恋愛空間の縮退は民族衰亡に繋がる
(年次改革要望書に従えば若者の恋愛空間が消滅する)
最近、国際評論家・小野寺光一氏のメールマガジンでとても気になることが書かれていたので、そのことについて私の時代的な感想を少し述べておく。その気になる記事は、三角合併解禁への警鐘として4月29日に、小野寺氏が小説風に書いていた下記の文である。小野寺氏は三角合併解禁後の日本社会の凋落を次のようにあらわしている。
国際評論家・小野寺光一作、小説「火の鳥と亡国の人物」より
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両親は共働きではなかった。
父親は、近くのレンズ工場で働いているが、
母親は、手持ちぶさたに家にいるのであった。
とにかく、「金」がない。
格差社会の結果である。
父親の勤めているレンズ工場は、親会社のカメラメーカーが
外資に買収されていた。
三角合併という日本の歴史史上最悪の売国奴内閣の
小泉内閣がやった結果である。
・・・・
父親がいくら働いても初任給からまったく給料は
上がらないのであった。
都会に出れずに一生を終えることに
なった。なぜなら、格差社会を推し進めた結果、
東京への流入が増えすぎて、「東京へ田舎者は住むべからず」と
流入制限をかけていたからだ。
そのため、亡国の彼は、レンズ工場でレンズの研磨工として
一生を過ごした。それ以外に職がなかったからだ。
そして工場の役職までになったが、月給は手取りで23万円
だった。結婚相手はいなかった。日本人の女性はすべて、米国人
かまたは韓国人と結婚をするようになっており、誰も日本人男性と
は結婚したがらなかった。
そして彼は一生を終えた。
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要は、三角合併後の日本社会は、外資が日本の会社を乗っ取ったうえ、日本人社員を安くこき使って労働生産性を最大限までに上げるコーポレート・ガバナンスを実行した。そのためには手段を選ばない過酷な労働条件を課され、日本人には自由や遊びがまったくなくなってしまうという社会を言っているのだ。この小説の中で私が最も目を引いた部分は、日本人の若者男女には恋愛の自由がなくなってしまうというSFみたいな話である。特に若い男は、ほとんど自由に遣える金を持てないために日本人女性と恋愛ができなくなる。一方、若い女性たちは米国人や韓国人とだけ恋愛するようになるという箇所である。しかし考えてみれば、それは新自由主義社会が稼動した場合、当然の帰結のような気がしている。原田武夫氏も「タイゾー化する子供たち」で、これからの日本は「ワーカー国家」となるとはっきりと断言している。アメリカに奪われる日本の最大のイベントは郵政資金の350兆円がターゲットになっていることだ。三角合併と郵政公社が株式会社化される年度が同じだというのは決して偶然ではない。
三角合併というのは金融資本主義的侵略の前提条件を満たす法律である。米国利益ということでしか意味を持たない法律だ。ゴールドマン・サックスを手始めとする金融侵略者は、70年代に中南米諸国の国富を吸い取ることに成功していて、その成功経験則で培った金融工学的な手法を日本に余すところなく駆使する算段なのだ。国富を奪われ、文字通りワーカー国家となった日本は、若者に恋愛の空間、時間さえ与えられなくなる息苦しい場所になる。このことがどれほど重大なことかと言えば、少子化どころではなく民族の存亡に関わることであり、結婚が日本人の子孫が残らなくなる方向へ進む可能性がある。これは単に生物学的に子孫繁殖が絶たれるということだけではなく、若者の多彩な恋愛感性から生まれる日本独自の文化の火が消えることにも繋がる。
若者の恋愛、それは生物学的に人類が子孫を残すためにプログラムされたひと時の熱病なのだろうか。私はそれだけではないと思う。恋愛というものは、人生の中の最も重大で決定的な意味を持つイベントではないだろうか。動物と人間が異なる所以は多々あるが、その中でも、恋愛感情は他の生物とはかなり大きく隔たっている。生物学的な本能が基本にあるとしても、人間の場合は、人間にしかない意識の変容を伴うことは明らかで、それは人間であるが故の精神性を示す一大特徴である。恋愛には強い精神昂揚の発露がともなう。これを周囲のものが見ると、一種の熱病のように見える。古今東西、恋愛は世界中の文学や音楽、その他の芸術的発想を触発してきたことは確かである。若い時は二度とないという話はよく聞くがまったくその通りで、若い時の恋愛も二度とない性質のものであることもその通りである。若者が恋愛をすることは、その恋愛が結婚という形で成就しようと、あるいは失恋という形で破局を迎えようと、その体験はその後の人生に決定的な影響を及ぼす。恋愛論の大御所であるスタンダールの恋愛に関する彼の持論がどれほど正しいのかわからないが、彼の恋愛論には納得することが多い。私も二十代の時、人並みに鮮烈な恋に身を焦がし(笑)、その悩みの中でさまざまな恋愛論を読んだことがある。内容はほとんど忘れてしまったが、記憶に少し残っているのは遠藤周作とスタンダールの恋愛論だった。
