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2006年11月25日 (土)

月明の凛冽なる至誠

  拘置所で耐えている植草一秀さんに捧げる

 ディアスポラ。それは、ローマ軍によってエルサレムの神殿を破壊
され、故郷を喪失し、紀元70年以後、世界中に離散したまま艱難辛
苦に耐え、故郷を偲び続けたユダヤ人の物語である。

 私はユダヤ人のことを言おうとしているのではない。言おうとしてい
るのは、今の日本人のことである。日本人は日本列島という領域に
長いこと住み続け、その存在様態は今も変わらない。だから、祖国を
喪失したユダヤ人との関連性はまったくないように見える。しかし、
物理的にリアルな国家を喪失したユダヤ民族と、精神的に国家を喪
失した今の日本人はきわめてよく似通っている。

 今の日本人には国はあっても魂の故郷がない。ユダヤ人は二千年
の昔、故国を失った。日本人は今、魂の故国を失ない、日本という領
土にただ漫然と置かれているだけである。日本人は空間的には日本
に住んでいるが、精神的、霊的には日本の領土から離れて魂の漂泊
者となっている。我々日本人は今、魂のディアスポラ(離散状態)にあ
るのである。

 祖国に住みながら、魂の祖国を捨て、自分が何者かまったく見え
ない盲(めしい)と成り果ててしまった。精神の漂泊者である日本人は、
今、最も苦しい歴史を歩んでいるような気がしてならない。大東亜戦争
を終えたあと、日本人は魂の漂白の旅に出ざるを得なかった。しかし、
高度経済成長に没頭している間に、自分の居場所をすっかり忘れてし
まい、いつしかその存在証明を失った。我々はいったい何人なのだろ
うか。かつては誰にも見られたあの静かな笑顔は確かにあった。控え
めで恥ずかしそうなあの笑顔。優しくて、どこかなつかしく、セピア色に
染まったあのアルカイック・スマイル。外国人にはけっして理解されな
いあの神秘的な微笑。あれこそ、同族確認の絶対的な指標だったの
ではないか。あのスマイルはいったいどこへ消え失せたのだろうか。
今では古いモノクロ写真の中にしか存在しない。・・我々はいったい
何者なのであろうか?

  昭和17年5月31日、オーストラリア、シドニー湾軍港、煌々とした
月明かりの夜であった。敵艦に敢然と特攻をかけた日本海軍の特
殊潜行艇は、激突寸前に敵前で機関の故障により浮上した。

 この時、ハッチから艇上に躍り出た一人の兵士がいた。その男は
日本刀を振りかざしたまま敵の銃弾を浴びて死んだ。彼の名は、松
尾敬宇、24歳、海軍中佐であった。

 ただこれだけの話である。面白くも何ともない。事実として言うな
ら、この死に様を見ていた豪州海軍が、その数日後に二隻の特殊
潜行艇を引き上げ、四兵士の遺体を丁重な海軍葬を以て弔った。
敵国軍人に対し海軍葬の礼を示すことは、当時のヨーロッパや豪
州では全く異例の出来事であった。強固な反対があったにも関わ
らず、それは敢行された。それほどまでにこの若い日本兵の最後
は敵国軍人の胸を打ったのである。

 当時の日本人はアングロサクソンを鬼畜米英と呼んでいた。また、
そう呼ばれたアングロサクソンだが、彼らが行ってきた五百年に及
ぶ侵略と殺戮の歴史を見れば、その呼ばれ方は必ずしも不適切
だとは思わない。こういう言い方には嫌悪感を持つ人も多くいるが、
それはそれとして(笑)、事実として言えることは、松尾中佐の最後
が豪州の海軍兵士を感動させたことは確かなのである。

 日本人と共通の文化も感性もない欧米人が、ある一人の日本人
の最後の行動様式に感動したという事実は無視しがたいものがあ
る。我々と共通する精神文化を持たない外国人は、松尾の最後に
何を見たのだろうか。彼らが感動したからには、そこには何か人類
普遍の本質があったにからに違いない。それについて感性を研ぎ
澄まし、思考を深めることは、日本人が真の意味で国際感覚を培う
有効な素養となるのかもしれない。

