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2007年5月31日 (木)

西村眞悟氏、首相待望論(10)

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 文藝評論家の山崎行太郎氏が毒蛇山荘の読者に強く推薦している月刊誌がある。それは「月刊日本」だ。この雑誌は田舎の書店などではまずお目にかかることがないような発行部数のようだが、数冊読んでみて私はその内容の迫真性、文章の誠実さ、何物をも畏れぬ著者たちの凛然とした佇まいに感銘を受けた。この雑誌の編集方針は現代では数少ないサムライそのものだ。言い方を換えるなら、こんな面白い雑誌は滅多にないということだ。このような本物の雑誌に寄稿できる人たちはやりがいがあるだろう。

 「月刊日本」2007年1月号に、西村眞悟氏が「嗚呼、硫黄島」という題名で、硫黄島の激戦の内容と、そこで戦った先人たちの死に様を書いていた。私はこれを読んで、久々に感動で胸が熱くなった。クリント・イーストウッドが造った映画「硫黄島からの手紙」が当時話題になっていたこともあったが、西村氏はこの映画の着眼点とはまったく異なる視点で硫黄島の攻防戦の実相を捉えている。それは日本人の視点である。その中に感動的なエピソードが二つ紹介されていた。その一つをここに紹介する。硫黄島の真実が書かれた「常に諸氏の先頭にあり」(留守晴夫著 慧文社)という本の中で、西村氏が涙せずにはいられなかったのは次の箇所である。

 《 昭和二〇年二月十九日、アメリカ海兵隊三個師団、六万一千人が硫黄島に上陸した。待ち構えて迎撃する日本軍は二万一千人。まる三日間にわたる艦砲射撃と航空機による銃爆撃のあとの上陸であった。この艦砲射撃を見つめていたアメリカ兵は、爆弾が舞い上げた灰で島が見えなくなったので、島は粉々に吹き飛んでしまうのではないかと疑った。そして、ある兵は「俺達用の日本兵は残っているのかな」と戦友に尋ねた。

 しかし、二万一千人の日本兵は、栗林中将の指揮の下、一糸乱れず島の地下深く潜ってこの艦砲射撃に耐えていたのである。アメリカ軍は五日で島は陥落すると予想したが、戦闘は三月二十六日まで続く。日本軍死傷者一万一千人、アメリカ軍死傷二万八千人。星条旗を摺鉢山に掲げた六人のうち三名が戦死した。戦闘の最終段階の状況を、敵将スミスは次のように書いている。「明らかに栗林が指揮を取っていた。彼の個性は、その強靭な抵抗にはっきりと示されていた。・・・・硫黄島では弾劾から飛び降りて自殺する者は一人もいなかった。・・・栗林はアメリカ兵を一人残らず道連れにするつもりだった。」

 海軍司令部付仕官の松本巌は、暗闇の中を連帯の本部壕を目指して歩いているとき、中隊壕に入った。すると、腕や足をなくした百五十名ほどの兵隊がうずくまっていた。ある兵隊が、「水を呑ませてくれ、もう四日も何も口に入れていない」と言った。水筒を渡そうとすると、入り口の近くにいた下士官が叫んだ。

「海軍さん、やめろ」
「あと二時間もすれば、俺達は皆、火炎放射で焼き殺されてしまうんだ。死にかかった者に飲ます水があったら、その水をあんたが飲んで戦ってくれ。あんたは手も足もまだついている。我々のかたきをとってくれ。」

 そう訴える下士官も、左足首を吹き飛ばされていた。・・・松本は胸が張り裂けそうになったが、「手も足もついている俺には、これからでも水を探すことができるのだから」と言って水筒を与えて後ろ髪を引かれる思いで壕外に飛び出して・・・・・・連帯本部に着いた。程なくして、中隊壕の百五十数名が火炎放射器で全滅させられたという報告が届いた。 》

 西村氏はこの後に述懐している。我々はこのような、硫黄島で戦い抜いた将兵たちのことを忘れてはならない、特に政治家、さらに、内閣総理大臣以下は、片時も無名戦士のことを忘れてはならないと。また、西村氏を先鋭的な右翼政治家だと思い込んでいる一般の人には意外であろうが、聖書をよく読みこなしている西村氏は、イスラエルの政治家と兵士の例を引き合いに出して、我々日本人もマサダを忘れてはならないと語っている。

《マサダはイスラエルの東部砂漠のひし形の台地上にある古代遺跡の名。ヘブライ語で「要塞(ようさい)」の意味。エルサレムの南東約48kmにある。66~73年にローマ帝国の支配に抵抗したユダヤ反乱軍(熱心党)がたてこもった要塞宮殿遺跡である。要塞化された2つの宮殿は、前37~前31年ヘロデ大王によってたてられた。前4年のヘロデ大王の死後、ローマ軍が駐留し、ユダヤ反乱軍が奪回する後66年までつづいた。70年、エルサレムがローマ軍に占拠されたとき、女性や子供をふくむ最後までのこった反乱軍の約1000人が籠城(ろうじょう)した。指導者ベン・ヤイルのもと、ローマ軍の包囲に2年間余り抵抗したが、73年、ついに陥落、籠城した人々のほとんどは自殺した。》(ENCARTA98より)

 戦争時に大規模な玉砕や特攻死を遂げたのは歴史上、日本人だけではない。ドイツ人も特攻をした。そして、このマサダの玉砕は約二千年前に起きていた。この殉国行為を人数の違いで分けてはならないが、それであっても、我々の先人たちはこの何十倍、何百倍の規模で大玉砕を遂げている。イスラエルの人々は、二千年も前の千人(960人)の玉砕を、今日でも民族の最大の誇りとして胸に刻みつけ、子々孫々語り継ぐことを強く決意している。しかし、我々日本人はどうであろうか。語り継ぐどころか、国家を挙げてそのことを忌避しているようなところがある。真の歴史を忘れ、捻じ曲げて平然としてる。だから国民の魂が腐っていく。こんなただれた民族がどこにあるというのか?西村氏は言う。イスラエルの将兵と政治家の合言葉は、「マサダは二度と落ちない」だ。ならば、硫黄島は、このイスラエルにおけるマサダの丘と同様の精神性を称えた聖地である。よって、硫黄島で戦った戦士と共にあるという意識の有無は、時の我が国政治の格調を左右して国家運営に緊張感を与え、実に、現在と未来の我が国の運命に重大な影響を与える要素であると。

 どうだろうか。西村眞悟というお人が持つこの政治感覚。これこそ、今の日本人、そしてほとんどの為政者に欠落している重要な民族意識というべきではないのか。西村氏がよく多用する「歴史の背骨」という表現はまさにこれをさしているのだ。私が西村眞悟氏を日本国総理大臣に最も適していると考えるのは、彼のこの心情が本物だからだ。西村氏が国家を運営するトップになれば、同じ国家に住む同胞のことを第一義に考えて、真摯に提言する最も偉大なエコノミストである植草一秀氏のような人が、現在のようなむごい不名誉に落とされることは決してなかっただろう。

 西村氏はこの同じ「月刊日本」で、硫黄島におけるもう一つの重要なエピソードを紹介している。

 昭和20年3月26日、硫黄島において日本軍最後の反撃が行なわれた。栗林忠道中将、市丸利之助少将以下数百名の残存部隊がアメリカ軍に突撃、玉砕した。この時、アメリカ軍に検死されることを見越していた市丸利之助少将は、懐に一通の手紙を忍ばせていた。その手紙の題名は「ルーズベルトに与フル書」であった。この手紙で市丸少将は、大東亜戦争を戦った大義を説き、ヒトラーを倒すためにスターリンと握手したアメリカの節操のなさを非難している。西村氏は市丸少将が玉砕直前にしたためたこの「ルーズベルトに与フル書」全文を載せている。ここではそれを書かないが、日本の行く末を考える者なら、涙なくしては読めない当時の日本人の真情を書いている。私はこれを思想上の教科書にしたいと思っている。今の政治家の体たらくを見ていると、この日本には、一世紀にも満たない短い過去に、このような偉大な日本人がいたのかとつくづく驚かされる。皆さんも正しい歴史を知るために、是非お読みいただきたいと心より願う。この短い文面には東京裁判史観を根底から覆す力が込められていることを請け合う。玉砕寸前に、アメリカ大統領にこのような文を書く心構えを偲んでもらいたいと思う。これはてらいや、他のいい加減な感情ではけっして書けないのだ。だからこそ、この書は動かしがたい歴史の一つの真実である。死を決意して書くものの凄まじい迫真性と、人間存在のありのままがそのまま感じられる嘘偽りのない文章である。存在論的な人間のあり方から思いっきり乖離した戦後教育で育った我々が小賢しい解釈を施す余地はまったくない。涙で日本の真情を受け止めるしかないのだ。(生きているうちに読んでみてね!)

