西村眞悟氏、首相待望論(10)
文藝評論家の山崎行太郎氏が毒蛇山荘の読者に強く推薦している月刊誌がある。それは「月刊日本」だ。この雑誌は田舎の書店などではまずお目にかかることがないような発行部数のようだが、数冊読んでみて私はその内容の迫真性、文章の誠実さ、何物をも畏れぬ著者たちの凛然とした佇まいに感銘を受けた。この雑誌の編集方針は現代では数少ないサムライそのものだ。言い方を換えるなら、こんな面白い雑誌は滅多にないということだ。このような本物の雑誌に寄稿できる人たちはやりがいがあるだろう。
「月刊日本」2007年1月号に、西村眞悟氏が「嗚呼、硫黄島」という題名で、硫黄島の激戦の内容と、そこで戦った先人たちの死に様を書いていた。私はこれを読んで、久々に感動で胸が熱くなった。クリント・イーストウッドが造った映画「硫黄島からの手紙」が当時話題になっていたこともあったが、西村氏はこの映画の着眼点とはまったく異なる視点で硫黄島の攻防戦の実相を捉えている。それは日本人の視点である。その中に感動的なエピソードが二つ紹介されていた。その一つをここに紹介する。硫黄島の真実が書かれた「常に諸氏の先頭にあり」(留守晴夫著 慧文社)という本の中で、西村氏が涙せずにはいられなかったのは次の箇所である。
《 昭和二〇年二月十九日、アメリカ海兵隊三個師団、六万一千人が硫黄島に上陸した。待ち構えて迎撃する日本軍は二万一千人。まる三日間にわたる艦砲射撃と航空機による銃爆撃のあとの上陸であった。この艦砲射撃を見つめていたアメリカ兵は、爆弾が舞い上げた灰で島が見えなくなったので、島は粉々に吹き飛んでしまうのではないかと疑った。そして、ある兵は「俺達用の日本兵は残っているのかな」と戦友に尋ねた。
しかし、二万一千人の日本兵は、栗林中将の指揮の下、一糸乱れず島の地下深く潜ってこの艦砲射撃に耐えていたのである。アメリカ軍は五日で島は陥落すると予想したが、戦闘は三月二十六日まで続く。日本軍死傷者一万一千人、アメリカ軍死傷二万八千人。星条旗を摺鉢山に掲げた六人のうち三名が戦死した。戦闘の最終段階の状況を、敵将スミスは次のように書いている。「明らかに栗林が指揮を取っていた。彼の個性は、その強靭な抵抗にはっきりと示されていた。・・・・硫黄島では弾劾から飛び降りて自殺する者は一人もいなかった。・・・栗林はアメリカ兵を一人残らず道連れにするつもりだった。」
海軍司令部付仕官の松本巌は、暗闇の中を連帯の本部壕を目指して歩いているとき、中隊壕に入った。すると、腕や足をなくした百五十名ほどの兵隊がうずくまっていた。ある兵隊が、「水を呑ませてくれ、もう四日も何も口に入れていない」と言った。水筒を渡そうとすると、入り口の近くにいた下士官が叫んだ。
「海軍さん、やめろ」
「あと二時間もすれば、俺達は皆、火炎放射で焼き殺されてしまうんだ。死にかかった者に飲ます水があったら、その水をあんたが飲んで戦ってくれ。あんたは手も足もまだついている。我々のかたきをとってくれ。」
そう訴える下士官も、左足首を吹き飛ばされていた。・・・松本は胸が張り裂けそうになったが、「手も足もついている俺には、これからでも水を探すことができるのだから」と言って水筒を与えて後ろ髪を引かれる思いで壕外に飛び出して・・・・・・連帯本部に着いた。程なくして、中隊壕の百五十数名が火炎放射器で全滅させられたという報告が届いた。 》
西村氏はこの後に述懐している。我々はこのような、硫黄島で戦い抜いた将兵たちのことを忘れてはならない、特に政治家、さらに、内閣総理大臣以下は、片時も無名戦士のことを忘れてはならないと。また、西村氏を先鋭的な右翼政治家だと思い込んでいる一般の人には意外であろうが、聖書をよく読みこなしている西村氏は、イスラエルの政治家と兵士の例を引き合いに出して、我々日本人もマサダを忘れてはならないと語っている。
