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2006年10月28日 (土)

郵政造反組復党?正気なのか

    ( YOMIURI ONLINE 10/25 より抜粋)

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安倍首相は24日夕、郵政民営化に反対し、自民党を離党した「造反組」
の復党問題について、「最終的には党の判断を聞いた上で、私が判断す
る」と語った。9月の首相指名選挙で安倍氏に投票した平沼赳夫・元経済
産業相ら12人の無所属議員の復党を、自らが判断して容認する考えを示
唆したものだ。首相官邸で記者団に語った。*********************************************************


 昨年、郵政民営化関連法案に反対して自民党から追放された「郵政造
反組」の年内復党がどうやら本格的に決まったようだ。来年夏の参院選を
勝ち抜くためには、造反組の復党が不可欠という話が現実的に具体化さ
れてきたようだ。この話は、郵政問題総選挙で生き延びてきた自民党にと
ってはタブーであり、党内世論を二分する危険性を孕んでいる。とは言っ
てみたものの、私には隷米自民党のお家事情などはどうでもいいことで
ある。しかし、平沼赳夫氏ら、首相戦で安倍に投票した12人が自民党に
復党することの奇態さ、その変節に心底驚いている。

 平沼赳夫氏は人間としてやってはならないことに踏み込もうとしている。
私は平沼氏が、小泉が狂気の熱情でごり押しした郵政民営化法案可決
までの国際的な意味を最もよく知悉している人だと考えていた。つまり、
あの郵政民営化法案はアメリカ主導の反国益的、反国家的悪法なので
ある。小泉自身が言っていたように、郵政民営化は構造改革のカナメな
のである。だからこそ、造反者たちは抵抗勢力として小泉たちに睨まれ、
徹底的に疎まれた。彼らは構造改革の足を引っ張る害意ある犯罪者とい
う謂れのない罪を着せられた上に流刑を言い渡されたわけである。しか
し、彼らは日本という土台から見れば、最もまっとうな正論と批判力を持
った愛国・国益派議員だったのである。

 小泉政権の本質が隷米売国にある以上、郵政民営化法案に反対した
議員たちは国家に寄与する資格を持った唯一の国会議員だった。彼ら
の仁義としては自民党に復党するなどということは絶対にあってはなら
ない。私は、竹中と飯島勲が安倍政権中枢から外れたことによって、小
泉政治が踏襲されないというサインだと初めは思ったが、安倍は小泉政
権の構造改革を継続し、より強力に推進して行くとアメリカに媚を売った
施政方針演説を行っている。

 竹中や飯島が去っても官邸にはまだ中川秀直がいる。現幹事長中川
秀直は、かつて、「小泉なくして竹中なし。竹中なくして小泉なし。それが
真実だ」と豪語して憚らず、竹中を必死になって支えてきた人物である。
中川秀直という人物は、竹中平蔵や飯島勲の手法を徹底的に踏襲して
いる人物だと私は見ている。小泉は「官邸主導型政治」という革命的な
政治体制を作った。はっきり言えば官邸独裁政治である。これを支えた
中川が、「ファッショ型官邸主導政治」を操舵しないと考える方が不自然
である。従って、安倍政権の本質は小泉政権とほとんど変わらないとい
うことである。

 安倍内閣は新自由主義による米国の肝煎り政権であることを自ら言明
しているのだ。米国に阿諛追従する新自由主義の政治形態を踏襲するこ
とは、明らかなる日本破壊である。ここに復党することは日本国家に対す
る裏切りであろう。平沼氏は女系天皇論を激しく攻撃した。そこまで日本
の国体を明示する者ならば、小泉政権踏襲自民党に復党するのは皇統
への裏切りでもある。

 平沼氏は自民党に復党して、我が国の対米隷属体制を覆す公算でも
あるというのか。もしないのであれば、平沼氏は人間としても最低の政
治家となる。私は平沼氏や亀井静香氏が中心となって、小泉売国政治
の持続を打ち破り、新自由主義に塗り替えられた日本の構造を転換して
新たに日本を始動させていく勢力のさきがけになると信じていただけに、
今回の復党意志は信じがたい。

 復党議員。そんな奴らは要らん!

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2006年10月26日 (木)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(10)

格差を怒り、弱者を思いやる植草一秀氏

 ところで、「AAA植草一秀氏を応援するブログ」の管理人さんや、「一秀
くんの同級生のブログ
」の管理人さんは、植草氏その人をきわめて優しい
人間だと書いている。私は植草氏に会ったことはないが、彼の書いたもの
を読んでいるうちに、その「優しさ」がどういうものであるかを、その折々の
文章の中に見出している。じつはそのことが私を彼の擁護に向かわせた
動機でもある。植草氏は、小泉や竹中の人を人とも思わぬ冷酷非道さと
は対極に住む人である。テレビで植草氏が政策について解説されていた
時も、彼は他の御用学者たちとは際立って異なる印象を放っていた。

 彼は常に庶民の視線で経済や政策を語るのである。たとえば「ウエク
サ・レポート」にはこういうことが書いてある。

 今求められているのは「成長重視の政策」である。言い方を変えれば、
「均衡重視の政策」である。「人間尊重の経済政策である。「均衡」状態
にある経済とは、存在する経済資源が過不足なく有効に活用されている
状況だ。働く能力があり、働く意志が有る人には働く場が存在する状況で
ある。失業が大量発生している状況は、労働力という貴重な経済資源が
遊休化したまま放置されている状況なのである。
 人間は生きていくために職業を得る必要がある。経済成長を促し、経済
を均衡状態に誘導することは、すべての国民に健康で文化的な生活を送
ることができるための条件を整えることにほかならない。日本国憲法が保
障している生存権を満たすために政府が取るべき責務とも言える。
 現在のような不況下でも、現実に生活に困窮する、死線をさまよう人々
の比率は10%程度だろう。残りの90%人々はそれなりの豊かな生活を享
受しているだろう。しかし、
貴重なのは10%もの人々が苦しみに瀕し
ていることを重大視することにある。
誰しもがいつこの10%に転じるか
もしれないのである。社会学者のロールズは
「鎖で繋がれた輪を社会
と見たとき
社会の強さは鎖で構成される一つ一つの輪のなかのも
っとも弱い輪がどれだけ強いかで決定される」
と述べた。
 現在の政策は弱者切捨ての政策である。弱肉強食を支持し、強いもの、
恵まれたものがさらに収奪を強化することを推進する政策である。同時に
日本の国富の所有権が激しい勢いで海外へ流出しており、政府の政策
はそれを回避することに力を注ぐどころか、海外勢力に国富を贈与するこ
とに貢献するものになっている。(P184~P185)

 この文章の中に植草氏の信条や、小泉政権に対する基本的な批判が
余すところなく示されている。「10%もの人々が苦しみに瀕していることを
重大視する」という彼の信条に、植草氏の人間性の核がある。実はこの
思想は「一秀くんの同級生のブログ」の管理人さんが書かれていた、植
草氏に対する人物評とまったく符号するものである。つまり、植草氏はお
そらく幼少期からデフォルトで心優しい人物なのであろう。人の裏をかい
たり、陥れたり出来ない性格のまま大人になった人のように感じる。狡猾
さや悪意がない人だと私も思う。だからこそ自ら不利な局面に入り易い
のかもしれない。人を信じ易く純粋な人間は悪意に弱いところがある。

 自分に累が及ばなければ他人のことなどどうでも良いという昨今の風
潮はますますはっきりと出てきている。こういう日本にあって、植草氏の
ような弱者に対する慈悲のまなざしは、今後の日本を創造していく上で
のキーワードの一つであろう。小泉政権や現安倍政権の格差固定を志
向する新自由主義政策の非人間的な雰囲気とは180度の違いである。
これこそ伝統的な日本人の精神性そのものである。痴漢を行う奴らとは、
煎じ詰めて言うなら、他者に対する思いやりが欠けている。被害者女性
が屈辱と恐怖に打ち震えている時に、それを無視して、自己の欲望を優
先させる卑劣さがある。ここには他者への思いやりは微塵もない。植草
氏の弱者への温かいまなざしのどこに、他者の感情を無視して自己の
欲望を優先させる無神経さ、残酷さがあるというのか。そんな酷薄な人
間ならば、10パーセントの弱者にいたわりの気持ちを持たないはずであ
る。仮に植草氏が病的な性癖を持っていると仮定するならば、彼の知性
では、その性癖と自分の経済学との乖離に我慢できないだろう。そのよ
うな心理状態で、首尾一貫した経済政策論の展開は不可能である。し
かし、彼の基本的な政策論は緻密でブレがなく、経済弱者が出ない世の
中を志向しているのである。

 私が植草氏を信じる所以は、庶民の生活と幸福を最も大事な柱にした
彼のその一貫した考え方にある。植草氏の経済思想は間違いなく経世
済民(けいせいさいみん)思想である。日本の深層に息づいていた相互
互恵主義、弱者への思いやり、経済とは人倫と世の秩序の要でもある。
こういう精神が植草氏の核に根付いている。しかし、彼はそれだけでは
ない。彼には昔の日本人に宿っていた武士道精神がある。あの優しい
風貌の中に、人々を苦しめる政策を外国の命じるがままに行う不届きな
者どもに対して熾烈な怒りを持って立ち向かう男でもある。だから、品川
駅構内で無体きわまる国策捜査に遭い、手鏡男の汚名を被せられても、
意気消沈せずに、再びあの売国政権に向かって怪気炎を上げたのであ
る。こういう人物は今の日本では得がたいのである。