二千年前、ローマ総督ピラトは、イエスの罪を信じられなくて、ついにユダヤ人群集に言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」すると民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子供達の上にかかってもいい。」こうしてイエスは十字架にかけられた。(新約 マタイ 27章 24~27節参照)

 そして、ユダヤ人は西暦73年のマサダのできごとをけっして忘れない。いい意味でも、悪い意味でも、ユダヤの人々は自分たちの先祖が取った行動についてはしっかりと記憶している。なのに、なぜ日本人はわずか六十数年前のできごとから顔を背けているのだろうか。先人たちの真実の行動をしっかりと心に刻み付けないから、日本人は方向性と人間らしさを失うのだ。「美しい国へ」などと言いながら、教育バウチャー制度を採用するバカ宰相にだまされる。教育バウチャー制度ってのは、新自由主義の大御所であるミルトン・フリードマンが考えたものだ。この意味がおわかりだろうか。安倍晋三首相は、国家の財産である子供たちの育成に、アメリカの言うがままに市場原理主義を投入し、自身が唱える愛国の理念とはまったくかけ離れた人間性喪失の制度を取り入れようとしているからだ。我々は正常な意識を喪失しているのだ。その大きな理由は先人たちの殉国を忘却しているからだ。

 七年前、夜盗の類と何ら変わることのない売国奴・小泉純一郎を宰相にし、在野から出た売国エコノミスト竹中平蔵を重要なポストに付け、彼らの国家破壊作業に気が付かず、漫然とやるがままに任せてしまった国民のだらしなさは目に余る。そのおかげで日本は荒れ果てた不毛の荒野になってしまった。そして日本人独特の精神の沃野さえも忘却してしまった。硫黄島でマサダ以上の果敢な殉国戦を遂げた先人たちが、小泉に続く史上最大の悪政を見ていたらなんと思うだろうか。

 西村眞悟氏が硫黄島の本当の姿を知らせてくれた意義は大きい。このような実相は大手マスコミは絶対に取り上げない。彼らはアメリカの走狗に成り下がっているからだ。自分たちが生まれた祖国・日本がこれ以上奸智に長けた外国連中に蹂躙されたくないと思ったら、西村眞悟氏を日本国の宰相にするべきだ。あ、そうそう、大事なことを言い忘れていた。西村氏が寄稿したこの「嗚呼、硫黄島」の副題は「我が国の未来を拓くため、民族の叙事詩を回復せよ!」である。気が付かないだろうか?これこそが真の「美しい国家へ」の道標であることを!!!


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2007年5月23日 (水)

南出喜久治さんの「日本国憲法無効宣言」

 この間(5月18日)の東京地裁における第7回公判で、少々気がかりな
ことがある。

傍聴するために、私も含めて「検証する会」の面々やその関係者が少なか
らず並んだが、誰一人として抽選が当たらなかった。並んだ人の数はさま
ざまな事情から言いたくはないが、少なくとも2~3名は当たる目算をして
いたのだが。

 南出喜久治という弁護士さんがいて、この方は憲法学論で、思想的にも
私が非常に尊敬する人物の一人であり、一度お会いする機会を得たことも
ある。人間的にも素晴らしい方である。この方が下記のサイトで気になるこ
とを書いていた。

 http://www.meix-net.or.jp/~minsen/topic/kaizen.htm

 この中の内容を見ていただきたい。まさかとは思うのだが、東京地裁は
公判傍聴券の抽選で本当に公平な抽選を行なっているのだろうかという
疑念が少し湧いた。しかし、まさか、地裁の大御所がそんなことはしない
と思う。やるわけはない。もしやっていたら、この植草裁判が明らかに国
策捜査そのものであることを裏付けることになってしまうからだ。

 うん、・・そんなことはないだろう。・・多分・・・。

 ところで、南出喜久治氏は最近渡部昇一氏との対談本で、現行憲法廃
棄論を著している。護憲か改憲かなどと言う低次元の憲法論議に拘泥し
ないで、皆さんも、一回は現行憲法廃棄(無効)論を考えてみて欲しい。
私もそのうち現行憲法無効論に素人なりに挑戦してみたい気が大いにあ
る。私の場合は文明論的スタンスからである。植草さんの問題も煎じ詰
めれば戦後に押し付けられたアメリカの占領観念的憲法を遵守している
という地獄の下地があるからだ。


 著者 南出喜久治氏 、渡部昇一氏

 題名 「日本国憲法無効宣言」


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2007年5月20日 (日)

ここまで堕ちた法廷を見よ!!!

  人間の尊厳を冒涜する「裁きの庭」
   植草一秀氏、第7回公判の感想



   日本の法廷はここまで品位を下げてしまったのか

 一昨日(5月18日)の第7回公判は、検証する会の関係者が傍聴券を求めて並んでいたが、前回よりは人数が少なかったが、私は2~3名は確実に当たるものと考えていた。 総勢137名のうち、傍聴資格者は27名であった。五人に一人は当たる率であるが、ものの見事に外れてしまった。

 ところで、こういう痴漢裁判において、27名という傍聴者数がどんな基準に基づいて算定されているのかわからないが、矢田部浩二氏の「お父さんはやってない」の傍聴事例では毎回50名くらいだったそうだ。27名という植草氏公判の場合はその半分くらいである。妙だとは思わないだろうか。矢田部氏は一般人であり、植草氏は著名なエコノミストである。矢田部氏には失礼だが、単純に関心を惹くという意味では、公的度合いは植草氏のほうが桁違いに大きい。なのに、なぜ公的度合いの高い植草氏の傍聴者数が半数くらいなのだろうか。裁判所は植草氏の迷惑条例違反の公判内容を強いて外へ知らせたくない何か理由があるのかと穿って考えたくもなる。だから、裁判所は傍聴人数の増員を検討して欲しいと思う。

 それにしても検察は何を企んでいるのだろうか。Livedoorニュースなどの報道を見ると、5月18日の公判で、検察は事件とは無関係な被告の性生活に関するデテールを、公衆の面前で露骨に暴露していたようだ。もし、これらに書かれていることが正確な公判記録に基づいているとするなら、検察のやり方は明らかに品格と人倫を欠いている。今までの植草氏に関するマスコミ報道は偏向している場合が大半だが、今回の検察尋問の意図はあまりにも異常である。一般論で言っても、他人がある特定の個人に対する性的な嗜好を事細かに大衆の前で暴露することは、単なる悪趣味の段階を超えて、あからさまな人権侵害である。しかもこのような種類の尋問は検察庁の威信と品位を著しく地に堕とす所業である。

 たとえば、夫婦の閨房生活やカップル同士の性的嗜好は、あくまでも私的領域の話である。検察官といえどもそのことを公的な場所で暴露する権利はないはずだ。植草氏の性的嗜癖は、夫婦やカップル同士とは違うが、そのことは今の論点ではない。論点は、性的嗜好が即犯罪的行為に直結するかどうかという話である。もし植草氏をそういう嗜好が暴露されたことで責め立てるならば、責められる有名人は枚挙に暇がないだろう。だいたいにして、われわれ一般人でさえ、男女問わずに自分の性的行為を他者に暴かれたら人権蹂躙である。それは有罪が確定していない審理中の被告も同じである。また、有名人であるがゆえに、そういう誘惑の機会は一般人よりもはるかに多くなるが、そういうことは、迷惑条例違反の件と何の因果関係も持たない。というか、公私の峻別が社会ルールで保たれているからこそ秩序が成り立つというおおもとの原則があり、今の場合、犯罪とは無関係な趣味嗜好を、権威のある検察官が自ら暴いてどうするのかと思う。