《マサダはイスラエルの東部砂漠のひし形の台地上にある古代遺跡の名。ヘブライ語で「要塞(ようさい)」の意味。エルサレムの南東約48kmにある。66~73年にローマ帝国の支配に抵抗したユダヤ反乱軍(熱心党)がたてこもった要塞宮殿遺跡である。要塞化された2つの宮殿は、前37~前31年ヘロデ大王によってたてられた。前4年のヘロデ大王の死後、ローマ軍が駐留し、ユダヤ反乱軍が奪回する後66年までつづいた。70年、エルサレムがローマ軍に占拠されたとき、女性や子供をふくむ最後までのこった反乱軍の約1000人が籠城(ろうじょう)した。指導者ベン・ヤイルのもと、ローマ軍の包囲に2年間余り抵抗したが、73年、ついに陥落、籠城した人々のほとんどは自殺した。》(ENCARTA98より)
戦争時に大規模な玉砕や特攻死を遂げたのは歴史上、日本人だけではない。ドイツ人も特攻をした。そして、このマサダの玉砕は約二千年前に起きていた。この殉国行為を人数の違いで分けてはならないが、それであっても、我々の先人たちはこの何十倍、何百倍の規模で大玉砕を遂げている。イスラエルの人々は、二千年も前の千人(960人)の玉砕を、今日でも民族の最大の誇りとして胸に刻みつけ、子々孫々語り継ぐことを強く決意している。しかし、我々日本人はどうであろうか。語り継ぐどころか、国家を挙げてそのことを忌避しているようなところがある。真の歴史を忘れ、捻じ曲げて平然としてる。だから国民の魂が腐っていく。こんなただれた民族がどこにあるというのか?西村氏は言う。イスラエルの将兵と政治家の合言葉は、「マサダは二度と落ちない」だ。ならば、硫黄島は、このイスラエルにおけるマサダの丘と同様の精神性を称えた聖地である。よって、硫黄島で戦った戦士と共にあるという意識の有無は、時の我が国政治の格調を左右して国家運営に緊張感を与え、実に、現在と未来の我が国の運命に重大な影響を与える要素であると。
どうだろうか。西村眞悟というお人が持つこの政治感覚。これこそ、今の日本人、そしてほとんどの為政者に欠落している重要な民族意識というべきではないのか。西村氏がよく多用する「歴史の背骨」という表現はまさにこれをさしているのだ。私が西村眞悟氏を日本国総理大臣に最も適していると考えるのは、彼のこの心情が本物だからだ。西村氏が国家を運営するトップになれば、同じ国家に住む同胞のことを第一義に考えて、真摯に提言する最も偉大なエコノミストである植草一秀氏のような人が、現在のようなむごい不名誉に落とされることは決してなかっただろう。
西村氏はこの同じ「月刊日本」で、硫黄島におけるもう一つの重要なエピソードを紹介している。
昭和20年3月26日、硫黄島において日本軍最後の反撃が行なわれた。栗林忠道中将、市丸利之助少将以下数百名の残存部隊がアメリカ軍に突撃、玉砕した。この時、アメリカ軍に検死されることを見越していた市丸利之助少将は、懐に一通の手紙を忍ばせていた。その手紙の題名は「ルーズベルトに与フル書」であった。この手紙で市丸少将は、大東亜戦争を戦った大義を説き、ヒトラーを倒すためにスターリンと握手したアメリカの節操のなさを非難している。西村氏は市丸少将が玉砕直前にしたためたこの「ルーズベルトに与フル書」全文を載せている。ここではそれを書かないが、日本の行く末を考える者なら、涙なくしては読めない当時の日本人の真情を書いている。私はこれを思想上の教科書にしたいと思っている。今の政治家の体たらくを見ていると、この日本には、一世紀にも満たない短い過去に、このような偉大な日本人がいたのかとつくづく驚かされる。皆さんも正しい歴史を知るために、是非お読みいただきたいと心より願う。この短い文面には東京裁判史観を根底から覆す力が込められていることを請け合う。玉砕寸前に、アメリカ大統領にこのような文を書く心構えを偲んでもらいたいと思う。これはてらいや、他のいい加減な感情ではけっして書けないのだ。だからこそ、この書は動かしがたい歴史の一つの真実である。死を決意して書くものの凄まじい迫真性と、人間存在のありのままがそのまま感じられる嘘偽りのない文章である。存在論的な人間のあり方から思いっきり乖離した戦後教育で育った我々が小賢しい解釈を施す余地はまったくない。涙で日本の真情を受け止めるしかないのだ。(生きているうちに読んでみてね!)
