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2007年4月29日 (日)

排外的冤罪論と国策捜査論の決定的差異

  「植草事件の真相掲示板」にこんな書き込みがあった。
 
> 何故弁護士達が主張もしないのに勝手に政治的策略、国策捜査説を唱えているだろう・・応援する人たちの中でも疑問が湧いてこないですか?(たいまい氏;wrote)

 前の弁護士さんたちも、今担当しておられる弁護士さんたちも、それぞれのこの事件に対する真の思惑は別として、公判戦略的に植草事件が政治的背景を持つ事件だという弁護方針はまったく採っていない。なぜなら、通常、痴漢事件を裁判することは、「やったのかやらないのか」、あるいは「やったのか、それとも冤罪なのか」という詮議を対象としているからである。その弁護方針を、弁護思想的に推察すれば、それは人権的観点からである。

 つまり、裁判で問いかける本質は、痴漢という犯罪が、被告によって生起したのか、しないのかの二者のうち、どちらが事実かを明らかにするという方向性を見極めることにある。そういう現実的な進行を呈しているのに、政治的背景などという憶測だらけで、証明もできないような論法を担ぎ出す必要などはなく、ましてや国策捜査論などは、まったく論外であり、そういう思考はかえってことを複雑にするだけで意味はない。このように考えているのは、もしかしたらアンチ派に限らず、擁護派にも多くいるかもしれない。彼らの言い分は、現実に進行する裁判で重要なものは、被害者、目撃者、逮捕権を行使した者、それを見ていた者たちの傍証、そして被告人の証言だけであるということだろう。

 その見かたはけっして間違っていない。ただし、そう断言するには前提条件がある。その条件とは、その件が通常の痴漢事件の範囲であることが明らかな場合である。つまり、被告人に何ら政治的背景が存在しない場合、あるいは被告人が仕事上や人間関係で、重大なトラブルを抱えていないことがはっきりしている場合である。ところがこの範囲にない痴漢事件、たとえば被告が企業人として、中心勢力が唱える企業ガバナンスに対して、真っ向から異を唱えていたり、企業中枢の秘密を握っていた場合などは、罠に落とされてしまう可能性があると見るべきである。こういう濃密な政治的背景を抱えている被告の場合は、冤罪の可能性を疑うべきであろう。

 しかし、冤罪とは、狭義の意味で言うなら、被害者や警察側による誤認を、警察自身が組織防衛や面子にこだわって、それを訂正せずに強引に犯人に仕立ててしまうことである。いわゆる警察による一種の組織犯罪である。私はこの範囲までは「冤罪」という言葉で表現してもいいような気がする。しかし、数としては希少であるが、この世には同じ濡れ衣でも、政治思想的、政治犯罪的背景が絡んでいて、ある個人を覚えのない罪に陥れる事象が発生する。その背景に時の権力者が複数絡んでいて、被告が時の政権のマクロ的政策に真っ向から反対していた場合、国策捜査というものが発生する確率は非常に高い。特に従米的傾向の政権が続き、アメリカに付和雷同の面持ちを見せながらも、心では地団太を踏んで我慢をし、面従腹背、臥薪嘗胆で時を待つ覚悟があった時代はまだ国策捜査なるものは少なかったという気もする。しかし、時は移ろい、小泉政権という完全売国政権に国民が国家の執権を任せてしまった時から、その売国を見抜いて世間に警告を発した有能な愛国者は国策捜査の犠牲になってしまった。政治家では西村眞悟氏や、政府支出の暗黒部分に踏み込んで殺された石井紘基氏がいる。エコノミストでは現在公判中の植草一秀氏が明らかに国策捜査のターゲットになっている。なぜ彼らがターゲットになったかについては充分な論証は可能である。その背景を論証することによって、彼らが国策捜査の毒牙に掛けられる蓋然性は明確になってくる。 

