メディアの暴走、司法の歪みを許容する国民性の深層を考えてみる
弊記事「鈴木淑夫氏(前衆議院議員)が植草氏の国策捜査疑惑に触れる!」に関して、ある読者の方から下記の貴重なコメントを頂いた。日本人の国民性について少し感じるところがあったので、これに管理人の愚考を加えてみたい。
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はじめてコメントさせていただきます。
>政権交替の不在こそが、日本の社会をここまで腐敗させるような司法とメディアを作り出した根本の原因だと思う。
私は、むしろ生活優先の日本人の行動様式に問題があると思います。
職業生活において、権力者に圧力をかけられた場合、生活の糧である今の地位を捨てる覚悟で、その職業上の使命、職業倫理を貫こうとする人が、先進国といわれる国と比較して、日本には少ないからではないでしょうか。「長いものには巻かれろ」、「泣く子と地頭には勝てない」等の格言にそのことは表れています。
また、万年与党とは無関係の某巨大宗教団体に対する批判的な記事が、その団体からの広告収入に支えられているマスコミが報じない事を見ても明らかです。
使命、倫理を貫き通そうとすると自らの生活を犠牲にしなければならない事態が起り得る、そういうことに多くの日本人は耐えられないのでしょう。
その点、一神教の精神世界に住んでいる人は、神の意思を実現する事こそが正しい事だと思うことができるので、管理人様が書かれているような評価になるのだと思います。
今回の参議院選挙の最大に問題が「年金」であった事が日本人の精神性を象徴しています。
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この方は日本人の民族性を非常に興味深く指摘している。現在、我が国メディアの暴走的な権力志向と、司法に深刻なる「いびつ性」が生じた原因は、日本人の生活優先の行動様式にあると喝破されている。確かに現象的にはその通りなのである。生活の糧が何よりも優先され、職業倫理観や社会規範がおろそかにされるきらいが国民の大多数にはある。ただし、問題はこれが戦後顕著に表層に現われた国民性なのか、あるいは戦前、かなり時代を遡る以前から培われていた日本人特有の庶民キャラなのかということにある。
素人的に解釈すると、私はまず豊臣秀吉の百姓に対する兵農分離策、いわゆる「刀狩り」を思い起こす。思考の方向性を明確にするため、作業仮説として敢えて国民の階級を、わかりやすいように、おおざっぱに働く者と護衛する者に無理に二分すると、お百姓さんと武士階級に分けられる。もちろん実際は多くの職能階級があったのだが、思考実験なので、これを職能的に二分して、農業階級と支配者階級というふうに単純に分けて考えてみようと思う。このような粗暴きわまる階級観を使うことには抵抗があるが、この二分法は煎じ詰めて言えば、支配者と被支配者という人類に普遍的な原型素描となる。被支配階級の農家は武士や支配者に楯突かないように教育されるが、秀吉の時代は飢饉や悪徳地頭などの影響で百姓一揆が勃発することがしばしばあった。権力者としては、そのリスクを少しでも軽減させるために、お百姓さんが銃刀を所持することを禁じたのである。さらに明治維新では廃刀令が出され、大東亜戦争直後にはマッカーサー連合国総司令官が、日本の軍部解体を行い、それにともなって武器、及び伝統的な武道すべてを廃止した。これも刀狩りである。日本人には歴史的に為政者(支配側)に刀狩りされることによって、性格が従順というかお上に楯突かない精神構造が出来上がっているように思っている人は多い。伝統的に庶民はデフォルトで精神の武装解除を施されているのだ。
と、このように単純化して言ってしまえば、私の頭はマルクスの階級闘争史観そのものになってしまう。(笑)本当のところ、私はその外来の階級闘争史観なるものは日本民族の伝統的構造には思いっきり不整合だと考えている。日本という国はフランス革命のように民衆が支配者の抑圧に対して決起するという構図は原理的に生まれようがない国である。もちろん百姓一揆やその他の反乱は多々見られるが、海外に比べればその血なまぐささはいたって少ない。つまり他国のように社会ダーウィニズムを基調とするバーバリスムとしての反乱・決起はほとんど見られないといってよい。その証明は明治維新を成し遂げた事実によく出ている。たとえば江戸城の無血開城などもその事例だ。支配者の飽くなき抑圧、一見そのように見える民衆の抑圧形態は、日本の場合、実は抑圧ではなく一種の共同体志向から由来していると私は思っている。つまり農耕民族のアーキタイプと、天皇を戴くシステム(体制)が長く続いてきたために、日本人の統治感覚、被統治感覚は「和の共同体志向」がその中核を成しているのだ。