二千年前、ローマ総督ピラトは、イエスの罪を信じられなくて、ついにユダヤ人群集に言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」すると民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子供達の上にかかってもいい。」こうしてイエスは十字架にかけられた。(新約 マタイ 27章 24~27節参照)
そして、ユダヤ人は西暦73年のマサダのできごとをけっして忘れない。いい意味でも、悪い意味でも、ユダヤの人々は自分たちの先祖が取った行動についてはしっかりと記憶している。なのに、なぜ日本人はわずか六十数年前のできごとから顔を背けているのだろうか。先人たちの真実の行動をしっかりと心に刻み付けないから、日本人は方向性と人間らしさを失うのだ。「美しい国へ」などと言いながら、教育バウチャー制度を採用するバカ宰相にだまされる。教育バウチャー制度ってのは、新自由主義の大御所であるミルトン・フリードマンが考えたものだ。この意味がおわかりだろうか。安倍晋三首相は、国家の財産である子供たちの育成に、アメリカの言うがままに市場原理主義を投入し、自身が唱える愛国の理念とはまったくかけ離れた人間性喪失の制度を取り入れようとしているからだ。我々は正常な意識を喪失しているのだ。その大きな理由は先人たちの殉国を忘却しているからだ。
七年前、夜盗の類と何ら変わることのない売国奴・小泉純一郎を宰相にし、在野から出た売国エコノミスト竹中平蔵を重要なポストに付け、彼らの国家破壊作業に気が付かず、漫然とやるがままに任せてしまった国民のだらしなさは目に余る。そのおかげで日本は荒れ果てた不毛の荒野になってしまった。そして日本人独特の精神の沃野さえも忘却してしまった。硫黄島でマサダ以上の果敢な殉国戦を遂げた先人たちが、小泉に続く史上最大の悪政を見ていたらなんと思うだろうか。
西村眞悟氏が硫黄島の本当の姿を知らせてくれた意義は大きい。このような実相は大手マスコミは絶対に取り上げない。彼らはアメリカの走狗に成り下がっているからだ。自分たちが生まれた祖国・日本がこれ以上奸智に長けた外国連中に蹂躙されたくないと思ったら、西村眞悟氏を日本国の宰相にするべきだ。あ、そうそう、大事なことを言い忘れていた。西村氏が寄稿したこの「嗚呼、硫黄島」の副題は「我が国の未来を拓くため、民族の叙事詩を回復せよ!」である。気が付かないだろうか?これこそが真の「美しい国家へ」の道標であることを!!!
