今回の参院選の画期的な結果として出た「自民党大敗北」の真因を裏付ける説明として、文藝評論家の山崎行太郎氏が、実に的確且つ妥当な経済評論を記していたのでここに転載する。山崎氏は産経新聞記者・山本雄史氏のブログに描かれている国民新党の選挙奮闘記を土台にして、小泉・安倍政権の本質的な国家政策の悪を経済学的な視点から見事に説明している。僭越ながら管理人(神州)もこの見解にまったく同じである。
この論評で、山崎氏は小泉構造改革の本質がフリードマン、ルーカスをモデルにした新自由主義経済構造であることを説明しているが、その中でも皆さん(要するに日本国民すべての人)に重大視してもらいたい説明は、山崎氏が使った「バラマキ」という言葉についてである。政治的な用語には、本質から離れた意味を無用に強調し、大衆に対し結果的に多大な悪影響を与えてしまうペテン的な言葉が数多く存在する。その中でも耳に心地よく響く言葉は「建設的な意見」という言葉であろう。賛成論、反対論が凄まじく飛び交うある種の議論で、賛成派が「ここはひとつ建設的な方向で考えましょう」という場合がよくあるが、ここで言う「建設的」なる言葉は、けっして「積極的に全体が利する方向で」という意味ではない。賛成か反対かの二者択一に追い込まれた時、その言葉が志向することは「賛成の方向で考えてみましょうね」という自派に有利な誘導以外の何物でもない。皆さんは各地のコミュニティーなどの会議経験で私が言うことに心当たりがあると思う。たとえば、地方のあるエリアにゴミ焼却場建設問題が浮上し、住民が喧々諤々と賛否両論を戦わせている時、推進派がかならずと言っていいほど住民に使う言葉がある。それが「物事は建設的に考えようよ!」である。端的に言えば、これは「オマエラ反対すんなよ!ゴミ焼却場は建設するんだよ!」の「建設」なのである。(笑)
このように、聞こえのいい言葉で本質から逸らしていく詐欺的な言葉が多々ある中で、明らかに「構造改革」という言葉もその一つだ。いちいち説明はしないが、この言葉自体に否定的要素は何もない。しかし、あまりにも広義の意味を有する「構造」という言葉は、そのまま使っても何の意味も持たないのと同じだ。構造そのものの定義がまったく為されない状態で使用される場合、それは完全なペテン用語となる。為政者が「構造改革のためには旧弊な構造を壊さなければならない」と言えば、経済に明るい人なら、その言葉を勝手に解釈して「ああ、これはシュンペンターの言う創造的破壊のことなんだな」と勝手に思い込んで受け入れてしまう。経済に暗い人は、「その通りだ、家を新築するには前の家を壊すのは当たり前だ」と、やはり得心してしまう。
しかし、そういうペテン言葉を大言壮語して国民に痛みを強いておき、実際は経済構造を国民に不利益になるように持って行った宰相がいる。小泉純一郎その人である。彼と彼を担ぎ上げた一派は、構造改革を声高に叫んで国民を奈落の底に突き落としたのである。さて、山崎氏の取り上げた「バラマキ」なる言葉も、重要な政策を売国政策に誘導する非常に悪質な言葉であることを説明する。山崎先生は言う。
さて、小沢民主党がマニフェストで公約している「バラマキ政策」も、需要喚起を重視した一種のケインズ経済学的な政策と考えていいのだが、しかし残念なことに「バラマキ政策」は、党内の一部からさえ批判されている。それは、おそらく民主党が、「バラマキ」というイメージの悪い言葉に象徴されるように、バラマキの経済学的な意味を、経済思想的に理論化しきっていないからである。「バラマキ」とは、言うまでもなくケインズ経済学の理論を適用すれば、必ずしも否定されるべき政策ではない。バラマキこそ、実は、言葉の印象は悪いが、需要喚起に直結した経済政策である。バラマキを「バラマキ」と言って否定したところに小泉以後のわが国の経済政策の陥穽と失敗の根拠があるのだが、この問題をもっとも明確に意識し、経済学的に理論化し、政策として主張しているのは国民新党である。(山崎行太郎氏の記事より)
私は山崎氏のこの記述を読んで、ここには、小泉政権の本質と、彼が不用意にあるいは恣意的行なった『日本経済の質的構造転換』の恐ろしさが余すところなく表現されていることを見て取った。山崎氏がいみじくも取り上げたこの「バラマキ」という言葉に、新自由主義信奉者たちの許しがたい悪意が透けて見える。このバラマキという言葉自体には明らかに「賄賂性」を強調する意図が込められていて、いわゆる「構造改革」とは正反対の悪しきイメージを国民に植え付けている。しかし、これをケインジアン的視点から眺めると、まったく異なる様相を帯びてくることを山崎氏は見事に喝破している。どういうことかと言えば、ケインズ政策的社会と新自由主義政策的社会の対比を、所得の分配という観点から捉えた場合、前者は公平配分型社会であり、後者は傾斜型不公平配分社会である。