最近は特に思うのだが、もともと国民とお上の関係は西欧で言うところ抑圧を基盤とした統治形態とは本質が違うと。つまり、日本人の統治原理は力の論理ではなく、和の論理である。これは聖徳太子の十七条の憲法が多大に影響を及ぼしてきたということだろう。文化的にそのことを端的に証明するものはあの「萬葉集」であろう。一つの詩文の世界に、天皇から世俗の人間まで身分の貴賤上下が分け隔てなく編集されている。つまり、日本民族とは、観念や情緒、人間の存在論的なレベルにおいては平等なのである。なぜこういう民族性になったかを分析することは有益なのだが、それは本論を外れる。本論のテーマは現代マスコミの独断性や暴走、そして司法の偏頗性をなぜ国民が受容しているかにある。
日本という国はマックス・ウェーバーの言うように、プロティスタンティズムの世俗内禁欲が資本主義の原理を健全に稼動させたという作業仮説は絶対に適用できないところがある。ところが知識人たちはなぜかこの「プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を好んで取り上げ、日本論にも適用しようとする人が多い。私もかつてそんな気分になったこともあるが、最近は根本思想においてこの見方は疑問に思っている。なぜなら日本民族は欧米諸国とは存在原理が異なるからである。ルターに始まるキリスト教プロティスタンティズムを基盤とする西欧は、資本主義を支えたエートス(倫理規範)が神との契約概念で成立しているという蓋然的な了解があるが、我が国にはそのような契約概念は存在しないし、出てくる土壌もまったくない。天職と心得る職業に就いた場合でも、それが神の御意志の顕現として労働するという感覚は存在しないのだ。
しかし、大東亜戦争後、焦土と化した国家を驚異的な短時間で復興し、奇跡と言われた規模の資本主義的社会を形成してしまったことは近現代史の紛れもない事実である。この驚異的なダイナミズムがキリスト教倫理に似たようなもので衝き動かされたとは到底信じがたい。日本的なるエートス概念、それが仏教か、儒教か、神道的エートスなのかと問いかけることはまるっきり無駄な作業だと思う。むしろ、大東亜戦争にしろ、戦艦大和の建造にしろ、戦後の高度経済成長しろ、日本人が引き起こす巨大なダイナミズムは宗教的内発性とはまったく違うものであることを認識するべきだろう。私はそれこそが「和を以って貴しとなす」の共同体原理だと考えている。
それを展開することは本論の主旨ではないので、マスメディアの横暴を許容する国民性を指摘したい。「長いものには巻かれろ」、「泣く子と地頭には勝てない」、「親方日の丸感覚」等の言葉は、この共同体思考から来ていると考えて間違いない。日本人の規範感覚の要諦は相手と喧嘩しない、恨まれない、相互謙譲である。これが田んぼの水利権争いの平和的な解決から、やむなく生み出された社会規範だとしても、長い時間にDNAに刻み込まれ、民族の原型的性向となった。さてこれからが本論である。圧倒的多数の日本国民がマスメディアや司法の横暴に鈍感なのは、この原型的共同体思考が権力者たちに対しても適用されるからである。つまり、日本人はすべての国民が高貴な精神性を宿しているために、けっして力の強圧による隷従隷属を受容しないところがある。形式的にはその形態を固守したとしても、精神のアーキタイプが萬葉集に出ているように他者と自分は存在論的に身分差別を認めないのである。そのために、主従関係が成り立っても、互いに相手を敵視しない精神土壌が出来上がっているのだ。そうでなければ赤穂藩浪人の敵討ち騒動は起きないわけである。
つまり日本人は権力者に対しては従順に見えても、その抑制は基底精神で権力者と自分には平等性が担保されていると確信しているのである。原始的な捉え方をすれば、日本人にとって権力機構とは、共同体原理を束ね、それを存続させる求心力なのである。この感覚で現代人もマスコミを眺めているので、マスコミの恣意性や誘導性に対して無感覚なのである。だからこそ、マスコミを牛耳る権力者は日本人の民族性向を正確に捉えて好きなように洗脳しているのだ。彼らは日本人の平和志向を逆利用して世論コントロールを行なっているのだ。非常に奸智に長けていると言える。繰り返すが、和の共同体志向とは、おそらく、狭い土地内で耕作地の水利権を争ううちに、喧嘩して奪い取るよりも、あい和して微妙な棲み分けを考えた方が都合がいいということになったのだろう。こういう有徳の国民性を利用して、映像や音声、あるいは文字で好き勝手に日本人の社会感覚を左右している存在には心底怒りが湧いてくるのだ。
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コメント
グリッティ様
コメントありがとうございました。日本人は
メディアに対して基本的に鷹揚過ぎると言いま
すか、不思議と疑いを持たないのですね。メ
ディアリテラシーが確立されていないと言って
しまえばそうなんですが、根っこは歴史的にかな
り昔にあるような気がしています。
投稿: 高橋博彦(管理人) | 2007年9月30日 (日) 22時00分
初めてコメントさせていただきます。
非常に興味深い内容で読みいってしまいました。
日本人の美徳である「和を以て貴しとしなす」があだとなるとは…
私も報道の偏向について記事を書いたのでトラックバックさせてください。
投稿: グリッティ | 2007年9月30日 (日) 20時21分