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今回も長講釈ですみません。内容は前回の投稿と対になるものです。
まず朝日新聞の4月29日の社説を引用してみます。
「首相が謝罪すべきは元慰安婦に対してではないのか。首相はかつて河野談話に反発し、被害者に配慮ある発言をしてきたとは言い難い。国内で批判されても意に介さないのに、米国で紛糾すると直ちに謝罪する。何としたことか。
問題が大きくなったきっかけは『当初定義されていた強制性を裏付ける証拠がなかった』という首相の発言だった。日本としての責任を逃れようとしているものと、海外では受け止められた。
米議会では、慰安婦問題で日本に公式謝罪を求める決議をする動きがあり、これに弾みを与えた。メディアも『拉致で国際的支援を求めるならば、日本の犯した罪を率直に認めるべきだ』(ワシントン・ポスト紙)と厳しかった。米政府内にも首相の見識を問う声が出た。
慰安婦は、単なる歴史的事実の問題ではない。国際社会では、女性の尊厳をめぐる人権問題であり、日本がその過去にどう向き合うかという現代の課題と考えられているのである。 」
従軍慰安婦問題に対する朝日新聞の報道姿勢はここでは措いて、この記事を予備知識を持たずに読んだ人は正しいことが書かれていると思うのではないでしょうか。
人権問題を軽視する政府を批判する。記事を読む限りでは朝日新聞の主張は正しいように感じます。しかしこの種の論調を正しいと思うことには重大な問題が潜んでいると思います。その理由は、対象とされる問題がたとえ虚偽の事象に基づくものであっても、人権という概念を掲げてその問題の正当性を主張すれば、その事象が事実であるかのような印象を与えることができるからです。
これを従軍慰安婦問題に当てはめて説明すれば、軍や国家機関による強制連行を示す資料は存在しなかったという検証結果が出ていても、女性の人権を声高に主張することによって日本が悪いのだという印象を与え事実はどうであるかを無視し、その結果、嘘を事実と言いくるめることができるということです。実際、上記に引用した社説の「慰安婦は、単なる歴史的事実の問題ではない。国際社会では、女性の尊厳をめぐる人権問題であり、日本がその過去にどう向き合うかという現代の課題と考えられているのである」というくだりには人権の前では事実は軽視してもよいという意味合いが感じられます。
ここに東京裁判史観を乗り越える上での最後の関門となる問題があると思います。当時の世界情勢を無視して、歴史の全体の事象から、その一面を切り取って現代の人権概念に照らし合わせて批判すれば、戦前の歴史にいくらでも否定的な印象を与えることができるからです。そして日本の周辺には、中共と南北朝鮮という反日を国是とする上に、自国の利益のためには相手の名誉を汚す嘘でも平気で世界中に吹聴する国があります。また日本には彼らの追従をするマスコミが数多くあるのは周知の通りです。
さらに、人権は西洋思想から生まれた概念ですから、人権概念を普遍的と信じることは、その概念を生み出した西洋の政治思想とその思想によって構築された政治制度も普遍的と信じていることになります。それでは東京裁判史観やアメリカを信じなくなったとしても、日本人の意識は、西洋文明中心の価値観、西洋の普遍主義に囚われたままであり続けることになります。
西洋文明のあり方だけを普遍的と捉えている限り、今回の米下院の慰安婦決議案問題のように、アメリカが中共、朝鮮の反日プロパガンダを採り上げて、前述の人権概念を前面に出して嘘を事実と言いくるめるやり方で日本を非難してきた場合は、それを反論することは困難です。
アメリカは、日本人が東京裁判の洗脳からだいぶ解けつつある現状で、これからも日本を永久に敗戦国としておくために、今回の慰安婦決議案問題に見られた手口を使用してくる可能性は十分にあります。
何より物事の判断基準を他者の価値観に委ねていては、主体性は生まれてこないでしょう。
日本人は自分達の視点で西洋文明を批判する局面に迫られているのではないでしょうか。
これから西洋近代思想について私なりに検証してみます。
近代政治思想の基礎を確立した思想家達の宗教に関する記述、またはそれに関連する記述を引用します。
「国家と宗教の本当のすがたは、国家の原理と宗教の原理が統一されるところにあって、プロテスタントの国家ではそうなっています。