 植草氏は「ウエクサ・レポート」の巻頭言の最後にこう書いている。

 「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」のが経済政策の目的であ
る。・・・・中略・・・・
 政権に「もの申す」ことが憚(はばか)られる空気が言論空間を支
配しているが、純粋な洞察に基づく、良心に偽りのない声を、あら
ゆる妨害を乗り越えて、私は今後も唱え続けていく覚悟である。

 植草氏は上の覚悟を実行して9ヵ月後に再び国策捜査の罠にかかっ
た。戦後日本は、建前上は思想表現の自由を謳歌していたように見え
るが、東京裁判史観に疑念を呈する言語表現は率先して忌避され続
けていた。小泉政権では、再びGHQの放送コードが甦った感がある。
植草氏は日本の言論封じの背後にいるアメリカを見据えていながら、
果敢にも良心に基づいた洞察で、国家を毀損する勢力を言論攻撃した。
こういう不惜身命の気概に感じたら、彼を擁護せずにはいられない気
持ちである。

 (次回に続く)

 参考図書

      「ウエクサ・レポート 2006年を規定するファクター」
                   植草一秀    

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植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(9)

   景気の逆噴射を好んでやった竹中平蔵

 竹中平蔵金融相は、昨年10月末に不良債権処理を加速する「金融再生
プログラム」を公表。資産査定の厳格化、自己資本の質向上、ガバナンス
(統治)強化の3原則に沿って、大手銀行の不良債権を2004年度に半減す
る目標を掲げた。「ウエクサ・レポート 2006年を規定するファクター」で植
草氏は言う。バブル崩壊から15年が経過し、日本企業の体力を象徴する
株価が、2003年4月に日経平均株価で7600円に暴落した。こういう局面
で株式による企業買収を外国企業に認めるという政策は、完全に日本の
無条件降伏と同じである。政府が外資による対日投資を激しく推進してい
た時、ホリエモンによる日本放送株買収騒動が起きた。これが「外資の対
日投資促進政策」の是非へと国民の関心を向けたのは、盲目的隷米政策
続きの最中にあって、ほんの少しはいい傾向だった。

 かつて、米国にはグラス・スティーガル法があり、銀行と証券は明確に
区分されていたが、制度の抜本的変革を行って、業態間の垣根が取り払
われ、相互参入が可能となった。日本も証券取引法第65条で証券及び銀
行は明確に区分されていたが、米国は日本にも制度変更を迫り、米国型
に切り替えさせた。日本版金融ビッグバンを提案したのはアメリカであっ
た。97年、98年の金融大波乱を契機に、銀行、証券、保険、消費者金融、
企業再生、不良債権処理は外国資本の跳梁跋扈する所となった。彼らの
狙いとする最後の宝の山は郵政公社が保有する350兆円の国民資金で
あり、これを獲得することで米国による第二次日本占領政策はほぼ完結
することになる。

 こういう事態の推移に対して、国会はほとんど審議をせずに成り行きに
任せている。またマスコミはその真実を報道することを実に強い意志で忌
避しているのだ。日本は完全に米国の対日占領政策に飲み込まれている
のであり、国民はこの巨大な流れに身を任せているだけである。このよう
な対日占領政策を日本内部から支え、それを意識的に推進した急先鋒が
いる。竹中平蔵その人である。彼は民族に対する裏切り者として鮮明な形
で売国政策を主導した。小泉純一郎は竹中の政策主導を誰にも邪魔させ
ないために、総理としてのその権力を最大限に行使して竹中を庇った。彼
らの売国政策の最大値が郵政民営化であり、りそなショックはその先駆け
として、日本の安全弁を壊すために金融庁が恣意的に起こした政府犯罪
の可能性が非常に高い。

 第一次小泉内閣の金融担当大臣には柳澤伯夫氏が就任した。旧大蔵
省OBであり、金融監督庁を所管していた金融再生委員会の初代委員長
でもあった人である。金融庁は2000年に金融監督庁と大蔵省金融企画
局が統合してできた行政機関であるが、大蔵省という歴史的に由緒ある
省庁の名が失われたこと自体、小泉内閣の構造改革の本質をある意味
で象徴している。日本の金融構造改悪は橋本時代から進んでいたので
ある。初代金融庁大臣である柳澤伯夫氏は、2002年の内閣改造で更迭
され、その代わり竹中平蔵がその役職に就いた。これは、小泉が柳澤氏
の従来的ソフトランディング路線を嫌ったというよりも、子飼いの竹中を使
って性急に金融改革を日本にやらせる必要があったアメリカの意向なの
であろう。アメリカが日本の金融改造をハードランディング路線で行うため
に、刺客として竹中平蔵が送り込まれたと言ってもよい。結果的に竹中
はアメリカの期待通り、有能な刺客として日本金融界の咽の深部にドス
を突き刺した。

 さて、竹中の金融再編プログラムは、自分と親しい木村剛など、民間の
有識者を招いて発足したプロジェクトチームで始められた。発足当時は、
「繰り延べ税金資産の算定ルール見直し」、「国有化による経営者の退
陣」など、それまでの日本金融界の慣習や常識などを完膚なきまでに無
視する強硬路線が盛り込まれた。「完膚なきまでに無視」した内容とは、
大蔵省が金融庁に改名されたことが象徴するように、それまでの伝統構
造を悪として無価値化・害悪化し、アメリカ一辺倒の資産査定方式を取り
入れたことになる。アメリカの金融対日プログラムは、橋本時代の金融ビ
ッグバンから、後の会計ビッグバンを経て、竹中金融庁で急激なピークを
迎えたのである。竹中の役目は日本金融システムの完全書割転換なの
であった。

 ここでも構造改革の美名の下に、日本伝統構造の破壊が行われてい
たのである。しかし、銀行や与党内部からの激しい反発があり、竹中は
一定の譲歩を迫られたが、大方では米国流のやり方がそのまま踏襲さ
れた。この時、銀行家の反対者の急先鋒であった勝田泰久氏は金融庁
の姿勢を熾烈に非難したため、勝田氏は竹中の怨恨を買い、これが後
のりそなショックの直接の契機となっている。しかし、りそなが狙い撃ちさ
れた真相は、植草一秀氏が何度も指摘しているように、政府と外国資本
がつるんだインサイダー取引による経済犯罪だった可能性が非常に強
い。

 竹中が登場する以前の柳澤金融庁の指針は、金融システム自体は大
勢としては安定しているから、個別の成績の悪い金融機関には個別対
応で行くというソフトランディング路線であった。対症療法で済むという考
えであった。旧あさひ銀行と旧大和銀行を統合させたのも、その政策の
具体化であった。しかし、アメリカの肝煎りで登場した竹中は、金融シス
テム全体も深刻な危機にあるとして金融再生プログラムを発動させた。
これが大手銀行の恐怖感を招き、株式相場の値崩れを引き起こした。性
急な不良債権処理と経営の健全化という背中合わせの方策を強いたた
めに、銀行は必死になって合理化やその他できる限りのことを行った。し
かし、竹中がこういうハードランディング路線を実行している時に、国内中
小零細企業が、その改革の軋みをまともに受けて、どれほど途端の苦し
みに喘いだか、マスコミはほとんどその社会的損失と悲劇を報道しない。

 植草氏が繰り返して言うように、経営の健全化も、不良債権の処理も両
方重要である。両方とも重要ではあるが、両者を同時的に性急に行えば、
合成の誤謬が生じて結果的に経営的生命力が低下してしまうことになる。
マクロ経済が下降気味になっている時に企業整理を行えば、景気はます
ます下降へ傾くのと同様である。

 (次回に続く)

 参考図書

      「ウエクサ・レポート 2006年を規定するファクター」植草一秀

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2006年10月23日 (月)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(8)

   グローバルスタンダードとは米国欲望資本主義の別名である

  「直言:失われた5年  ー 小泉政権・負の総決算(4)」によれば、植草
氏は、2002年9月、内閣改造に伴って金融担当大臣に任命された竹中平
蔵が、その金融再編プログラムで、既存のルールを充分な検討もなく、初
めに正義ありきで拙速、無理やりに変更したと言っている。その際、銀行グ
ループは熾烈な反対を示し、結局、この時は竹中策定は見送られること
になった。こういう背景の上にりそなショックは生起した。植草氏は加えて、
2003年のりそな処理には三つの論点があると言っている。

1)金融行政と外国資本との連携の疑い

2)りそな銀行がなぜ標的とされたか

3)りそな処理における繰延税金資産計上の不自然さ

(1)については、りそなインサイダー取引疑惑の核心であり、竹中に牽引
された小泉内閣が、外国資本に利益誘導するための構造破壊の途上に
起きた一つの型である。(2)についての説明は論を俟たないほど単純で
ある。すなわち竹中金融再編プロジェクトが始動した時、反対した銀行家
の中で、最も頑強に抵抗した急先鋒がりそな銀行社長の勝田泰久氏で
あったからである。りそなは竹中に狙い撃ちされたのである。(3)は(1)
の外国資本と金融庁との連携にも関わるが、小泉構造改革の信条でも
あった「自己責任原則」を放擲して、りそなの破綻を回避、そのうえ預金
保険法の「抜け穴規定」を利用して救済したこと。この方法には早くから
米国が関与した疑いがあることなどである。

