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2007年8月29日 (水)

植草氏、逮捕時及び降車時の状況

   弁護側目撃証言者による逮捕時及び降車時の状況

 ここに提示する二つの状況図は、植草氏が二人の男に強制的につかまれた時と、電車が京急蒲田駅に到着した時、その二人に異常な力で押さえつけられたまま降りた状況を、7月4日の公判に出ていただいた目撃者の証言をもとに図化してみた。(A)図は逮捕時の状況、(B)図は降車時の状況であり、降車時には、二人の逮捕者のどちらかの連れに見えた女性の姿が目撃されているので、その状況も再現してみた。

 (A)図  植草氏が逮捕された時の状況

(※ただし、図中のアルファベット小文字は、検証する会A氏の「目撃証言から見えてくる偽装事件の疑惑」で意味づけされたものを踏襲したので、そちらを参照されたい)

Photo_2




 逮捕時の状況説明

 目撃者が騒ぎに気付いた後、植草氏が2人の逮捕者に捕まれてい た状況は上図のようなものだったのではないか。目撃証人は現場にいた人間でないと知り得ない情報を多数知っていたわけであり、それが、実際に彼がその場所にいたという動かぬ証拠になっていると思う。植草氏が逮捕されたとき、目撃者は被害者女性の存在に気付いていない。被害者女性は目撃者からは他の乗客の陰になって見えなかったのだと考えられる。しかし、逮捕者や植草氏が電車を降りる際、目撃者は、逮捕者の連れのように見える若い女性の後ろ姿を目撃したと証言している。

(B)図  
  植草氏と二名の逮捕者が電車を降りた時の状況、そしてどちらかの逮捕者の連れに見えた女性の存在

Photo_5

 説明
 電車が京急蒲田駅に到着、植草氏を取り押さえた二人の男性と、そのどちらかの連れのように見えた女性が一緒に降りた状況。目撃者はこの女性の服装がセーターにスカートだったと証言したが、これは被害者と称されている女性の服装と一致している。このことも、現場にいた人間でなければ知り得なかった情報である。

 (※ここで非常に重要なことを強調して置きたいが、目撃証人は事件に関する予備知識が無かったということである。弁護人に言われ植草氏は証人と話しておらず、ろくにあいさつすらしていない。植草氏の弁護人からも、被告・原告の証言等裁判の経緯を知らされておらず、自分の知っていることをありのままに話したという事実がある)


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2007年8月27日 (月)

E氏による植草氏第11回公判傍聴記

    この裁判は茶番だ(検証する会E氏)

 植草氏の第11回公判を傍聴した。実質初めてとなる傍聴券を手に、地裁へ入った。希望者177人に対し24人の倍率だった。入館時のチェックを受け、1階の開廷表を確認した。植草氏の公判がある429号法廷には午後も予定が入っていた。その傍聴人数はなぜか38人。

 法廷の入り口前に並ぶと、廊下の反対側にずらっと報道の腕章をつけた記者が並んだ。入廷して席に座ると、そこは記者席だからどくようにといわれ、せっかくのよい席を移動するはめになった。そんな表示があっただろうか?法廷内では彼らは特権階級らしい。2分間の撮影後、植草氏と弁護団がサッと入り着席した。一瞬のことで表情を見ることはできなかった。この日、私は最後まで植草氏の背中だけを見ていたのである。
 なんだか変な始まりだった。以前に傍聴した公判は、必ず「起立してください」の掛け声で、全員が起立していたはず。それがない。ヨーイドンのないまま始まった徒競走をみる感覚で最終弁論は始まった。

<疑 問>

 素朴な疑問がある。なぜ裁判所は一般傍聴者の録音・録画を許可しないのだろうか?公判内容を少しでも把握しようと手帳にペンを走らせる。しかしとても追いつかない。当たりまえだ。素人がいくらがんばっても、限界がある。個々の文言を追えば、全体像はどこかへすっ飛んでしまう。裁判の傍聴を一度でも体験した人なら、おわかりだろう。

 裁判官3人を前にして、左側に検事が一人。右側には3台のテーブル。最前列に植草氏一人、後ろの2台に4人の弁護士が2人ずつ座っている。パソコンとプロジェクターが置かれ、さらにその奥にディスプレイが立てられた。パソコンのパワーポイントを使ってディスプレイに映しだされる映像を用い、4人の弁護士は交代で被告が犯人ではないことを立証していった。ここでまた疑問が湧く。なぜ当初から製作したDVDを上映させなかったのだろう?上映されては困ることが検察側にあったからに違いない。そしてたぶん裁判所側にも・・・

 最終弁論が続くあいだ、植草氏は左腕をテーブルにのせ右手は軽く握り黒いソファのうえにのせ、体をややよじる体勢でディスプレイの方をみていた。たった一人の検事は、初めのうちは腕組みをして聞いていたが、途中から腕を下におろし椅子ごと左右にゆらゆらとスイングしだした。裁判官の様子は書かないでおく。

<ある記憶>

公判が始まり、ややあって記者の出入りがあった。私の横では法廷絵師と呼ばれる人がデッサンしていた。どうせ本当のことは伝えるつもりはないだろう。絵も写真も歪められたものしか使われない。記者は文字で絵師はデッサンで、それぞれ植草氏への悪意の上塗りに余念がなかった。録画機材1個だけ持ち込みを認めれば、かれらは失業する。

 彼らは植草氏をいかに醜く描くか、さぞ苦労したことだろう。「~よって被告は犯人ではありません。」4人の弁護士は一つひとつ事実を挙げ、丹念に無実を立証していった。検事はあいかわらずイスを揺らしながらディスプレイの方に目線を泳がせている。この光景の中で、私にはある事件の記憶が甦ってきた。

 私は植草氏とは一面識もない。縁もゆかりもない。彼に対する感情すらもちあわせていない、つまりファンであったことさえない部外者である。その私がなぜ東京地裁に足をはこんだか?それは初期報道のあまりの異常さにあった。オウム真理教が関わったとされる地下鉄サリン事件は、ここ東京地裁のある霞ヶ関駅でおきた。強制捜査の過程で信者幹部は、前年の松本サリン事件の関与を認めた。警察のずさんな捜査・一方的な取調べ、それら警察の発表のみを踏まえた偏見的な報道により、被疑者とされた人物は裁判開始前に有責者として扱われてしまったのである。報道被害がいかに過酷なものであったかを知らしめたのではなかったか?植草氏の事件の第一報をきいたときも同様の印象を受けた。いやそれどころか、すべてのマスコミが大同団結しているかのようにおもえたのである。オウムへの強制捜査中、国松警察庁長官狙撃事件が起きた。私はこの事件にかなり近いところで遭遇した。あえてこじつけるなら、この狙撃事件につらなるオウム報道と植草事件の報道の相似により、私は植草氏とつながっていると言えるのかもしれない。これらの記憶を下敷きにして植草事件を眺めると、明らかに松本サリン事件の学習効果が見てとれた。いかにすれば一般大衆が植草氏を変質者と思い込むか、その事件を試行しているかのようであった。メディア報道に対し不満を抱くことはあっても、社会の木鐸としての役割を疑ってはいなかった私にとって、植草事件の異常な報道の不気味さは強烈だった。

 11時15分、パソコンorプロジェクターの調子がおかしくなったが3分後には上映再開された。11時38分、植草氏が中央に進み出て意見陳述を行った。初めて聞くその肉声はかすかに震えていた。一人の人間を葬り去ろうとするこの巨大な力はいったいどこからくるのだろうか。無実を証明するためのあらゆる証拠申請を、ことごとく却下されたらいったいどうすればいいのか。植草氏の口から語られた事実に、私は頭がグラグラし血の気が引く思いであった。おそらくマスコミはまともには報じないだろう。なにせ2月公判の冒頭陳述の内容でさえ、書類が渡っているのに公表しないでいるのだから。裁判長は10月16日に判決と言い渡し、閉廷した。