遠藤周作の恋愛論では、恋人に過去の恋愛を聞かれた時、そのことを隠し立てぜずにぺらぺらとしゃべっては絶対にいけないということくらいしか覚えていない。しかし、そのあと読んだスタンダールの恋愛論では「結晶作用」という非常に興味深い恋愛心理のことを説明していた。それを理解してから、狐狸庵先生の語る過去のことを語るなという意味が、わが身の経験を通じて鮮明に理解できた気がした。特に若い女性が恋する若い男性に自身の過去の性体験を語ることはいかなる事情が生じても良くないという狐狸庵さんの指摘は、昔から賢い女性にとっては当たり前のことだった。なぜなら、自分に夢中になっている相手の男が、ほかならぬ自分に対して、想像上の美化を必死に構築させているという強い精神的な作業を進行させているからだ。そのことをスタンダールは結晶化作用と名づけた。これは説明すると長くなるのでスタンダールを読んでもらいたいが、一例として、女性が自身の過去の性体験を話した場合、相手の男はこの結晶作用の精神的作業を即座に中止し、それまでに作り上げた女性の美しい幻影的結晶体そのものが泥を塗られたうえに、無残にも破壊されて粉々になったと感じる。これはほとんど修復できない。私も二十代前半の時、一人の女性に食欲をなくすほど恋焦がれたことがあるが、その女性から過去の同棲体験を告白されて一気に醒めたことがある。あれほど身を焦がしていた自分が冷水を浴びせられたように急激に冷えきったことは自分でも驚きだった。彼女は誠意から正直に言ってくれたのだろう。しかし若かった私の気持ちはいきなり凍った(笑)。これは苦々しい喪失感だった。こと恋愛に関しては何もかも正直であることは罪である。若い人は銘肝すべし。ただし、若くない人々にとってはもちろんその限りではない。(笑)
結晶作用といえば、私は二十代の前半から生々しい現実とは別に、実際には存在しない女性に結晶作用を生み続けてきたことを告白する。ざっくばらんに言うならいわゆる「憧れの女性」のことである。こういうことは特別に私だけではないはずだ。女性の場合はどうかわからないが、男は若い時に理想の女性像を胸のうちに描いて、それを後生大事に幻影として育てていくことはあると思う。その女性像は、例えばオードリー・ヘプバーンや吉永小百合さん(年がわかるかな、これは)などの映画女優だったり、何かの写真で偶然印象に刻まれた女性だったかもしれない。私の場合は後者であり、二十代のある時、映画の雑誌か何かで、たしか満州のことを書いた特集だったと思うが、その中に李香蘭(りこうらん)という女優のモノクロ写真を見たときだった。彼女の写真を見た途端、稲妻に打たれたように李香蘭に惹きつけられ、これこそ理想の女性だと思い込んでしまった。後年、それが国会議員の山口淑子さんであったと知った時も、私の若い李香蘭に対するイメージは変わらなかった。むしろ李香蘭が日本女性であったことに感動していた。私は現実社会で何人かの女性と付き合ったが、胸にある憧れの李香蘭と現実の彼女を比べることはなかった。李香蘭は私の中で永遠化、理想化された女性であって、現実にいるとはけっして考えていなかった。しかし、それはそれで五十路を過ぎる今日まで静かに自分の中で結晶化を続けている。そのことは強いて言うなら、お気に入りの絵を毎日眺めているようなものである。ふと思うのだが、もしかしたら、私はただ目が大きくて美しい女性が好きなだけで、そういう女性を理想化してしまったら李香蘭にたどり着いただけかもしれない(笑)。しかし、私は数年前に李香蘭とそっくりな女性に偶然出逢って大変驚いた。そして心が大きく揺れ動いた。その女性を最初に見たとき、この世に存在しないものがいきなり目の前にあらわれたというような錯覚を覚えた。その李香蘭を目の当たりに見て、私は人生で最も幸福な時を過ごした。もういつ死んでもいいと思った。当の女性は、自分が冴えない中年男に、理想の李香蘭として見られていたことはまったく知る由もないだろう。その女性はすぐに私の目の前から消えて、いつの間にかどこか遠くへ去っていた。しかし、私の胸の中で結晶化されていた夢の李香蘭は相変わらずその場にいた。しかし以前と比べて、ちょっと変わってしまったことは、そっくりな人を見たために若い時から夢見ていた李香蘭は、そのそっくりさんの面影に自動的に修正されていた。より現実的なイメージに変化したと言うべきだろうか。生きているといろいろと不思議なことが起こるものである。
