「佐賀のがばいばあちゃん」
第五章、「一番好きで、一番嫌いだった運動会」を読んで感じたこと
今日、お昼のテレビのトーク番組に、お笑い漫才の島田洋七氏が出ていた。島田洋七氏について知っていることは、第一次漫才ブームの先鞭を切ったB&Bというコンビの片割れであり、彼らの漫才は爆発的に当たり、洋七氏は数年間で三十億の現金を手にしたそうである。当時の彼は、あまり金を儲けて、押入れにファンレターと一緒に封筒に入った給料袋の現金がぎっしりとあったそうである。その話は洋七氏がよくテレビで話していたことは覚えている。
私は、漫才ブーム初期の頃はともかくも、B&B全盛当時の洋七氏は大嫌いであった。有名になり大金を得て自我が肥大し、高慢な物言いが目立ったことを覚えていたので、この男には最近まで嫌悪感があった。ある種、日本人が陥ったバブル的成金趣味の権化という形に洋七氏が見えていたからである。しかし、振り返ってみれば、この時期の日本人は、芸能人に限らず、押しなべてにわか成金や利殖行為に溺れていたように思う。洋七氏に限らず、事業家や一般人でさえ、こういう雰囲気の人間は多く輩出していた。
だが、島田洋七氏は第一次漫才ブームが去り、人気の凋落を迎えると、滝つぼに落ちる木の葉のように、その存在は芸能界から掻き消されていった。しかし、これほど栄枯盛衰の激しい男もいないと私は思っていた。島田氏のことを調べたわけでもないので、軽々しくは言えないが、彼は生き馬の目を抜く弱肉強食の芸能界でも、かなり壮絶な没落の地獄を味わっていたはずである。何度もテレビでの復帰の機会を狙ったと思うが、長い間それを果たせなかったように思う。人気の絶頂にいた者が没落のきわみに落ちて捲土重来を待つと言えば聞こえはいいが、本人にとっては、きっと地獄の辛酸を嘗め尽くしたに違いない。一人の人間に生起する極端な栄華と落魄。まさにこれは、平家物語の冒頭にうたわれる有名なかの一節を思わせる。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
島田洋七氏は、彼が味わったこの人生流転の究極の愁嘆場にあって、諸行無常の道理を体得し、もののあはれの境地に悟達したものと見える。そして、人の世で何が一番大切かに、はっきりと気がついたに違いない。そうでなければ「佐賀のがばいばあちゃん」を著すことはできなかっただろう。彼は晩年の小野小町と同次元の心境に達したのかもしれない。それほどこれは文学的に優れた叙述なのである。洋七氏が広島から佐賀のおばあちゃんに預けられたのは昭和三十三年である。つまり、洋七氏が多感な時期に、がばいばあちゃんと生涯忘れられぬ重要な時期を過ごしたのが、かの「昭和三十年代」なのである。「佐賀のがばいばあちゃん」シリーズが四百万部の大ヒットをもたらしたのは、彼が最も訴えたかった昭和三十年代を、佐賀のばあちゃんとのエピソードを通じて、その時代精神を明快に伝えきっているからである。平易な文体、雑多で余計なものをいっさい省いたその簡潔明瞭な文章表現は、読む者を昭和三十年代に深く誘う。
佐賀のばあちゃんという存在を通じて、洋七氏はあの頃の時代精神のエッセンスをみごとに描ききっている。私はお昼のテレビ番組を見て、「佐賀のがばいばあちゃん」を買いに行って、彼の小学生のころの体験までを読んだ。ばあちゃんとの生活体験の初期を書いた第五章に、「一番好きで、一番嫌いだった運動会」という項目がある。これを読んだとき、私は自分の昭和三十年代の体験を走馬燈のように思い出し、洋七氏のこのエピソードに深く感銘した。それは運動会での話で、洋七氏がテレビでも少し語っていたことだった。私は「佐賀のがばいばあちゃん」を全部読んでいないが、確実に断言できることがある。それは、洋七氏がこのシリーズで語りたい本質が、この第五章のエピソードにすべて収斂されているということである。
洋七少年が佐賀に転校生として来て、没頭したのが走ることだった。一人暮らしだったおばあちゃんは筋金入りの貧乏であり、その日その日を食べることさえ事欠くような生活をしていた。しかし、そこはたくましい女性で、物を無駄にしないことと、近くに流れている川の上流は生鮮市場だったので、そこから流れてくる捨てられた果物や野菜をうまく拾い集めてそれを食卓に供して食べていた。このおばあちゃんは底抜けに明るい性格の人で、惨めな顔は洋七氏には一度も見せずに、ひたすらプラグマティックに、その日その日をどうして食べていくかに挑んでいたそうである。そういう超貧乏な家だったから、洋七氏はまともなおかずの入った弁当も持っていけなかったという。