<雑 感>

 一言でいうなら、この裁判は茶番である。前回の品川の事件は、ありえない。あの場所で手鏡で覗くなど、できっこない。品川駅を利用される人は一度試してほしい。絶対に不可能なことに対し、裁判所は有罪判決を下した。私にいわせれば、あれは「太陽が西から昇った」というのに等しい。「それでも太陽は西から昇る」という検察に裁判官は軍配を上げた。彼らを小学校にもどし、4年の理科から学びなおさせるべきである。太陽は西から昇る、ということと同じことを主張する人たちといくら話し合っても、しょせん神学論争でしかない。植草事件とは、警察・検察、司法、マスコミという三位一体の連携プレーが作り上げた、恥ずべき偽装事件である。第一回公判の報道が事実と異なっていたことは、報道記者自身が一番よく知っているはずである。検察も裁判官もみなよくわかって、その上で芝居しているのである。10月16日、裁判長は「それでも太陽は西から昇る」と言い放つのだろうか。有罪であれ無罪であれ、ハナから決まっているに違いない。植草氏が告発したりそなにマスコミは決してふれようとしないことが、この事件のすべてを物語っているからである。

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2007年8月26日 (日)

目撃証言から見えてくる偽装事件の疑惑

目撃者証言から浮かび上がる偽装事件(国策逮捕)の疑惑
  (検証する会A氏の推理)

 7月4日に行われた公判で、事件現場にいた乗客が証言をし、その証人が描いた図面から事件当時の車内の様子が明らかになってきた。この事件には全く関係の無い第三者が勇気を出して名乗り出て証言したわけであるから、偽証などはありえず、これは極めて信頼性の高い目撃証言である。この人は乗車したとき、座席を探そうと、植草氏のまわりをぐるりと回っていて、彼を至近距離で見ており、間違いなく植草氏であることを確認している。

       図1

Photo

 図1は、電車が品川駅を出発した直後から2~3分後、青物横丁駅を過ぎる頃までの車内の様子である。これで見ると、出入り口はかなり混んでいたのかもしれないが、彼の座席の前にはスペースがあり、植草氏の前にもスペースがあり、彼は誰とも密着していなかった。gには年配の女性がいた。kは、その後植草氏を逮捕した人物である。

 被害者女性の証言は、品川駅出発直後から植草氏による痴漢が始まり、それは2分間続いたと言う。しかし、この図を見ても、誰とも密着していないからそれは嘘だということがわかる。訴状にはその二分間に痴漢行為をした事が書かれているが、この2分間は図1の状態であったことを考慮すると、検察側が犯行を指摘した時間帯には植草氏は完全なアリバイが成立している。

 図1の状態の後、青物横丁を過ぎた頃から、目撃証人はうとうとしていたので、何が起きたかは分からなかった。目を覚ましてみたら、植草氏が車内暴力か何かに巻き込まれていて、次の駅で引きずり出されていたという風に思っていた。植草氏の証言も加え、この間に何が起きたかを、素朴に、素直に考察してみると次のようになる。以下は、この事件が偽装だという前提で見た場合の筆者の推測である。

 被害者女性(実際には被害を受けていないので以後「女性」と呼ぶ)はdあたりにいたと考えられる。事件を故意に起こすためには、必ずしも体を密着させる必要はない。裁判で勝つためにはそこまでやる必要はないのだ。我が国の現行痴漢裁判では、女性がさわられたと言えば、その事実があろうとなかろうと99.9%まで有罪になる慣行がある。しかも、仕掛ける側は、座席に座っている人のすぐ前でそんなことをするわけにいかなかった。植草氏は右手でつり革をつかみ、左手には傘を持っていたので、a,bの人たちが見ている前で痴漢だと言ってもすぐバレると分かっていた。女性はリーダー格の仲間から「この人痴漢です」と大声で出すようにと言われていたが、それは無理だった。

        図2
Photo_5  

 青物横丁を過ぎたあたりで突然ヘッドホンをはずし、右回りに振り向いて、仲間から教えられていた「子どもがいる前で恥ずかしくないのですか」という台詞を言った。大声で叫ぶように言われていたが、緊張で大声にならなかったし、「子どもが見ている前で」までは、少し大きめの声が出たのだが、その後は声が小さくなってしまった。泥酔状態の植草氏は、何が起きたか理解できず、しかも少し距離もあったので、自分がとがめられているのではないのではないかと訝しく思って、体を右に向けた。これが図3だ。

     図3
Photo_6

 約30秒後、女性は、至近距離で待機していたkに目線を送り、それを合図に直ちにkがやってきて植草氏を逮捕した。それに同じように待機していたhも加わった。そこで図4となる。

   図4
Photo_4

 通常の痴漢事件ならば、女性が声を出してから僅か30秒後に一般乗客の2人が黙って犯人を逮捕するなどということはあり得ない。女性と加害者と逮捕者の間で暫くの会話(押し問答)が起きて当然である。それが全くなかったので、目撃者はその騒ぎが痴漢事件であるという認識がなかった。彼は植草氏が野次馬とのトラブルに巻き込まれたのだと思っていた。そのことが目撃者が証言しようと思った動機である。ところが、この目撃者の予想に反して、実際は、女子高生と称する人物が、品川駅を電車が出た直後から2分間痴漢が行われたと告訴していたのである。目撃証人はそのことを知らなかったのだが、彼の証言はその2分間の時間帯に対する植草氏の完璧なアリバイを証明したのである。

 目撃証人は重大な事実を語っていた。それはhは野次馬風だったということ。もう一つは女性はkかhのどちらかの連れのように見えたということだ。これを聞いて、どうしてもある種の連想が浮かんでくる。それはこれが偽装事件であるということだ。ある計画に基づいて引き起こされたでっち上げ事件であるという疑惑が浮かぶ。この事件が通常の意味における痴漢事件であるとは到底考えられない。なぜなら不自然な点が山ほどあるからだ。それはすでに様々な人によって指摘されているので、ここでは省略するが、これが通常の痴漢事件ではなく偽装事件であれば、すべでが附合することばかりなのだ。

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2007年8月23日 (木)

ぶれずに「国策捜査論」をやってきて・・

植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー  Shirarezarushinjitsu

 日本で最も誠実なエコノミストである植草一秀氏は、小泉政権のマクロ政策を痛烈に批判し、りそな銀行の政府救済にかかわるインサイダー疑惑を調べるように指摘していた。同時に、小泉政権は旧田中派筋が行なっていた内需系の利権構造を、財務省主導の外需系金融利権構造に切り替えるという極悪な売国路線を敷いた。植草氏は財務省(旧大蔵省)絡みの「利権構造のすげ替え」は「りそなインサイダー疑惑」よりも悪質だと語っている。そういうことを指摘し始めた途端に、植草氏は国策捜査の罠に捕らえられてしまった。彼は小泉政権の痛烈な国策批判をしたために、アメリカの肝煎りで動いている国策遂行関係者や米国エージェントから睨まれ、東京都迷惑防止条例違反罪という偽装事件に無理やり巻き込まれてしまった。国策捜査によって不当な逮捕勾留、不本意な罪状を冠されてしまった人物は植草氏だけではない。最近では、鈴木宗男氏、佐藤優氏、西村眞悟氏などがいる。国策捜査というものは我々一般国民が思う以上に起きている。国策捜査が頻出する時代とは国家の病変がより深刻な事態に移行していることを示す。