 (2)を除き、(1)と(3)は、りそな金融ショックの核心に触れる問題点で
あろう。この疑惑の仔細については、当事者しか知りえないこともあるの
で、植草氏は当時の関係者からさまざまなことを聴取したほうがいいと言
っている。これだけの疑惑の指摘があるにもかかわらず、マスメディアは
そのことについて不自然なくらい沈黙を通している。もっともメディアがそ
こを衝いて、大々的に世の中に問題点を流布したならば、植草一秀氏は
いまだに拘留されていることなど、あるはずもないからである。

 植草氏の国策逮捕・不当拘留が、竹中平蔵の個人的な怨念だけで行
われているものなら、逮捕時にマスコミが行ったセンセーショナルな報道
だけで充分だろう。この時点で植草氏の名誉はズタズタである。しかし、
彼を意味もなく長期拘留している官憲は、明らかに植草氏の言論活動を
封じたい意志が有りありである。私の見解では、植草氏の表現活動を封
じたい大元は、小泉構造改革の本質を隠したい大元と明らかに同一なの
である。りそなショックとは、ただの金融犯罪ではない。それは、国家の
体制を根底から覆した小泉売国内閣の悪の本質が最もよく象徴された
事件として、後世の歴史に残るだろう。

 なぜなら、金融行政の権力にある者が、その権力を国政以外の恣意的な
目的で発動させる時、国家や国民を裏切る形で利益を享受できることを如
実に示したからである。しかもここで重要なことは、そのようなことが可能
な国家体制、経済体制こそ、フリードマンモデルやハイエクモデルが示唆
する新自由主義体制だからである。国民は知らねばならない、市場原理
至上主義的な国家構造とは、新自由主義の「自由」を享受する世界理念
ではなく、資本強者が限りなく富を得、金融を司る立場の人間が犯罪的に
利益を享受できる最悪の弱肉強食世界を実現する社会なのである。りそ
なショックとはそういう世界の地獄絵図を先取りした雛形的事件なのであ
る。この事件が象徴するものは、かつての伝統ある日本の終焉だったの
である。

 国民はその事実を知らずに、りそなショックを従来経済の延長線上で起
きたこととして看過している。そこが大問題なのである。植草一秀氏が釈
放され、国民に小泉政権の売国政策の本質と、りそな騒動の舞台裏を理
路整然と語った場合、国民は小泉政権の真の姿を見ることになるだろう。
それが、日本人の独立心情を急激に揺り起こし、日本人全体に意識革命
が生じる可能性があるのである。りそなとはそういう背景を宿した歴史的
に重大な事件だったのである。ここで、竹中平蔵が金融再生プログラムを
策定するに当たっての思想的背景を最近までの動きの中で少し説明する。

 関岡英之氏によると、企業の成績、つまりは企業の業績を評価するもの
は決算書である。企業の業績は株価に反映する。株価の動きを決算書に
どう反映し、どういう作業で関連付けるかなどの基本的なルールが会計基
準である。これは一般の人には馴染みにくい。世界の国々は多様であり、
伝統習慣も違い、当然、会計基準も国によってかなり異なっているようで
ある。ところが、世界経済が越境性を持ってくると、このルールが違うこと
によってさまざまに支障を来たすようになり、国際統一基準が求められる
ようになった。

 この国際ルール造りは「国際会計基準理事会」という組織が行っており、
これはアングロサクソン系が約七割という偏った人種比率で構成されてい
る。事実上、この組織はアメリカが取り仕切っていると言っても過言ではな
い。従って、日本や他のアジア諸国のように、アングロサクソンとは異なっ
た歴史軸にある国々は、当然ながら会計制度も、その国に合った自生的
で固有なものがある。しかし、国際ルールを策定する例の理事会ではアン
グロサクソンに決定的に有利なルール作りしか行われないのである。ここ
にはアメリカの国是である民主主義はまったく存在しない。

 国政会計基準に関わらず、アングロサクソン流が問題なのは、自分たち
の基準が絶対基準であり、これに反するものや整合性がないものは、市
場の自由を阻む後進性、あるいは「不正義」であると、何の疑いもなく各
国へ押し付けることになる。これは一種の侵略と言ってもいいくらいであ
る。りそな銀行の前身である旧大和銀行が損失隠しをやったころ、アメリ
カは日本の会計・監査制度を「後進的すぎる」と痛烈に非難していた。金
融ビッグバンでアメリカは日本の閉鎖性をこじ開けるための大義名分とし
て「フリー、フェアー、グローバル」の標語を、日本人自らが気にかけて呼
称するように仕向けた。

 ところで、閉鎖性という言葉は、マイナスの語感、響きを持っているが、
一般には危ない物からの防衛性、楯という意味もある。この言葉と同質の
意味を持つ言葉として、かつての日本の270年に及ぶ「鎖国」がある。これ
も西洋近代主義的な歴史観で観るなら、後進性とか遮断性というマイナス
の見方が出るが、最近の研究では日本独自の固有性、積極性の意味合
いで捉える人も増えてきている。アングロサクソン感覚で、後進性とか閉
鎖性で捉えられている事柄は、文化の独自性とか、伝統が色濃いという
歴史の連続性にもとづいた固有な構造をさす場合が多い。

 会計制度も然りである。日本の会計制度も戦後にGHQの占領方針に
則ったアメリカの肝煎りがあったわけだが、それは日本の伝統的観念に
従って日本独自のものになっていた。「国際会計基準準備理事会」の思
想そのままであるアメリカは、そういう各国の固有性を、閉鎖性とか後進
性というきめ付けで全否定させ、自分たちに都合のいい方向で変えさせ
てきたのである。その旗振りの大義名分がフリー、フェアー、グローバル
なのであった。特にその中のフェアー(公正、透明性)とグローバル(グロ
ーバル・スタンダード)に関係するものとして、会計制度の国際標準化が
行われた。この三つの言葉は、あたかもフランス革命の標語、「自由、平
等、博愛」に奇妙に似た感じがある。

 1993年11月に、ノルウェイ・オスロで「国際会計準備委員会」理事会が
開催され、13対1でアングロサクソン流の会計基準策定が敢行された。
反対した1は日本である。それまでの日本の会計基準は「取得原価方
式」であった。取得原価方式とは、企業の保有財産は、取得した時点の
価格が帳簿価格として貸借対照表に記載されていた。従ってこの価格が
時価との相違を生じても、それは「含み損」か「含み益」として扱われ、帳
簿上には明らかにされない。

 この取得原価方式は、不透明、閉鎖的、情報の非対称性と言われ、い
わゆるフェアーの原則に反しているということで日本式会計基準は攻撃を
受けた。一般にアジア諸国も日本式もそれで充分にうまく行っていたの
である。むしろ取得原価方式は企業の長期安定性を確保し、全体的な経
済システムの安定に寄与していた面がある。剥き出しの裸や二値論理的
な思考を厭う日本人は、その伝統的な知恵として、物事には故意の曖昧
さを設定し、その曖昧さの中で自己修正的なバランスを取って来たのであ
る。自動車のハンドルやブレーキの「遊び」みたいなものとでも言おうか、
それは曖昧性の効用である。

 しかし、その情報の非対称性が、インターナショナルな企業活動の弊害
になるというのであれば、性急に原価主義を時価主義に変更する前に、
日本企業にとってマイナスになる要因を突き詰め、企業の生命力を弱め
ないように慎重に事を運ぶべきであった。ところが、日本側にも閉鎖性、
不透明性という言葉に囚われて、伝統的な会計基準を悪しきもののよう
に思い込んだ人もいた。結果として1999年に「会計ビッグバン」というグ
ローバルスタンダードが採用されてしまうのである。即時性を最大のメリ
ットと捉えるアングロサクソン系の「時価主義」と、時間をかけてバランス
を取ろうとする日本の「原価主義」、この違いは奪うこと略取することを旨
とする狩猟民族のアングロサクソンと、育てることを旨とする農耕民族の
日本人の違いから出ているものである。
 
 この違いを弁えないで、グローバルスタンダードに阿諛追従した日本は
情けないと言うべきだろう。せめて大東亜戦争時の百分の一の気概でも
あればことは変わっていただろう。アングロサクソンに隷従することがど
れほど民族益を損なうことか、日本人はよく考えるべきである。たとえば、
護送船団方式などと言われ、アジア特有の一種のクローイー二ズムの
弊害と看做された日本式のシステムには株式の持ち合い制度や談合制
度など、相互互恵主義が根付いていた。アングロサクソンの市場主義が
よくて日本の同族互恵主義が悪いという二値論理的な単純化をする前に、
日本の特性を温存、あるいは修正的調整を行う努力があって然るべきで
ある。

  このようにアングロサクソン流の市場主義だけに肩入れして、日本やア
ジアの伝統や文化を根こそぎ破壊する方向へ旗を振ったのが小泉と竹
中なのである。

 (次回に続く)