抽象化していうと、プロテスタントの精神の原理は、主観的精神の内面の自由にあって、人間の精神は自由であること、といいあらわされる。いかなる権威も存在しないのが当然だと考えるとき、人間の精神は自由たりうる、ということです。精神は人間の心のなかに住むべきもので、そこで意志と意識をもって生きていかねばならない。それは国家の原理でもあって、人間が自由に生活し、行動すべく、人間の自由を実現したものが、すなわち国家なのです。
だから、宗教は国家と同じものを究極の原理とし、二つは同じ源泉から流れでたものです。プロテスタントの宗教には平信徒なるものが存在せず、すべての人が、自分のうちに聖霊が宿る、という信念をよりどころとしている。この原理が、プロテスタント教会と国家とをこの上なく内面的につなぐものです。プロテスタント国家は世俗の国家ですが、現実に自由が存在する、という世俗の原理は、同時に、プロテスタント宗教の原理でもあるのです。
こうした統一の存在することは重要なことです。ラテン民族のカトリック国家は、フランスも、スペインも、ポルトガルも、ナポリも、ピエモンテも、アイルランドも、すべてが三十年来、革命を経験しています。カトリック国家における分裂は、いまに至るも解消されず、革命は終了したが、対立の根は残っています。それにたいして、プロテスタント国家では、内奥の原理たる宗教的原理と現実世界の原理とが同一であるから、法律、制度、習慣がまったく宗教的であるか、宗教と本質的にちがわないものであるかのいずれかで、その点では、カトリック国家よりもすぐれた、真に神々しい体制といえます。」(G.W.F.ヘーゲル『法哲学講義』作品社 3.3,A)
「しかし、コモンウェルスについて考えたばあいに、それは単一の人格であるから、やはり神にたいしても、単一の崇拝を示すべきである。それはコモンウェルスが私的人間に、公共的に崇拝するよう命ずるときに示される。それが公共的な崇拝であり、その特徴は『統一的』な点にある。すなわち各人各様の崇拝を公共的なそれということはできない。したがって、私的人間のさまざまな宗教から生じる多くの種類の崇拝が許されるところには、公共的な崇拝は存在せず、また、そのようなコモンウェルスはまったく宗教を持ってはいないのである。」(トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』 2.31)
「人々がその意志を持とうと持つまいと、彼らはつねに神の権力に服従しなければならない。神の存在、あるいは摂理を否定することによって、人々はみずからの安楽を振りはらうことはできても、軛をはずすことはできない。しかし、人間だけではなく、動物にも植物にも、生命のないものにまで及んでいるこの神の力を、王国の名で呼ぶのは、たんにことばの比喩的用法にすぎない。なぜなら、みずからのことばによって、また、服従する者には報酬を約束し、服従しない者には処罰をもって威嚇することによって、臣民を統治する者のみが、支配していると正当にいうことができるからである。
したがって、神の王国における臣民は、生命のない物体でも、非理性的な生物でもありえない。なぜなら、これらのものはいかなる戒律をも神のものとして理解しないからである。また、無神論者、あるいは人類の諸行為にたいする神の配慮を信じない人々も、臣民ではありえない。なぜなら、彼らはいかなることばをも神のものとして認めず、神の報酬を望まず、神の威嚇を恐れることもないからである。したがって、世界を支配し、また人類に戒律を与え、報酬と処罰をたまわった神の存在を信ずる者だけが、神の臣民であり、他はすべて敵として解されるべきである。」(ホッブズ『リヴァイアサン』 2.31)
「それゆえ、すべてを見、そして処理される神は、人間がその思うところを行なう『自由』は神の意志に従って行なう『必然性』を伴っており、それ以上でも以下でもないことを見ておられる。なぜかといえば、人間は神が命じたことでもなく、また神がその行為の本人でもないことを数多く行っているかのようであるが、じつは神の意志から生ずる欲求以外には、何ものにたいしても情念も欲求も持つことはできない。もし神の意志が、人間の意志の『必然性』を、したがって、人間の意志にもとづくすべてのことの『必然性』を、保証してくれなければ、人間の『自由』は、神の全能と『自由』に矛盾し、その障害となるであろう。」(ホッブズ『リヴァイアサン』 2.21)
