国策捜査をこう考える!
私は昨今の日本が、国家として思いっきりねじれていると感じている。そ
の理由は国家がその政策上において、都合の悪い個人を狙い撃ちする傾
向が強くなっているからである。狙い撃ちとは、言論表現という世界におい
て、対象とした個人の社会的生命の徹底的な剥奪を意味する。この傾向は
小泉政権下において最も強くなり、安倍政権に移行してからもなお続いて
いる。例を挙げれば、国家に狙われた者として鈴木宗男氏、佐藤優氏、西
村眞悟氏などがいる。そして今、私たちが力を入れて支援している傑出し
たエコノミストのひとりである植草一秀氏がある。政府に物言う空気がはば
かられ、同時に国家が個人を狙うようになったら、その国の衰亡を端的に
表していると断言しても差し支えない。ぎらついた電飾をまとった小泉構造
改革は短時間のうちに、日本の安定的な社会システムを根底から打ち壊し
てしまった。それと同時に、言論メディアでは、多くの国益を志向する知識
人たちが、言論表現の場から露骨に外されてしまった。我が国は末期的
なねじれ現象が加速的に早まっている。
我が国は戦後の一時期、未曾有の経済発展を遂げたが、一方では倫理
道徳は頽廃し、国家防衛の基本理念である自主防衛構想は60年以上も
放擲されたまま今日を迎えた。この長い期間を米国の膝下に甘んじたため
に、いまや我が国はローマ(ヘビ)に睨まれたカルタゴ(カエル)のような状
況に置かれている。すでに日本人は、国際政治や経済においても民族自
決の精神を忘却し、国家そのものが萎縮してすくんだ状態になっている。
身動きが取れないままに害獣の餌食にされようとしている。滅びの深淵が
目の前に迫っているというのに、日本人は脳天気な毎日を過ごしている。
国家のねじれは小泉売国政権によって一層激化した。その一つの鮮明
な現象が国策捜査である。国策捜査が頻発する国家とは、政治的には警
察国家に変わりつつあることを示し、経済的には新自由主義の到達点で
ある「夜警国家」に向かっていることを示している。通常、警察国家と夜警
国家はその意味合いが異なるが、我が国の場合は、奇しくもその両者が
同時発生的に進行し、急速に国家的求心力が疲弊している。行き着く先
は、顔と国籍を失った流浪の民が弓形の土地にいるだけという荒廃の近
未来世界である。今の日本人は三島由紀夫が37年前に予見したとおり、
急速な無国籍化に向かっている。
無国籍化という現在急速に進行する現象を、三浦展氏の定義した“ファ
スト風土論”の視点から考察しても、そのことは視覚的に明確な変化とし
て確認することができる。橋本内閣時代には、大店法改正によって、
日本列島の隅々まで大型店が席巻した。その結果、従来からあった里山
や、自然に満ちた日本本来の郊外の光景は一変し、毒々しい大型店が無
法者のように乱立した。それは紛うことなく暴虐な郷土破壊そのものであ
った。人々の生活の核、すなわち日々の生活における価値観は、そのほ
とんどが購買と消費だけに偏向し、従来からあった日本的な様式としての
ライフスタイルは崩壊しつつある。郷土の個性である地域性は消え去り、
どの地方でも、チェーン店である大型店が跋扈し、人々は家から大型店の
駐車場へ車で通うことが定着しつつある。
この結果、子供たちがその成長過程で身に付ける社会性は、もはや昔
の形態とはまったく異なる、無機的で人工的なものだけになってしまった。
家庭という閉鎖空間から、外に出るときはショッピング・モールなどの商業
的閉鎖空間へ直行するような環境になった。社会とは、そこに行き交う人
間と文明の装置であるさまざまなインフラとの有機的な係わり合いである。
子供たちは成長過程に当たって、その関係性を自然に身に付けていた。
ところが、郊外がファスト風土化され、昔ながらの商店街が崩壊した今、
子供たちは正常な社会性の涵養が不可能になりつつあり、風土から自然
に培われていた日本人としての自己同一性も学べない状況に至っている。
これがファスト風土論から見る無国籍状態なのである。この変化の収束す
る目的点は、日本を新自由主義的構造に変換する一連の政府の政策に
あり、特に小泉構造改革と呼ばれる作業が、改革と言う名の日本破壊で
あったことは論を俟たない。こういう流れの中で国策捜査は生まれたので
ある。
さて、「国策捜査」という言葉は、2005年に出た佐藤優氏の「国家の罠」
を読んで初めて目にした。背任と偽計業務妨害の被疑者となった著者を取
り調べた検事が使用した言葉となっている。この言葉が以前からあったの