しかし、この当時はそういう子供たちはたくさんいて、けっしてそれが珍しい家庭ではなかったと思うが、それでも洋七氏の語りを読んでいるうちに、そういう家庭でも、がばいばあちゃんの家は、超一級の貧乏な家庭であったことがわかる。洋七氏は友達もでき、そのころ、剣道や柔道を習うことが流行ったそうである。洋七氏は何としても剣道を習いたくなり、婆ちゃんに習わせてくれと頼んだ。金がかかると言うと、うちは貧乏だから駄目だとばあちゃんは言った。そこで、今度は柔道を習いたいと頼んだが、やっぱり貧乏だから駄目だと言われた。そこで、ばあちゃんは彼にこう言って提案した。「明日から走りんしゃい、ただ走るだけなら金はかからん。地面はただだし、道具もいらん」
洋七氏は、それに対してこのように回想している。「なにか違うような気がしたが、俺もまだ子供だったし、何となく納得して走ることに決めた」と。しかし、この書き方は私はすごいと思う。同年代を過ごした私には、彼が本当に言いたいことがわかりすぎるほどわかる。洋七少年はやるせない悔しさに押しつぶされていたはずである。仲の良い友達との関係で最もつらいのは、遊びや趣味で同じことを共有できない苦しみである。この時、洋七少年は貧乏の境遇を心底呪ったと思う。何か違うような気がしたが何となく納得したというのは、人生の辛酸を舐め尽くした彼が、その経験の中で気が付いたおばあちゃんの人間としての偉大さに最大の敬意を払っているからであろう。過去のおばあちゃんの幻影を、凄惨な色合いの現実で傷つけたくないのである。奈落の底に落ちて培った、彼の人としての成長が語らせたほの温かい嘘である。
「何となく納得して走ることに決めた」という、さりげなくぼかしているこの奥ゆかしい語りには涙が出る思いである。セピア色の抑制とでも言おうか。たぶん、洋七氏はそれに気付いて欲しくないのだろう。お笑い芸人の矜持があるからである。彼の芸は、軽薄で奥ゆかしさのまるで感じられない瞬発的な話芸が信条であるから。しかし、あのテンポのよい話芸は、おばあちゃん譲りであることは間違いないことだ。
それから、洋七少年は金のかからないスポーツ、走ることに専念した。かれこれ一年もたった頃、運動会が行われた。自分の話になるが、洋七氏より二年足りない私は、昭和三十五年頃の小学校の運動会の楽しさを鮮明に覚えている。秋田の片田舎の寒村で小学生を過ごした私は運動会に特別な思いを抱いていた。あんな楽しいイベントは何物にも代え難い物だった。走る競技も楽しかったが、仮装行列では大好きな月光仮面がいたり、七色仮面(今の人はちんぷんかんぷんだろう。笑)がいたり、夢のような楽しい行事であった。当時は今と違って、田舎にはスーパーもなく、贅沢な物を食べることはできない時代だった。運動会で重箱に入った料理を食べることが運動以外の第二の楽しみだった。というか、最大の楽しみだったかもしれない。父母、家族と一緒に運動場の周辺にゴザを敷いて、家族で楽しく食事するのである。私は好物の特大おいなりさんを腹一杯食べて、この上ない至福感を味わったものだった。
考えてみれば、昭和三十年代というのは、終戦後、まだ十年あまりの時期である。日本の衣食住環境が充実していたとは言い難い。食べ物は質素だった。バナナもみかんも贅沢品だった。メロンは死の病床の人が食べるようなイメージがあった。しかし、あの当時は「マクワウリ」というのが農家で栽培されていて、時期には食べることができた。今のメロンより香りがよく、はるかに美味しい物だったような気がする。洋七氏は野生の木の実をよく食べたと言っていたが、私も同様である。桑の実を食べて口のまわりを紫色に染め、豆柿(まめがき)という小さな柿を食べ、野生のグミの実や山ブドウ、アケビなどをおやつ代わりに食べていた。今思えばこれらはほんとうに贅沢品であった。野生の木の実には栽培果物にはない清新な原初の味が残っている。
洋七氏の運動会の話に戻ろう。当時の普段の家庭食は、おしなべて質素で貧しい物であった。しかし、それだからこそ、正月や運動会などの行事には、家庭は奮発してご馳走をつくって楽しんでいた。明らかに洋七氏のおばあちゃんの家はそれができなかった超貧乏家庭だった。父兄参観や運動会にはおばあちゃんはこなかった。毎日一人でよく走っていた洋七少年は、運動会の競技で一番を勝ち取った。しかし、その高揚感はすぐにしぼんだ。先生が「楽しいお昼休みになりました。みなさん、お父さん、お母さんとお弁当をたべましょう」と言ったのである。洋七少年は一人である。弁当も手持ちの梅干し入りの日の丸弁当である。ショウガも入っていたらしい。