 植草氏は新刊本で、自分が国策捜査に嵌められたとは一切語っていないが、第一章の「偽装」を読めば、作者は自分の身の上に起きた出来事にも、言外にその可能性を色濃く滲ませていることが見えてくる。また、巻末の「真実」の中にもそれを疑っている箇所がある。この本を読めば、マスコミがこぞって植草氏の人権や名誉を徹底して蹂躙したことの隠された底意が透けて見えてくる。初期報道は、被害者と被疑者における弁明の対称性が故意に無視されたまま一方的に行なわれ、植草氏個人の尊厳や名誉は完膚なきまでに叩き潰された。この報道被害の一点を取ってみても、この事件がただならぬ政治的背景によって引き起こされていることがわかる。初期報道は、植草氏側の弁明がないままに彼の人格否定に走った。日本のマス・メディアが、GHQ統制時代の閉ざされた言語空間を粘っこく引きずっているにしても、彼らの本分は左翼的な人権報道だったはずである。ところが、植草氏の件に関しては、人権に配慮するどころか、まるで逆であり、異常なほどの個人攻撃に終始している。これは不可解である。明らかにこの偏向報道には権力筋の底意が存在しているとしか思えない。なぜなら、これは国策捜査だからである。

 マス・メディアは、高名なエコノミストが先天的に持った「病的性癖」というイメージを、世間に対してセンセーショナルに印象付けている。このイメージ付与に加担した芸能人が、テリー伊藤氏、宮崎哲弥氏、橋下徹氏などである。テリー伊藤氏は郵政民営化で竹中平蔵氏が仕組んだ、いわゆるB層狙い撃ち作戦に協力した芸能人である。日本放送のレギュラーラジオ番組で、テリー伊藤氏は痴漢冤罪の問題作「それでもボクはやってない」の周防監督をスタジオに呼ぶ話をした時、誰も尋ねていないのに、「明日は監督に冤罪についてたっぷり語っていただきましょう。あ、でも植草さんは違いますからね、彼は違います」とわざわざ念を押した。私は車を運転中に偶然これを聞いていた。テリー伊藤氏に言いたい、あなたは植草さんの事件をちゃんと調べて言ったのか?公判に足を運んだのか。ただ、植草さんが小泉批判をしたというだけでラジオという公器を使って彼を貶めたのか。それとも植草さんが竹中平蔵氏の政策論的な天敵であるという理由だけで犯罪者扱いをしたのか。

  郵政解散総選挙では、小泉首相の偉大なるイエスマンだった武部勤氏は幹事長としてすこぶる豪腕だった。この武部氏と家族ぐるみでご飯を食べる仲の宮崎哲弥氏は、あるテレビ番組で植草氏の経済学と下半身は別なんだよと何の根拠もなく侮蔑し、薬剤治療の必要性を訴えた。宮崎哲弥氏はかなり以前、小林よしのり氏編集の「わしズム」に投稿していた時はそれなりのいい評論を書いていたが、いつの間にか小泉政権迎合のお座敷芸者みたいな立ち位置を取っていた。反権力の牙を失って、権力になびいた情けない評論家である。そして連日テレビで茶の間の品格を下げている弁護士の橋下徹氏、これらの三名はテレビを通じてB層国民に植草氏の病的性癖説を執拗に繰り返し、宮崎氏や橋下氏などは何度も言うが薬物治療の必要まで言及した。拘束され弁明の機会を与えられていない個人にそこまで言う感覚は、もはや人間性を欠いているとしか言いようがない。この人たちは何の根拠があって人権蹂躙的な断定をしたのだろうか。まったくもって恥知らずである。

 彼らは哀れである。目の前の金と売名に目がくらんでも、無実の人間を貶めた罪は生涯消えることはないだろう。歳を経るごとに彼らの目は醜く濁って行くだけだろう。子や孫に、金のためなら無実の人を貶めてもいいんだよと教育するのだろうか。子や孫が彼らの背中を見て何かを学ぶなとするなら、それは「嘘つきはいいんだ」ということだ。彼らは拝金思想を見事に実践している。かくして、マス・メディアは悪意でくるまれた植草氏の病的性癖説を洪水のように報道し、世間に対し一方的に植草氏の性悪論を印象付けた。このように初期報道では、検察と結託したマス・メディアが植草氏の名誉を徹底的に剥奪した。ここで考えてもらいたいのは、事件初期に発生した台風の通過のような印象操作報道は、ただ単に高名なエコノミストのスキャンダルという話題性だけの次元を明らかに逸脱するものだった。そこには世論に影響力のあるエコノミストを徹底的に辱め、貶めるという陰険きわまりない権力側の底意が感じ取られる。植草氏ご自身はそのことを新刊本で、何度か「自分は損なわれた」という表現を使っている。しかし、これほどのむごい目に遭いながらも、植草氏はその理不尽さを説明する言葉を「損なわれた」という、きわめて抑制された表現に留めているのだ。この謙虚さも彼の清廉な人柄を充分に示している。だからこそ「知られざる真実━勾留地にて━」は読むものに切々と真実が迫ってくるのだ。

 初期報道が行なった悪意の世論喚起、すなわち高名なエコノミストの病的性癖がもたらした破廉恥な犯罪というイメージ操作が非常に効果的に広まった頃、彼を嵌めた側が予想しなかった誤算が生じた。そのファクターこそ、ネットで沸き起こった「国策捜査論」であった。植草氏が偽装事件に巻き込まれた2006年9月13日、その翌日の9月14日から私は本ブログで、植草氏は国策捜査に嵌められたのだという説を展開した。京急電車事件に関しては、ネットで国策捜査論を語ったのは私が一番早かったと思う。また、小野寺光一氏などもメルマガで国策捜査説を提示していた。あとで私は「植草事件の真実」という本に国策捜査論を寄稿した。

 初期報道の暴力的な印象付けがあり、その余勢を駆って、裁判では植草氏の有罪結審が早々と出される寸前まで事態は進展した。しかし、政治的な背景による偽装事件の疑いがネットに沸々と湧き上がり、我々が意を決して「植草事件の真実」という本を世に出したために、公判の審議は早期有罪決着という彼らの思惑に反して延びることになった。そのために、植草氏を嵌めた側の予定にはなかった証言者がにわかに法廷に立たされ、多くの矛盾が露呈する結果となっている。裁判官は植草氏の裁定を公正にやってほしい。特に7月4日の弁護側証人は植草氏と何の係わり合いも持たない一般人であり、多くのプレッシャーを排して法廷に来てくれたから、彼が犯行を目撃していないという証言の信憑性はきわめて高い。法廷に立たされる証言者は偽証しないことを宣誓させられる。今回の裁判に関しては、国民は裁判官の裁定基準が公平か否か、検察に肩を持つか持たないかに強い関心を持って注目していることは確かである。従って裁判官は慣習的な「推定有罪」はやるべきではない。

 もしそれをやったとすれば、植草氏の事件が国策捜査であることが国民に認知され、同時に裁判官の民度が痛烈な批判に晒されることになるだろう。

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2007年8月21日 (火)

植草氏第11回公判、傍聴記(8月21日)

(※ この記事はA氏本人の要望により更新されています)

 検証する会A氏による第11回公判傍聴記

 8月21日、植草事件の最終弁論が行われた。傍聴希望者は177名で24名が傍聴を許された。今回はプロジェクターを使いパワーポイントの画面で人の動きも動画を駆使して分かりやすく説明が行われた。
 最初は、被害者が痴漢犯人を植草被告と間違えたに違いないという主張であった。その次が、7月4日に行われた弁護側目撃者の証言に関するものであった。一部報道では、犯行時間にこの目撃証人がウトウトしていて、痴漢を目撃していなかったのではないかとされていたが、これは誤報である。その可能性は検察側も指摘しておらず、被害者の証言どおり犯行時間は電車が品川駅を出発直後から2分間であることは変更の余地はなく、争点になっていない。
 目撃証人はこの2分間は植草氏が痴漢行為をしていなかったことをはっきり目撃したと述べた。

211_4   

 目撃証人が電車に乗り込もうとしていたときにはすでに、植草氏は電車内にいた。つり革につかまっていてうつむいたような姿勢であった。くたびれたサラリーマン風の格好でだらしなく見えた。植草氏の周りをぐるりと回るように歩いて、間近に植草氏の顔を見た。そのときはどこかで見たような顔だと思った。座席の前に立ったら、丁度前の座席の人が急いで降りたので、座ることができた。誰だろうと考えているうちに、彼が植草氏であることに気付いた。