私の李香蘭話はともかく、若い人たちにはスタンダールの有名な「結晶作用」という事実を知ってもらいたい。この結晶作用は実は二種類存在する。一つは、惚れてしまえば、相手の異性に、欠点も何も見えずに盲目的に恋してしまうという結晶作用である。これは相手を完全な美として総体的に捉えてしまうという心理作用である。この段階を超えると、実はもう一つの結晶作用があって、自分は本当に相手を愛しているのか、また相手に愛されているのかという疑念を抱いたり、それを打ち消したりという、自己の内部で心理的な葛藤、すなわちシーソーゲームが行なわれる。そして自分は相手を愛しているし、愛されているという確信が生まれてくる。要するに不安と確信の間を揺らめく心である。これによって第二の結晶作用が進行する。恋愛を経験したものなら、このプロセスはある程度当たっていることは頷けるだろう。言いたいことは若い時の結晶作用は非常に重要であるから、大事にしてほしいということだ。岩石の結晶は美しい。それが形成されるまでは過酷な条件下で長い成長時間を要する。恋愛においては、いい加減な思いで突入すると、この結晶生成過程が上手く行かないことになる。余談だが、次から次へ相手を取り替えている者は、当然ながらこの結晶化は起こらない。起こらないから彼(彼女)は人生の重要な場面で何事も大事なことを得られないことを暗示させる。(もっとも実人生はこういう単純なものでもないが) 若い時の恋愛とは、人生の情緒的な視界を得るという意味で言うなら、ニュートン力学ではないが、初期条件が決まれば人生の軌道や結果が決まってくるようなところがあるということである。人間の情緒性が開けるかどうかは初期の恋愛体験が大きく作用しているのではないかという私の思いである。(さりとて、さほど根拠はない。笑)
要は、若い時の恋愛は二度と手にできない宝物をいきなり与えられたようなものだから非常に貴重なのである。大脳生理学的にも然るべき理由はあるだろうが、恋愛中は感性が研ぎ澄まされ、その人間の洞察力や知的鍛錬に重要な触発を与えていると考える。最も良いことは情緒性が深まることである。日本人の情緒性の究極とは「もののあはれ」である。世界最古の文学である「源氏物語」も相聞、つまりは恋愛が舞台になり、男女の愛が作者のインスピレーションを絶え間なく湧出させている。我々はともすれば恋愛を艶聞という方向で矮小化するきらいがあるが、若い時の純粋な恋愛は人生の喜怒哀楽を深め、芸術的な感性の幅を広げてくれることは確かに言えると思う。思い出してみるとわかるが、若い時代の純粋な恋は見る風景を輝かせ、未来への強い希望と悦びを期待させるものだ。そして、最初は成就する恋より成就しない恋の方がいいかもしれない。これは当事者同志にとっては残酷だが、あれほど恍惚感に耽溺した悦びの実体が失せると深い悲しみを味わう。そうなった時、妙な言い方だが、それまで平板に見えていた人生のコントラストが見えてくる。これも、もののあはれという日本人特有の情緒性を育む大切な感性の入り口になる。恋愛感情とは、それが熾烈であればあるほど「自分とは何者か?」という存在論的な問いかけに対面せざるを得なくなる。当然そこに答えはない。それでも、溢れ出る感情に押しつぶされそうになりながら、彼は熱病に浮かされたように自己探求をする。この情動、この精神の動きが後年の生活の質を決定すると思う。したがって、若い時分に結晶作用を深く経験することは、その人間の人生を強く左右することになると思う。だから若者にとって恋愛は人生教養の必須アイテムなのである。小泉政権が敷いた新自由主義の社会出力として、これが正常にできない恐ろしさが今目前に迫りつつある。一つ気がかりなことがある。それはITの進化、つまりはパソコンや携帯、モバイル等、情報機器の急速な発展によって、若者同志のコミュニケーションが効率と合理性に傾き、ある意味では昔に比べて恋愛は容易にしやすい状況にある。しかし、過剰な双方向的情報の氾濫は、逆に本来的な精神の結晶作用を阻害しているのではないのかという疑問が浮かぶ。このままでは「万葉集」の歌が理解できず、あの芳醇な精神世界を鑑賞できない日本人が育ってしまうような気がする。人間には一人で自然と向かい合う無為の時間が必要なのだ。特に日本人は。
話が妙なところへ逸れてしまったが、これからの日本が国策で新自由主義を拡張する政策を続けていけば、間違いなく富の極端な偏在、つまり傾斜的不公平配分が生じ、日本社会は地獄の格差社会になる。それだけではない、国富を吸い取る目的だけの外資が跳梁跋扈し、日本の企業形態は、奴隷的な様相を帯びるだろう。その時、若者は恋愛が自由にできなくなる。これが国家にとってどれほど重大な損失を招くか考えると空恐ろしい。若い男が恋愛できない境遇に置かれると希望がなくなり、知的触発も、積極的モチベーションも縮退し、日本は国力が極端に低下するだろう。
若い人に言いたいが、スタンダールの語る恋の「結晶作用」というのは非常に面白くて重要なことだ。男女の愛は時代を超えてある程度普遍性がある。したがってスタンダールの恋愛論は現代でも充分に参考になる。一度読んでみたらいかがだろうか。それにしても小野寺光一さんは鋭い。三角合併から若者の恋愛事情の逼迫までストレートに読み取った。私も恋愛に関しては小野寺さんの見解に賛同する。このままインチキな構造改革を進め、アメリカに魂を委ねた自民党に政権を運営させておくと、近い将来に若者はまともな収入も得られず、大切な恋愛もできなくなるだろう。
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