 松尾中佐の死に様は、不謹慎な言い方だが、取り立てて言うよう
なものではないかもしれない。ただ・・、寂寞とした月明かりの中、
潜航艇にすっくと立ち、目をかっと見開いて、日本刀を片手に降り
かざし、武人として最後の佇まいをまっとうした男がいた。私はそ
の日本軍人の凛冽なる最後の情景を思い浮かべる。それはあま
りにもはかなく美しい。そして形容しがたい静謐感に満ちている。
もののあはれの究極相である。それを思うと、ただ涙が溢れてくる。

 多分、この涙の意味は、日本人であるならば説明不要であろう。
今の日本人は魂の故郷を喪失している。かつての日本人は、魂の
祖国に生きていた。だからこそ、死に臨んでも、穏やかな顔と、静か
な挙措が保てたのである。刀を降り振りかざした若者の末期の挙
措には、派手さや自己顕示は微塵もない。見えるのは、ただ限り
なく透明な静けさと叙情性のみである。そこに確かにあったのは、
生命尊重至上主義を超える日本という実体である。わずか60年で
日本人は生存におけるその様式美を亡失した。今では、それを思
い浮かべることさえ困難なところまで来てしまった。日本人はいつ
の間にか魂の故郷を置き忘れた。そして望まないままに、あてど
ない旅路に着いた。

 目的地もわからず、引き返そうにも故郷は霧の彼方にある。歩く
べき道を失い、自己を失い、亡霊となって中有(ちゅうう)の茫漠
たる世界をさまよい歩く民族、それが我々の姿である。これは魂
のディアスポラである。民族が内面的に離散すれば国家は求心
力を持たない。だから自ら進んで米国の操り人形となる。日本人
は魂のエクソダスを行う必要がある。しかし、これを先導するモー
ゼはいつ出てくるのだろうか。日本人の場合、エクソダスは「罪の
都」、エジプトからの脱出ではなく、アメリカからの脱出なのである。
出でよ、日本人、背徳の都アメリカを。そうすれば「約束の地」は
きっと見えてくる。そして未来に記せ、・・「出アメリカ記」を。

 今日はふと、そんなことを思った。松尾中佐と失われた時代に冥
福を捧げる。




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» われわれの愛する国、日本 [Merge Voices]
幼い頃、家の柱に傷をつけて成長を測ったことがあると思います。 たった1センチでも身長が伸びていれば、必要以上に大喜びしたものです。 今、どこか自責の念に駆られる年代になってきて、「それと一緒に心の成長も測れたらよかったのに」、と往事を追懐します。 柱に刻..... [続きを読む]

受信: 2006年11月25日 (土) 22時47分

コメント

Merge 様

 はじめまして。ご投稿ありがとうございまし
た。

 おっしゃるとおり、今の日本人は生きる方向性
を失い、何が幸せなのかその求め方を失念してい
ます。

 日本神話の原型的な精神性に生きたほうが、幸
せであることは間違いないことですが、なぜか日
本人は一神教世界に憧れすぎています。

 これが不幸の源なのに。

 今後ともよろしくお願いします。

投稿: 高橋博彦(管理人) | 2006年11月27日 (月) 11時10分

はじめてコメントさせていただきます。

いよいよ日本人の胸の内は実体のない神話(欧米マネーゲーム)に占領されてしまったのでしょうか。

このまま、なにが幸せでなにが不幸なのかの基準さえ見失って、無感動な生き物に成り下がるのでしょうか。

日本人は、悠久の太古から積み上げてきた神話を胸に益荒男・手弱女として生きるほうが幸せだと思います。

世界(=欧米)に向かって「自分たちの神話のほうが優れている」と日本人はなぜ言わないのでしょう。

解決策は必ずあるのに。

いつも勉強になります。

これからもよろしくお願いいたします。

合掌。

投稿: Merge | 2006年11月26日 (日) 00時01分

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