 弁護人は目撃証人の証言が信用できるものであるという7つの論拠を示した。

証言に至った経緯は極めて自然である。彼は事件の目撃の後、植草氏が痴漢犯人にされていることをニュースで聞いて驚いた。事件を目撃して、これは車内暴力事件であると思っていた。車内で植草氏が2人の男A,Bに逮捕された。Aは、静かだった。Bはわめきちらしており、野次馬風だった。女はいずれかの連れに見えた。

 関わりになりたくないという気持ちや、植草氏に対するマスコミの報道ぶりを見て、名乗り出る決心がなかなかつかなかった。それに自分が名乗り出なくても誰かが証言するだろうという気持ちもあった。しかし、植草氏が保釈が認められ出てくる所をテレビで見て、何とかしなければと思った。弁護士と話す機会があり、相談したら植草氏の弁護人にコンタクトを取るよう勧められた。まず弁護士協会で調べたが、植草氏の弁護人の名前は分からなかった。その弁護士は後で調べて連絡すると言ってくれたが、連絡は無かった。植草氏の事務所にFAXを入れた。それは古いFAX番号で使われていなかった。新しいFAX番号を調べFAXを送った。そのFAXを植草氏が弁護人に送った。

 このような経過を考えるとマスコミのプレッシャーもあり、通知が遅れたのも不自然ではない。

証人は事件に関する予備知識が無かった。弁護人に言われ植草氏は証人と話しておらず、ろくにあいさつすらしていない。植草氏の弁護人からも、被告・原告の証言等裁判の経緯を知らされておらず、自分の知っていることをありのまま話した。何を話せば植草氏に有利になるのかさえも知らないで証言台に立った。(これは検察に4回も足を運び、蒲田警察署にも6~7時間もいたという検察側証人のT氏とは対照的である)

証人の証言は詳細かつ具体的で、著名人である植草氏を近接した距離で確認している。セルロイドの特徴のあるメガネについても注意深く見ている。酒を飲んでだらしない格好をしていたとも言っており当時の状況を正確に捉えている。

証人は被害者の声を聞いていないが、被害者は少し大きめの声で「子どもがいる前で・・・」などと植草氏のほうを向いて、つまり証人に背を向けて、話しているだけである。それは青物横丁駅から大森海岸駅の間だったと思われ、証人がウトウトしていた頃だから、聞こえなかったとしても不自然ではない。

証人は、「右側は植草さんが立っている辺り、それから左側は斜め前の男の人がいるような雰囲気で、あとは特に注意して見なかった」と供述した。人の陰で被害者は視界に入らなかったのではないかと思う)

 それは下図のような周りの人の位置関係を考えれば理解できる。

 弁護側目撃証人が証言した車内の様子は図1で示す。これは弁護側証人が、証言台で裁判官の前で手書きで描いたものがスクリーンにそのまま映し出され、それを筆者が書き写したものである。これにより事件発生当時の車内の様子が初めて公開された。(この図は今初めて本ブログによって公開される)

  図1 弁護側証人の見た被告人位置およびその他の乗客

1_4   

 弁護側証人によると自分の前には、人がいなかった。逮捕者Kは自分の右前にいた(図1で植草氏の下に描いた人)とのこと。この証言を基に描いたのが図1。これは「犯行時間中」の様子を最も正確に再現したものと思われる。なぜなら、弁護人証人には嘘を言う必要性が全くないからである。わざわざこのような証言に来ても彼には何のメリットもないし、逆にマスコミからの大きなプレッシャーがかけられているというマイナスの条件下にあった。

  図2 逮捕者K証言に基づくK証人の位置を書き加えた位置

2

 ところがK証人は、端から2番目の前に立っていたと証言している。ということは、弁護側証人の前ということになる。検察側は、K証人が邪魔して弁護側証人が植草氏を見ることができなかったはずだと主張した。このケースを図2で示したが、やはりこの場合でも彼は植草氏を見ることができる。

 そもそも逮捕者K氏の証言は本当に信用できるのだろうか。彼は、植草氏を車内で一人で捕まえたと言うが、弁護側証人は植草氏は車内で2人によって捕まえられたと言っている。K氏の証言では、もう一人の逮捕者は、駅のホームに出てから乗客の一人が協力してくれたと言っている。さらにおかしいのは、駅ホームに出て暫くしてから周りの人に駅員を呼んでもらい、駅員と共に駅事務室に連れて行ったと言っているが、もしそうなら、駅事務室に着くまでかなり時間が掛かったと思う。警察と駅の記録では、電車が駅に到着してから、駅事務室に着くまで2分10秒以下だったとされている。要するにK証人は事件発生現場にいなかった人だから、当時の事件状況がまるで分からず、このような出鱈目なストーリーを作り上げてしまったということではないのか。

 検察側の証人T氏によれば、逮捕者K氏は私服であったと言っている。(第二回公判速記録参照のこと) もし私服警官がこのように近くで待機していたのであれば、この事件そのものがでっち上げの疑いが大きくなり、その発覚を恐れた検察が、替え玉に証言させたのではないかという疑念が出てくる。K氏の証言に、現場にいた人であれば絶対に間違えないような根本的な間違いが含まれていることを考えれば、K氏は替え玉である可能性が濃厚になる。

 弁護側証人は、被害者女性は2人の逮捕者の連れのようだった、逮捕者の一人はごつい感じだったと言っている。この証言を素直に解釈すれば、逮捕者と謎の女性(被害者とは言っていない)は仲間内である可能性を髣髴とさせるものである。そもそも弁護側証人には植草氏が事件に関わったという認識はまるでない。従って彼の中では被害女性は存在しない。しかし、逮捕者の連れのように見えた女性は実際にいたと証言している。

時間の経過に関する証言内容が、具体的な駅名を基準とするものであったり、車窓の風景や駅の看板で特定されており、信用性が高い。他の証人の供述では、漠然として時間を言っているだけだから、それと比べて信用性が高いと言える。

位置関係に関する証言も進行方向の左側のドアの2人目の座席に座っていたというものであり、極めて正確な位置、向いていた方向の指定ができており、信用性が高い。



追加
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 T証人供述(第二回公判に出た検察側の証人)の信用性について

 メガネについて覚えていない。しかし、植草氏は印象に残るメガネをしていた。《ここでメガネをした顔としない顔の比較がスクリーンに映し出された》しかも、彼はうつろな目をしていたと言っているのだから、目ははっきり見ているわけである。ということは、彼が見た人物は植草氏ではない。植草氏は重いカバンを肩に掛けていた。T氏によると、植草氏の重心が右に傾いていたと言った。右肩ははっきり見えたと言っているのに、カバンは見ていない。やはり別な人を見ていたに違いない。また、重心が右に傾いていたのであれば、右肩に掛けていたカバンは肩から落ちるはず。《この様子もスクリーンに映し出された》

 T氏は犯人の指先も、手の甲も、袖口までも確認している。植草氏は左手に傘を持っていたのだから、もし、女性を触っていたのなら手首に掛けていたに違いない。しかし、彼は傘に気付いていない。実際、傘を手首に掛けていたのなら、傘がはっきりと見えるはずだから、やはり別人を見ていたとしか考えられない。《手首にかけた傘の図がスクリーンに示された》

 T氏は、植草氏が事件当日よりやせたのに気付いていない。実際は66~67kgから、58kgにまで痩せてしまっていた。本当に植草氏を見ていたのなら痩せたことに気付くはずであり、気付かなかったということは、別人を見ていたことになる。

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尚、次回公判は10月16日、午前10時から開廷。判決が言い渡される予定である。今、神坂裁判長以下、裁判官の公正な裁定判断が強く注視されている


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2007年8月19日 (日)

竹中平蔵氏の無反省の裏に・・。

        植草氏逮捕は国策逮捕だな、3+10+10=23日越えて勾留だって?法的根拠は?言えるものなら言ってみろ(笑)バナー      Shirarezarushinjitsu    

