戦前までの連続性に基づいた国体で
はなく、戦後にGHQの主導で国家の在り方をむりやり変更されてしまった、
謂わば擬制的な戦後体制を指している。それは現在まで我々が引っ張っ
てきたアメリカもどきの社会体制のことである。 

 つまり、現行憲法思想の屋台骨である西洋近代普遍主義の内実を抜き
去って、別の文明大系に基づいた憲法を樹立することはできないというこ
とになる。平たく言うなら、アメリカ型の文明観を否定した改正は出来ない
のだぞということになる。ということは、素直に見て全文改正法では帝国憲
法との連続性は取り戻せないということになる。いかにGHQの奸佞邪智が
手の込んだものかわかる思いがする。戦後の我が国はまったく厄介な歴
史のベクトルを持ってしまったものである。

 私は現行日本国憲法の成立実体が「八月革命説」にかなり近いものだと
考えている。もっとも、革命という言葉そのものは能動的主体性を持った言
葉であるから、他者の強制力によって作られた憲法は厳密には革命ではあ
りえない。しかしながら、GHQの手でフィリピン憲法をなぞらえた下書きが行
われ、その強制付与でできた現行憲法は、その憲法原理が旧憲法のそれ
とはまったく異質なものとなり、日本固有の文明や国体の連続性という視
点から見ると、現行憲法は巨大な断裂の上に出来上がっている。まさにこ
の形態は思想革命であり、それまでの統一的な連続性から独立した、まっ
たく別個の国家法規にすげ替えられてしまったと言う事ができる。言葉上
ではまったく奇妙な話だが、八月革命説の「革命」とは他者主導による革
命なのである。他者に煽られて起こしたクーデターが現行憲法の本質だと
いうことになる。

 現行憲法成立には、天皇の「上論」もあり、少なくとも大日本帝国憲法第
73条の改正手続きを経てはいるが、新憲法成立過程で、私はこの条項の
適用解釈にすでに深刻な分裂が起こっていると見ている。それは旧憲法第
73条では、国体に関する規定は改正できないという考えられていたから
だ。しかし、それでも、GHQ主導で出来上がった現行憲法が日本国民の発
意で行われたように見せかけるために、第73条によって改正手続きが行
われた。その見せ掛けの改正手続きには、実は深刻な憲法思想の分裂が
あったことを指摘する人をまだ見たことがない。

 この時、我が国はポツダム宣言を受諾したことによって、国体の連続性を
選ぶか、あるいは旧憲法の「失効」を選ぶかのギリギリの決断を迫られてい
たのである。民意としては当然ながら国体の連続性を確保したいはずであ
ったが、それがどうしてもできなくて我が国は旧憲法の失効を選んだ形に
余儀なくされてしまったのである。この背景には被占領国の主権剥奪という
悲しさがあったのである。逆に言うと、占領国が被占領国の憲法を勝手に
制定することは国際法違反なのであるが、これは建前であって実際は有無
を言わさず固有の憲法を、西洋近代主義の権化のような無国籍憲法に取っ
て変えられたのである。連合国総司令部(GHQ)の占領下で強制的に賦与
された経緯がある。日本が喉元に短刀を突きつけられて、いやいやながら
成立させた現行憲法には、我が国の歴史のレジティマシー(正統性)が存
在しないのである。
 
 この意味が理解できるだろうか。日本には日本固有の文明があり、西洋
には西洋近代主義の文明がある。我が国固有の文明思想から成る大日
本帝国憲法と、英米型の法理論に基づいた、いわゆる「向こうの形」の憲
法体系のことである。大日本帝国憲法の失効とは、過去の日本文明の完
全否定を意味しているのである。ここから、現行日本国憲法が戦前以前の
日本文明の完全否定で出来上がっている事実を、今の日本人の何割が認
識しているだろうか。アメリカの考えは、国際法的には日本を主権独立国
のように扱ったと見せるために、新憲法がいかにも日本人の主体的意志
で作られたかのようにしつらえた。