他の子には、親が「怪我せんかったか?よく頑張ったね、さあ、あんたの好きなウインナをお食べ」とか言っているのを、横目で見ていた洋七少年はいたたまれなくなっていた。洋七氏はこの時のことを、走っていて、家族から声援がないことより、お昼時の方がはるかに辛かったと語っている。当然である。両親も家族も来ない運動会、家族が一緒に運動会を楽しむ最大の瞬間がひとりぼっちで味わえないのである。こんな残酷な風景があるだろうか。この気持ちは私の年代でなくともわかると思う。しかし、この当時はこういう子供は案外いたのである。この当時はこういう境遇の子には格差による優越感などという物はなく、ある種の同情がみんなにあった。なぜなら、一般の人たちもけっして生活は楽ではなかったからである。
しょんぼりした洋七少年は一人寂しく校舎の教室に歩いていった。そして、校庭の喧噪を泣きたい思いで聞きながら、持参した日の丸弁当を食べようとした時、先生が入ってきてこう言った。
「あのな、弁当を取り替えてくれんか?」
「え?」
「 先生、さっきから腹が痛くなってな。お前の弁当には梅干しとショウガが入っていると?」
「ハイ」
「ああ、助かった。おなかにいいからそれと換えてくれ」
「いいですよ」と洋七少年は先生と弁当を交換した。
「先生は腹痛か、大変やなあ」などと思いながら弁当箱を開けた彼は仰天した。卵焼きにウィンナー、エビフライと、それまで見たことのないような豪勢な料理が詰められていた。彼は夢中でそれを食った。こんな美味い物はないと思った。先生の腹痛のおかげで萎えていた心も晴れやかになり、午後のリレー競技でも思いっきり頑張れた。そしてまた一年たった。彼は相変わらず競技のヒーローだったが、また恐怖のお昼休みが来た。そしたら、また同じ先生が「ここにいたのか。先生、腹が痛くなってな、お前の梅干しとショウガ入りの弁当と交換してくれ」と言った。承諾して、また先生の豪華な弁当を食べた。また一年がたち、四年生になった時、運動会がやってきた。今度の担任は女の先生に代わっていた。先生は「ここにいたの?先生、お腹が痛くなっちゃって、弁当を換えてくれる?」と言った。洋七少年は、この学校は運動会になると先生が腹痛を起こすのだろうかと真剣に考えたそうである。
それから、卒業するまで運動会は孤独で、先生が腹を痛くして弁当の交換が行われたそうである。洋七少年がその意味に初めて気が付いたのは小学校の六年生だったそうである。運動会になると先生が腹をこわしたとおばあちゃんに言うと、おばあちゃんは「なんば言いよると。それは先生がわざとしてくれたとよ」と言った。そして、「本当の人間の優しさとは、お前のために弁当を持ってきたと言うたら、お前もばあちゃんも気ぃつかうやろ?だから先生は、お腹が痛いから交換しようって言ったとよ」
かあちゃんが運動会にこられない洋七少年の境遇を思いやった先生たちが、代々、職員室で、せめて一年に一度美味しい物を彼に食べさせてやろうと計らったことであったのだ。本ではこのエピソードをここまで書いていた。しかし、洋七氏がテレビで言ったことは、本に書かれていないことだった。数年間、毎回、先生が腹を痛めて弁当を交換して欲しいという話をしたとき、おばあちゃんは涙をぽろぽろ流してから、それは先生がわざとしてくれたのだと言ったのである。洋七氏はおばあちゃんが涙したことは敢えて本には書かなかった。実はこの本のメッセージは、すべてがこのおばあちゃんの涙に凝集されている。このエピソードには、先生の計らいにも、それに感涙したおばあちゃんの気持ちにも、昭和三十年代の日本の精神が余すところなく出ているからである。洋七氏は、その最も本質的なおばあちゃんの涙を書かなかった。ここに彼の文学的な深い心境がある。これは私の推測だが、洋七少年がおばあちゃんにその話をした時、おそらく彼はおばあちゃんと二人で泣き明かしたのだと思う。しかしそのことを書くのは自制したのであろう。凄惨な貧乏生活をお笑いで塗りつぶすという覚悟があるからであろう。
この「佐賀のがばいばあちゃん」から垣間見えるものは、昭和三十年代に立派に残っていた日本人のあるべき姿なのである。けっして懐古趣味で言うのではないが、あの頃は日本人が互いに思いやりを強く持っていて、助け合いの精神が息づいていた。敗戦の精神的焦土からともに這い上がってきた共有感覚もあっただろうし、それが日本民族の原型的な和の心でもあっただろう。あの頃は、昔ながらの人情が社会の隅々まで生きていた時代だった。私の家でも、近所の貧乏で米を買えない家に、米を持っていって、今年は実家で豊作だったからと嘘を付いたことがあるし、母は醤油や砂糖の貸し借りはしょっちゅうしていたように思う。同情して、物や金をやるときは、みんなが極力相手に恥をかかせないように気を使っていた。すべてのことがお互い様だった。みんなが裕福ではなかったから、情が生きていたのである。相互互恵の精神は、蛮族アメリカの洗脳のおかげで今は死語となったが、当時は色濃く残存していた日本人の一大特徴だった。本来の日本人は有徳なのである。
