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2007年4月22日 (日)

島田洋七著「佐賀のがばいばあちゃん」を読んで

  「佐賀のがばいばあちゃん」
第五章、「一番好きで、一番嫌いだった運動会」を読んで感じたこと


 今日、お昼のテレビのトーク番組に、お笑い漫才の島田洋七氏が出ていた。島田洋七氏について知っていることは、第一次漫才ブームの先鞭を切ったB&Bというコンビの片割れであり、彼らの漫才は爆発的に当たり、洋七氏は数年間で三十億の現金を手にしたそうである。当時の彼は、あまり金を儲けて、押入れにファンレターと一緒に封筒に入った給料袋の現金がぎっしりとあったそうである。その話は洋七氏がよくテレビで話していたことは覚えている。

 私は、漫才ブーム初期の頃はともかくも、B&B全盛当時の洋七氏は大嫌いであった。有名になり大金を得て自我が肥大し、高慢な物言いが目立ったことを覚えていたので、この男には最近まで嫌悪感があった。ある種、日本人が陥ったバブル的成金趣味の権化という形に洋七氏が見えていたからである。しかし、振り返ってみれば、この時期の日本人は、芸能人に限らず、押しなべてにわか成金や利殖行為に溺れていたように思う。洋七氏に限らず、事業家や一般人でさえ、こういう雰囲気の人間は多く輩出していた。

 だが、島田洋七氏は第一次漫才ブームが去り、人気の凋落を迎えると、滝つぼに落ちる木の葉のように、その存在は芸能界から掻き消されていった。しかし、これほど栄枯盛衰の激しい男もいないと私は思っていた。島田氏のことを調べたわけでもないので、軽々しくは言えないが、彼は生き馬の目を抜く弱肉強食の芸能界でも、かなり壮絶な没落の地獄を味わっていたはずである。何度もテレビでの復帰の機会を狙ったと思うが、長い間それを果たせなかったように思う。人気の絶頂にいた者が没落のきわみに落ちて捲土重来を待つと言えば聞こえはいいが、本人にとっては、きっと地獄の辛酸を嘗め尽くしたに違いない。一人の人間に生起する極端な栄華と落魄。まさにこれは、平家物語の冒頭にうたわれる有名なかの一節を思わせる。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。


 島田洋七氏は、彼が味わったこの人生流転の究極の愁嘆場にあって、諸行無常の道理を体得し、もののあはれの境地に悟達したものと見える。そして、人の世で何が一番大切かに、はっきりと気がついたに違いない。そうでなければ「佐賀のがばいばあちゃん」を著すことはできなかっただろう。彼は晩年の小野小町と同次元の心境に達したのかもしれない。それほどこれは文学的に優れた叙述なのである。洋七氏が広島から佐賀のおばあちゃんに預けられたのは昭和三十三年である。つまり、洋七氏が多感な時期に、がばいばあちゃんと生涯忘れられぬ重要な時期を過ごしたのが、かの「昭和三十年代」なのである。「佐賀のがばいばあちゃん」シリーズが四百万部の大ヒットをもたらしたのは、彼が最も訴えたかった昭和三十年代を、佐賀のばあちゃんとのエピソードを通じて、その時代精神を明快に伝えきっているからである。平易な文体、雑多で余計なものをいっさい省いたその簡潔明瞭な文章表現は、読む者を昭和三十年代に深く誘う。

  佐賀のばあちゃんという存在を通じて、洋七氏はあの頃の時代精神のエッセンスをみごとに描ききっている。私はお昼のテレビ番組を見て、「佐賀のがばいばあちゃん」を買いに行って、彼の小学生のころの体験までを読んだ。ばあちゃんとの生活体験の初期を書いた第五章に、「一番好きで、一番嫌いだった運動会」という項目がある。これを読んだとき、私は自分の昭和三十年代の体験を走馬燈のように思い出し、洋七氏のこのエピソードに深く感銘した。それは運動会での話で、洋七氏がテレビでも少し語っていたことだった。私は「佐賀のがばいばあちゃん」を全部読んでいないが、確実に断言できることがある。それは、洋七氏がこのシリーズで語りたい本質が、この第五章のエピソードにすべて収斂されているということである。