  参考図書
 
1) 「直言:失われた5年  ー 小泉政権・負の総決算(4)」植草一秀
2) 「騙すアメリカ 騙される日本」原田武夫 
3) 「拒否できない日本」関岡英之

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2006年10月19日 (木)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(7)

  幻想と虚構の繁栄がもたらした日本の虚無

 1970年とは、私にとってはきわめて面白くもあり落ち着かない年でもあ
った。この年は3月に大阪万博があり、高校3年生であった私たち生徒は、
先生の引率の下、万博会場を見学に行って来た。覚えているのは人ごみ
と異様な熱気、一瞬も絶えない喧騒であった。大阪万博の真のテーゼ、
それは「進歩と調和」などではなく、科学技術が日本の直線的な右肩上
がりの繁栄を確実に保証したかのような幻想をしめす「無限繁栄」だった
に違いない。国民全体が地球の有限性を感じない無限繁栄の幻想に酔
い痴れていたのである。

 面白いことその二は、この年の6月に第二次安保闘争があり、私のい
た高校の校門にも、大学紛争の波が押し寄せてきて、学生デモ隊を教師
たちが必死な形相で堰き止めていた光景を思い出す。当時、私はこのム
ーブメントにはまったく興味はなかったが、今から思えば70年安保闘争で
は、学生を中心として急進左翼が反米独立を謳っていた。けっして皮肉で
はないが、今の従米保守連中の軽薄さや脆弱さに比べたら、この時代の
左翼闘志の方がよっぽどまともな保守に見える。

 面白いことその三、というよりもショックだったできごとがその年の秋に
起こった。11月、教室は倫理社会という授業に入っていた。先生の表情
がいつもとは違い、少し蒼ざめた深刻な感じがあったので、これはただ事
じゃないという気配は何となく察していた。先生は開口一番にこう言った。
「さっき、作家の三島由紀夫が切腹したというニュースがあったぞ」。教室
内はざわついた。先生は一通り事件の概要を説明した後、本来の授業を
そっちのけにして、国粋主義や天皇のことなど、三島にまつわるさまざま
な話を語り始めたのである。そして、最後に「君たちは同じ日本人なのだ
から、これを切腹の事件として観るだけではなく、君たち自身がこれから
生きていくうえで、三島由紀夫が行ったこと、考えたことがどういう意味を
持っているのか、君たち自身でこれからもよく考えてみなさい」と言って授
業を締め括ったことは覚えている。我々生徒は、「現代社会で切腹だっ
て?」というニュース性に気をとられ、あまり熱心には聴いていなかった。

 私はそのあと、三島にも左翼にも国粋主義にもまったく興味を持たなか
ったが、あの三島事件は心のどこかにへばりつき、意識の底に沈殿した
まま時を過ごした感じがある。それがここ十年くらいの間に意識の表層に
浮かび上がってきている。私はここで三島由紀夫論をぶち上げようとして
いるのではない。そのような知識も気迫もない。私が言いたいことは、三
島由紀夫の異常とも思える時代への洞察力である。三島は割腹自決の
四ヶ月前に、日本のその後を見通した有名な文章を書いている。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま
いったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深
くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュ
ートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済大国が極東
の一角に残るであろう」
私の中の二十五年・昭和四十五年七月七日発表) 

  また、最後の檄文に書かれているが、自衛隊は「護憲の軍隊」であり、そ
の行く末は「アメリカの傭兵になる」と言っているのである。どうであろうか。
これも安倍政権とその後に続く政権の喫緊の課題になりつつあり、北朝鮮
の核武装問題でその動きはますますエスカレートする趨勢である。この預
言ももうすぐ可視的に実現するだろう。しかし、その本質はけっして日本国
家の主体性から生じているものではなく、アメリカの国際戦略上の一駒とし
て位置づけられていることを忠犬のようにやっているだけである。

 日本人の精神が無機的でニュートラルになってきたのは漸次的であった
が、自衛隊の位置づけは、憲法の私生児から、いきなり米国の傭兵に変
わろうとしているのは急激である。我々はその動きを皮相的な意味での愛
国という言葉で自身を欺瞞しているのだ。それはあたかも、心のまったくな
い小泉が、靖国神社に参拝に行く行為と一致している。村山談話を踏襲し
て靖国に行く行為は「護憲の平和」という「呪詛」を英霊に向ける行為であ
る。

 ここで、佐藤優氏の「国家の罠」を思い出していただきたい。今から36年
も前に非凡な直観力で今日の時代を見据えていた三島の近未来把握は、
奇しくも小泉純一郎と言う稀代の亡国宰相によって鮮明に実現化、可視
化されようとしているのである。佐藤優氏は小泉政権の時を「時代の転換
点」と位置づけている。佐藤氏の書いている次の文章に注目して欲しい。

「小泉政権成立後、日本の国家政策は内政、外交の両面で大きく変化し
た。森政権と小泉政権は、人脈的には清和会(旧福田派)という共通の
母胎から生まれてはいるが、基本政策には大きな断絶がある。内政上
の変化は、競争原理を強化し、日本経済を活性化し、国力を強化するこ
とである。外交上の変化は日本人の国家意識、民族意識の強化である」
                         (「国家の罠」P293より)   

 佐藤氏は言う。社会哲学風に整理すれば、ハイエク型新自由主義社会
モデルで構造変革をすることと、国家意識、民族意識の強化を同時的に
行うことは、それぞれのベクトルが逆向きである。従って、これを矛盾なく
包括的に成し遂げるためにはパラダイムの転換が必要とされるのだと。
 しかし、時代構造を分析する手段の中の、一つの作業仮説として捉え
たとしても、はたしてそれはどうなのだろうか。今の日本で生起している
排外的ナショナリズムは、皇統と神道を基底にした真の憂国気運、愛国
情念とはまったくかけ離れている。私には小泉純一郎も、安倍晋三も、
偽装ナショナリズムを気取った左翼的情熱で動いているとしか映らない。

 理由は排外という「外」にはアメリカが含まれていないからである。ナショ
ナリズムやパトリシズムと言うからには、あらゆる国々からの内政干渉を
毅然と斥けることが最低の姿勢であろう。中国や大韓民国の干渉には憤
然としても、アメリカの内政干渉については、意識、無意識レベルで受容
するこの国、このどこが民族主義、愛郷主義だと言うのだろうか。今の日
本人は明らかに国家意識も民族情念も溶解しかかっているというのが実
相である。それをもたらしている本当の元凶を見定めずに愛国も独立もあ
り得ない。勿論、安倍晋三のいう「美しい国」は幻想の中の幻想に過ぎな
い。残念ながら三島由紀夫の眼力が見通した通りにことは進んでいるの
である。

 しかし、佐藤優氏の言う「森政権と小泉政権の間にわたる深い断絶」は
決して見逃せない時代のターニングポイントである。すなわちこの「時代転
換」の狭間に、植草一秀氏の国策逮捕が生じているのである。私が植草
氏の擁護論展開において、最も訴えたい部分が小泉政権が行った「時代
転換」なのである。この重要な事実にこそ、植草氏の国策逮捕を矮小化で
きない巨大な問題が秘められていたのである。なぜなら、小泉たちが行っ
たこの時代転換は、一般国民には意識されないように非常に注意深く行
われたからである。

 一般国民はフリードマンにしても、ハイエクにしても、その新自由主義モ
デルが、日本の国柄や伝統、皇統という歴史のレジティマシーにとって、
どういう意味を持ったものかまったく考えないでいる。なぜなら、小泉たち
は「構造改革」という経済修正的な言葉で、その時代転換の真相を覆い
隠していたからである。国民は小泉たちが行った政策を単なる「経済的
試み」としてしか受け止めていない。しかし実態は「国替え」なのである。
だからこそ、関岡英之氏や私はフリードマン・モデルの向かう先が「極左
急進的アナーキズム」だと断言しているのである。

 思い出してみるといい。小泉政権のスタッフから、自分たちが行ってい
る構造改革が、新自由主義をモデルにしているとか、ハイエクやフリード
マンを参考にしているなどという話を一度でも聞いたことがあるだろうか。
彼らはそのことをどこかで発言し、どこかで文字化しているのを見たこと
があるだろうか。私にはまったく覚えがない。ということは、小泉政権は
構造改革の本質が新自由主義に基づいている事実を故意に隠蔽し、
「従来経済路線の思い切った改革」という旗振りで国民をペテンにかけ
ていたのである。この意味がわかるだろうか。私が小泉政権を「転換」と
か、「時代の位相転化」だと言うのは、この短い五年間に日本という国の
質がすっかり変わって別のものになってしまったからである。すなわち国
替えされてしまったということなのである。

 小泉政権が行った、この「国替え工作」の頂点、すなわち国政ベクトル
が鋭角に変わった転換点に当たるのが「りそな金融ショック」だったので
ある。それまでは、戦前精神のイナーシャがかろうじて継続していたが、
小泉政権はその最後の力まで消滅させてしまったのである。国内外の
金の動きを監督するために、最も厳しいモラルを必要とする金融庁が、
日本人の誠実な魂を踏みにじる行動を行った時点で、それまでの日本
は終わったのである。現時点でも、このことに気が付かない国民は小泉
ポピュリズムを醸成した大衆層でもあるが、彼らは三島の預言にあるよ
うなニュートラルで無国籍な日常に揺曳しているのである。そのニュート
ラルという意味は極限的な空疎感、つまりは虚無感である。