しかし、あの時代から四十数年の歳月が流れ、日本社会は小泉純一郎のメンタリティが象徴する本格的なアメリカ型格差社会が到来した。日本人の幸福感なんぞ、とっくに掻き消されているのだ。他者への物質的優位性だけで己の幸福度をはかる今の時代はなんと貧相であろうか。我々が憧れていた豊かなアメリカ型生活は、実際は弱肉強食の荒廃した地獄の生活空間であったのだ。もういい加減に目覚める時ではないのか。
参照図書 島田洋七著「佐賀のがばいばあちゃん」(徳間文庫)
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歴史は過去に起きたことを解釈したものです。しかし、近現代史はただ過去に起きたことの解釈に止まらず、現代の国家関係を形成するための倫理・道徳を求める上での根拠となっています。そこでは、第二次大戦の戦勝国(主にアメリカとイギリス)はその倫理・道徳を体現する存在となり、第二次大戦以後の(国連を中心とした)世界秩序の基礎となる理念を形成する立場に位置し、敗戦国(主に日本とドイツ)は世界の敵にされて、それ故に、戦後世界秩序の理念への絶対服従が要求されています。つまり第二次大戦が近現代史を解釈する価値の土台となっているということです。連合国共同宣言と国連憲章がそれを象徴しています。
「この宣言の署名国政府は、大西洋憲章として知られる1941年8月14日付アメリカ合衆国大統領並びにグレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国総理大臣の共同宣言に包含された目的及び原則に関する共同綱領書に賛意を表し、これらの政府の敵国に対する完全な勝利が、生命、自由、独立及び宗教的自由を擁護するため並びに自国の国土において及び他国の国土において人類の権利及び正義を保持するために必要であること並びに、これらの政府が、世界を征服しようと努めている野蛮で獣的な軍隊に対する共同の闘争に現に従事していることを確信し、次のとおり宣言する。
(1) 各政府は、三国条約の締約国及びその条約の加入国でその政府
が戦争を行っているものに対し、その政府の軍事的又は経済的な
全部の資源を使用することを誓約する。
(2) 各政府は、この宣言の署名国政府と協力すること及び敵国と単独
の休戦又は講和を行わないことを誓約する。
この宣言は、ヒトラー主義に対する勝利のための闘争において物質的援助及び貢献している又はすることのある他の国が加入することができる。」 (連合国共同宣言)
連合国共同宣言
ttp://www.hoppou.go.jp/library/document/data/19420101.html
「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機関を設ける。」(国際連合憲章 前文)
「第53条〔強制行動〕
1 安全保障理事会は、その権威の下における強制行動のために、適当な場合には、前記の地域的取極又は地域的機関を利用する。但し、いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基いて又は地域的機関によってとられてはならない。もっとも、本条2に定める敵国のいずれかに対する措置で、第107条に従って規定されるもの又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定されるものは、関係政府の要請に基いてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とする。 2 本条1で用いる敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国に適用される。」(国際連合憲章 第53条)
国際連合憲章(全文)
ttp://www.lares.dti.ne.jp/~m-hisa/uncharter/japanese.html