 洋七少年が佐賀に転校生として来て、没頭したのが走ることだった。一人暮らしだったおばあちゃんは筋金入りの貧乏であり、その日その日を食べることさえ事欠くような生活をしていた。しかし、そこはたくましい女性で、物を無駄にしないことと、近くに流れている川の上流は生鮮市場だったので、そこから流れてくる捨てられた果物や野菜をうまく拾い集めてそれを食卓に供して食べていた。このおばあちゃんは底抜けに明るい性格の人で、惨めな顔は洋七氏には一度も見せずに、ひたすらプラグマティックに、その日その日をどうして食べていくかに挑んでいたそうである。そういう超貧乏な家だったから、洋七氏はまともなおかずの入った弁当も持っていけなかったという。

 しかし、この当時はそういう子供たちはたくさんいて、けっしてそれが珍しい家庭ではなかったと思うが、それでも洋七氏の語りを読んでいるうちに、そういう家庭でも、がばいばあちゃんの家は、超一級の貧乏な家庭であったことがわかる。洋七氏は友達もでき、そのころ、剣道や柔道を習うことが流行ったそうである。洋七氏は何としても剣道を習いたくなり、婆ちゃんに習わせてくれと頼んだ。金がかかると言うと、うちは貧乏だから駄目だとばあちゃんは言った。そこで、今度は柔道を習いたいと頼んだが、やっぱり貧乏だから駄目だと言われた。そこで、ばあちゃんは彼にこう言って提案した。「明日から走りんしゃい、ただ走るだけなら金はかからん。地面はただだし、道具もいらん」

 洋七氏は、それに対してこのように回想している。「なにか違うような気がしたが、俺もまだ子供だったし、何となく納得して走ることに決めた」と。しかし、この書き方は私はすごいと思う。同年代を過ごした私には、彼が本当に言いたいことがわかりすぎるほどわかる。洋七少年はやるせない悔しさに押しつぶされていたはずである。仲の良い友達との関係で最もつらいのは、遊びや趣味で同じことを共有できない苦しみである。この時、洋七少年は貧乏の境遇を心底呪ったと思う。何か違うような気がしたが何となく納得したというのは、人生の辛酸を舐め尽くした彼が、その経験の中で気が付いたおばあちゃんの人間としての偉大さに最大の敬意を払っているからであろう。過去のおばあちゃんの幻影を、凄惨な色合いの現実で傷つけたくないのである。奈落の底に落ちて培った、彼の人としての成長が語らせたほの温かい嘘である。

 「何となく納得して走ることに決めた」という、さりげなくぼかしているこの奥ゆかしい語りには涙が出る思いである。セピア色の抑制とでも言おうか。たぶん、洋七氏はそれに気付いて欲しくないのだろう。お笑い芸人の矜持があるからである。彼の芸は、軽薄で奥ゆかしさのまるで感じられない瞬発的な話芸が信条であるから。しかし、あのテンポのよい話芸は、おばあちゃん譲りであることは間違いないことだ。

 それから、洋七少年は金のかからないスポーツ、走ることに専念した。かれこれ一年もたった頃、運動会が行われた。自分の話になるが、洋七氏より二年足りない私は、昭和三十五年頃の小学校の運動会の楽しさを鮮明に覚えている。秋田の片田舎の寒村で小学生を過ごした私は運動会に特別な思いを抱いていた。あんな楽しいイベントは何物にも代え難い物だった。走る競技も楽しかったが、仮装行列では大好きな月光仮面がいたり、七色仮面(今の人はちんぷんかんぷんだろう。笑)がいたり、夢のような楽しい行事であった。当時は今と違って、田舎にはスーパーもなく、贅沢な物を食べることはできない時代だった。運動会で重箱に入った料理を食べることが運動以外の第二の楽しみだった。というか、最大の楽しみだったかもしれない。父母、家族と一緒に運動場の周辺にゴザを敷いて、家族で楽しく食事するのである。私は好物の特大おいなりさんを腹一杯食べて、この上ない至福感を味わったものだった。

 考えてみれば、昭和三十年代というのは、終戦後、まだ十年あまりの時期である。日本の衣食住環境が充実していたとは言い難い。食べ物は質素だった。バナナもみかんも贅沢品だった。メロンは死の病床の人が食べるようなイメージがあった。しかし、あの当時は「マクワウリ」というのが農家で栽培されていて、時期には食べることができた。今のメロンより香りがよく、はるかに美味しい物だったような気がする。洋七氏は野生の木の実をよく食べたと言っていたが、私も同様である。桑の実を食べて口のまわりを紫色に染め、豆柿(まめがき)という小さな柿を食べ、野生のグミの実や山ブドウ、アケビなどをおやつ代わりに食べていた。今思えばこれらはほんとうに贅沢品であった。野生の木の実には栽培果物にはない清新な原初の味が残っている。