 小泉純一郎を好ましく思った国民は日本人としてのリアリティを完全
に喪失しているのである。これほど不幸なことがあるだろうか。市場原
理主義に埋没した政権は、かろうじて残存していた日本の伝統精神や
共同体的原風景を憎悪し、敵視し、その殲滅に乗り出した。規制の徹
底解除とは日本的なるもの、伝統的なるものへの熾烈な憎悪に他なら
ない。これこそ新自由主義の思想的行動力学にほかならない。

 この本質を最も的確に説明しうる立場にあった識者が植草一秀その人
だったということである。りそな問題を彼が究明し、その国家的犯罪性を
暴いていくと、最終的には小泉構造改革が、ただの経済政策ではなく、
米国の思惑に百パーセント従った、非日本的な新自由主義構造に日本
社会が転換されたことに国民が気付いてしまうからである。つまり、小泉
が行ったことは、先祖に泥を塗る国体破壊であったことに気が付くのであ
る。りそなインサイダー疑惑で、謀議者たちが儲けた金が数十億円か、
あるいは数百億円かわからないが、問題は金銭的授受を超えて、小泉
たちの売国実体が白日の下に晒されることになることなのである。

 植草氏が踏みつけた虎の尾とはそういうことなのである。国民が国体
破壊の実態に気が付いた場合、瞬く間に世論形成が起こり、国民は二
大政党の政権交代実現などということよりも、新自由主義という構造改
革、いや、「構造転換」をやった政権や政治家たちを真っ先に糾弾する
だろう。それは一種の覚醒である。これが民族を囲繞している極東国際
軍事裁判の桎梏を解放し、WGIP(War Guilt Information Program)の鎖
を引きちぎる可能性がある。だからこそ、国内売国勢力もアメリカもその
ことを最大限に警戒しているのである。植草氏がその起爆剤となる最も
危険な人物であることを彼らは知り抜いているのである。

 さて、今回は時代のマクロ的な俯瞰を行ったが、次回は「りそな金融ショ
ック」のミクロ的な観点に視線を持っていく。物事は大きな視座から生々し
い現在性へ、そしてまた大きな枠組みに視点を換えるという焦点の当て
方を繰り返しながらやる方が自分の性に合っている。

 (次回につづく)

 

 

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2006年10月18日 (水)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(6)

  背景にはアメリカの一貫した対日戦略がある

 植草氏は最近の「ウエクサ・レポート(2006年を規定するファクター)」中
で、米国の対日金融戦略はきわめて長期の視野に立って行われており、
橋本龍太郎が金融ビッグバンの構想をぶち上げた時、私はこれが米国
の対日戦略であることを強く訴えたと書いている。また、植草氏は、金融
をめぐる意見対立について関岡英之氏の見方を引き合いに出してこうも
書いている。当時から今にかけて、日本では「国益擁護派」と「米国従属
派」に分かれた対立があり、(小泉政権にいたっては)真に国益を踏まえ
た「独立自尊」を軸に主張を展開する人々が、マスコミ支配の権力を行使
する「米国従属派」によって「抵抗勢力」として殲滅されかけていると。
                                                                                    (P459)

 これを私流に延長して言えば、マスコミ権力を盾にする米国従属派の
総本山が、最も先鋭的な「抵抗勢力」つぶしとして実行したことが「国策
捜査」という国家犯罪なのである。植草氏は上記レポートを書いていた
時点では、まさか自分が再度国策捜査の毒牙にかかるとは思っていな
かったと思う。しかし、9月までの彼の言動が、強烈な政府批判と同時
に、りそなショックの巨大な暗部を糾弾し始めた矢先、彼は再び国策に
よる口封じ作戦に捕らえられてしまった。小泉内閣とは米国従属勢力が
最も先鋭化した内閣なのである。それを引き継いだ現内閣が、その国
策の手を緩めていないのなら、植草一秀氏のいまだに解けない長期拘留
の謎は理解できる。安倍政権も従米売国政権の可能性がきわめて強い
ということである。

ところで、前回では、小泉構造改革がフリードマンの徹底した考え方で
行われていることを書いた。しかし、大ナタをふるったと言われるその構
造改革は国民に是認される下地がすでにできていたのである。少々長
くなるが、りそなショックを解明するためには、その伏線的背景として橋
本時代の金融ビッグバン辺りからの日本の経過を簡単に述べておこう。

 1989年、ベルリンの壁が崩壊、二年後にソビエト連邦が完全解体さ
れた。冷戦構造が消滅したこの辺りから世界は再び帝国主義の様相を
呈してきた。それは二極対立的な軍事均衡が崩れたあとの混沌状態で
あるが、世界が再びそれなりの恒常的均衡に落ち着くまでの揺れ動き
の中、世界における各国の経済ヘゲモニーは、大戦後、最も熾烈な様
相を帯び始めて来た。それまで、西側の軍事大国としてソ連共産圏を睨
んでいたアメリカは、今度はその国際戦略を経済問題に振り向けてきた。

 それまで世界の勝者であり自由圏内の庇護者、指導者であったアメ
リカが、今度は自分に従っていた国々に対して、極めて洗練された頭
脳的経済侵略の牙を向けてきたのである。これは、東西冷戦が消滅し
て、それまで抑制されていたアメリカの本質が出てきたという捉え方が
できるわけであるが、我々は当時のことを思い出すと、ある一つの不
思議なできごとに気付く。それはアメリカと日本の間で起きていたあの
熾烈きわまる日米貿易摩擦の話が’90年代になっていつの間にかす
っかり消滅していたことである。

 日米経済摩擦とは言うが、その実態はアメリカが一方的に日本に対
して、フェアーな貿易関係が樹立できない、従って、日本特有の組織構
造が駄目だから何とかしろという言いがかりである。実はこれが曲者だ
ったわけであるが、当時の外務省や政府関係者は、アメリカのこの執拗
な大騒ぎに辟易していた。しかし、ドイツ・ナチ、ゲッペルス宣伝相の鸚
鵡効果ではないが、アメリカのこのワンパターンな遠吠えを繰り返し聞
いているうちに、「本当に日本市場は閉鎖的なのかもしれない」などと
思うようになってきた者も出てきた。

 この意識の変化は、グローバリズムという言葉が、日本の知識人た
ちの口に頻繁にのぼり、それがあたかも国際経済のスタンダードでも
あるかのような錯誤が浸透していったことと期を一にしていた。もうひと
こと言うなら、日本から伝統観念や共同体意識が希薄化してきたことも
内在的な要因ではあった。さらにもうひと言付け加えるなら、戦後日本
に常識として根付き始めた「国際化」という標語の浸透とも同期してい
る。この常識とは、真の国際化という意味から乖離し、アメリカの標準
にいかに近づくかという思い込みであった。

 日本人は国際標準という漠然とした概念を、アメリカと国際金融資本
が提唱するグローバルスタンダードだと思い込んでしまったのである。
あとで説明するが、グローバルスタンダードというアメリカ一国の経済
覇権的な戦略を、日本人が普遍的な世界の趨勢だと読み違えてしま
ったところに、小泉政権という日本史上最悪の内閣が誕生する土壌が
あったのである。

 話を15年前に戻すが、日米貿易摩擦の喧騒の中で、アメリカの口撃
に頭にきていた日本人も、一方では、経済体制をモノから金融へ、生
産から情報革命へと、アメリカ並みの「近代化・進化」を遂げる必要を
痛感していた。そして、平成バブル不況に至っては、そのアメリカへの
思慕は、半ば脅迫観念を持っていたようなところもあった。そういう中
にあって、1993年、宮沢・クリントン会談で「年次改革要望書」の取り
決めが合意され、その辺りから、日米通商関係に関する摩擦やごた
ごたは不思議なことにきれいさっぱりと消えてしまい、小泉政権が始
動する数年前までにはほとんど耳にすることはなくなっていた。

 1996年、橋本龍太郎政権時代には、金融ビッグバンが起こったが、
その時の掛け声が「フリー、フェアー、グローバル」であった。金融ビッ
グバンは、小泉構造改革の予兆的原型を持っていた。それは金融に
特化された規制緩和、規制撤廃であり、いわゆる国際化に柔軟に対
応できる金融システムを作ろうということだったのである。ここにも「グ
ローバルスタンダードに合致する構造改革」という暗黙の了解ができ
ていた。また、ここには急速なIT化など、第三次産業革命と言われる
情報革命の進展があった。この時に目指したものが国際市場に倣っ
て、さまざまな規制に関する法制度の変革と会計制度の国際標準化
であった。グローバルスタンダードにあわせたこの会計制度の変更が、
2003年のりそな銀行国有化におけるインサイダー取引疑惑と重要な
関連性を持っているが、その話はもう少し後になる。

  この時点で、日本の金融界も、これまでのきわめて日本的な、そし
て集団主義的な共同体意識の変革とともに、護送船団方式による旧
弊なシステムを、新たに流動的市場原理に変えて刷新して行こうとい
う機運が生まれた。ここに小泉純一郎が気に入って繰り返して使用し
た言葉、すなわち「自己責任原則論」の萌芽があったのである。この
時の掛け声が、フリー(自由市場)、フェアー(公正な条件)、グローバ
ル(国際化)なのであった。記憶している方々も多いだろう。