官僚の汚職や族議員の利権獲得など、以前の日本社会は是正すべき問題が山積みされていて、それを改善しなければにっちもさっちも行かなくなっていたことは本当である。しかし、だからと言って、日本型の伝統的な経済構造が全否定されるべきで、早急に破壊しろという方向ははたして正しいのだろうか。貧しい者や弱い階層が絶望感を抱かないように社会のインフラを進めて行くのが政治であり健全なる統治社会である。なぜならそうしなければ社会そのものが安定しないからである。富の格差が生じても、富を得る機会が平等に担保される社会であるからこそ、人々の労働意欲は湧き上がり、未来への希望を人々は持ち続けていく。他国に比べかつての日本社会の優れた特質はここにあったのだ。今、福祉に財源を取られて、国は体力が弱っているなどという論調を取る為政者は国賊である。政治の要諦は国民に希望と活力を与え、総需要を喚起して経済を賦活する政策を打ち出すことだ。そのために為政者は将来のグランドデザインを鮮明に打ち出す必要がある。国民全般がイメージできる国家ビジョンを明確に打ち出せなくて総理大臣は勤まらない。
植草一秀氏が言うように、官僚体制の抜本的是正は「天下り」の完全撤廃にこそある。これを最優先事項として、あとの腐敗構造は随時是正的に行なっていけばいい。しかし、日本の伝統と良心から生まれた伝統構造は温存すべきものは温存する必要があったのだ。問題はケインズ主義を担保していた旧田中派一派を小泉氏がことごとく駆逐してしまったことにある。その本体が橋本派の弱体化であり、郵政民営化で粛清された議員たちである。ここに伝統から生じた日本式の公平分配型社会はその息の根を完全に止められることになった。つまり、「バラマキ」=「賄賂」=「時代劇の悪代官」のネガティブ・イメージで日本型ケインズ構造を徹底破壊したのが小泉施政の政治的本質だったということだろう。国民がだまされたのは、官僚の腐敗や既得権益を異常にピックアップして、それまで機能していた富の還元型構造を完全に破壊してしまったことだ。なぜこういうことが起きたのか?それは国民と為政者に自国の国家構造に対する認識の甘さと、対米認識が間違っているからである。さらに言うなら、日本人の精神構造に巣食う誤まった歴史観が健全な国家構造の概念を構築できないでいるからである。
ここで、なぜ植草氏が小泉一派から狙われたのか言う必要がある。「バラマキ」というのをケインジアン的視点、つまり植草氏の言い方に翻訳するならこういうことだ。植草氏は競争原理社会を否定してはいない。公正なルールの下で競争原理が発動されるのはいい傾向だと考えている。しかし、彼が新自由主義者でないことは明らかである。最新刊の「知られざる真実」で彼は言っている。経済成長が持続するための最大の条件は、「生産」→「所得」→「支出」→そして「生産」というプラス循環が出来上がることだと。このプラスのループが正常に機能して経済成長は成り立つ。ここで国民一人当たりの支出が増大するには、当然ながら所得の増大がなければならない。しかし、フリードマン・モデルの新自由主義ではこの個人所得増大がまったく担保されないどころか減収するのである。特に低所得者層においてこれは顕著である。従ってこのループは成立しない。その結果、極端な傾斜配分社会が生じ、底辺層に近いほど地獄を見ることになる。社会に希望が失せ、犯罪が跋扈する荒廃した社会へ向かうことになる。この状況で国民の総需要喚起政策は絶対に打ち出せなくなる。
植草氏の政治的視点は社会的弱者の保護にある。要は福祉と市場経済を同一次元に還元しない、つまり対立構造に置かないことだ。彼は言う。豊かな社会であるための最大の条件は、弱者に対する必要且つ充分な保護であると。小泉政権はアメリカのような原初的な競争原理を持ち込んだ。問題はここに公正な競争原理のルールが存在しなくなったことだ。国民はなかなかそれに気付かない。健全な競争の公正さを担保していたルールこそ、さまざまな「規制」だったのだ。小泉氏はこれを無造作に破壊した。聖域なき規制撤廃や規制改革がどれほど国家構造を損壊したか、今になって気付き始めた国民は多い。国政を預かるものは大衆受けする欺瞞の用語でごまかさずに、理論的に新自由主義から脱却して欲しいと思う。為政者が高橋是清の精神を一パーセントでも汲んだらこれは可能だ。
時代がどのように変遷しようとも、所得の公平な配分がある程度担保されない社会は荒廃するだけである。そういう意味では植草氏は古典的な意味ではなく現代的なケインジアンだと思う。それもきわめて良心的な。なお山崎行太郎氏が説明しているクラウディング・アウト現象やマンデル・フレミング効果なる専門用語は、丹羽春喜博士の書いた《謀略の思想「反ケインズ主義」》にわかりやすく説明されているし、その理屈がいかに間尺に合わないかも説明されている。
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山崎行太郎氏、8月5日のブログより転載