近代の歴史研究は史料の科学的な分析が不可欠ですが、近現代史の研究の場合、上記の戦勝国=善、敗戦国=悪、の図式を正当化する事象が無批判に歴史解釈の根拠に使用され、史料検証がなおざりにされる傾向が目立ちます。そこにあるのは、第二次大戦の戦勝国の支配の正当化、つまり連合国の利益を維持する方向に働くイデオロギーです。ここではそこから先のことを分析してみます。
連合国が正義だとされるのは戦争に勝ったということもありますが、何より彼等が民主主義を掲げていたことが連合国の正義を印象付ける最大の根拠となっています。ソ連や中国(当時は中華民国)が民主主義国家かという批判もあるでしょうが、当時は共産主義はまだ資本主義よりも民主的な制度だと信じられていたし、身も蓋も無いことを言えば、歴史とは時間が経つに従って単純化、図式化され大掴みな印象が支配してしまうものです。それで結局のところ現在は、近現代史は民主主義を標榜している米英を中心とした連合国が正しかったという観念が先行しています。そして、米英の民主主義を人類の絶対的な理念と信じさせる原因となったのは、やはりナチスのホロコーストでしょう。
私はホロコーストは存在しなかったと思っています。ここでいうホロコーストとはユダヤ人を対象とした絶滅政策、もっと具体的に定義すれば、ガス室を使用してのユダヤ人の虐殺のことです。しかし、ホロコーストを学術的に検証する能力は私にはないので、私は、米英の民主主義は本当に人類の理念なのかということを検証していきます。ホロコーストの見直しについては、知っている人も多いと思いますが、これらのサイトをご覧になってください。
ソフィア先生の逆転裁判
ttp://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ruri/sohiasenseinogyakutensaiban2_mokuji.html
歴史的修正主義研究会
ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/
民主主義という言葉が対象とする概念は曖昧です。政治制度を示す意味で使われる場合もあれば、その制度が目指す目標(つまり自由と平等)を指す場合もあるし、その両方を含めたイデオロギーを示す言葉として使われることもあります。これから問題にする民主主義はイデオロギーとしてのそれです。まず民主主義の出発点とされる、アメリカ独立宣言の要旨を引用します。
「人の営みにおいて、ある人民にとって、他の人民と結びつけてきた政治的な絆(きずな)を解消し、【自然の法や自然の神の法によってその資格を与えられている】独立した、対等の地位を地上の各国のうちに得ることが必要となるとき、人類の意見をしかるべく尊重するならば、その人民をして分離へと駆り立てた原因を宣言することが必要とされるだろう。
我らは以下の諸事実を自明なものと見なす。
すべての人間は平等につくられている。【創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。】これらの権利を確実なものとするために、人は政府という機関をもつ。その正当な権力は被統治者の同意に基づいている。……この宣言を支えるため、【神の摂理への堅い信頼とともに、我らは相互にその生命、財産、そして神聖なる名誉を捧げあうことを約するものである。】」(アメリカ独立宣言)
アメリカ独立宣言(全文)
ttp://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/america/declar.htm
ここではまず神との契約が明記されています。彼等の神は当然、聖書に出てくる一神教の神です。これだけではなく、すべての西洋思想は一神教の世界観が前提となっています。つまりは近代社会は一神教の世界観の原理で動いていることになります。
「自然の状態にはそれを支配する自然の法があり、それはすべての人を拘束している。そして理性こそその法なのだが、理性を少し働かせてみれば、すべての人は万人が平等で独立しているのだから、だれも他人の生命、健康、自由、あるいは所有物に危害を加えるべきではないということが分かるのである。【なぜなら人間は皆、唯一全能でかぎりない知恵を備えた造物主の作品だからである。すなわち人間は、唯一なる最高の主の命に
よってその業にたずさわるために地上へ送られた召使であり、主の所有物であり、主の作品であって、人間相互の気ままな意志によってではなく、神の意のある間、生存を許されるものだからである。】」(ジョン・ロック『統治論』 第二篇、第二章)<