 今日のフジテレビ、「報道2001」に竹中平蔵氏とエコノミストの浜矩子氏が出ていて、世界同時株安状況について語っていたようだが、私は小泉構造改革の是非について討論していた部分しか見ていない。しかし、竹中と言う御仁は小泉・安倍政権のマクロ政策に最も重要なかかわりを持った当事者だったわけだが、彼はこの路線のマクロ政策的失敗に何の責任も感じていないことはただ呆れるだけである。それどころか、景気を向上させてデフレを克服しなかったことが第一の問題だということをしゃあしゃあと言ってのけている。

 米国のサブプライムローン問題による世界株式市場のショックについては、竹中氏や浜氏が何を語ったのか見ていなかったが、小泉構造改革の最重鎮だった彼が他人事のように構造改革を語っていたことは本当に不愉快な気分だった。何が景気回復によるデフレ克服だ。恥というものがまるでない発言だ。これじゃ植草氏や森永卓郎氏たち良心派のエコノミストが初期に警告していたことを今頃になってそのままパクっているだけではないか。何という醜悪なる宗旨替えだ。小泉・竹中路線の何が最も忌まわしいのかと言えば、彼らが構造改革の真の目的が新自由主義体制に日本を転換するということを国民に説明しなかったことだ。 むしろ、その真相を国民に誤魔化しながら性急に新自由主義に持っていったことは国民に対する許されざる背信行為と言ってよい。

 植草氏が指摘するように小泉政権初期の破壊的グランドデザインによって、2003年には日経平均株価は7000円台まで下落した。小泉政権五年半に日本の経済力の屋台骨はガタガタに疲弊したが、政権初期からりそな銀行の異常な取り扱いまでのわずかな期間に、日本経済の底力は竹中氏たちの人為的な政策によって病的に痛めつけられたと言ってよい。具体的に言うなら罪のない中小零細企業を不必要に苦しめ、健全な金融業態を破壊してしまったからである。日本経済を破綻寸前まで追い込んだ当事者の一人である竹中氏が、自身の行なった破壊的政策には口をつぐんで、傍観者のように「景気対策」が重要だなどと言うに及んではまさしく時代劇の悪代官の所業を目の前で見せ付けられているようなものだ。現代の悪夢である。

 植草氏の言うように、現在の格差社会や弱者の困窮傾向は「人災」なのである。その最大の戦犯である竹中氏が、植草氏に警告されていたことを今になって鸚鵡返しに言っているのはなぜだろうか。これは明らかに構造改革の責任逃れであろう。今頃になって、自分は売国路線とは無関係だと言わんばかりである。自身で緊縮財政を強力に実行、デフレ・スパイラルに導いておいて、今頃になって財政健全化は景気浮揚策だなどと、植草氏のお株を取るような発言をしている。まったく見下げ果てた人物だと思う。竹中氏は植草氏が逮捕される時分には植草氏の主張をほぼ全面的に取り入れているが、自身が行なった初期政策の誤まった政策をきちんと総括して責任を認めていない。終生その汚点をごまかし続けるつもりだろう。彼は小泉前首相とともに、初期グランドデザイン実行の破壊性は認めない様子だ。実はその汚点を国民に明快に反省して、謝罪できないわけが彼らにはある。なぜなら必死で隠蔽しようとするその汚点の中にこそ、対米隷属の売国本質が秘められているからだ。そのことは植草氏の最新刊である「知られざる真実 ━ 勾留地にて━」に最も的確に説明されている。

 竹中氏本人が植草氏を嵌めた人間だとは断定しないが、少なくともりそな銀行問題も含め、初期構造改革の過ちを糊塗しようとする勢力が植草氏の口を封じるという姑息な手段に出たという可能性は大いに考えられるのだ。あ、そうそう、肝心なことを言い忘れていた。竹中氏も最後の方で、バラマキ政治か構造改革かの二分法を臆面もなく語っていた。しかも、そのバラマキ政治の象徴として、国民新党を目の敵にしていたように思う。国民はだまされてはならないと思う。小泉政権が行なったこの悪魔の二分法によって、真面目に働いてきた人間の多くが経済苦で自殺したし、社会的弱者がますます苦しくなる方向に社会が向かっている。バラマキというペテン言葉によって、社会のセーフティネットが崩壊した事実をよく見極めた方がいい。弱者を苦しめて一部の金持ち連中が異常に富むという米国型傾斜配分社会にシステムを転換したのは竹中氏である。また竹中氏は与野党のねじれ現象については、政策がどのように変わってもきちんと明確な旗を立てればいい、我々(小泉・竹中政権)は明確に旗を立て、それが国民に支持された。今回の民主党もちゃんと旗を立てればいいんですよと言った。

 しかし、彼の言った「旗立て論」は大いに疑問である。郵政民営化是か非か、構造改革に疑念を呈するものはすべて抵抗勢力だと言ったことが旗を立てたと言う事なのか。そうではあるまい。これは恐怖政治そのものだった。上に立つ為政者が本当に旗を立てる行動とは、政策の本質が何であるかを国民にわかりやすく説明することだ。説明責任を誠実に履行することだ。ところが彼らは構造改革の本質が、アメリカの意向で行なう新自由主義であることを国民にひた隠しにした。構造改革か、それとも旧弊なバラマキ政治かの二者択一は、本質を矮小化する悪質なペテンだったのである。

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2007年8月17日 (金)

警醒の名著「知られざる真実 ━勾留地にて━」

Shirarezarushinjitsu_2  植草一秀氏の「知られざる真実 ━ 勾留地にて━」をじっくり通読した。一言で言うなら、これは植草氏ご自身が自己の立場の弁明に終始した本ではない。全体を通じて、彼の魂から発した一貫したまなざしに基づいてことの真実が描かれている。彼が突然に巻き込まれた耐え難い不条理の嵐、個人を恣意的に狙い撃ちするマス・メディアの暴走に熾烈な怒りを発するとともに、このようなできごとを許容し、誘発する今の日本の巨大な歪曲に対して鋭い考察を加えている。

 今の日本が、政治的に文化的に何かおかしいぞと感じている人間ならば、植草氏の非凡な知性と天賦の洞察力が、自身の事件を通じて読み取った日本の救いがたいゆがみを冷静な視点で見ることができるだろう。この本は、身に覚えのない事件に巻き込まれた者が行なう単なる弁明の書ではない。日本人としての美徳と良心を決して捨てなかった植草一秀という人物が著した渾身からの警世の書である。弱い個人が理不尽な暴虐に巻き込まれ、一旦は絶望しながらも、不撓不屈の精神で巨大な不条理に立ち向かった勇気を見てもらいたい。この本を読んで心底感じたことだが、私自身の小泉構造改革批判が間違っていなかったことを確信した。と同時に、この書物は非凡な才能を持ち、いわゆるエリートコースを歩んでいた植草氏が、己の良心と節を曲げずに人間として貫き通した勇気ある魂の格闘録でもある。どん底の命運の中で植草氏が勝ち取った日本人としての魂の苦闘、そして矜持、不退転の勇気がこの本にはあますところなく示されている。

 今の日本にそれなりの危機感を感じる人ならば、この書物を読んで得られるものはあまりにも大きい。日本という国の巨大なゆがみは、対米隷属構造という歴史的に根深い背景を持っているが、為政者も官吏もその隷属構造に絡め取られていて、自国の主体性を省みないところに問題の核心があることをこの本によって痛感することだろう。植草氏の問題を深く掘り下げて見ると、今の日本が置かれている米国傀儡国家としての哀れな姿と、それに滅私奉公をやって恥じない醜悪な日本人の姿が浮かび上がってくる。「神州の泉」管理人の私が断言するが、この本は単なる個人の冤罪弁明の本ではない。今の日本を覆いつくす暗雲の正体を鋭く描き、何が問題の根幹なのかを鋭く暴いている。同時に植草氏の人間としての正直な思いが随所に表されていて、文学的にも偉大な書物であると思う。