 りそなインサイダー疑獄を追求している植草氏が殺されなかったのは、たしかに僥倖ではあるが、その理由はいろいろな方々がネットなどで国策捜査疑惑を提示しているからである。この疑獄の性格を考えてみると、植草氏の生命がかろうじて続いているのは、国民の目を国策逮捕に向けて、小泉政権の従米売国の本質を悟らせたくないためである。もし、有志の皆さんが植草氏の国策捜査疑惑を口にしなかったら、彼は昨年9月の痴漢でっちあげに嵌められるどころか、とっくに命を失っていたものと私は確信している。もし、擁護派で国策捜査論の無用論を唱えるものがいるとすれば、それは愚かである。なぜなら、植草氏が生きていてこそ、彼の無罪も真相も暴かれる可能性があるからである。それを狭量な通常冤罪の範囲内に留め、我こそは正攻法なりと国策捜査論を無視し、排外的冤罪論だけを喚いているとすれば、それは植草氏の安全上からも有害であり、稚拙である。冤罪論はもちろん公判戦略上で必要なのであるが、今回の場合、念頭には国策捜査論の可能性を置いてやるべきであろう。

 何度も言うが、今回の植草事件(特に品川手鏡事件と京急痴漢事件)は国策捜査による濡れ衣事件である。この背景を言い続けることによってしか、植草氏の生命の存続はないのだ。そういう認識を持たない擁護派は、氏にとっても、日本にとっても、有害無益な存在である。排外的通常冤罪論だけでは植草氏の命はとっくに消えているものと確信する。何回か言及していることだが、植草事件を真摯に扱う場合は、98年の東海道線車両内のこと、2004年の品川手鏡事件、そして2006年の京急電車内痴漢事件という三度の件をきちんと挙げて論ずることが重要であるし、そうしなければ擁護論としても誠意に欠けると言われても仕方がない。特に、98年の件をスルーして、品川事件と京急事件の冤罪論に固執することは、擁護派としては不誠実なことである。品川事件のみの冤罪を唱えても、メディアによく登場する人物(たとえば宮崎哲弥氏や橋下徹弁護士)などが、8年の期間に三度の性犯罪疑惑を起こしたことを指摘して、そこに見られる三度の連続性こそが病的性癖だと論陣を張れば、通常冤罪論者には相当に分が悪いのは明らかだ。

 病的性癖が強靭に居座っているからこそ、彼は懲りずに何度も同じ類のことをしでかしてしまうのだと言われれば、通常冤罪論者にはまずもって、それを論破することは不可能である。この病的性癖論を根本的に覆す唯一の論証こそ、国策捜査論なのである。従って、98年の件をスルーするということは己の論拠が脆弱であることを自ら証明していることになるのだ。だからこそ、擁護派は98年の一件からは逃げないで向かい合って欲しい。そして、病的性癖論を冤罪論証で覆すことがどうしても無理だと自覚したら、今度は目を国策捜査に向けて欲しいと思うのである。もっとも、そういう客観性と謙虚さがないから、排外的冤罪論者は痛いのである。

 つまり、排外的冤罪論は今回の場合、植草氏の生命を危険に陥れる有害な狭隘性を持ち、国策捜査論は「彼ら」の殺意を食い止める効果を持っているということを私は強く言っておきたい。

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コメント

とーりすがり様

 テレ朝でも、朝11時台のニュース番組でスポ
ーツ報知のその記事を紹介していました。

 黒川さんはどういう意図なんでしょうね。

投稿: 高橋博彦(管理人) | 2007年4月30日 (月) 12時56分

この記事です。

植草元教授に黒川氏が接触へ…「新党組織案」マル秘文書入手 [スポーツ報知]
http://ameblo.jp/wayakucha/entry-10032151924.html


http://www.asyura2.com/07/senkyo34/msg/116.html
http://news.livedoor.com/article/detail/3140859/

投稿: とーりすがり | 2007年4月30日 (月) 12時16分

本日発売のスポーツ紙(紙名忘れた)に植草教授の記事があります。
内容は「黒川紀章が植草教授を共生新党加入をラブコール」です。

投稿: とーりすがり | 2007年4月30日 (月) 12時10分

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