  今になって、植草氏の性的嗜好を持ち出すことに何の意味があるだろうか。むしろ、そのことによって、私は検察側公判戦略の手詰まりを強く感じている。彼らは当初、目撃証人を出せば比較的簡単に、早期のうちに推定有罪に持って行けると踏んだ。ところが第二回公判の目撃証言者は「私服の男性」と言ったり、その他の証言でさまざまな不整合な証言が目立ち、ネットを中心に国策捜査論を惹起した。つまり、植草氏は嵌められたのではないのかという論調が澎湃と沸き起こってきた。これを脅威と感じた検察は、第三回公判で、蒲田署の巡査部長や、繊維鑑定をした科捜研の職員を証言させたが、この巡査部長の証言もまた時間的な疑念を浮き立たせてしまうという、いわば国策捜査を思わせる内容であった。

 植草氏の手鏡事件と、京急電車・痴漢事件を「でっちあげ」と言っている人もいるようだが、もう一歩踏み込んで言うなら、これは小泉官邸主導型前政権の中枢に直結した国策捜査の疑いが濃厚である。この裁判の流れ(行程)そのものを冷静に見れば、本件の背景に国策捜査の存在が浮かび上がってくる。妙ではないか。京急痴漢事件では、肝心の被害者の女子高生が一度も法廷に登場せず、彼女の証言さえも公の場に出てこない。しかも公判に出てくる証言者登場の優先順位が滅茶苦茶である。重要なことは最初に被害者の女子高生が出て被害状況を克明に述べ、それに基づいて、逮捕者、周囲の目撃者が出てくるのが順当だ。しかし、実際には最初に出てきたのは事件当日ではなく、後から名乗り出た目撃証言者である。この証言者は図体が大きくかなり頑健な人であるが、事件を目の当たりに見ながらも、植草氏の痴漢行為をまったく制止もせずに、ただ傍観していただけだった。(痴漢という現象自体が生起していないわけだから制止できるはずもないのだが・・)

 彼はうっかり「私服の男性」という致命的な発言も吐出したりして、ネットで、これは警察が絡んだ国策捜査ではないのかという噂が瞬時に飛び交った。第五回公判では、弁護側が請求し、私人逮捕権を行使した二人の一般人のうちの一人が法廷に出されたが、慌てた検察側は、おそらく当初予定には入ってはいなかったであろうこの証人を、急場しのぎで尋問したに違いない。その結果、この人物の証言内容と、第二回公判に出た目撃証言者の説明はかなり食い違っていることが判明した。Kと称するこの私人逮捕者の証言録をつぶさに見ると、目撃証言者の語った車内状況とはそうとうに異なる結果が出ている。こういう証言者同士の内容乖離は、当初、検察が意図していなかった方向にこの裁判が進行したことを物語っている。最初に検察(あるいは裁判官)が意図した方向性とは何か。それこそが、今までの痴漢事件に多用され、慣習化された推定有罪という早期結審である。

 ところが、支援派、擁護派が目撃証言者の不自然さをネットで書いたために、裁判所と検察の目論見どおりの早期推定有罪という結審の方向は費えた。しかし、検察側が新たな証言者を出せば出すほど、電車内の状況説明の食い違いや乖離が目立ち始め、彼らは結審方向に対して収拾が付かなくなってきたのである。このために検察側は、5月18日、植草氏本人への尋問に、イタチの最後っ屁よろしく、最も愚かな方法を取ったのである。それが植草氏個人の性的趣味の詳細な暴露である。明らかにこの方法は、検察主導で公序良俗に違反しているのだ。ここにはいったい、検察による猟奇趣味的な視点以外のなにがあるのか。このようなことは日本の司法の恥である。

 私がもっと強調的に言いたいのは、このような人倫感覚を欠損した検察の尋問主旨を、裁判官が許容し、審理を遂行したことにある。法廷の品位と尊厳を保持する責務を持つ裁判官が、このような下劣で猟奇趣味的な尋問を許す道理がどこにあるというのか。国民は裁判官の裁定感性に大きな疑問を持つだろう。検察側も馬鹿ではないから、植草氏の性的な趣向を逐次ばらすことには忸怩たる思いもあったはずだ。だが、あえてそれを遂行した裏には明らかな目的がある。それこそが、ネットや大衆スポーツ紙を使った植草氏の性癖イメージの固定化なのである。検察が恣意的に植草氏の性的嗜癖を暴露したために、大衆紙はそれを面白おかしく強調的に報道し、典型的な印象操作を行なったのである。

 そもそも「国策捜査」なるやり方が、狙う人物による政治的な発言を封鎖することにあるわけだから、仕掛ける側は権力を使ってマスコミを掌握し、一方的な報道を行なって、狙った個人や団体の名誉を致命的なまでに剥奪することが目的である。公判戦略で当初の目論見が外れ、もはや打つ手のなくなった検察が証言者による正当な公判手段を放棄し、マスコミを使って、徹底的に植草氏個人の名誉を奪う暴挙に出たというのが今回の公判なのであろう。言いたいことは、明らかに裁判所もこの動きに加担したということだ。国民はそこを重視する必要がある。

 窮余の策として検察がとった手法、すなわち、今回公判における植草氏の個人的な性的嗜好の暴露は、以前、竹中平蔵氏や世耕弘成氏が、郵政民営化時の総選挙で、マスコミ戦略に使った手法とまったく同じであり、植草氏の性の趣味をばらすことによって、あまりものを考えず、表面的な報道を鵜呑みにする、いわゆるB層をターゲットにしていることは明らかである。日本国民のメディア・リテラシーを持たない層を狙って行なった国策捜査の仕上げなのであろう。それにしても何というお粗末な仕上げであろうか。結果として何が裁判史上に記録されたかと言えば、検察と裁判所の下劣さが白日の下に晒されたということだけであろう。

 ここまで、裁きの庭の権威が堕ちているとは夢にも思わなかったというところである。私は何もむずかしいことは言っていない。今回の公判のやり方に、検察、裁判官も含めて、植草氏の品位を貶める目的だけの審理が行なわれたことは歴然たる事実である。考えてもみてもらいたい。東京都の迷惑条例違反という軽微な事件を扱っているところに、検察が自らの品位を汚してまで植草氏のプライベートな趣味を暴き出し、それを裁判官が制止もせずに遂行させている現実を。皆さんにはこの異常さがおわかりだろうか。この法廷の異常な展開にこそ、植草氏を有罪にしようとする確固たる何者かの意志を感じ取るだろう。この意志こそが、植草氏が国策捜査という罠に嵌められている事実を端的に物語っているのだ。

 国民はこの現実を看過せずにしっかりと監視して欲しい。こんな法廷を許していたら、明日はわが身なのだ。日本の修復すべき悪い現実がここにある。


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2007年5月19日 (土)

通行者さんのコメントです

今回も長講釈ですみません。内容は前回の投稿と対になるものです。

まず朝日新聞の4月29日の社説を引用してみます。

「首相が謝罪すべきは元慰安婦に対してではないのか。首相はかつて河野談話に反発し、被害者に配慮ある発言をしてきたとは言い難い。国内で批判されても意に介さないのに、米国で紛糾すると直ちに謝罪する。何としたことか。
 問題が大きくなったきっかけは『当初定義されていた強制性を裏付ける証拠がなかった』という首相の発言だった。日本としての責任を逃れようとしているものと、海外では受け止められた。
 米議会では、慰安婦問題で日本に公式謝罪を求める決議をする動きがあり、これに弾みを与えた。メディアも『拉致で国際的支援を求めるならば、日本の犯した罪を率直に認めるべきだ』(ワシントン・ポスト紙)と厳しかった。米政府内にも首相の見識を問う声が出た。
 慰安婦は、単なる歴史的事実の問題ではない。国際社会では、女性の尊厳をめぐる人権問題であり、日本がその過去にどう向き合うかという現代の課題と考えられているのである。 」

従軍慰安婦問題に対する朝日新聞の報道姿勢はここでは措いて、この記事を予備知識を持たずに読んだ人は正しいことが書かれていると思うのではないでしょうか。
人権問題を軽視する政府を批判する。記事を読む限りでは朝日新聞の主張は正しいように感じます。しかしこの種の論調を正しいと思うことには重大な問題が潜んでいると思います。その理由は、対象とされる問題がたとえ虚偽の事象に基づくものであっても、人権という概念を掲げてその問題の正当性を主張すれば、その事象が事実であるかのような印象を与えることができるからです。