 御用学者とは人間として脆弱というか勇気がないのである。しかし、植草氏のように自分の良心をけっして捨てない有識者は、国民を犠牲にして自己利益をむさぼる亡国の輩に憎まれてしまうのである。この本を通読して感じることは、内容には醜悪な自己弁明は微塵もなく、そこにあるのは、間違いを間違いだと言い貫いた者の魂のすがすがしい世界が広がっているだけである。私のような半端な者が言うのもおこがましいが、この本には偉大な文学書に通じる魂のカタルシスが確かにある。私は読者にそれを感じてもらいたい。魂の苦闘を経た者だけが書けることが書かれてある。この本を手にする者は得がたい僥倖に恵まれる。自分の運命を呪う者は多くいるが、植草氏の場合は耐え難い運命を呪うことなく、その天賦の才能でそれを昇華し、この理不尽な社会の姿を完全に書物に描ききったのだ。これは凡人に敵う芸当ではない。私はしばし、自分が彼の支援者であるという立場を忘れてこの本に読みふけった。不適当な言い方かもしれないが、それほどこの本は面白いのである。面白いと感じることは、内容に対する深い共感とともに、作者の言語表現につむぎ出された世界観を私もかなり共有しているからだろう。

 植草氏の事件は実は三度に渡っている。一回目は、1998年の東海道線でのできごと、二回目は2,004年の品川駅構内での手鏡事件、そして三回目は2006年の京急電車内のできごとである。断言するが植草氏は性犯罪としての視点から見た場合、この三度とも事実無根である。ではなぜそう言い切れるのか。一度目の事件は相手女性の錯誤的心理(誤解)から生じた不幸なできごとが、警察の密室で強要されて作られたいわゆる「人質司法」がもたらした「冤罪」だからである。二度目と三度目は、この一度目の不本意なできごとが徹底的に悪用された「国策捜査」だった。これは本ブログや「植草事件の真実」、「紙の爆弾」の記事でも展開した。私は植草氏の新刊を読んでみて、自分が展開した国策捜査論がけっして間違っていなかったことをあらためて確信している。三度の事件を客観的に検証できるように植草氏はこの本で内容を詳述している。読む人はマスコミに毒された先入観念を取り払って、その記述を虚心坦懐に読んでみて自分の目で咀嚼してもらいたい。

 私が確実に言えることは、第一章の「偽装」に書かれた内容と、巻末資料の「真実」を読めば、彼が国策捜査という政治的な策略に陥れられたことがよく見えてくるということだ。第二章には彼の経歴や趣味、惹かれた事柄などが出ているが、これにも彼の良心や人間性の基層が素直に出ていて、その性質が第一章「偽装」に書かれているように、植草氏が巨大な悪を許せないという熾烈な社会糾弾を行い、筋を曲げないで向かっていく人間であることが良く見えている。汚れた権力を持つ謀略側から見れば、植草氏ほど籠絡しがたい有識者はいないだろう。欲得に溺れず、脅しに屈せず、名利を求めない有識者。このような人物は汚れた実力者から見れば、度し難い邪魔者なのである。この本全体を通して植草一秀という人物像が非常によく出ている。

 私個人は植草氏の歴史観や官僚の捉え方に、必ずしも全的に同意するわけではないが、それでも基本の世界観には共有するものが多くある。それは社会的な弱者を救済する方便が存在しない社会は社会全体が脆弱性を持つという視点と、経済や政治は遍(あまね)く人々すべての幸福原理を実現することにあるという基本理念である。皆さんに問いかけるが、この日本に経世済民(けいせいさいみん)を本気で問いかけている経済学者や為政者が一体何人いると思われるだろうか。植草氏は紛れもなくその中の稀有な存在である。だからこそ、売国的な実力者が、植草氏の世論喚起を何よりも恐れて彼を不名誉のどん底に突き落としたのである。この本を読めば、目のあるお人なら、彼が国策捜査に嵌められたことが当然のように見えてくるだろう。

 この本は一人でも多くの人に読んでもらいたい。繰り返すがこれは単なる冤罪弁明の本ではない。この本を読むことによって、今の崩れた日本を建てなおすヒントが随所に見つかることを私は請合う。各章についての詳述は近々に本ブログで公開する予定だ。今は、この稀有な本を皆さんに強くお勧めする。

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2007年8月12日 (日)

今日の「NHK日曜討論」を見て

NHKの「日曜討論」を見た。番組の構成は以下の通り。

テーマは「“ねじれ国会”日本政治のゆくえは」            
                              
第1部                           
                  (参議院議長)江田 五月
   (政策研究大学院大学教授・21世紀臨調主査)飯尾  潤
                              
第2部                           
        (国際公共政策研究センター理事長)田中 直毅
             (北海道大学大学院教授)山口 二郎
             (名古屋外国語大学教授)高瀬 淳一
   (政策研究大学院大学教授・21世紀臨調主査)飯尾  潤
                              
                (NHK解説委員)島田 敏男

 第一部の江田五月参議院議長の話は除いて、第二部の討論は実に印象的だった。この討論の主旨は、今回の参院選挙を受けて、衆院と参院の支配議席が、自民党と民主党で逆になってしまうこと、誰が言い出したか知らないが、この状態を「衆参のねじれ現象」と呼んだ。このねじれ構造について、各識者連中にその分析と今後の展望を聞いていた。私ごときのどしろうとが、ここに集まった学者連中の議論を的確に評論できるとは到底思わないが、それでも私の印象に際立って残った二名の主張があった。

 一人は名古屋外国語大学教授の高瀬淳一氏であり、もう一人はこれに対蹠的な立場を持つ北海道大学大学院教授の山口二郎氏である。他の学者連中の論考はどうでもいいというわけではないのだが、少なくともこの二名の政策解釈は小泉政権、そしてその構造改革を踏襲した安倍政権の本質的な部分での解釈に、それぞれの立場から実に明確にわかりやすい形で説明されていたと思う。議論の発端は田中直毅氏が、今回の衆参両院のねじれ現象は小泉・安倍路線において、保守とリベラルの政策本質が明瞭に現われてきたことがきわめて特徴的であるという考えを言った。そう言ったら、北海道大学大学院教授の山口二郎氏が、そうではなく、このねじれ現象、すなわち国民が参院選で圧倒的に民主党を選んだのは、小泉・安倍の行なった「構造改革」そのものの是非が国民によって判断され、構造改革が明らかに間違いであったことがそのままに出た結果だと言った。

 これに対して、名古屋外国語大学教授の高瀬淳一氏は、構造改革の失敗を誇張しすぎると、旧来の「ばら撒き」政治の復活を奨励することになって危険であるという論調を展開し始めた。一時間の討論でこのお二人の学者さんの対論主旨は、小泉構造改革の是非論に終始していたが、私としては実に興味深く二人の話の進展を聞いていた。山口氏は2005年の郵政解散総選挙が、そもそもこの構造改革の大間違いを象徴する出来事であり、郵政民営化是か非かなどというシングル・イシューで国民の総意を問うこと自体が異常であると言った。これに対して高瀬氏は民主党が大きな危険を孕んでいるのは、ポピュリズムがこれから出てくる可能性が大であると言った。世間的にはポピュリスムは小泉純一郎氏のワンフレーズ・ポリティクスを指すようだが、構造改革を否定した形になった民主党は、それと同じポピュリズムによって、これから官僚批判と現金給付(ばら撒き?)の旧態依然の方向性を持つかもしれないとわけのわからないことを言っていた。要はマスコミや現与党によって、小沢一郎氏に不当に付与された旧田中派型の金権利権政治に逆戻りする可能性が大であることをこの高瀬氏は熱心に繰り返していたと思う。つまり高瀬氏の主題は明らかに「ばら撒き」政治への回帰への懸念であった。気をつけてもらいたいのは、ここにも「バラマキ」というペテン言葉が使用されていることだ。この言葉にはケインズ的財政出動の無条件な全否定が込められている。断言するがこの高瀬氏は小泉マンセーの典型的な御用学者である。