 当時はバブル崩壊のショックで知的な後退に陥っていた日本人は
今、この時のことを冷静になって総括する必要がある。すなわち、あ
の金融ビッグバンとは、国益に敵う改革だったのかということと、それ
までネガティブにイメージ化された「日本の護送船団システム」が、本
当に時代遅れで機能障害を負い、全否定に値する産物であったのか
という真摯な問いかけである。

 フリー、フェアー、グローバルとは、日本人や他のアジア諸国をだま
す最も適切な標語群であった。しかし、落ち着いて考えてみるとこの三
つの標語には決定的に欠落しているものがあることに気が付く。それ
は文化や伝統の大切さが見事にというか故意に抜けているのである。
フリー(自由市場)、フェアー(公正な条件)、グローバル(国際化)とは、
フリードマンが提唱する世界、新自由主義そのものの世界観から成り
立っていることに気が付く。

 (次回に続く)

 参考図書
         植草一秀「ウエクサ・レポート」(2006年を規定するファクター)」
                              市井文学株式会社刊

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2006年10月17日 (火)

マッドアマノ氏の記事を読んで

「AAA植草一秀氏を応援するブログAAA」さんの最新記事に
マッドアマノ氏のサイトが紹介されており、その中の記事に植草
氏のことが言及されていた。

「竹中平蔵・議員辞職の謎と植草氏逮捕のカラクリ」(2006.9.28)
というコラムだが、そこに書かれていることは、ほぼ私の見解と
等しいものであった。マッドアマノ氏は、品川駅構内・手鏡事件の
係争中だった植草氏と弁護士にそれぞれ別の機会に会って事情
を聴いたことがあるそうである。その結果、彼は植草氏は権力に
ハメられたと確信していると断言している。

 このマッドアマノ氏の見解は重要である。直接、植草氏本人に
会った印象で言っている言葉は重い。推測や推論以外のダイレ
クトな印象があるからである。マッドアマノ氏は、植草氏がりそな
銀行インサイダー取引疑惑に言及した際、「りそな救済劇」に米
国が関与していることに触れたが、これが虎の尾を踏んだ可能
性があると言っている。

 私も最近はそう思い始めている。国策捜査は小泉政権の官邸
筋から出たのだろうが、これを指令した大元は米国ではないか
と思う。興味があったら是非読んでみて欲しい。

     http://www.parody-times.com/

 (この中の「最新パロディ」というコラムにある)

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2006年10月16日 (月)

植草つぶしは「りそな問題」の隠蔽にある(5)

  時代の強制転換を秘密裏に行うために植草氏は口封じされた

 私は、植草一秀氏の国策逮捕を追求し始め、「りそな金融ショック」問題
にたどり着いた。自動機械の装置設計や機械部品の設計などで細々と糊
口を凌いでいる私にとって、経済論はおろか、金融業界などの動向を語る
に至っては、門外漢などということさえ通り越した自分の無知蒙昧を感じて
いる。しかし、植草氏の無念を一刻も早く晴らしたい一念で、その恥をこら
えながら思ったことを書いていこうと考えている。

 さて、私は「植草つぶしは『りそな問題』の隠蔽にある(3)」で、フリー
ドマンの自由主義経済思想を素人なりに説明してきた。読者には、金融
問題、経済問題に特化された「りそなショック」に、新自由主義(新古典主
義)経済の説明などまったく不要ではないかと考えている人もあるだろう。
ところが、私はそれこそが「りそな問題」と「植草冤罪」の核心だと考えて
いる。私は植草氏が嵌められた、冤罪策謀が、「日本型資本主義経済」
と「アメリカ型新自由主義経済」の熾烈な対立軸の中で生起した国策的
な事件であることを確信している。

 それは、表現を換えて言うなら、佐藤優氏が「国家の罠」で語っていた
国策捜査がなぜ起きたかとということにも密接に関係している。氏の「国
家の罠」292ページに書いてあることに従えば、現在の日本(この場合、
小泉政権の五年間を言う)は、内政におけるケインズ型公平配分路線か
らハイエク型の傾斜配分路線への転換と、外交における地政学的国際
協調主義から排外的ナショナリズムへの転換という二つの線で「時代の
けじめ」をつける必要があり、その二つの線が交錯する箇所に、国策捜
査で狙われるターゲット、すなわち、その動きを鋭く捉えて警鐘を発する
知識人がいるということである。

 佐藤氏の表現は少し難しいが、私なりにわかりやすく言い換えるとすれ
ばこうなる。小泉政権という異常な政権が志向した政策とは、これまでの
日本型資本主義体制から、フリードマンが提唱した新自由主義経済体制
へ日本構造を転換する作業そのものに他ならなかった。佐藤氏が説明し
たケインズ型からハイエク型へという意味はそういうことである。また、「地
政学的国際協調主義」から「排外的ナショナリズム」へ転換するという意
味は、具体的な解釈をすれば、憲法九条の改正を目論み、これまで堅持
してきた戦後日本の絶対平和、絶対不戦の方向性を転換し、場合によっ
ては中国と軍事的に対抗できる路線へ変更していくということである。

 小泉・竹中路線は、今述べた二つの線の一つ、経済構造の転換は比較
的スムーズに行ったが、後の線、つまり排外的ナショナリズムへの転換は
まだ実現していない。これは小泉改革継承路線を踏襲すると断言した安
倍政権やその後の政権に託すことになったのである。従って小泉純一郎
が引退した後も、これが実現するまでは彼の院政が続く可能性は非常に
高い。狂気の宰相がトップから退いても、実質的には狂気の独裁政権が
今後も継続することは充分に考えられる。

 二つの線が交錯する時代と言うと何やらむずかしい感じがあるが、それ
はこの動きが日本国内の自生的自立的な動きだと捉えてしまった場合で
ある。実はこの動きは何もむずかしいことはない。この動きの力学的供給
源は日本ではなく、アメリカにあるのである。我々が「年次改革要望書」を
ただ、アメリカに有利なだけの商取引の次元で行われていると思ったら大
間違いである。アメリカの対日プログラムはそのような生易しいものではな
い。佐藤優氏の書いた「二つの線」とは、私流に深く掘り下げて言えばこう
いうことである。

 一つ目の線) 対日経済プログラムとして、日本に利益確定シス
          テムを構築し、恒久的に日本の国富を搾り取ること

 二つ目の線) 憲法を改正して自衛隊に交戦権を賦与し、アメリカ
          の傭兵として中国軍と戦わせること

 この二つがアメリカの日本改造の主目的なのである。アメリカは経済的
に日本から効率よく利益を本国に誘導し、搾り取れるだけ搾り取る算段な
のである。同時にアメリカのために日本という国を極東アジアの防波堤に
造り替え、場合によっては日本の自衛隊を中国軍と戦闘させる底意があ
る。おそらく、そのためには、アメリカの管轄範囲、限定的条件の範囲内
で日本核武装を推奨する可能性もあるだろう。 

 話を小泉政権の構造改革路線に戻すと、そのやり方、その政策決定の
さまは、劇的に急進的な革命政権の行動様式であった。その性格が最も
顕著にあらわれたのが、郵政民営化法案可決までの行動であった。郵政
民営化法案の異常に短い決定過程はいまだに人々の脳裏に鮮明に記憶
されている。竹中・小泉の構造改革とは構造破壊なのであった。この小泉
政権の不可思議なところは、日本の伝統的な構造をラディカルに破壊した
こと、つまりその構造改革の実態が急進的な構造解体であったことを国
民にひた隠しにしていたことにある。不可思議というか、実際はそこが非
常に悪質なのであるが、その理由は次回に書く。

 表面上は「希望の構造改革」という勇ましい掛け声で行っていたが、実
際は国民を偽り続け、米国のために利益供与確定システムを構築し、日
本固有の市場構造ばかりか、日本人の精神文化も破壊したのである。小
泉がやったことは、日本人の考え方を変えるために、新自由主義を啓蒙
することなく、構造改革という欺瞞の旗印で構造を先に変えたのである。
その新自由主義的な構造改変も、日本人の心を形から入らせて行く形を
とったのである。その意味するところは、日本人の心から伝統文化的な
固有性を取り除いて無国籍状態に置き、パブロフの犬よろしく、アメリカ
の忠実なロボットに造り替えることにある。

 以上、時代の転換点で、前の時代にけじめをつけるために、前の時代
にけっして後戻りしないために、前の時代を象徴する人物たちを見せしめ
として血祭りに上げるのが「国策捜査」なのである。これに狙われてしま
ったのが、鈴木宗男、佐藤優、西村眞悟、そして植草一秀である。彼ら
に共通することは、世の中に影響力を持つ本物の愛国者であるという一
点に尽きるのである。特に植草一秀氏は経済政策のスタンスから、この
偽りの政権の正体とその悪逆な本質を最も的確に見抜いていたと思わ
れる。彼はりそな金融ショックの背景に、小泉政権の確信犯的な国政誤
導を見通していた。従って政府(現政権も含む)は、植草氏が真相を語る
ことによって、「反構造改革」の劇的な世論湧出になることを真剣に危惧
しているのである。これが植草氏の冤罪逮捕と長期拘留の真相である。