これを従軍慰安婦問題に当てはめて説明すれば、軍や国家機関による強制連行を示す資料は存在しなかったという検証結果が出ていても、女性の人権を声高に主張することによって日本が悪いのだという印象を与え事実はどうであるかを無視し、その結果、嘘を事実と言いくるめることができるということです。実際、上記に引用した社説の「慰安婦は、単なる歴史的事実の問題ではない。国際社会では、女性の尊厳をめぐる人権問題であり、日本がその過去にどう向き合うかという現代の課題と考えられているのである」というくだりには人権の前では事実は軽視してもよいという意味合いが感じられます。

ここに東京裁判史観を乗り越える上での最後の関門となる問題があると思います。当時の世界情勢を無視して、歴史の全体の事象から、その一面を切り取って現代の人権概念に照らし合わせて批判すれば、戦前の歴史にいくらでも否定的な印象を与えることができるからです。そして日本の周辺には、中共と南北朝鮮という反日を国是とする上に、自国の利益のためには相手の名誉を汚す嘘でも平気で世界中に吹聴する国があります。また日本には彼らの追従をするマスコミが数多くあるのは周知の通りです。

さらに、人権は西洋思想から生まれた概念ですから、人権概念を普遍的と信じることは、その概念を生み出した西洋の政治思想とその思想によって構築された政治制度も普遍的と信じていることになります。それでは東京裁判史観やアメリカを信じなくなったとしても、日本人の意識は、西洋文明中心の価値観、西洋の普遍主義に囚われたままであり続けることになります。
西洋文明のあり方だけを普遍的と捉えている限り、今回の米下院の慰安婦決議案問題のように、アメリカが中共、朝鮮の反日プロパガンダを採り上げて、前述の人権概念を前面に出して嘘を事実と言いくるめるやり方で日本を非難してきた場合は、それを反論することは困難です。
アメリカは、日本人が東京裁判の洗脳からだいぶ解けつつある現状で、これからも日本を永久に敗戦国としておくために、今回の慰安婦決議案問題に見られた手口を使用してくる可能性は十分にあります。
何より物事の判断基準を他者の価値観に委ねていては、主体性は生まれてこないでしょう。
日本人は自分達の視点で西洋文明を批判する局面に迫られているのではないでしょうか。

これから西洋近代思想について私なりに検証してみます。
近代政治思想の基礎を確立した思想家達の宗教に関する記述、またはそれに関連する記述を引用します。

「国家と宗教の本当のすがたは、国家の原理と宗教の原理が統一されるところにあって、プロテスタントの国家ではそうなっています。
 抽象化していうと、プロテスタントの精神の原理は、主観的精神の内面の自由にあって、人間の精神は自由であること、といいあらわされる。いかなる権威も存在しないのが当然だと考えるとき、人間の精神は自由たりうる、ということです。精神は人間の心のなかに住むべきもので、そこで意志と意識をもって生きていかねばならない。それは国家の原理でもあって、人間が自由に生活し、行動すべく、人間の自由を実現したものが、すなわち国家なのです。
 だから、宗教は国家と同じものを究極の原理とし、二つは同じ源泉から流れでたものです。プロテスタントの宗教には平信徒なるものが存在せず、すべての人が、自分のうちに聖霊が宿る、という信念をよりどころとしている。この原理が、プロテスタント教会と国家とをこの上なく内面的につなぐものです。プロテスタント国家は世俗の国家ですが、現実に自由が存在する、という世俗の原理は、同時に、プロテスタント宗教の原理でもあるのです。
 こうした統一の存在することは重要なことです。ラテン民族のカトリック国家は、フランスも、スペインも、ポルトガルも、ナポリも、ピエモンテも、アイルランドも、すべてが三十年来、革命を経験しています。カトリック国家における分裂は、いまに至るも解消されず、革命は終了したが、対立の根は残っています。それにたいして、プロテスタント国家では、内奥の原理たる宗教的原理と現実世界の原理とが同一であるから、法律、制度、習慣がまったく宗教的であるか、宗教と本質的にちがわないものであるかのいずれかで、その点では、カトリック国家よりもすぐれた、真に神々しい体制といえます。」(G.W.F.ヘーゲル『法哲学講義』作品社 3.3,A)

「しかし、コモンウェルスについて考えたばあいに、それは単一の人格であるから、やはり神にたいしても、単一の崇拝を示すべきである。それはコモンウェルスが私的人間に、公共的に崇拝するよう命ずるときに示される。それが公共的な崇拝であり、その特徴は『統一的』な点にある。すなわち各人各様の崇拝を公共的なそれということはできない。したがって、私的人間のさまざまな宗教から生じる多くの種類の崇拝が許されるところには、公共的な崇拝は存在せず、また、そのようなコモンウェルスはまったく宗教を持ってはいないのである。」(トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』 2.31)

「人々がその意志を持とうと持つまいと、彼らはつねに神の権力に服従しなければならない。神の存在、あるいは摂理を否定することによって、人々はみずからの安楽を振りはらうことはできても、軛をはずすことはできない。しかし、人間だけではなく、動物にも植物にも、生命のないものにまで及んでいるこの神の力を、王国の名で呼ぶのは、たんにことばの比喩的用法にすぎない。なぜなら、みずからのことばによって、また、服従する者には報酬を約束し、服従しない者には処罰をもって威嚇することによって、臣民を統治する者のみが、支配していると正当にいうことができるからである。
 したがって、神の王国における臣民は、生命のない物体でも、非理性的な生物でもありえない。なぜなら、これらのものはいかなる戒律をも神のものとして理解しないからである。また、無神論者、あるいは人類の諸行為にたいする神の配慮を信じない人々も、臣民ではありえない。なぜなら、彼らはいかなることばをも神のものとして認めず、神の報酬を望まず、神の威嚇を恐れることもないからである。したがって、世界を支配し、また人類に戒律を与え、報酬と処罰をたまわった神の存在を信ずる者だけが、神の臣民であり、他はすべて敵として解されるべきである。」(ホッブズ『リヴァイアサン』 2.31)

「それゆえ、すべてを見、そして処理される神は、人間がその思うところを行なう『自由』は神の意志に従って行なう『必然性』を伴っており、それ以上でも以下でもないことを見ておられる。なぜかといえば、人間は神が命じたことでもなく、また神がその行為の本人でもないことを数多く行っているかのようであるが、じつは神の意志から生ずる欲求以外には、何ものにたいしても情念も欲求も持つことはできない。もし神の意志が、人間の意志の『必然性』を、したがって、人間の意志にもとづくすべてのことの『必然性』を、保証してくれなければ、人間の『自由』は、神の全能と『自由』に矛盾し、その障害となるであろう。」(ホッブズ『リヴァイアサン』 2.21)

「政治的権力を正しく理解し、それが拠ってきたところをたずねるためには、すべての人が自然の姿でどのような状態にあるかを考察しなければならない。すなわちそれは、人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に頼ったりすることなく、自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理するような完全に自由な状態である。
 それはまた平等な状態でもあり、そこでは権力と支配権はすべて互恵的であって、他人より多くもつ者は一人もいない。なぜなら、同じ種、同じ等級の被造物は、分けへだてなく生をうけ、自然の恵みをひとしく享受し、同じ能力を行使するのだから、すべての被造物の主であり支配者である神がその意志を判然と表明して、だれかを他の者の上に置き、明快な命令によって疑いえない支配権と主権を与えるのでないかぎり、すべての者が相互に平等であって、従属や服従はありえないということは何よりも明瞭だからである。」(ジョン・ロック『統治論』 第2章)

「この社会契約のあらゆる条項は、よく理解されるならば、ただ一つの条項に帰着する。すなわち、各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡すということである。それはなぜかというと、まず第一に各人はいっさいを譲り渡すので、万人にとって条件は平等となるからであり、条件が万人に平等であるなら、だれも他人の条件の負担を重くすることに関心をいだかないからである。
 さらにこの譲渡が無条件に行なわれるならば、結合はこのうえもなく完全に行なわれ、構成員は要求すべきものをもたない。なぜなら、もし数人の個人に多少の権利が保留されるとすれば、この個人と公衆のあいだを裁きうる共通の上位者はいないだろうから、各人はある点について自分自身の判定者なので、やがてはあらゆる点について、判定者たることを主張するようになるからである。そうすれば、やはり自然状態は存続していくだろうし、結合は必然的に専制的になるか、無力になるか、いずれかであろう。」(ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』 1.6)