 洋七氏の運動会の話に戻ろう。当時の普段の家庭食は、おしなべて質素で貧しい物であった。しかし、それだからこそ、正月や運動会などの行事には、家庭は奮発してご馳走をつくって楽しんでいた。明らかに洋七氏のおばあちゃんの家はそれができなかった超貧乏家庭だった。父兄参観や運動会にはおばあちゃんはこなかった。毎日一人でよく走っていた洋七少年は、運動会の競技で一番を勝ち取った。しかし、その高揚感はすぐにしぼんだ。先生が「楽しいお昼休みになりました。みなさん、お父さん、お母さんとお弁当をたべましょう」と言ったのである。洋七少年は一人である。弁当も手持ちの梅干し入りの日の丸弁当である。ショウガも入っていたらしい。

 他の子には、親が「怪我せんかったか?よく頑張ったね、さあ、あんたの好きなウインナをお食べ」とか言っているのを、横目で見ていた洋七少年はいたたまれなくなっていた。洋七氏はこの時のことを、走っていて、家族から声援がないことより、お昼時の方がはるかに辛かったと語っている。当然である。両親も家族も来ない運動会、家族が一緒に運動会を楽しむ最大の瞬間がひとりぼっちで味わえないのである。こんな残酷な風景があるだろうか。この気持ちは私の年代でなくともわかると思う。しかし、この当時はこういう子供は案外いたのである。この当時はこういう境遇の子には格差による優越感などという物はなく、ある種の同情がみんなにあった。なぜなら、一般の人たちもけっして生活は楽ではなかったからである。

 しょんぼりした洋七少年は一人寂しく校舎の教室に歩いていった。そして、校庭の喧噪を泣きたい思いで聞きながら、持参した日の丸弁当を食べようとした時、先生が入ってきてこう言った。
「あのな、弁当を取り替えてくれんか?」
「え?」
「 先生、さっきから腹が痛くなってな。お前の弁当には梅干しとショウガが入っていると?」
「ハイ」
「ああ、助かった。おなかにいいからそれと換えてくれ」
「いいですよ」と洋七少年は先生と弁当を交換した。

 「先生は腹痛か、大変やなあ」などと思いながら弁当箱を開けた彼は仰天した。卵焼きにウィンナー、エビフライと、それまで見たことのないような豪勢な料理が詰められていた。彼は夢中でそれを食った。こんな美味い物はないと思った。先生の腹痛のおかげで萎えていた心も晴れやかになり、午後のリレー競技でも思いっきり頑張れた。そしてまた一年たった。彼は相変わらず競技のヒーローだったが、また恐怖のお昼休みが来た。そしたら、また同じ先生が「ここにいたのか。先生、腹が痛くなってな、お前の梅干しとショウガ入りの弁当と交換してくれ」と言った。承諾して、また先生の豪華な弁当を食べた。また一年がたち、四年生になった時、運動会がやってきた。今度の担任は女の先生に代わっていた。先生は「ここにいたの?先生、お腹が痛くなっちゃって、弁当を換えてくれる?」と言った。洋七少年は、この学校は運動会になると先生が腹痛を起こすのだろうかと真剣に考えたそうである。

 それから、卒業するまで運動会は孤独で、先生が腹を痛くして弁当の交換が行われたそうである。洋七少年がその意味に初めて気が付いたのは小学校の六年生だったそうである。運動会になると先生が腹をこわしたとおばあちゃんに言うと、おばあちゃんは「なんば言いよると。それは先生がわざとしてくれたとよ」と言った。そして、「本当の人間の優しさとは、お前のために弁当を持ってきたと言うたら、お前もばあちゃんも気ぃつかうやろ?だから先生は、お腹が痛いから交換しようって言ったとよ」

 かあちゃんが運動会にこられない洋七少年の境遇を思いやった先生たちが、代々、職員室で、せめて一年に一度美味しい物を彼に食べさせてやろうと計らったことであったのだ。本ではこのエピソードをここまで書いていた。しかし、洋七氏がテレビで言ったことは、本に書かれていないことだった。数年間、毎回、先生が腹を痛めて弁当を交換して欲しいという話をしたとき、おばあちゃんは涙をぽろぽろ流してから、それは先生がわざとしてくれたのだと言ったのである。洋七氏はおばあちゃんが涙したことは敢えて本には書かなかった。実はこの本のメッセージは、すべてがこのおばあちゃんの涙に凝集されている。このエピソードには、先生の計らいにも、それに感涙したおばあちゃんの気持ちにも、昭和三十年代の日本の精神が余すところなく出ているからである。洋七氏は、その最も本質的なおばあちゃんの涙を書かなかった。ここに彼の文学的な深い心境がある。これは私の推測だが、洋七少年がおばあちゃんにその話をした時、おそらく彼はおばあちゃんと二人で泣き明かしたのだと思う。しかしそのことを書くのは自制したのであろう。凄惨な貧乏生活をお笑いで塗りつぶすという覚悟があるからであろう。