 再度繰り返して言うが、世の中の転換点というのは、けっして自生的、
自律的な意味での転換ではなく、アメリカによる無言の強制命令で行わ
れている他生的、他律的な転換なのである。この様相を見抜いた国士た
ちが狙われたのである。次回は日本がフリードマン思想による経済構造
に塗り替えられたことと、植草氏が人身御供に狙われたことの関係性を
書くつもりである。上に掲げた数名の国策捜査による被害者で、植草一
秀氏が小泉政権にとって最も脅威を有した人物である理由を次回で述
べたいと思う。

 (次回に続く)

 参考図書  佐藤優「国家の罠」(新潮社) 

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2006年10月14日 (土)

熊本敬神党随感

   アカショウビン様のコメント

久しぶりにブログを拝見させていただきました。植草氏にあまり興味
はない小生ですが、氏をめぐる各論説は興味深く拝見しています。
 氏に対する対する管理人さんの言説も興味深く、それは決して自
己陶酔閑話ブログではないでしょう。
 「超賎人は人類の敵」さんのハンドルネームはともかくその論旨は
明快です。中高年の自殺が3万人を超える日本の現状は確かに異
常と思います。まして小学生の児童や中学生が自殺するのは平常
が或る境域を超えて病的症状を呈していると思われます。
 小生も現在の現状を憂える者ですが、さてどうするのか。ここのと
ころ「神風連とその時代」という渡辺京二さんの新書を読んで触発さ
れています。熊本敬神党の思想的支柱だった林 櫻園と言う人物が
興味深い。管理人さんはお読みでしょうか?



 アカショウビン様、お久しぶりです。コメントありがとうございました。

>中高年の自殺が3万人を超える日本の現状は確かに異
>常と思います。まして小学生の児童や中学生が自殺する
>のは平常が或る境域を超えて病的症状を呈していると思
>われます。


 まったくその通りだと思います。植草一秀さんによれば、小泉内閣が発
足してから、中高年の自殺が毎年、年間三万人を越え続けている現状が
あり、この自殺の原因は、大枠では経済的困窮に起因しているそうです。
これは単純に言えば、アメリカの対日本プログラムが、日本の国富を獲
得するために、小泉傀儡政権を介して行った利益移転システムの構築
に主な原因があると思います。小泉傀儡政権はアメリカに日本の富をた
だで貢ぐためだけに「構造改革」という名の「革命的破壊」を行いました。
この破壊は経済構造のみならず、国柄や日本人の道徳律にまで及んで
います。子供たちが小泉のやり方を真似て、気に入らない奴は抵抗勢
だからどんなことをしても排斥するという攻撃的姿勢しか持たなくなりま
す。謂わば、小泉は政府レベルで日本を学級崩壊させたような感じで
す。構造改革政権はモラル・ハザード政権でもありました。

 小泉がやったことは、構造改革、構造刷新による創造的破壊などでは
なく、それとはまったく対蹠的な国家破壊、すなわち破壊のための破壊
です。彼らが目標に掲げた「構造改革」は、新自由主義的発想をそのま
ま政策に用いた日本破壊であることを、私は度々指摘しています。この
ため、市場原理至上主義が瞬く間に日本社会を取り巻き、それは蛇の
毒のように、日本という国家を衰弱させています。

 小学生や中学生が自殺し、今までは考えられないような尊属殺人や
凶悪な事件が頻発してます。これは形態的に言えば、弱肉強食の本尊
国家・アメリカの社会風土がそのまま入ってきたと言えますが、精神的
に言えば、日本の国を預かる立場の人間に独立自尊の気概が喪失し
たことを意味しています。同時に小泉純一郎なる大漢奸や、その奸臣
たちを野放しにしてしまった国民精神の退廃にもあると思います。

 この民族存亡の危機に際して、どのような方法、どのような心構えを
日本人は持たなければならないのか。それを死ぬ気で考える時点に今
の日本は突入しています。私は寡聞にして、神風連(しんぷうれん)・
熊本敬神党のことも、林 櫻園という碩学のことも良く知りません。一つだ
け読んだもので、今、手元にあるものは、三島由紀夫の「豊饒の海」第
二巻「奔馬」に書かれてある「神風連史話」です。ここには絵巻物のよう
に熊本敬神党の発起から、その壮絶なる最後までが叙述されています。

 実は、私は大日本帝国海軍の魂が、いや当時の日本人すべての魂
が結晶化してでき上がったようなあの戦艦大和が、水上特攻(菊水)
作戦において、爆沈に向けたその最後の航行を決意した時の、艦長
以下乗組員たちの精神の持ち方を知りたいと思っています。それに関
してはいろいろな本が出ていまして、それぞれに頷くことは多々ありま
すが、根底において、今一つ、私を納得させないものがあります。最近
になって、そこに欠落しているものが熊本敬神党の心持ちではないの
かと思うようになっています。

 明治維新、欧風の合理精神が日本を席巻し、日本人の大和魂の純
粋性が汚染されることを最大の危機と考えた大田黒伴雄以下170名
の、思いを等しくする同志たちは、熊本城の鎮西鎮台を襲撃しました。
この時の大田黒のいでたちは、烏帽子姿に日本刀という、日本の伝
統、精神、文化を象徴し、廃刀令に屹然と背く日本の魂をあらわした
ものでした。170名の彼らの戦い方は壮絶そのもので、欧米近代科学
が生み出した火器、すなわち銃や大砲類を一切用いずに、近代兵器
を有する二千の敵に向かって討ち死にを遂げました。

 この実戦記を戦後感覚ですなおに読むと、あまりの馬鹿ばかしさ、無
駄死にの極地に圧倒されてしまうわけですが、なぜか、読み進むうちに
涙が止まらなくなります。彼らを、極端な復古神道主義のカルトだとか、
超国粋主義だとかいろいろな見解はあるでしょう。しかし、私でさえも、
心の奥底を揺さぶられる何か名状しがたい感動が起こってくるのはな
ぜなんでしょうか。神風連には明らかに本居宣長の有名なあの一句が
凝集されているからでしょうか。そこには理屈を越えた純粋さがありま
す。

 敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花

 一機の護衛戦闘機も伴わず、戦果を期待できないことがわかりなが
らも、三千名の兵士を乗せて死出の航海に踏み切った戦艦大和、私
はここにあらわれた深層の精神に熊本敬神党を見るのです。日本と
いう国は、時代が存亡の危機に達すればかならずや熊本敬神党、あ
るいは2.26事件の青年将校たちのように、やむにやまれぬ大和心
が出てくるのではないでしょうか。私には、それが日本人本来の救国
精神の発露なのではないかと感じています。

 平成現代、日本人の精神が内部から瓦解しかかっている今も同じで
はないでしょうか。小泉純一郎のような大漢奸が国家壊滅をたくらむよ
うな時代、第二、第三の神風連が出現するのではないでしょうか。で
なければ、神が何のためにこの日本をこの世界に存続させてきたの
かわからなくなりますから。

 アングロサクソンは人類史の害虫です。それ以外の何物でもない。
その害虫に隷属するなどということは、日本人のあり方にとって最も忌
まわしいということに尽きるわけです。若い人は日本がかけがえのない
国であるということを知るべきです。 

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2006年10月13日 (金)

燕子の遠吠え

  下は読者からのコメントである。

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「閑話休題」?、なんだ、今までのは無駄話だったのか。今回も従来と同
一論調なんだが・・・。

マル激トーク・オン・ディマンド」第210回、植草氏の表情に植草氏の心の
動きが出てますね。例えばpart1の54分頃(友人の下着姿の写った携帯
や家宅捜査で押収もセーラー服に話題が及んだ頃)の植草氏の表情か
ら垣間見られる心の動揺。苦衷の表情と絶句とに神保氏が慌ててとりな
す場面など。

 マル激第210回は植草氏に肩入れしてた印象を受けたのだが、その後、
蒲田での三回目逮捕があって、神保・宮台両氏の植草観がどう変わった
か興味がある。分別ある人びとが三回目逮捕で冤罪説と訣別、「擁護派
激減したのは何故?」と管理人氏をして慨嘆せしめた。


ここは所詮、自己陶酔「閑話」ブログ。読ませて貰う度に「なにを燕子が
実相を談じ顔なる」の思いを禁じえない。

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反論コメントとしては、このお人の書き方は秀逸である。それはさておき、
たしかに「閑話休題」の題名は不適当だった。最初は植草氏に関わりな
い話を予定したが急に気持ちが変わり、従来の話の延長になってしまっ
た。私もこの「マル激トーク・オン・ディマンド」第210回 を観ているので、こ
のコメントに答えてみる。

「(友人の下着姿の写った携帯や家宅捜査で押収もセーラー服に話題が
及んだ頃)の植草氏の表情から垣間見られる心の動揺
」と言われていた
ように、その箇所では、植草氏の心理的な動揺を私も感じた。しかし、こ
れについても、私は同じ男として弁解できることがある。性的なフェティッ
シュは人間であれば誰でも例外なく持っていると思う。これは神保氏や
宮台氏が言ったことにも繋がるが、フェチは内面の範囲の中で多様性を
持っていて、人によって千差万別である。