「政治的権力を正しく理解し、それが拠ってきたところをたずねるためには、すべての人が自然の姿でどのような状態にあるかを考察しなければならない。すなわちそれは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である。
それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人より多くもつ者は一人もいない。なぜなら、同じ種、同じ等級の被造物は、分けへだてなく生をうけ、自然の恵みをひとしく享受し、同じ能力を行使するのだから、すべての被造物の主であり支配者である神がその意志を判然と表明して、だれかを他の者の上に置き、明快な命令によって疑いえない支配権と主権を与えるのでないかぎり、すべての者が相互に平等であって、従属や服従はありえないということは何よりも明瞭だからである。」(ジョン・ロック『統治論』 第2章)
「この社会契約のあらゆる条項は、よく理解されるならば、ただ一つの条項に帰着する。すなわち、各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡すということである。それはなぜかというと、まず第一に各人はいっさいを譲り渡すので、万人にとって条件は平等となるからであり、条件が万人に平等であるなら、だれも他人の条件の負担を重くすることに関心をいだかないからである。
さらにこの譲渡が無条件に行なわれるならば、結合はこのうえもなく完全に行なわれ、構成員は要求すべきものをもたない。なぜなら、もし数人の個人に多少の権利が保留されるとすれば、この個人と公衆のあいだを裁きうる共通の上位者はいないだろうから、各人はある点について自分自身の判定者なので、やがてはあらゆる点について、判定者たることを主張するようになるからである。そうすれば、やはり自然状態は存続していくだろうし、結合は必然的に専制的になるか、無力になるか、いずれかであろう。」(ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』 1.6)
「神がそれによって人間を支配し、また神の法を破る者を処罰する自然の権利は、神が人間を創造したことに起因し、彼らに与えた恩恵にたいする報恩として人間に服従を要求するといったものではなく、神の『逆らいえぬ力』に起因する。
……すべての人は本来すべてのものにたいして権利を有していたのであるから、彼らはそれぞれ他のすべての人間を支配する権利を有していた。しかし、この権利は力によっては達成されえなかったので、これを放棄し、彼らを支配し防衛する〔主権者としての権限を持つ〕人たちを、共通の同意により樹立することが、各人の安全のためであった。これにたいして、もしも逆らいえぬ力を持つ人があったならば、彼がみずからの判断に従って、その力によって支配し、自分自身と彼らをともに防衛しないいわれはなかったのである。
それゆえ、逆らいえぬ力を持つ者には、万人を支配することがその力の優越性によって自然に備わっている。したがって人間を支配する王国、また人々を意のままに苦しめうる権利は、この力の当然の結果として、創造者あるいは恵み深き者としてではなく、全能者としての万能の神に本来属している。また処罰ということばは、罪に対する苦しめと解されるから、それは本来、罪に対してのみ課されるはずのものであるが、しかし、苦しめうる権利は必ずしも人間の罪からではなく、神の力にも由来するのである。」(トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』 2.31)
自然状態-wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%8A%B6%E6%85%8B
上記に引用したように、近代政治制度の根底にはキリスト教プロテスタントの神学観があります。イギリスの権利章典には信仰に関する規定があります。