 これに対して山口二郎氏は、構造改革が国民の生活や地方の活力を完全に疲弊させた間違った政策であったことを繰り返して表現していたと思う。このお人は明らかに植草一秀氏と同次元の立場でものを言っている。この日曜討論の主題はこのお二人によって完全に言い表されていたように思う。山口二郎氏の言葉で感動したことは、彼が「政治とは再分配のことである」と断言したことである。まったく大賛成である。社会とは富の再分配が健全に行なわれるシステムが機能するからこそ、弱者や底辺層が絶望しないで生存権を行使できるのであり、これが破壊されるような政策はすでに政治ではなく独裁なのである。この基層的考えは植草氏の政治思想とも一致している。また山口氏は小泉・安倍構造改革に実に本質を衝いたことを語った。それはこれらの政策本質が二つの思考停止に支配されていたと言う。一つは構造改革の思考停止であり、もう一つは日米関係の思考停止であると。

 これからは管理人(神州)の拙論なのだが、実は構造改革も日米関係も根は一つの悪しき構造に支配されていたことは重要である。それはアメリカによる対日経済占領のことだ。これを指摘せずして構造改革の是非論を問うことは虚しい。アメリカが奸佞邪知なのは、年次改革要望書の正当性を、旧田中派がもたらしていた金権利権政治の完全否定と、官僚の腐敗体質を根こそぎ改善するというきわめてわかりやすい理由に置いていることだ。これに加え、旧田中派に怨恨を抱き、郵政民営化に異常な情熱を持っていた小泉純一郎氏を構造改革の象徴(旗振り)に祭り上げたことだ。小泉政権の五年半に、日本の従来構造は完全に破壊されつくした。その結果、企業ガバナンスはアメリカナイズされ、日本全国の優良資産は外国資本に激安で買い叩かれ、格差は固定化した。その中には通常の優良不動産のみか、日本文化の精髄の一つでもある温泉観光資源まで外資の貪欲な胃袋に飲み込まれている。日本が弱肉強食、市場原理主義に席巻されている。つまり、この五年半に国民が激痛として実感したことは、社会のセーフティネットが完全に壊されたことであろう。言葉を換えて言うなら、それは公平配分(富の循環社会)構造が破壊されて、弱者だけが傷を深くする極端な傾斜配分社会が実現されてしまったことだ。参院選の結果は、国民が民主党を政治的に選んだものではない。それは小泉政治に対する絶対的な拒絶と受け取ってもいいだろう。何が今湧き上がっているか。それは一般庶民の生活の質(QOL=Quality of Life)の低下に対する耐え難い呻吟(しんぎん)、そしてどうにもならない悲鳴である。参院選は小泉構造改革に対する明らかなノーなのである。

小泉・安倍政権の構造改革が国家破壊であることはもはや明らかである。山口二郎教授は政治は再分配だと言った。小泉政治は間違いだったなどという生易しいものではない。小泉政権は、国民に対しては修正政治的な装いを凝らしたが、その政策本質はアメリカの意志による革命であった。つまり、彼の行なったことは、アメリカ利益誘導を行なう方向に自国経済の構造を急激に転換した、言わば完全なクーデターなのだ。アメリカの完全傀儡国家に我が国を導いたのである。これが国政デザインの描き違いならばまだ許せる。しかし、このクーデターは明らかに国家破壊活動(国家転覆)そのものであり、破防法の適用対象にするべきだ。小泉構造改革がオウム真理教と同レベルの国家犯罪であることをはたしてどれくらいの国民が自覚しているのだろうか。政権発足以来、二年間は急激な新自由主義方針を堅持して株価を7000円台までに激落させ、金融恐慌寸前まで導いた。しかしパニック寸前でりそな銀行を国庫救済したことによって自己責任原則を放擲した。彼らは政策指針を180度転換して何の説明も行なわずに国民を煙に巻いた。ここに彼らの政治思想が国益に合致するどころか、当初から国益毀損を目指していたことがよくわかる。その結果、老人や病人、身障者など、社会的弱者や底辺層が不必要な犠牲と苦吟を強いられることになった。

 構造改革の深刻な本質は、日本の行く末を旧来の閉塞政治か、それとも新しい構造改革かの二者択一論に矮小化したことにある。しかも、この新しい政治体制がアメリカの間違った進歩史観の概念に合わせてあることである。旧態依然の政治形態は修正方針で進むのが順当であり、アメリカに押し付けられた社会ダーウィニズムに支配された新自由主義に変換することは、苦境の脱出どころか、地獄への直結であることを悟るべきである。富の健全な循環構造を破壊する政治思想(端的に言うならフリードマン・モデルのこと)が国民の幸福を担保できるわけがない。原理的に駄目な政策を使用した小泉氏と竹中氏は歴史的な国家破壊者として弾劾すべきである。

 日本人の悪い癖は、起きた物事の「総決算」をしないことにある。小泉政権は国民の総意で絶対に弾劾するべきである。そうしないと同じ地獄がこれからも繰り返されるからだ。今日の日曜討論には出るべき人が出ていなかった。それは植草一秀氏である。混迷の今日こそ、彼の頭脳が必要なのに、彼は国策裁判で手足を縛られている。まことに由々しいことだ。

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2007年8月 9日 (木)

米国にノーを言った小沢氏を評価する

 民主党の小沢一郎代表は8日、党本部で11月1日に期限切れを迎えるテロ対策特別措置法の延長を巡って米国のシーファー駐日大使と会談した。シーファー氏はアフガニスタンでのテロ掃討作戦に関連する同法延長への協力を要請。小沢氏は「残念ながら米国を中心とした活動には参加できない」と、拒否する考えを明確にした。小沢氏とシーファー氏の会談は初めて。

 会談は約45分間。小沢氏側の要請で記者団にすべて公開された。小沢氏は延長に応じない理由について「直接的に国連安全保障理事会から承認されていない」と説明。「民主党は国際平和のために日本が積極的に貢献しなくてはならないという思いは自民党以上に持っている」と述べたが、参加条件については「あくまでも国連活動」との立場を堅持した。

 シーファー氏は「この問題に党は関係ない。超党派で考えるべきだ」と強調。国連決議がないことを理由に協力を拒む小沢氏に「国連決議1746を見てもらいたい。国連が認める活動と明記してある」と述べ、「決議」解釈を巡り、会談は平行線をたどった。(23:03)                              

     (2007年8月8日 NIKKEI NET)

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我が国は日米関係を上手に保っていかなければならない運命に置かれている。しかし、東西冷戦構造(米ソ二極構造)が氷解したあと、アメリカは狩猟民族アングロサクソンの収奪性を露骨にむき出しにしてきた。そういう本来の原点に戻り、アメリカは世界の経済体制に覇者として君臨する方向を定めた。こういう世界史的な潮流において、日米同盟は否応なくその質的方向を変えざるを得なくなっている。米ソ冷戦時代、日本はアメリカの核の庇護の中で経済成長に専心できたが、冷戦が終焉したあとは、アメリカははっきりと我が国を経済的な敵性国家と定め、二国間経済関係は時を経るほど、その利益のアンバランスは顕著になっている。

 巨大な国際金融資本が仕掛けたグローバリゼーションという激流の中で、アメリカは世界各地に自国利益の罠を仕掛けていった。そのためには無理やり相手を悪逆な国家と位置づけ、当然のように巨大な軍事力で相手国の領土を侵略した。最近ではテロ対策という名目でアフガニスタンやイラクを不当に侵攻している。小泉政権は米軍の不正義なイラク侵攻を、ブッシュのお先棒を担ぐような言い方で何の検証もせずにいきなり賛同し、自衛隊を国際援助という名目でイラクの戦地に送った。まさにアメリカの飼い犬的行動様式そのものである。