 しかし、その内実は日本文明の強制失効だったのである。この事実を見
極めないで生き続けているのが戦後日本である。我々は自覚しなければ
ならない。GHQの占領政策は、単なる戦勝国の支配という形態ではなかっ
た。占領支配をはるかに越えて、彼らは日本の文化、歴史、伝統的精神
構造のすべてを破壊し、まさに日本から日本的なるものをすべて奪胎する
ということをやらかしたのである。これは文明の破壊作業なのである。その
文明破壊の中心にこそ、今我々が崇め奉っている現行憲法が置かれてい
たのである。つまり、現段階でも、メイドインGHQの烙印が押された日本国
憲法が厳然と鎮座している事実とは、占領政策の真の目的、すなわち日
本の完全破壊がいまだに粛々と継続していることを意味している。現行憲
法は有毒憲法なのである。

 現行憲法は、思想的文明的にはそれまでの帝国憲法が属していた世界
とまったく異なる法思想になっている。しかし、それを樹立し遵法する主体
は同じ日本民族であるから、形態としては憲法に革命が起きたと捉えるこ
ともできる。ただ、何から何への革命が起きたのかと考えると、それは文明
的本質を考えるとわかりやすい。革命によって起きた転換は、日本文明か
ら西洋近代主義への変容である。

 戦後日本の国民精神が浮遊し揺曳している最大の原因がそこに起因す
る。戦前も戦後もDNAはまったく変わらない同じ日本民族であるが、遵奉す
る最高法規の精神原理が欧米近代主義に取って変わられたのである。日
本人自らの意志がなく、占領強制の中で与えられた憲法は、戦後、徐々に
日本人の精神を蝕んでいった。民族の魂が存在しない最高法規を頭に載
せられたまま時を過ごせば、日本人が脆弱になるのは当然である。自分た
ちの魂から抽出した法体系と異なるものを遵守しなければならないのは苦
痛以外の何物でもない。そういう背景をいつまでも保つことは日本人の内
面を破壊する。すでにその顕著な兆候は色濃く出てきている。ここに現行
憲法は改正ではなく完全廃棄する必要があるのである。

 日本人は戦後の近代主義への転換を反省し、欧米文明はあくまでも参考
とするものであって、本来の日本文明がそれと同化してはならないのだと
いう意識を強く持つことが肝要である。日本は神代の昔から日本文明の系
譜を持つから、そこへ回帰してから憲法理念を樹立する必要があ。そうしな
ければ民族は内部から瓦解する。

 私は憲法こそ、その国固有の文明、及び歴史的連続性を踏襲しなければ
ならないと考えている。今の憲法は革命憲法であるから96条の付帯条文
に拘束されることはないと思う。悪い思想に基づく革命であるから、その悪
い思想を捨象して、自国文明の流れに沿う思想を確立し、それを志向すれ
ばいいと思う。その場合、今の憲法の自己同一性を背負って進む必要はな
いと私自身は考えている。つまり、廃棄に当たっては現行憲法からの連続
性は考える必要はなく、きっぱりと廃棄して、一旦は大日本帝国憲法に復
帰することができると思う。

 つまり、廃憲のためには、国民意識がそれに賛成か反対かの前に、独自
文明の連続性を復活させるか、あるいはこのまま行くのかどうかにかかって
くるわけである。このまま行くという選択をした場合、日本文明は間違いなく
消滅することになり、それは無主体の国、すなわち属国になるということで
ある。日本人が日本人をやめるときである。