「神がそれによって人間を支配し、また神の法を破る者を処罰する自然の権利は、神が人間を創造したことに起因し、彼らに与えた恩恵にたいする報恩として人間に服従を要求するといったものではなく、神の『逆らいえぬ力』に起因する。
……すべての人は本来すべてのものにたいして権利を有していたのであるから、彼らはそれぞれ他のすべての人間を支配する権利を有していた。しかし、この権利は力によっては達成されえなかったので、これを放棄し、彼らを支配し防衛する〔主権者としての権限を持つ〕人たちを、共通の同意により樹立することが、各人の安全のためであった。これにたいして、もしも逆らいえぬ力を持つ人があったならば、彼がみずからの判断に従って、その力によって支配し、自分自身と彼らをともに防衛しないいわれはなかったのである。
 それゆえ、逆らいえぬ力を持つ者には、万人を支配することがその力の優越性によって自然に備わっている。したがって人間を支配する王国、また人々を意のままに苦しめうる権利は、この力の当然の結果として、創造者あるいは恵み深き者としてではなく、全能者としての万能の神に本来属している。また処罰ということばは、罪に対する苦しめと解されるから、それは本来、罪に対してのみ課されるはずのものであるが、しかし、苦しめうる権利は必ずしも人間の罪からではなく、神の力にも由来するのである。」(トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』 2.31)
自然状態-wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%8A%B6%E6%85%8B

上記に引用したように、近代政治制度の根底にはキリスト教プロテスタントの神学観があります。イギリスの権利章典には信仰に関する規定があります。

「また、カトリック教の君主またはカトリック教徒を配偶者とする国王もしくは女王によって統治されることは、この新教国の安全と福祉に反するということが、経験によって明らかにされたので、前記の僧俗の貴族および庶民は、さらにつぎのように定められるよう懇請する。すなわち、教皇庁またはローマ教会と融和し、もしくは霊的交渉を有する者、カトリック教の信仰を表明する者、またはカトリック教徒を配偶者とする者は、一人残らず全部、わが王国およびアイルランド、ならびにそれに属する諸領地、またはそのいかなる部分に対しても、王冠および政権を継承し、占有し、享受すること、または王としての権力、権威、裁判権を所有し、使用し、行使すること、から排除され、かつ永遠にその能力なきものとされること。このような場合には、どの場合でもいつも、これら諸王国の人民は、これによって忠誠の義務を免除されること。前記のように〔教皇庁と〕融和し、もしくは霊的交渉を有し、〔カトリック教を〕信仰を表明し、または〔カトリック教徒を〕配偶者とする者が、〔すでに〕死亡している場合には、前記の王冠および政権は、本来それを承継し享受すべき人で新教徒の者が、世々継承し享受すべきものとすること、以上である。」(権利章典 9条)

「(今後、いつであっても、わが国の王位に登り、またこれを継承する)わが王国の国王または女王は、すべて――その即位ののち最初に開かれる国会の会合の初日に、貴族院の玉座に坐し、そこに集合した貴族および庶民の面前において、または戴冠式のさいに、国王または女王に戴冠式の宣誓をなさしめる人の面前において――(その最初の)宣誓をなすときに、チャールズ二世治世第一三年に作られた『ローマ旧教徒から国会の両院に議席をもつ能力を奪うことにより、玉体と政冶をさらに効果的に保存するための法律』という表題の法律に記された宣言を行い、これに署名し、かつ聞き取れるように〔口頭で〕くり返さねばならない。しかし、もしこの国王または女王がわが国の王冠を継承する際に十二歳未満である場合には、このような国王または女王は、戴冠式または最初の国会の会合の初日になさるべき前記の宣言を、十二歳に達したのち、最初のこのような機会において前述のようにして行い、これに署名し、かつ聞き取れるように〔口頭で〕くり返さねばならない。」(権利章典 10条)
権利章典(全文)
http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/docs/billofr.htm

日本人が近代民主主義に対して抱いている一番の誤解は、それが無条件あるいは個人の資質如何で成立すると考えていることでしょう。西洋の近代民主主義には構造的制約があり、その人権はキリスト教プロテスタント(のカルヴァン主義)的信仰の下で保障されるものです。
ピューリタン-wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%B3

自由、平等、個の確立といった西洋近代思想の外面的な謳い文句だけを見て、近代政治思想の原点にある、共同体の秩序を維持するための(プロテスタントの)神学的前提に気付かずに、人権の名の下に自分の欲望だけを追い求めることを正当化すれば、共同体の秩序は荒廃して、その結果、次第に文化の前提となる、民族が古代から保持してきた世界観が喪失してしまいます。そうなればその国は独自に国を運営する価値基準の根拠を喪失し、そのため、社会を形成する規範として、イギリスの国家モデルとそれを基盤として作られた経済学を宗教とすることでしか国が成り立たなくなるのです。それは結局、国全体が英米に依存しなければならなくなるということです。程度の違いはあるでしょうが、これは日本だけの問題ではないでしょう。現にカール・マルクスの経済理論は社会主義国家の政治を支配してきました。
これらのことからもたらされるものは、人間の連帯が崩壊し人間が金銭によって完全に支配される世界です。現在の日本を見れば、それは決して法螺話とは言えないことが分かると思います。経済学に国の命運まで支配された国家がどうなるかは社会主義国家の歴史が物語っています。

西洋の人権とは、普遍的な個の確立という謳い文句の裏で、共同体を分裂させ、民族がそれまで保持してきた世界観を破壊し、結果として英米中心のシステムに服従するしかなくさせる空虚な観念です。
個人に必要なのはその個人が属する民族が古代から受け継いできた世界観と、その世界観を守るための倫理だと私は考えています。

投稿 通行者 | 2007年5月18日 (金) 15時45分


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2007年5月18日 (金)

残念ながら、今日の第7回公判録は取れませんでした

 本日の公判は、検証する会の関係者がすべて抽選券に外れて
しまい、傍聴記、及び速記録を得ることができませんでした。予想
外のことで、まことに残念です。

 本日は検察側からの被告人質問と裁判官からの補充質問であり、
午後2時15分頃には閉廷しました。

次回は6月18日、午後1時15分から4時までで、弁護側申請の新し
い目撃者の証人尋問
と被告人質問の補充だそうです。


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2007年5月17日 (木)

佐藤優氏とベンジャミン・フルフォード氏の対談

「国家」と「資本」の暴走を食い止めろ!
 緊急対談佐藤優×ベンジャミンフルフォ-ド

 残念ながら買いもらしたが、5月7日の週刊SPA!に、佐藤優氏とベンジ
ャミン・フルフォードさんの興味深い緊急対談が掲載されていたらしい。そ
れが阿修羅に投稿されていた。

 フルフォードさんは、何の罪もない人が政治のタブーに抵触したために
逮捕されたり殺されたりしていて、その典型的な事例が植草一秀さんだ
と断言している。是非読んでもらいたい。

http://www.asyura2.com/07/senkyo34/msg/753.html


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2007年5月14日 (月)

フジテレビが「吉野家」礼賛

 フジテレビもここまで落ちたのか
フジテレビが吉野家礼賛、そこには米国の影が

 日曜日のフジテレビ系10:00からの報道番組「新報道プレミアA」で、牛丼チェーン吉野家の話を感動秘話風に取り上げていたのには驚いた。以前、バブル崩壊後の景気低迷で負債を抱えた吉野家が、いかにして復活したのかを、NHKの「プロジェクトX」風に感動物語に仕立てて報道したことには呆れてしまった。

 吉野家の牛肉がもともとアメリカ産輸入牛肉なのは周知の事実である。米国産牛肉は、米国内でのBSE発生を受け、2003年12月に日本が輸入を停止していた。内閣府・食品安全委員会は、輸入再開のリスクを検証し、脳や脊髄(せきずい)などの特定危険部位の除去や、生後20か月以下の牛に限ることを条件に、2年ぶりの再開を決め再輸入を行なった。ところが、輸入再開後、すぐに成田の検疫で特定危険部位の背骨が混入した牛肉が見つかった。日本政府は即座に米国産牛肉の輸入を禁止した。