 さて8日に行なわれた米国駐日大使シーファー氏と、民主党代表の小沢一郎氏の対談は戦後政治史の中でも異例のことだったが、小沢氏はテロ特措法の延長には応じられないときっぱりと言い放った。小沢氏の言うとおりである。アメリカがごり押し的にイラクに攻め入ったあとで、大国のエゴをむき出しにして国連に無理やり追認させた形になっているのは誰もが知るところである。しかも、イラクには大量破壊兵器の痕跡さえも見つからなかった。こういう流れの中で成立したテロ特措法には延長の根拠はまったくない。国際貢献というのは正義がなければならない。大国のエゴで作った偽りの正義などに同調したら、日本の独自性は完全に消失して世界の笑いものとなるだけだ。しかもそれによって蒙る利益は何もない。米国の犬、犬は飼い主に絶対に服従だがまだ餌は確保できる。しかし、日本は飼い犬以下だ。なぜなら自分たちが喰うべき餌も米国に取られているからだ。この状態をバランスと抑制の取れた二国関係だなどとほざいているポチ政治家がいる限りこの国は落ちる一方だ。

 私は小沢氏の肝っ玉の大きさに、かつての田中角栄の土性骨を見た感じがした。田中角栄の日中国交回復については、歴史的にどういう評価を下されるのか私には判断は付かないが、彼の対米認識は戦後の宰相の中でも断トツに立派であったと思う。少なくとも田中は米国と対等に対峙しようとした。ロッキード疑獄はアメリカの策謀である。これには二種類の背景が存在していると思う。どちらも黒幕はアメリカだ。一つは日本の航空機産業が発展しないように頭打ちをやったことだ。自衛隊で使う軍用機や民間のジェット旅客機を日本独自の優れた技術で造られたら、安くて良い製品の需給関係からアメリカが敗北するからだ。特に日本製のジェット旅客機が世界に羽ばたくことを米国は警戒していたと思う。また日本が独自に航空機を作ると、アメリカは日本という優良顧客を失うからである。もう一つの背景は田中が中東経由以外の原油輸入を考えたことである。これが石油メジャーの逆鱗に触れた。石油メジャーとアメリカのエスタブリッシュメントが田中角栄の民族利益を打ち砕く目的で一致したということだろう。田中角栄の失脚した理由は、彼が戦後登場した唯一の民族主義的宰相であったから狙われたのであり、それをガードする政治家と国民がいなかったからである。

 この偉大な宰相の薫陶を受けて育っているのが小沢一郎氏である。小沢氏の国連中心主義には異論はあるが、少なくともシーファー大使にきっぱりと、テロ特措法は米国のエゴの上に築かれた暫定立法だという見解を示したことで、田中角栄譲りの腹の座り方を見せ付けたというところだろう。小泉前首相、安倍現首相、どんなにきれいごとを言っても、米国のポチを前提としたら、それは飼い犬の吼え声でしかない。

 それに引き換え、人類のチンピラ・ヤクザである米国にノーを言える人材は貴重である。小沢氏の真の展望がどこにあるのか知らないが、田中角栄の肝の据わり方を持ち、国益をきちんと考える彼に当面は国政を任せたほうがいいように思う。しかし、最も本来的な日本国宰相には西村眞悟氏がふさわしい。小沢氏は大同的な見地で西村眞悟氏を民主党に復帰させるべきだ。山崎行太郎氏も小沢氏の「人間力」を評価していた。政治は頭ではないと思う。知力が優れていても、人間的に他者を感化できなければそれは政治とは言えない。そういう意味では西村氏も、小沢氏も、かつての政治家らしさ、すなわち「人間力」が残存している稀少な実力者というべきだろう。

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2007年8月 8日 (水)

良き知らせ!!!

 一昨日、植草一秀氏ご本人から、彼の手紙とサイン入りの新刊書「知られざる真実 勾留地にて」が私宛に届いた。

 私は植草氏のミーハー的ファンではまったくないのだが、日本では最も偉大な経済学者だと信じているので、この配達には近頃になく幸福な気分になった。新刊書についてはすでに手に入れ、じっくりと噛み締めて読んでいる最中だが、ご本人のお心遣いが嬉しくて、届けられた本は私の宝物として、最上級のコレクションに加えた。

 私はすぐにでも書評を書きたいが、こういう重要な本は充分に時間をかけて読むことにしている。今、第一章の「偽装」をじっくりと何度も吟味しながら読み進めている。「小泉政権五つの大罪」、「標的にされたりそな銀行」、「巨大国家犯罪疑惑」などを読み砕いているうちに、宮崎学氏が監修している「Web直言」で、植草氏の話をもっと詳しく知りたいと思ったことが、実に直截に簡潔に語られていることに感動し、思いっきり溜飲が下がっている。これは私利私欲を突破した人間にしか書けない内容だ。

 今言えることは、りそな銀行が国家的な謀(はかりごと)で偽装的な窮地に立たされ、土壇場の段階で抜け穴的法律の適用により、国家救済された時、実は日本の金融システムは大崩壊寸前にあったことを植草氏は指摘している。権力を恣意的に使用できる立場にある何者かによる故意のシステミック・リスク創出である。日本の有識者の中で、りそな銀に関して、この大崩壊の危機を見抜き、警告していた人は植草一秀氏だけであったということだ。しかし、国家の金融政策を預かる者たちが行なった権力の私的濫用は実に許されざる重罪である。

 というわけで、書評はもう少し先のことになる。楽しみに待っていただきたい。今は、この画期的な本が出版されたことが本当に嬉しい。植草さんを応援して本当に良かったと思う。

 いずれにしても私のような者にお心遣いをしていただき、本当にありがたいことです。

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2007年8月 6日 (月)

山崎行太郎氏の経済時評に感化されて・・

 今回の参院選の画期的な結果として出た「自民党大敗北」の真因を裏付ける説明として、文藝評論家の山崎行太郎氏が、実に的確且つ妥当な経済評論を記していたのでここに転載する。山崎氏は産経新聞記者・山本雄史氏のブログに描かれている国民新党の選挙奮闘記を土台にして、小泉・安倍政権の本質的な国家政策の悪を経済学的な視点から見事に説明している。僭越ながら管理人(神州)もこの見解にまったく同じである。

 この論評で、山崎氏は小泉構造改革の本質がフリードマン、ルーカスをモデルにした新自由主義経済構造であることを説明しているが、その中でも皆さん(要するに日本国民すべての人)に重大視してもらいたい説明は、山崎氏が使った「バラマキ」という言葉についてである。政治的な用語には、本質から離れた意味を無用に強調し、大衆に対し結果的に多大な悪影響を与えてしまうペテン的な言葉が数多く存在する。その中でも耳に心地よく響く言葉は「建設的な意見」という言葉であろう。賛成論、反対論が凄まじく飛び交うある種の議論で、賛成派が「ここはひとつ建設的な方向で考えましょう」という場合がよくあるが、ここで言う「建設的」なる言葉は、けっして「積極的に全体が利する方向で」という意味ではない。賛成か反対かの二者択一に追い込まれた時、その言葉が志向することは「賛成の方向で考えてみましょうね」という自派に有利な誘導以外の何物でもない。皆さんは各地のコミュニティーなどの会議経験で私が言うことに心当たりがあると思う。たとえば、地方のあるエリアにゴミ焼却場建設問題が浮上し、住民が喧々諤々と賛否両論を戦わせている時、推進派がかならずと言っていいほど住民に使う言葉がある。それが「物事は建設的に考えようよ!」である。端的に言えば、これは「オマエラ反対すんなよ!ゴミ焼却場は建設するんだよ!」の「建設」なのである。(笑)

 このように、聞こえのいい言葉で本質から逸らしていく詐欺的な言葉が多々ある中で、明らかに「構造改革」という言葉もその一つだ。いちいち説明はしないが、この言葉自体に否定的要素は何もない。しかし、あまりにも広義の意味を有する「構造」という言葉は、そのまま使っても何の意味も持たないのと同じだ。構造そのものの定義がまったく為されない状態で使用される場合、それは完全なペ