 廃憲から創憲への流れは、法理論的な難しいことを考える前に日本人が
全体として先祖主権を認めることが先決である。GHQがその占領期に徹底
して行ったことは、完璧な占領支配だけではなく、日本国史の完全否定な
のである。つまり、日本人が過去に築き上げたすべての事象、すべての営
為は悪であったという歴史の改造であった。聖書を信奉する彼らは、日本
文明そのものが、旧約聖書に出てくる悪徳の街、ソドムとゴモラに等しい悪
の歴史だと言っているのである。ソドムとゴモラは神ヤハゥエの怒りを買い、
神の閃光でたちどころに破壊された。アメリカ軍の原爆投下はこれとまった
く同じで、日本という東洋の悪徳の国に神の怒りを代行したという意識が
投影されているに違いない。

 アメリカが行った日本の過去否定、すなわちこれは先祖主権の否定であ
る。先祖主権を否定して国の未来はない。従って先祖主権を否定して出来
上がった憲法とは紛れもなく革命憲法なのである。もっとはっきり言えば、
現行憲法の文明原理には「日本の本質が」ないのである。この事実を考え
ることを回避して、思考停止状態になっていたのが戦後日本である。改憲
だ、加憲だなどと言う前に、日本人は己に先祖主権を回復する必要があ
るのである。すなわち日本文明に立ち戻ることである。そのためには何と
しても自覚しなければならない国民精神がある。それが先祖の心を保った
ままの「日本」なのである。

 つまり我が国の伝統文化、国体、国柄、皇統、これらが国民精神の中核
に位置するものであって、けっして欧米由来の精神原理に立脚する必要は
ないという自覚を強く持つことである。これは日本人全体が、自国固有の正
統な文明感性を至上とする意識を持てばいいのである。つまりは日本国憲
法成立以前の国民精神原理こそ紛れもなく正統であったことを自覚するだ
けでいいのである。

 この一大覚醒が起こることが文明の連続性を取り戻し、日本人が本来の
日本人に戻る唯一の道なのである。この意識の鮮明さを持てば、現行憲
法の失効棄却は当然のことであると気が付くはずである。私と同じ日本
国民同胞に言いたい。アメリカは日本人の先祖を、日本民族そのものを、
ソドムとゴモラの住民に等しい悪徳の権化として裁いた。これについて何
も感じることはないのだろうか。五百年に及ぶ白人(アングロサクソン)の
世界侵略史を省みて、彼らに日本を悪として裁く権利があるのだろうかと
いう熾烈な思いが募る。 キリスト教を旗印に、弛まない破壊と殺戮、略
奪、支配、搾取、悪徳の白人帝国があった。その本質が最も色濃く抽出さ
れて出来上がった新興国家アメリカに日本を裁く権利や資格などはまった
くない。従って東京裁判そのものが、彼らの暴虐的性格から出た私怨の
裁判であることは明らかである。

 日本人は現行日本国憲法が、徹底した日本否定の土台に出来上がっ
ていることを認識する必要がある。この認識が出来上がった時点で現行
日本国憲法は失効する。なぜならこの憲法は革命憲法だからである。革
命の正当性が否定された時点でこの憲法は効力を失うのである。従って、
現行憲法は廃棄こそが正しい選択である。

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2006年7月17日 (月)

戦艦大和(25)◎時代の空気とは

  ◎如何ともしがたい時代雰囲気の差異

 吉田満が書いた「戦艦大和ノ最後」は、角川博氏が旗を振って「男たち
の大和/YAMATO」という東映の映画作品になって、昨年12月に公開さ
れた。しかし、吉田満の同著は、すでに1953年、昭和28年にも新東宝
株式会社から「戦艦大和」という題名で作品化されている。私が生まれた
年の翌年である。この作品はすでにDVD化されているから、「男たちの大
和」を見た方々は、是非、この作品も鑑賞することをお勧めする。

 この初期の大和映画は、戦艦大和がその最後を迎えてからわずか8年
後に造られた作品である。モノクロームの映画ではあるが、時代の雰囲
気が非常によく表されていた。一方、前にも書いたが昨年の「男たちの大
和/YAMATO」は、あの時代の空気の再現に完全に失敗している。その
意味で私はこの映画の人物描写や背景描写をまったく評価していない。
この映画が価値を持つ唯一の部分は原寸大の大和のロケセットを使った
ということくらいであろうか。あとは敵機に波状攻撃された時、最後の戦
いを行った戦闘シーンも評価できる。