 ところが、アメリカは日本の安全基準が厳しすぎるとして難癖を付け、このまま輸入禁止を続けると、報復措置として、かつてのスーパー301条のように日本からの輸入関税を引き上げると脅した。こういう強制的な圧力に屈して日本政府はしぶしぶ輸入禁止を解くことになった。こういう経緯を国民は知っているはずである。つまり、日本人の感覚から言うと、米国牛肉はまったく安全とはいえない状況で輸入が再再開されているのである。

 こういうさなかにあって、フジテレビはBSE問題が依然として未解決なことを棚に上げ、アメリカ産牛肉を使用する吉野家の復興美談を臆面もなく放送したのである。これが公器と言われるテレビのやることだろうか。おそらくフジテレビの目的は吉野家の復興物語の感動秘話ではなく、吉野家を大々的に取り上げることによって、アメリカ産牛肉の消費を促す魂胆でなのである。ここまで露骨に吉野家のヨイショ番組を報道した背景には、明らかにアメリカの梃子押しが働いているとみて間違いないだろう。いまや、日本の巨大報道機関はアメリカの代弁者に成り果てている。公器であるテレビ局が、一企業である吉野家を、特別にニュース番組で肯定的に取り上げることは報道の公平性に反している。それよりももっと悪質なことは、国民の安全のためにBSE問題を追及するべきテレビが、それを無視して、BSEの火種を抱える米国産牛肉の消費を歓迎するかのような報道を行なったことである。これは二つの意味で確信犯的に悪質な報道である。一つは、公器であるべきテレビ局が特定企業の宣伝を行なったこと。もう一つは、BSE問題という国民の生命と健康を害する食品に深く関わるテーマを故意に無視して、アメリカ産牛肉の消費キャンペーンになっていることだ。

 心ある人たちは私の言うことに賛同してくれるだろう。しかし、こういうことをされておとなしく黙っている日本人は、まるでオーウェルの「動物農場(アニマル・ファーム)」そのものではないか。日本はここまでひどい状態になっている。


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2007年5月 9日 (水)

「改革にダマされるな!」は必読の書!

Photo_34   


 関岡英之氏と和田秀樹氏の共著「改革にダマされるな!」が発売された。関岡氏は2004年に、年次改革要望書の真実を喝破した突破的な書物をすでに上梓している。この画期的な内容の「拒否できない日本」は、小泉構造改革やプラザ合意以降の日米関係に、隷従的性格をきちんと見抜いて憂慮している各界の人々には少なからぬ衝撃を与えいる。この本の衝撃的な部分は、アメリカ大使館のHPで堂々と公開されていたにもかかわらず、日本の政府やマスコミはけっして取り上げずに秘匿状態に置いてきた。

 関岡氏の画期的な功績は、「年次改革要望書」がアメリカによる片務的強制性を持つことを白日の下に晒したことにある。郵政民営化法案が可決される前、自民党や民主党の良心的な政治家が、この本の趣旨に沿って国会で年次改革要望書の存在を問いかけている。当時、小泉首相は一貫してとぼけていたし、竹中平蔵は一旦は認めたものの、あとで知らないとシラを切っている。

 今回の和田氏との共著である「改革にダマされるな!」は、「拒否できない日本」の内容を拡大、深化した非常に興味深い記述に満ち溢れている。皆さんも是非読んでみて欲しい。最近の日本が置かれている深刻な状況を、二人の俊英がさまざまな確度から切り込んでいて、非常にわかりやすく書いている。グローバル・スタンダードを布石してアメリカを利するだけの構造改革のインチキ性と反国益的性格を余すところなく説明しきっている。この売国的な構造改革が、日本人の安心、健康、安全、教育、などを根底から脅かしている真実をこの本は暴いている。和田秀樹氏も舌鋒鋭く構造改革の非道性と反国益的性格を指摘している。章分けは以下の通りである。

 第一章  「改革」が日本人の「安心」を奪う

 第二章  「改革」が日本人の「健康」を侵す

  第三章  「改革」が日本人の「安全」を脅かす

 第四章  「改革」が日本人の「教育」を蝕む

  第五章  「改革」を封印せよ
        今こそ信念のあるリーダーが求められている

 第五章には対抗策と解決への提案が書かれており、その中でも和田氏の「自国のエリートは自国でつくる」は、原田武夫氏著「タイゾー化する子供たち」で訴える国家エリート育成の急務性と共通しており、実にためになる。また、関岡氏は最後の方の「ほのかに垣間見えた、ひと筋の光明」で、自民党の良心的な政治家である小泉龍司氏や城内実氏の立派な行動を説明し、少数ではあるが彼らがいることに一縷の希望の光を見出している。

 植草一秀氏が嵌められた国策的背景を知るためにも「改革にダマされるな!」は必読の書である。神州の泉が一押しで薦める本である。


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2007年5月 3日 (木)

ベンジャミン・フルフォード氏著「暴かれた闇の支配者の正体」

 ベンジャミン・フルフォード氏の新しい本が4月28日に発売された。題名は「暴かれた〔闇の支配者〕の正体」である。

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 この著書では相当数のページに植草一秀氏の国策捜査について言及されている。彼が言う植草事件の国策捜査の背景の説明は、私が神州の泉で語ってきたそれについての内容とかなり論調が同じになっている。同じ視点を持っているからそれは当然と言えば当然だろう。しかし、さすがにフルフォードさんである。彼の語り口は手馴れているせいか、非常に読みやすく理解がしやすい。 前半部第一章は、国富収奪の背景について説明があるが、その中で大半の部分を、植草氏が嵌められた国策的背景に言及している。また、章末には植草氏と著者との対談が載せられている。植草氏の無罪論に興味のある方や植草事件の政治的な背景をよく知りたいと思っている方々には必読の書である。フルフォード氏は私も寄稿している「植草事件の真実」という本もこの中で紹介している。

  第二章は「アメリカに翻弄されるメディアと政治家」、日本を売る国内エージェントの政治家の存在や、アメリカ支配に抗った政治家たちの末路などが説明されている。また清和会と経世会の暗闘やロッキード事件のことなど、戦後日本の暗部が語られている。

 第三章は「世界を牛耳る支配の構図」、第四章は「日本人よ、目を覚ませ」が書かれていてこれこそが著者のライフワークの真骨頂だろう。読後感は一貫して世界を支配する闇の侵攻が描かれており、その中で日本がその渦に巻き込まれ、植草氏などの良心的な識者が毒牙にかけられたことを説明している。日米関係とは一言で言っても、例えば自然災害の惨禍でアメリカの格差社会を浮き彫りにしたニューオリンズで、被災した人たちと、いわゆるアメリカの一握りの奥の院と言われるエスタブリッシュメントの存在を同列で見るわけには行かないだろう。フルフォードさんのユニークな視点は、アメリカの一般市民もアメリカの少数権力者の犠牲になっていて、現在は18世紀ヨーロッパの格差社会に歴史のねじが巻き戻されていると言っていることである。この本はリチャード・コシミズさんの「世界の闇を語る父と子の会話集」と併せて読むことをお勧めする。

 しかし、「暴かれた闇の支配者の正体」の植草氏について言及している箇所で、植草事件国策捜査論を検証している私としては、著者の看過できない間違いを一ヶ所指摘しておく必要がある。それは、第一章54ページに書かれている「植草氏を襲った国策捜査」の真ん中辺に書かれている記述である。

 実は植草氏は、1998年にも電車の中での痴漢で罰金刑を受けている。「植草は痴漢の常習犯」というイメージを作り上げるためマスコミで盛んに報道された事件だが、事の真相はこうだ。

 この中で、「マスコミで盛んに報道された事件だが」と書いているのは著者の思い違いである。98年の東海道線車両内の一件は、2004年4月8日の品川駅手鏡事件の公判内で初めて明らかにされたものである。従って、98年の一件は、当時、世間に広報されていないはずである。植草氏が「ミラーマン」などと言われ、マスコミや週刊誌等に大々的に、かつ嘲笑的に取り沙汰されたのは品川手鏡事件以降のことだ。

 しかし、フルフォードさんのこの本は植草事件の冤罪派、国策捜査派、あるいはそれらのアンチ派にとっては必読の書である。是非読み通してほしい。  


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リチャード・コシミズ氏著「世界の闇を語る父と子の会話集」発売

リチャード・コシミズ氏著「世界の闇を語る父と子の会話集」発売!!