 問題はその傾向が、他者に関わる行動として出た場合、法律に抵触
する範囲内にあるかどうかである。友人の下着姿写真の真偽はわから
ないが、仮にそれが事実だとしても、それは秘匿している限り、フェティ
ッシュの範囲内にあることだと考える。普通に考えても、性は各自のプ
ライバシーの範囲にあり、個人にまつわる公私の併存においては「私」
に属するものである。

 女性の下着姿の写真、そのような物が携帯に入っていたとしても、そ
のことをもってして、手鏡で覗いたことが証明される、あるいはその犯罪
と連続性を持つんだという指摘はまったく当たらない。それがある個人の
犯罪性を担保する物的証拠となるのであれば、週刊誌のヌードやグラビ
ア写真を見る男は全員有罪となる。イスラム社会ならいざ知らず、日本に
おいてはあり得ない。

 セーラー服の件も同様である。これもフェティシュの範囲内にあり、盗ん
だとか、女子を強要して確保したとかいう話でなければ何の問題もない。
問題があるとすれば、そういうフェティッシュの部分を公的に自ら恣意的
に公開するという行為であろう。これは犯罪ではないが、公徳心や倫理
的には問題がある。そういうものを、官憲によって出されたとしても、それ
が都条例違反の行為にはまったく結びつかない。性的フェチシズムが犯
罪の担保になるのであれば、人類は全員有罪ではなかろうか。「欧米か
よっ!」風に言うなら、人類は誰一人として例外なく「原罪」を有している
から有罪であろう。ふとヨハネ福音書の有名な記述を思い出した。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を
投げなさい。」これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人
と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

 私も含めてだが、我々は自分のことも省みずにこの手のことをやって
いる。 四六時中、女性の裸のことを微塵も考えずにいる男がいたなら
その人は珍獣の部類であろう。


「(友人の下着姿の写った携帯や家宅捜査で押収もセーラー服に話題が
及んだ頃)の植草氏の表情から垣間見られる心の動揺
」 というコメントの
話は「だから何だ」ということに過ぎない。不特定多数の見ている場所で、
自分のプライベートなフェティッシュを指摘されたら、どんな男でも動揺す
るのは当然である。恥ずかしいからである。人間には公と私の顔があり、
この両者は峻別される場合と、同時に出る場合と、互いに連続的に関
わる場合があると思う。国士と言われる人もこれは例外ではない。

 必ずしも適当な引き合いだとは思わないが、知識が足りないのでこれ
しか思い浮かばない。アブラハム・H・マズローの五段階欲求階梯心
理学を例に出せば、人間の欲望は段階があって大枠では自己実現とい
う最終段階にベクトルを向けるが、実はそんな単純なものではなく、日々、
要求の次元は事細かに揺曳している。男であれば、アダルト映像を観
たくなる時もあれば、次の日は社会や人類の行く末に思いを馳せる時も
ある。低次要求や高次要求がばらばらになって複雑に混在しながら生
きているのが人間である。

 性的な部分での要求が異常に突出して、それが他者を巻き込む行動
に出た場合は間違いなく犯罪である。しかし、人間一般の情動・欲情の
範囲内にあるものを恣意的に引っ張り出して、これに注目しろとやった
場合、実は今の捜査はこれに該当するのだが、その場合は常習性や
犯罪性を証明する担保にはまったく当たらない。むしろ、マスコミを使っ
てこれを注目させたことは悪質とさえ言えよう。

 三度も似たような事件で御用になる。しかも、携帯には怪しげな写真
が・・。公権力が公平性を保っていると万人が信頼している時ならこれ
は決定的である。しかし、小泉のように、公権力を私物化するような政
権が実現してしまった場合、政敵や、植草氏のように、政策論的に政
権の暗部、危険性を唱える者は、公権力によって恣意的に狙われる可
能性がある。植草氏の場合、これだけの判断材料で、その人間の性向
を常習的性犯罪者と印象付けるやり方は恣意性があるとしか言いよう
がない。「三度」という件をつぶさに見たとき、この連続性を既成事実
化するための演出を伴った故意の捜査、そしてこれを助ける報道の意
識的な印象操作を強く感じる。

 分別ある人が三回目の逮捕で冤罪説に決別、私、管理人はそれを慨
嘆と言っているが、私はこの三度の連続性が、国家権力によって意識的
に作られていると指摘してきた。国策捜査である。しかし、一度目の東海
道線車内の場合は、所轄警察の強引な誘導による結果であって、これは
国策ではないと考えている。しかし、あとの二件は明らかに最初の一件
を利用した国策捜査、国策逮捕である。

ここは所詮、自己陶酔「閑話」ブログ。読ませて貰う度に「なにを燕子が
実相を談じ顔なる」の思いを禁じえない。

 ご批判、しっかりと肝に銘じて置こうと思う。私の無学によって表現が稚
拙なことと不徳のなすところだろう。ただ、燕子だからこそ、今回のよう
な場合は声を上げなければならないのではないのか。そうでなければ、こ
の社会はがんじがらめの「警察国家」と成り果て、国民の幸福や希望は
雲散霧消することになる。

 私が言いたいことは、「三度の逮捕」という既成事実から出発しない見
方、可能性を考えて欲しいということである。逮捕は既成事実ではあって
も、その既成事実には国家権力の意図が関与していないのかという視点
を持って欲しいのである。なぜなら、小泉純一郎は三権分立の相互不可
侵性を自ら破壊した最初の宰相であるという疑いを強く持つからである。

 

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閑話休題(植草氏擁護に思うことあり)

 植草一秀さんは、小泉構造改革路線の売国的本質を、その経済政
策論的な洞察と炯眼で見抜き、かなりきびしい口調で批判を続けてい
たが、りそなの暗部を指摘し始めた途端に陥穽にはめられしまった。

 私はそのことを、マクロ的な観点からスポットを当ててみようと、いろ
いろと心当たりのある本や記事を調べているところである。すると、小
泉構造改革五年のあいだに、ほとんど見過ごしてきたようなニュース
や出来事が、互いに有機的な関連性を持つことが見えてきたり、売国
奴内閣の驚くべき隷米構造が明瞭になる瞬間がある。

 その時、驚きとともに、あらためて熾烈な怒りが湧いてくる。戦後は
一貫して、政治的にはアメリカに対する隷従傾向は強かったが、それ
でも小泉内閣以前は、政治家も、官僚も、言論人も、経済学者も、そ
れなりの反骨の気概は持っており、米国の奸佞邪智(かんねいじゃち)
に、それぞれの仕方できっちりと反抗していたのである。

 特に官僚の中には、世間のイメージとは違って、アメリカの好きなよ
うにやられてたまるかという強い防衛意識が働いていたように思う。
その中の一人が元通産官僚の小林興起氏であった。ところが、プラ
ザ合意辺りを境にして従米官僚と反米官僚の均衡状態がくずれ、反
米勢力がなし崩し消滅した。その結果、官吏の世界はアメリカ信奉
主義の官僚に席巻されてしまったようである。小泉個人の人間とし
ての器量や資質を考えた場合、彼を宰相に据えるような精神土壌は、
かつてはなかったはずである。

 ところが、こいつが宰相に居座るという異常な位相に我が国が突入
してから、日本の伝統意識や秩序感覚は急速に崩壊して行ったよう
に思う。国家の品格とか、美しい日本とかいう者が、皮相的な愛国ブ
ームに乗って胡散臭く出てきたし、先祖の遺徳を無視して靖国論をと
うとうと述べたりする馬鹿者が出てきたりする。

 私自身、過去五年間の日本の変化に、戸惑いを感じるほど驚いて
いる。戦後民主主義の単相な進歩史観に取り込まれている馬鹿者た
ちは、小泉施政のこの五年間の移り変わりが、日本の進化とか進歩
という概念で捉えているが、真相はその真逆に向っており、日本人の
精神風土はかつてないほど荒廃しているのが現状である。

 植草さんの本物の救国意志が通らない今の日本は、究極的な精
神の堕落に揺曳しているのである。気が付かないだろうか。テレビを
観ても、論壇誌などを見ても、米国を真正面から批判できるタイプの
気骨ある言論人が見事なまでに排斥されている現実がある。その代
わり、まがい物が排出している。中国や韓国を徹底的に毒づく話は
花盛りである。日本文明論を説く中西輝政とかね。あいつの拝米感
覚には反吐が出る。お前らのどこが保守なんだ。米国を睨む肝っ玉
を持つ奴が本物の保守なんだと私は確信する。小林よしのり氏など
は本当に頑張っていると思う。

 植草さんが痴漢だから逮捕されたと考えることは、頭を何も使わな
いから楽ではあろう。しかし、今の日本に心底違和感を感じている人
々なら、痴漢で逮捕され、拘留された植草さんが、会社のパソコンを
押収され、いまだに拘留を解かれていないことを不思議だと思う気
持ちが湧いて当然だと私は思っている。最もシンプルに素直に考え
たとしても妙である。彼の拘留継続を望んでいる者たちが、植草さん
に語ってほしくないことがあるんだという方向を考えてもらいたいと
切に思う。

 9月13日は私の誕生日である。この日に植草さんは逮捕された。
なぜか知らないが、自分に彼の汚名を晴ら