 しかし、大和出撃時の乗組員たちの様子や事細かな人間描写は、昭和
28年の「戦艦大和」が圧巻である。この映画では、当時の空気を非常に
よく現出している。終戦後わずか8年後である。GHQが如何に日本国民の
洗脳を執拗に行った後であっても、製作スタッフや俳優さんたちは、戦艦
大和と同じ時代の空気を吸っていた方々であるから、演技でも自然に当
時の空気を醸成できたのだと思う。

 私はこの昭和28年作の映画作品を観ていて、ある感慨に耽ったことを白
状する。戦艦大和は沖縄死守のために出撃し、途中で無念の轟沈を遂げ
たが、敵機群との最期の戦いの時、大和の46センチ主砲が何度も火を
吹いていたシーンがあり、それを観ていて涙がにじむ思いであった。なぜ
なら、吉田満の「戦艦大和ノ最後」を下敷きに造られた作品ならば、大和
の最後において、主砲は一発も撃たれなかったことは当然知っていたは
ずである。ところが映画では思いっきり主砲を轟かせていたシーンが作ら
れていたのは、スタッフの大和に対する強い思い入れがそうさせたので
あろう。

 大和の最後は、数百機の敵機による波状攻撃で、味方の援護機が一
機もなく、撃たれ放題で沈められたのである。生き残った人たちが口々に
する慙愧の思いは、最後に敵機に向かって一発も主砲を撃たなかったこ
とにある。この無念さを忠実に再現することはスタッフには、悔しくて到底
できなかったものと見える。その心情がよくわかるだけに、彼らが大和の
最後に主砲を撃たない映画を作ることは忍びなかったことがわかったの
である。だから私は製作スタッフの心意気に涙が出たのである。史実と
は異なるが、主砲を放ったシーンを敢えて入れたことに、私は少しも責め
る気持ちは湧かないのである。私が監督であったなら、私も戦闘シーン
に主砲を発射させていただろう。

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2006年7月15日 (土)

米国産BSE牛肉輸入問題に見えるアメリカの日本観

 このあいだ、特定危険部位である背骨の混入で、再度輸入禁止になって
いた米国産牛肉の輸入が再々開されることになった。今月末にもその第一
貨物が日本に到着する予定である。

 BSE(牛海綿状脳症)が、牛肉食を介して人間に感染が起これば、人間
の脳にも同じ病変が生起し、確実な推移として自己精神の蚕食の末に死
にいたる。いわゆるクロイツフェルト・ヤコブ病である。調べてみると、脳に
異常な蛋白質(プリオン蛋白)が蓄積し、脳神経細胞の機能が障害され、
脳に海綿状の変化が出現するプリオン病と呼ばれる疾患群の代表的なも
のと書いてある。発症後はわずか一、二年以内に全身が衰弱し、呼吸困
難や肺炎などで死亡する。

 脳がスポンジ状態になる病気だと考えると、その恐ろしさ無残さがよくわ
かる。イギリスの発症児童の様子と、その家族のいたたまれない気持ちを
テレビで観て知ったが、何とも言えない悲愴な気分になった。このクロイツ
フェルト・ヤコブ病(CJD)には有効な治療法、進行緩和対策は皆無である。
その意味では超一級の難病であろう。家族の誰かが罹患したら、それを見
守る家族にも精神の蚕食が起こる絶望的な病気である。

 輸入解禁において、今回、問題になっている点は、日本人の総意として、
米国の畜産業が行っているQC(品質管理)に信頼がまったく持てなくなって
いるということにある。つまり、日本人は今のままだと、プリオン混入の牛肉
を無理やり輸入させられると考えているのである。全頭検査どころか、杜撰
この上ないアメリカのBSE検査対策に大きな疑念を持たざるを得ない状況
である。我々消費者は米国産牛肉を口にできるだろうか。