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 5月1日、ついに恐れていた三角合併が解禁されてしまった。マスコミはこのことについてまったく沈黙している。このまま放置すれば、大切な国民資産は根こそぎ奪われていくだろう。アメリカの軍事的傘下に入り、属国憲法を放置したまま、世紀以上も温室的な狭い部屋に閉じこもった日本は、庇護者であったはずのアメリカが片手にミルク瓶を持って子守唄を歌いながら、丸々と肥えた日本という無垢な赤ん坊を食い殺そうとしていることに気が付かない。

 米国を庇護者と位置づけ、温室の中で思考停止しながら、獰猛な国際世界の真相から目を逸らし続けた日本人は、最も親愛なるパパが、実は日本を食い尽くす獰猛な肉食獣であったことをいまだに認識していない。ここまで深い眠りに陥った日本人は、警醒の叫びには耳を貸さず、北朝鮮のミサイルや中国のミサイルが本土を攻撃し、多くの死傷者が出るような悪夢の事態に遭遇しなければ、もはや目覚めることはないかもしれない。

 しかし、たとえそうであっても、リチャード・コシミズさんは日本が置かれている真相を知っておくのと知らないのとでは、これから日本人がサバイバルしていく上で、雲泥の差が生じてくるという姿勢なのである。そこで彼は「世界の闇を語る父と子の会話集」を世に出して問いかけようとしている。彼の考察する背景も、エコノミストの植草一秀氏が嵌められた背景を強く示唆しているのだ。是非ともこの新刊本を読んで欲しい。

 本書はネット販売のほか、全国の紀伊国屋書店の店頭販売で手に入れることができる。詳しくは下記のサイトを参照してほしい。

 http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/propaganda_2saku.htm


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和製エクソンフロリオ条項の重要性

(本記事は「植草事件の真相掲示板」に書いたものであるが、BBSで流すにはもったいない気分なのでここに転載した)

  エクソンフロリオ条項に関しては、自分のブログで、この掲示板で初めて見たと書いてしまったが、何か心に引っ掛かる言葉だと最初から感じていて、外資規制と関わるものだということはすぐにわかった。

 心に引っ掛かるわけである。私はエクソンフロリオ条項について一度本で読んでいた。京都大学大学院経済学研究科教授の本山美彦氏が書いた「売られ続ける日本、買い漁るアメリカ」の142ページから144ページのたった2ページ半に、これについてわずかに言及があった。読んだ当時はあまり深く捉えていなかったようである。しかし、この条項が我が国にとって非常に重要であることは今の私は痛感している。

 エクソンフロリオ条項というものは、米国の安全保障上の視点から「外国企業による米国企業の買収を制限する」規定である。これは日米投資イニシャティブからすれば、最も重大な国際投資障壁となる。我々は、ともすれば日本へ侵攻する外資に立ち向かうという位相から物事を考えているが、国際投資に双務性が担保される場合、逆に日本がアメリカの企業に投資する場合のことを念頭に置いて考慮する必要がある。

 アメリカでは外国企業からの投資が国防的安全保障に抵触すると“大統領”が判断した場合は、外国からの直接投資を禁止できる。これは国家として当たり前だと思う。エクソンフロリオ条項では、航空、通信、海運、発電、銀行、保険、不動産、地下資源、国防の九分野にこれが適用されている。

 日本人はこの九分野をじっと眺めていて、何か思い当たることはないだろうか。この分野ははっきり言って、「年次改革要望書」でアメリカが執拗にかつ内政干渉的に日本に要求している分野そのものではないのか。特に銀行、保険の金融関連は軒並み外国の巨大外資が参入して外資比率が異常に高くなっていることや、不動産はゴールドマン・サックスを筆頭に日本全国の優良不動産が買い漁られているのだ。

 そして、防衛庁が防衛省に昇格したことも関連するが、これからアメリカのミサイルや戦闘機など軍需機器の導入が活発化されるだろう。日本人は気が付かないのだろうか、アメリカの動き方を。彼らが自国を、エクソンフロリオ条項で鉄壁の守りに徹している分野を、日本に対しては強硬に陰湿にこじ開けてきている現実を。しかも、それを表面的に強行せずに、洗脳した日本人のエージェントを使って内部から扉をこじ開けて、外の盗賊を招き入れていることを。まさしく、この形こそ、池波正太郎が書いた「鬼平犯科帳」に出てくる「引き込み」を使った急ぎ働きにほかならない。

 アメリカがこの九分野を、自国には外資の参入を制限しておいて、日本へはあの手この手で無理やりこじ開けている暴虐的な外資参入への構造変えは、日本の無知が悪いのであり、日本を売り渡す売国人間を政財官に輩出させてしまった国民が悪いのである。しかし、国富が消尽すれば我々を待つのは地獄の貧窮生活であるから、そうも言っていられない。日本は早急に和製エクソンフロリオ条項を固めるべきである。

 私のように無名な人間がこういうことを言っても、さし当たって殺されるようなことはないみたいだが、知名度が高い人間がこの手の真相を語ると殺されたり、社会的生命を奪われるのが今の現状だ。植草一秀氏も今は無事だが、存在そのものが従米売国勢力にとっては、この上なく邪魔な存在には違いない。彼の命は依然として危険なのである。だから、ここに集う有志は、植草事件の背景をしっかりと捉えて、それを表明し続けることにより、植草氏を守るとともに、良心的で有意の識者がこれ以上やられないようにしていくことだと思う。

 植草氏が痴漢を働いたか否かなどということは、どこまで国策意志が働いているかわからない裁判所がやっていることであるから、その次元に拘泥して枝葉末節を根掘り葉掘りやるよりも、三権分立の精神が危殆に瀕してきた今の日本を鑑みて、司法や検察のやり方を極めて厳格に国民が注視しているんだぞという方向性を持った議論が望ましいと私は考えている。パンツやパンティがどーしたこーしたも必要かもしれないが、常にマクロな視点を失わないように議論したいというのが私の本心である。

 アメリカに完全に財布の紐と国防の鍵を預け、安穏としていたら日本に残されている道は奴隷民族としての未来だけなのだ。それでいいのか、諸君!!。

                        神州の泉 管理人


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2007年5月 2日 (水)

植草事件とエクソンフロリオ条項

 植草事件とは、無実の植草一秀氏が国策捜査によって罪に陥れられた事件である。この事件を通常の痴漢事件として見ている人たちは、「国策だって?痴漢と国の政策にいったい何の関係が?」と思うだろう。たしかに私自身も佐藤優氏の「国家の罠」を読むまでは、国策捜査などという言葉も知らなかったし、当然、その意味も知らないし、それに近い概念もなかった。それまでは、日本の警察は、組織の面子を保つために捜査ミスを糊塗することはあっても、狙った人物を故意に犯罪者に仕立てるなどということは、到底あるはずもないと思い込んでいた。しかし、「国家の罠」を読むに及んで、今の日本なら、そういうことが起きることも充分にあり得るなという確信を持った。

 その理由は、劇場型パフォーマンスで国民を騙し続けた小泉政権の亡国的政策を身に滲みて感じていたからだ。植草事件を国策捜査という背景で捉えなおすためには、日本戦後史における日米関係の異常な進展を理解する必要がある。これについてはさまざまな人たちが著しているが、最近のものでは原田武夫氏や関岡英之氏の著書が役立つだろう。特に原田武夫氏の一連の著作は、アメリカが戦後日本を外交的に内政的にどのように誘導してきたかがよくわかるように書いてある。小泉前政権のマクロ的政策に対するエコノミストとしての植草一秀氏の提言や政策批判の思想性は、戦後における日米関係の通史をきちんと理解している人には、ストレートに理解できる位相を持っている。