 この「佐賀のがばいばあちゃん」から垣間見えるものは、昭和三十年代に立派に残っていた日本人のあるべき姿なのである。けっして懐古趣味で言うのではないが、あの頃は日本人が互いに思いやりを強く持っていて、助け合いの精神が息づいていた。敗戦の精神的焦土からともに這い上がってきた共有感覚もあっただろうし、それが日本民族の原型的な和の心でもあっただろう。あの頃は、昔ながらの人情が社会の隅々まで生きていた時代だった。私の家でも、近所の貧乏で米を買えない家に、米を持っていって、今年は実家で豊作だったからと嘘を付いたことがあるし、母は醤油や砂糖の貸し借りはしょっちゅうしていたように思う。同情して、物や金をやるときは、みんなが極力相手に恥をかかせないように気を使っていた。すべてのことがお互い様だった。みんなが裕福ではなかったから、情が生きていたのである。相互互恵の精神は、蛮族アメリカの洗脳のおかげで今は死語となったが、当時は色濃く残存していた日本人の一大特徴だった。本来の日本人は有徳なのである。

 しかし、あの時代から四十数年の歳月が流れ、日本社会は小泉純一郎のメンタリティが象徴する本格的なアメリカ型格差社会が到来した。日本人の幸福感なんぞ、とっくに掻き消されているのだ。他者への物質的優位性だけで己の幸福度をはかる今の時代はなんと貧相であろうか。我々が憧れていた豊かなアメリカ型生活は、実際は弱肉強食の荒廃した地獄の生活空間であったのだ。もういい加減に目覚める時ではないのか。

参照図書 島田洋七著「佐賀のがばいばあちゃん」(徳間文庫)


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コメント

こんなうそ話しに

投稿: | 2009年12月 4日 (金) 13時39分

ワタシは昭和50年に生まれ、何不自由なく育てられたほうです。食べ物も困ったことないですし、物も必要な時にいつも与えられてました。
大人になった今は、豊かになること=物質に恵まれること…周りを着飾ったり、ほしい物を手に入れる為に働くのが当然という考えでした。
島田洋七さんの『がばいばちゃん』の話に出会ってからは、ちょっとした革命でした。人間のいとおしさや人間の美しさに感動しました。今まで見ていた現代の世界が取り繕ったニセモノに思えて仕方ありません。
素敵な人間の本質を知ることができて良かったです。

投稿: ゆか | 2007年5月11日 (金) 21時02分

島田洋七氏の感動的な話読みました。
僕は島田洋七のことは全く知りません、今回の貴
方のお話ではじめて知りました。
昔は隣近所の助け合いの心がありました。終戦
時、狭い我が家には米軍の空襲で焼け出された
三家族、計四家族が同居した時期がありました。
いまの日本人は、助け合いの心をわすれ、貧しい
人をさげすんでいる。

>我々が憧れていた豊かなアメリカ型生活は、実
際は弱肉強食の荒廃した地獄の生活空間であった
のだ。もういい加減に目覚める時ではないのか。

全く同感です、目を覚まして欲しいと切に願う。でも
もう駄目かも?いまの日本は、あまりにもアメリカナ
イズされて、日本人が伝統的にもっていた助け合い
の心は失われました。助け合いの心が人々に共有
されていれば、アメリカのように個人が銃をもつ必要
もなければ、銃で自らの身を守っていないと不安に
なる必要もない。

過剰な弱肉強食の社会では、いつかは誰かに蹴落
とされるのではないかという不安と焦燥に駆られる。
他人を信じられない社会だから、自分のことは自分で
守る、これが彼等の自己責任ですかね?

投稿: いかりや爆 | 2007年4月24日 (火) 12時12分

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『佐賀のがばいばあちゃん』著書の作家、島田洋七さん 島田 洋七(しまだ ようひち、1950年2月10日 - ) 広島県広島市東区牛田出身の漫才師 タレント、作家。 漫才コンビB&Bのひとり。 1980年代、漫才ブームのパイオニア。... [続きを読む]

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