 今回起こったことは、日常的に口にする食の安全を、日米の政治的な力
学関係で無視してしまったことである。日本人はまったく愚かにもほどがあ
る。経済的な駆け引きで勝ち負けは起こるにしても、今回の場合は日本国
民の生命に直接関わる重大事であるから、ことの本質を政治的な決着だ
けで済ますわけには行かないはずなのである。米国は日本に対して早く輸
入を再開しないと貿易問題に発展させると再三脅しをかけていた。これに
屈して我が政府は十分な安全対策をアメリカに講じさせることなく輸入解
禁を決断したのである。

 小泉純一郎は国民の食の安全を完全に犠牲にして危険極まりない米国
産牛肉の輸入に踏み切った。それと引き換えにした国益的代価とは何で
あろうか。エルビス・プレスリーの邸宅であるグレースランドに、ブッシュ夫
妻と一緒に行った栄光なのか。ブッシュに頭をなでてもらうために巨額の
米軍再編費を払い、国民を地獄の死に至らしめるBSE牛肉を輸入するこ
の男には、国民を護る意識は皆無なのである。

 アメリカのダブルスタンダードのひどさ、悪辣さはあらゆる外交姿勢に見
え隠れする。この二重基準をTPOによって強圧的に使い分けるアメリカの
狡知さは、ストレートに相手国を威圧するシナよりも何段階も悪質である。
BSE問題にもアメリカの傲慢身勝手なダブルスタンダードが露呈している。
それは自国への牛肉輸入に対しては相手国に徹底的な品質管理の要望
を出し、それが、マニュアル化された文書まで出して管理している。ところ
が日本への輸出には骨髄液が飛び散って肉に付着することなどお構いな
しのひどい手抜きでやっているのである。

 この感覚は東洋人を人間と看做していない証拠であろう。東洋の猿が我
が国の品質管理にはのぼせた口出しをするな、動物の分際で越権行為で
あるという感じである。これは彼らが日本に原爆を投下して生物被害実験
をした感覚に等しいのである。BSEの不完全対策牛を、政治的な圧力によ
って我が国に強制的に買わせる米国の思惑を見て、日本人は基本的な疑
念を持たないだろうか。

 まず考えられることは、日米同盟も基本的に日本人をそういう存在とみな
して行っているという事実である。けっしてこの同盟関係は互角ではないし
相互互恵的でもない。日本は今、アメリカから国富を吸い取られる存在とし
てのみ価値を持つと考えられている。また、軍事的にはシナとの緊張緩和
を行う緩衝地帯として日本を位置づけているのである。日本へ輸出する牛
肉のBSE対策の実情を考えれば、有事にアメリカが日本を本気で軍事的
に守る事はないと断言してもよい。

 アメリカに異常に依存する日本人が多い今、アメリカのBSE対策のいい
加減さを見て、彼らが軍事的に日本を保護することは有り得ないことを痛
感するべきである。同盟国の友人に、金を取って毒入りの肉を供給する感
覚のアメリカ人が、日本国家の危機に軍事出動するだろうか。その辺のと
ころを冷静に銘肝するべきではないか。日本人は早くアメリカ頼りの甘い幻
想から目覚めるべきであろう。

  ところで、我々日本人は民族的に神道的な潔癖性を持っていて、食べ物
については極力清潔に扱うことを旨とする性向を持つ。スポンジ脳症を惹起
する感染的な蛋白質異常プリオンには、日本人は総毛立つようなおぞまし
さを感じているはずである。だから、牛肉処理が、そうとう確かな除去環境
にあると確信できなければ、まずそれを口にする日本人はいないだろう。
米国がやっている畜産牛の品質管理とは、我々日本人の神道感覚で見た
なら、完全に「ケガレ」の感覚で食品を扱う部類に属するのである。今のま
まで米国が日本に牛肉を輸出すること自体が日本の食文化、神道文化の
破壊になるのである。同盟国ならば相手の文化を尊重するのが前提であ
ろう。我が国の神道文化を完全に無視しているアメリカがはたして同盟国
と言えるだろうか。アメリカを人権と人道主義のモデル国家として見ている
日本人がいたなら、それは完全な思い違いである。