 植草事件とは、ずばり言って、戦後の日米関係の悪しき進展の中で生起した痛ましい事件である。悪しき進展とは、プラザ合意以降に強められ、小泉政権下でほぼ完全に目論見を達した、アメリカ「奥の院」による日本の再占領政策なのである。植草事件に興味を持たない人でも、私が今指摘したアメリカによる日本再占領の事実を捉えている人たちは大勢いると思う。GHQと違って、現行の占領政策は主に経済だけのことを言っているのだろうと思う人がいるだろうが、占領事実の実態は経済だけではない。アメリカは間違いなく日本の国会をコントロールしている。そこを中心として、日本の金融政策や経済政策全般を牛耳っている。そのために、奥の院は、旧来どおり、保守政権と言われる自民党を代々第一政権与党に据えつけているのである。以前ならともかく、近年の自民党は愛国保守ならぬ売国保守政党である。完全にアメリカの走狗的組織と成り下がっている。しかも、この党には党議拘束などというしきたりがあり、議員各位に政策立案や改正立案などの自由度はまったくない。昨年の前半、小泉純一郎は皇室典範改悪を党議拘束でやろうとしたが、寸前で国民の反対と紀子様の御懐妊で立ち消えになっている。皇室の在り方という国家の基を決める重大事でさえ、彼は党議拘束でやろうとしていたのである。北朝鮮並みの独裁政権である。

  まともな国家なら、国会で政策提言や法律改正、法案樹立などの一連の政策作業を、国の純然たる主体性の下で行なうのが当然だと思うが、日本はアメリカの承諾なしには、何一つ重要な政策を決定できない情けない国家に成り下がっている。その理由は、日本人の為政者やそれを指示する国民に、アメリカが正義であるという東京裁判史観の洗脳がしっかりと染み付いているからである。これがあるから、日本は1993年の宮沢ークリントン会談で、「年次改革要望書」なる隷属書類の発行をやり取りする合意が出来上がった。しかし、この合意の真意は、宗主国と植民地の主従関係を鮮明にする強制指令書であり、見掛け上の双務性とは異なって、ほぼ完全に片務的な内容である。年次改革要望書は、正式には「 日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」と言って、文字上は親和的、協調的、合意的な装いをしているが、実際はこれほど完璧な内政干渉の形はないというくらい徹底したものである。その「要望」に沿って日本が行なった米百俵の精神や、構造改革という威勢のいい叫びだけを上げて、日本の経済構造を根本からネオリベ体制にひっくり返した小泉政権は、国益とはまったく正反対の国富流失、国益毀損の政策を取り続けた。この小泉・竹中政策がすべて年次改革要望書の完全具現化にあったことを知るものはいまだに少ない。その理由の一つにはマスコミがその要望書の存在を報道に載せることを忌避し続けているからである。

 植草事件と小泉売国政権の重要なかかわりはこれから述べるが、概括的に言って、小泉政権は国民の目くらましをしながら、完全なネオリベ経済構造に我が国を導いた。その暴虐と言ってもいい構造転換を、完全従米型の悪しき政策転換だと見抜いた政治家、経済学者たちは少なからずいたと思う。しかし、彼らはその真相を知っていても、社会的な失脚や謀殺に見舞われることを恐れて口をつぐんだのである。そういう中にあってわずかな人だけが小泉政権の異常性、亡国的施政を批判し続けたが、その中でもエコノミスト植草氏の小泉政策批判は突出して容赦のないものであった。植草氏の不正を我慢できない正義感が巨大な売国勢力にただ一人で立ち向かわせたのである。

 たちの悪いことに、アメリカ系外資の見えない圧力によるこのネオリベ構造転換の目的は、大きく言えば、米国系外資によるあらゆる分野にわたる日本国富の収奪である。その流れの中で最大のものが、今年の十月に完全実施される郵政民営化なのである。郵貯資金と簡保資金の合わせて350兆円のうち、国債やその他に使われている分を除いた150兆円の丸取りを米国は狙っている。聖域なき規制緩和・規制撤廃、三角合併の解禁、民営化などはすべてが日本国富収奪に向けての露払いなのである。二年前の郵政民営化是か非かの解散総選挙時に、亀井静香氏、小林興起氏、小泉龍司氏などを筆頭とする郵政民営化造反議員たちは、郵政民営化の危険な底意を見抜いて警告を発していた。ところが、小泉純一郎は独裁者よろしく、彼らを抵抗勢力として露骨な政治的粛正を強行したのである。

 亀井静香氏や小林興起氏が訴えたかったことこそ、郵政民営化法案の構造的な防衛対策であった。この法案は拙速にやらずに、慎重にも慎重を重ねて審議する必要があるといい続けていた。なぜなら巨大な資金を抱える郵政事業を、市場原理のみで動く国際市場にさらすような民営化には、国防上の危険がないかどうかを精査する必要があると考えていたからだ。その話を続ける前に、最近、「植草事件の真相掲示板」に「エクソンフロリオ条項」という聴き慣れない言葉が出ていたので、早速検索をかけてみたら、グーグルでもヤフーでもヒット数は極めて少なかった。エクソンフロリオ条項とは

  米国は外国からの米国内直接投資(FDI)を歓迎するとともに、外国投資家を公正かつ同等に扱う。ただ、国家安全保障を保護するための例外はある。エクソン・フロリオ条項(Exon-Florio provision)の目的は、FDIを規制するのではなく、外国からの投資内容を精査し、米市場をできる限り公開するというもの。しかし、投資内容が米安全保障にかかわるものと大統領が判断した場合には、エクソン・フロリオ条項が適用され、FDIが規制される。

アメリカでのエクソンフロリオ条項とは、簡単に言うなら、国家安全保障上の外資規制のことである。2003年の年次改革要望書における日本側から出した要望の中に、これについて触れた次の箇所がある。

      
       (2003年  日米投資イニシャティブ 報告書の中より抜粋)
  エクソンフロリオ条項(国家安全保障上の理由による外資規制)に係る予見可能性の向上、デュープロセスの確保:基準も明らかにされておらず、いかなる案件がいつ審査の対象となるかが不明確であり、外国企業による米国への直接投資の予見可能性が損なわれている点に懸念を表明。また、一端完了した買収案件も永遠に分割命令のリスクにさらされる等法的安定性も欠く。審査基準の適切さや手続におけるデュープロセスの確保を要望。

 つまり、たとえば日本がアメリカへ直接投資する場合、アメリカが、このエクソンフロリオ条項なる予見可能性の低い、不明確な法律が存在していることに不満を表明しているのである。これはアメリカ側から言わせれば、外資規制のためなのである。重要な問題は、我が国にこの条項と同じような効力を持ち、外資の投資内容が国家安全保障に関わるかを判断する機構が日本に存在しないということである。アメリカの場合は、それを大統領権限で判断できるようになっている。しかし、日本の場合は深刻である。首相にその権限を預けても、小泉のようにアメリカのポチに成り下がった者がやった場合、国防的効力が発生しないどころか、受益はすべてアメリカにやってしまうだろう。

 まったく、政権自体が金融的敵対国家に身売りしていた場合、もはやどうしようもない。これを突破するには政権転覆を謀る以外に手立てはないかもしれない。米国におけるエクソンフロリオ条項と植草氏に何の関係があるのかと訝る向きもあるだろう。要は、植草氏の小泉政権批判は国防的観点から行われているということで、例の条項と思想的には同じなのである。我が国が、この条項に相当する国防的外資規制を起草し、国会で法案を通すためには植草氏の頭脳が役に立つ。なるべく早急に防衛的規制をかけないと、国富流尽が底なしになり、日本全土の優良資産が買い取られてしまうだろう。収奪目的の外資を無制限に参入させる三角合併は解禁された。我々はこれから投機的外資のために、残業代返上で働くことになっていくだろう。日本人とは何という危機感のない愚かな民族だろう。

 あ、そうそう、重要なことを言い忘れていた。エクソンフロリオ条項をgoogleやYAHOO JAPANで調べても、検索に引っかかるのはわずかな件数である。この事実こそ片務的な年次改革要望書の実効性を高めるために、アメリカが日本のメディアに圧力をかけて、その内容を国民に知らせないようにしていることを如実に示すものである。郵政民営化関連六法案の国会討論では、政権側が外資規制に関する審議を神経質に忌避していたが、それと同じ意志がテレビにも、ネット検索エンジンンにも働いているのである。


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