かどうか、私は寡聞にして知らないが、最近では国策捜査が有名になった
ために、ネットではこれから派生した「国策逮捕」という言葉まで同義的に
使われ始めている。今ではこの言葉は定着しつつあるように思う。国策捜
査はいわゆる冤罪とは決定的に異なる構造を持つ。
佐藤優氏の言に従えば、「冤罪」とは、捜査当局が犯罪を摘発する過程
で間違いが生じ、無実の人を犯人としてしまったにもかかわらず、捜査当
局の面子や組織防衛のために、強引にその人間を犯人として継続捜査を
して行くことである。これに対して、国策捜査は国家の「自己保存本能」に
より、国家の政策方針を変えうるような多大な影響力を持つ人間を、初め
から狙い撃ちし、検察を媒介にして政治的な事件や不名誉な事件を創出
することである。(「国家の罠」300項参照)
私は国策捜査をこう捉えている。国策捜査とは、時の政府が推し進める
政策上のトレンドに対し、そのベクトルを変えうるような大きな影響力を持
ち、政府が思い描く時代形成に反する方向性を持つ学者や政治家を狙い、
その言論を世論的に封じる目的で行なう恣意的な捜査のことである。その
目的は、時代のけじめをつけるために、何か象徴的な事件をでっち上げ、
時の政府の政策トレンドに異を唱える影響力のある人間を、検察が主体と
なって恣意的に断罪するということであろうか。
佐藤氏を取り調べた検事の言によれば、国策捜査は冤罪ではなく、これ
というターゲットを見つけ出して、そのターゲットの隙を見つけ、それを徹底
的に揺さぶって国家の罠に引きずり落とすことである。そのターゲットにな
る人物はその道の第一人者であり、その言論表現を放置すると、時の政
府のマクロ的な国家運営に甚だしい阻害要因となる能力を有している。従
って国策捜査とは、国民に時代が変わったことを印象付けるために、旧時
代を代表する人物を、もはや不要な者として、あるいは新しい時代に有害
な考え方を持つ者として、その人間を象徴的な人身御供とする国家の断罪
行為と言えるだろう。
植草氏の逮捕劇を、有名な経済アナリストが痴漢性癖で捕まったと世間
が面白おかしく騒いでいた時、私は彼の経済学者としての自己同一性と、
小泉政権時代の国家的グランドデザインとの整合性という観点からその逮
捕劇を捉えなおしてみた。植草氏は経済学者ではあるが、その経済学的視
点は徹底して政治に反映されてこそ意味があると考える実戦派エコノミスト
に位置している。つまり植草氏は衒学的な経済エッセイストではなく、国家
の政策中枢レベルに影響を与えうる提言と予見ができる非常に稀有なタイ
プのエコノミストなのである。
われわれが認識する「事実」について少し考察しておきたい。われわれが
普段知覚する「事実」(ファクト)には、実は大きく分けて二種類ある。一つは
日常の中で、自分の目の前で生起する生々しい現象としての事実である。
これは、目の前で起きたこと、視覚、聴覚、嗅覚など、いわゆる五感をもっ
て体験しうる体験的事実のことである。その臨場感、迫真性は疑いの余地
のない場合がほとんどである。もし、この日々の実体験に疑いを持つとす
れば、人間は実存感覚の危うさに陥ってゲシュタルト崩壊を起こす。われ
われ人間が内包するこの実存的な脆弱さを精神的に制圧しているものこ
そ、日常に生起する多様な情報から得られるリアルな感覚というか、生き
生きとした存在感なのである。
もう一つの「事実」は、日々目や耳にするニュースと言われる情報から得
られる仮想的な事実である。テレビやラジオ、あるいは、新聞等の活字媒
体から目にする情報は、物理的に放送局や記事の書き手という中間の媒
体を介して流れる物であるから、その情報は程度の差こそあれ、必ず加工
されていると見るべきである。その人為的な「加工」の度合いによっては、
われわれが知らされるニュースは事実(ファクト)とは大きな懸隔が生じる
と考えられる。しかし、我々は、時には胡散臭さを感じながらも、前提とし
てメディアは正直に遠方の物事を伝えているという暗黙の担保を与えてい
る。
植草氏に起きた甚大な報道被害は、国策捜査の一環として、メディア操
作が行なわれたことにある。冤罪の可能性をまったく無視した初期報道に
よって、植草氏の弁明が世間に出る前に、徹底した印象操作が行なわれ
てしまったのである。これは、日本がすでに、言論統制国家、警察国家の
性格を帯びていることを端的に示すものである。
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