 このあいだ、米国産牛の輸入について私の知人に聞いてみた。彼は、
「輸入は政治的には仕方がない、どんどんやればいい。でも俺はスーパー
や肉屋で米国産は買わないし、女房にも買わせない、国が輸入したって、
消費者が買わなければいいんじゃないか」と冷笑的に言った。ああ、みん
な考えていることは同じなんだなとつくづく感じた次第である。

 日本人が米国産牛肉を食わないと知った時、すなわちほとんど消費され
ないという事実を目の当たりにした時、米国はどんな対応を取るのか興味
津々である。日本人が食うまで輸入関税を引き上げるつもりだろうか。あの
悪名高いスーパー301条のように。今のままの検査体制で出荷された米国
産牛肉を輸入した場合、病気に感染した物を食べて発病するには、長くて
数十年の潜伏期間があるからさし当たっての危機感はないかもしれない。
しかし、国民の何割かは確実に件の業病を発症することになる。国家の
危機管理とは外敵の侵害に対応するだけではなく、自然災害や今回の
ような致死的な病気の蔓延を防ぐことも必須である。その意味で日本は食
の危機管理もできない国に成り下がっている。

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2006年7月14日 (金)

やっぱり西村眞悟氏の逮捕は官邸主導の国策捜査だった

 この間、書店で宝島社から出た「暗闘!平成日本タブー大全Ⅲ」というの
を買った。副題は「マスメディアの隠蔽報道にだまされるな!」である。その
中にすこぶる興味を引く記事が載っていた。それは、ジャーナリスト高木一
人氏が寄せた『追跡!「拉致問題」の幕引きを狙う官邸の世論誘導』という
論稿である。

 これに、冷静な眼で捉えた、拉致問題における国内の動きがよく分析さ
れていると感じた。ルポライターの著者が北朝鮮担当の公安当局者に聞
いた話が土台となっている。公安当局のその人物によれば、特定失踪者
問題調査会が発表したのは、拉致被害者及び、その疑いが濃厚である不
審失踪者は延べ460人になり、その内20人近くは国内で消息が確認さ
れた。従って、あとの440人近い失踪者がすべて拉致被害に遭ったわけ
ではないだろうが、実に多くの日本国民が北朝鮮によって拐取されている。

 実際、国内マスコミは、平壌宣言以前は数人の拉致が認めれればそれ
で進展だとという論調だったそうである。思い起こしてみると、拉致被害者
が大々的にクローズアップされる前までは、国民はほとんど無関心であっ
た。日本の世論は北朝鮮が拉致を認めた途端に、今までは完全に無視す
るか、棄民的な感覚で拉致に無関心だったのが一転して、拉致問題の全
面解決を求める風潮に変わった。日本国民は全面解決を念頭に置いて硬
化し、拉致問題進展は膠着状態に陥った。

 それが今に至っているが、この拉致問題の象徴的存在が横田さんご夫
妻である。この間に不可解なある動きが二つあった。一つは西村眞悟氏の
唐突な逮捕であり、もう一つは拉致実行犯がわかったという報道であった。
後者から説明する。拉致被害者の本格的奪還という意味ではまったく進展
はしていないが、昨年の暮れに、NHKが拉致実行犯について衝撃的な報
道を行った。「地村さんと蓮池さんを拉致した実行犯はシン・グァンス(辛光
洙)工作員であると、蓮池さんが証言」と、「横田めぐみさんを拉致したのも
シン・グァンスだったと曽我さんが証言」とい