「また、カトリック教の君主またはカトリック教徒を配偶者とする国王もしくは女王によって統治されることは、この新教国の安全と福祉に反するということが、経験によって明らかにされたので、前記の僧俗の貴族および庶民は、さらにつぎのように定められるよう懇請する。すなわち、教皇庁またはローマ教会と融和し、もしくは霊的交渉を有する者、カトリック教の信仰を表明する者、またはカトリック教徒を配偶者とする者は、一人残らず全部、わが王国およびアイルランド、ならびにそれに属する諸領地、またはそのいかなる部分に対しても、王冠および政権を継承し、占有し、享受すること、または王としての権力、権威、裁判権を所有し、使用し、行使すること、から排除され、かつ永遠にその能力なきものとされること。このような場合には、どの場合でもいつも、これら諸王国の人民は、これによって忠誠の義務を免除されること。前記のように〔教皇庁と〕融和し、もしくは霊的交渉を有し、〔カトリック教を〕信仰を表明し、または〔カトリック教徒を〕配偶者とする者が、〔すでに〕死亡している場合には、前記の王冠および政権は、本来それを承継し享受すべき人で新教徒の者が、世々継承し享受すべきものとすること、以上である。」(権利章典 9条)
「(今後、いつであっても、わが国の王位に登り、またこれを継承する)わが王国の国王または女王は、すべて――その即位ののち最初に開かれる国会の会合の初日に、貴族院の玉座に坐し、そこに集合した貴族および庶民の面前において、または戴冠式のさいに、国王または女王に戴冠式の宣誓をなさしめる人の面前において――(その最初の)宣誓をなすときに、チャールズ二世治世第一三年に作られた『ローマ旧教徒から国会の両院に議席をもつ能力を奪うことにより、玉体と政冶をさらに効果的に保存するための法律』という表題の法律に記された宣言を行い、これに署名し、かつ聞き取れるように〔口頭で〕くり返さねばならない。しかし、もしこの国王または女王がわが国の王冠を継承する際に十二歳未満である場合には、このような国王または女王は、戴冠式または最初の国会の会合の初日になさるべき前記の宣言を、十二歳に達したのち、最初のこのような機会において前述のようにして行い、これに署名し、かつ聞き取れるように〔口頭で〕くり返さねばならない。」(権利章典 10条)
権利章典(全文)
http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/docs/billofr.htm
日本人が近代民主主義に対して抱いている一番の誤解は、それが無条件あるいは個人の資質如何で成立すると考えていることでしょう。西洋の近代民主主義には構造的制約があり、その人権はキリスト教プロテスタント(のカルヴァン主義)的信仰の下で保障されるものです。
ピューリタン-wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%B3
自由、平等、個の確立といった西洋近代思想の外面的な謳い文句だけを見て、近代政治思想の原点にある、共同体の秩序を維持するための(プロテスタントの)神学的前提に気付かずに、人権の名の下に自分の欲望だけを追い求めることを正当化すれば、共同体の秩序は荒廃して、その結果、次第に文化の前提となる、民族が古代から保持してきた世界観が喪失してしまいます。そうなればその国は独自に国を運営する価値基準の根拠を喪失し、そのため、社会を形成する規範として、イギリスの国家モデルとそれを基盤として作られた経済学を宗教とすることでしか国が成り立たなくなるのです。それは結局、国全体が英米に依存しなければならなくなるということです。程度の違いはあるでしょうが、これは日本だけの問題ではないでしょう。現にカール・マルクスの経済理論は社会主義国家の政治を支配してきました。
これらのことからもたらされるものは、人間の連帯が崩壊し人間が金銭によって完全に支配される世界です。現在の日本を見れば、それは決して法螺話とは言えないことが分かると思います。経済学に国の命運まで支配された国家がどうなるかは社会主義国家の歴史が物語っています。
西洋の人権とは、普遍的な個の確立という謳い文句の裏で、共同体を分裂させ、民族がそれまで保持してきた世界観を破壊し、結果として英米中心のシステムに服従するしかなくさせる空虚な観念です。
個人に必要なのはその個人が属する民族が古代から受け継いできた世界観と、その世界観を守るための倫理だと私は考えています。
投稿 通行者 | 2007年5月18日 (金) 15時45分