国民新党のケインズ主義的な経済政策を評価する。
国民新党の動きが面白い。選挙結果は、島根県の「亀井女史」の大勝利以外は、たいしたことなかったように見えるが、選挙戦最終日の盛り上がりは半端ではなかったようだ。これは、産経新聞の山本雄史記者が現場取材した上で報告している話だからウソではないだろう。山本記者によると、28日午後7時半、有楽町マリオン前で行われた国民新党の最後の街頭演説は、他党の街頭演説を圧倒する勢いで、そのパワーは群を抜いていたらしい。新橋駅前の安倍演説が、総理の最後の街頭演説とは思えないほどショボかったのに比して、国民新党の街頭演説は、多くの熱狂的な国民に囲まれ、いちばんの盛り上がりを見せたらしいのである。綿貫や亀井の演説に多くの国民が足を止め、聞き入っていたということだ。何故だろうか。国民新党は、経済政策的に言えば、公共投資削減と緊縮財政による財政再建を目指した小泉改革に対して明確に「ノー」と言った上で、小泉改革が理論的に依拠している新自由主義的経済政策を否定し、需要拡大による景気回復を目指すケインズ主義を党是としている。小泉改革や竹中改革に飽き飽きしている国民の多くが、国民新党の経済政策に関心を寄せるのは当然だろう。さて、小沢民主党がマニフェストで公約している「バラマキ政策」も、需要喚起を重視した一種のケインズ経済学的な政策と考えていいのだが、しかし残念なことに「バラマキ政策」は、党内の一部からさえ批判されている。それは、おそらく民主党が、「バラマキ」というイメージの悪い言葉に象徴されるように、バラマキの経済学的な意味を、経済思想的に理論化しきっていないからである。「バラマキ」とは、言うまでもなくケインズ経済学の理論を適用すれば、必ずしも否定されるべき政策ではない。バラマキこそ、実は、言葉の印象は悪いが、需要喚起に直結した経済政策である。バラマキを「バラマキ」と言って否定したところに小泉以後のわが国の経済政策の陥穽と失敗の根拠があるのだが、この問題をもっとも明確に意識し、経済学的に理論化し、政策として主張しているのは国民新党である。しかし、残念なことに、マスコミも学会も、この問題の意味を経済学的に、あるいは経済思想史的に、理解していない。むろん、財政破綻と財政再建の鍵をにぎるのはこのバラマキという言葉である。なぜ、バラマキが批判されなければならないのか。その理論的な根拠は何か。誤解を恐れずに言えば、ケインズ主義的な有効需要理論の本質はバラマキである。逆に、フリードマンやルーカス等が主張する新自由主義経済学、あるいは新古典派経済学は、バラマキを否定することから始まる。たとえば「合理的期待形成論学派」の頭目・ルーカスは、「ルーカス型総供給方程式」に基づいて、需要拡大政策の効果を全面否定する。つまり財政政策も金融政策もすべて無効だ、と主張する。言い換えれば、バラマキは経済成長にとって無駄であり、無用であるということを経済学的に体系化したのがフリードマンやルーカスの経済学である。その時、使われる理論は、たとえば「クラウディングアウト現象」理論(国債の市中消化によって民間資金が国庫に吸い上げられる結果としての民間資金の不足状態が生じ、市中金利が高騰し、景気は回復しない…)であり、「マンデル・フレミング効果」理論(市中金利の高騰が円高を引き起こし、輸出産業に大打撃を与え、よって景気は失速する…)であるが、わが国の経済学者や経済評論家で、これらの理論の正当性について緻密な議論や分析をした人はほとんどいない。ケインズ主義的な有効需要理論が、何故、無効なのかを理論的に、且つ経済思想史的に説明できる人がいないのである。ただ、それが、アメリカで、今、最先端の理論として流行している経済理論だから、正しいに決まっていると盲目的に信じ込んでいるだけであるようにしか見えない。むろん、今や、新自由主義や新古典派経済学の欠陥は明らかだ。小泉改革が、バラマキという名の公共投資のすべてを否定して、徹底的な緊縮財政を貫くことによって、さらに財政のプライマリー・バランスを悪化させ、経済成長をもたらすどころか、日本列島をシャッター列島、あるいは自殺列島にしてしまったのはその見本である。今、国民新党が、はっきりと新自由主義を否定し、ケインズ主義的な経済政策を主張していることの意味は重要である。自民党も民主党も、この問題の本質を理解していない。「成長か、逆行か」と安倍は喚いていたが、言うまでもなく安倍に、この言葉の持つ経済学的な意味がわかっているはずがない。ただ、誰かの振り付けで、口をパクパクさせているだけであろう。「緊縮財政で成長路線を…」とは自己矛盾も甚だしい。国民に声が届かないのも当然である。
■産経新聞記者・山本雄史ブログより
http://yamamotot.iza.ne.jp/blog/entry/249663/
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