保守とはなんぞや!
本物の左翼と本物の右翼は一致する。
この言葉は山崎行太郎氏のお言葉です。
この言葉を共産党に捧げたいのですが・・・
でも今のような体たらくではとてもじゃないが、捧げられません。
本物の左翼が躍進して活躍すればするほど、本物の右翼も光り輝き、
伝統保守に光が差すのです。
上は読者のとおりすがりさんの言葉であるが、現今思想界の実態を端的に言い表していると思う。右翼と左翼には拮抗関係があって、互いの衝突や価値観の突合せによって保守が深化するということはあると思う。しかし、左翼が席巻した戦後の長い期間を見ても、昨今の右系の粗暴な愛国論を見ても、世の中がどちらか一方に傾斜しすぎると言論界は閉塞してしまうようだ。だからと言って、左右の真ん中に中道という思想があると考えるのもむなしい幻想というものだ。左や右の概念は一見して相対的である。この概念を有効に思想世界に生かそうとするなら、思索に存在論的な問い詰めを文脈として据えなければならないだろう。文明の中においては、いきなり左か右かという単相的な価値次元しか想定しない思考実験は不毛である。イデオロギーという言葉の表層的な意味は、自己の立場や生き方を明確に規定する思想信条の確立された観念体系である。しかし、この観念に到達するには、然るべき存在論的思索を重ね、要不要の取捨選択の道程をたどった結果として見えてくる世界が必要だ。この思索過程で何を取り入れ、何を捨象するかという作業仮説を打ちたて、これを検証するということを延々と繰り返す。そしてようやく明瞭な思想世界が開示されてくる。最低限度、このように試行錯誤や作業仮説を繰り返して自己の世界観と整合させていく観念体系がイデオロギーだと私は思っている。
これをありていに言うなら、他者に押し付けられた思想は、そのままでは自己の内面に同化しないということである。外側から来る観念体系は映像を観るように頭では理解できるが、そのままでは自己の深部で肉化されない。思想とは、すべからくこの自己の存在論的情熱によって内面の錬金術を施さなければ、決して肉化した観念体系にはならない。
少し青臭いことを言ったが、たとえば我々は共産主義VS資本主義、アジア式クローニー資本主義VSグローバル・スタンダード、新自由主義VSケインズ主義など、さまざまな対局的な価値体系を比較検討して考察するが、おのれと対峙する価値観と衝突する時、相手の然るべき理論と文脈をある程度押さえていないと、言論戦の様相を呈しない場合が多い。だから左右の論争を行なう時に、相手陣営の内在的論理を把握していないと、思想戦そのものが成り立たず、手当たり次第に粗暴な括りこみに陥ってしまうのである。今のネット右翼はそういう意味で知的な練成も行なっていないし、論戦技術も持たない。今思えば、昔の左翼論陣は、知的誠実さにおいても優れた論客がたくさんいたように思う。彼らが言論界を台頭していた時、彼らの知的誠実さとキャパシタンスが言論空間の自由度を高めていたことは否定しがたい。
しかし、“本物の左翼勢力”が駆逐されて大人しくなった今、言論界を席巻しているのは無知蒙昧のにわか成金ならぬ、にわか右翼である。彼らの知的不誠実さ、許容性の狭隘さが現代論壇を不毛の荒野にしているように思える。そういう意味で、私もネット右翼型思想の頽廃と粗暴性に憂慮の念を持つ。なぜこういうことを言うかと言えば、保守系と称する似非保守論陣が今の言論界を駆逐して、正当で真摯な言論が出にくくなっているからだ。似非保守の使う単線的な左右次元での言論展開は、思想本来の内面性も、熾烈な言論戦場における闘争性も持たない。そこにあるのは平板で生命力の枯渇した教条主義である。現代日本における似非保守とは親米保守と言われる者たちである。彼らの根底にある保守価値とは、アメリカの価値観や文明観を無思慮に全肯定し、日米の相関性の中だけで日本のスタンスや在り方を考えることである。少なくとも先人たちは明治維新前後、親欧米派にも、親シナ派にも、“和魂洋才”、“和魂漢才”を弁えた思想態度があった。しかし、戦後民主主義に取り込まれ、アメリカ型文明観しか念頭にないやからは、“米魂米才”という、肇国以来、大和民族としての最低レベルの精神性を持つに至った。ありていに言うならばアングロサクソンへの隷従である。
この代表格をわかりやすく言うなら、小泉純一郎氏、竹中平蔵氏、本間正明氏、木村剛氏、宮内義彦氏、武部勤氏、片山さつき氏など武部氏の傘下にいる諸々の小泉チルドレンと言われる人々であろう。彼らに代表されるイデオロギーとは、右でも左でもなく、米国隷従の無国籍思想である。強いて言えば、これはフリードマンらが敷いた米国型新自由主義というイデオロギーである。彼らは日本思想の範疇とはおよそかけ離れ、すでに日本的自己同一性を欠いた無国籍存在である。日本人は、これらの無国籍人たちに日本の舵取りを任せてしまい、国の根幹を滅茶苦茶に改変してしまった。これは日本という連続性から見れば、国体を危うくする不条理なできごとである。日本は一刻も早く現在の無国籍イデオロギーから脱却する必要がある。そのためには保守が本来の保守思想を回復し、似非保守の無国籍思想を放逐する必要がある。つまり、親米保守の台頭を許しておいてはならないということだ。
冒頭に掲げたように、真の保守とは真の左翼と拮抗作用を持つから、反意的に言って、左翼論陣が元気を出さないと保守本来の生命力が賦活しないことは確かである。現今論壇の閉塞性を考えると、まだ左翼の元気だった一昔前のほうが自由闊達な論戦が花開いていたように思う。文藝評論家の山崎行太郎氏は『極左と極右は畢竟同じ世界に帰趨する』というようなことを以前書かれていたように思う。私もこれについてはかなり以前から感じており、世界観として捉えた場合、窮極の左翼と窮極の右翼が行き着く場所は案外一致しているのかもしれないと考えていた。ただし、それは文明論的帰趨を除いた展望の中でと言う意味である。最近とみに感じることは、一昔も二昔も前の時代の左翼全盛時代の言論界は、イデオロギー論争も知的な活気があり、それなりに言論の自由は担保されていた感がある。ところが、平成の今日、言論界は何と言うか、どんづまりの閉塞状況に置かれているように見える。
特にネット右翼と言われるものが左翼系の言論掲示板などをこれ見よがしに潰し歩いた辺りからその傾向は顕著になったようだ。自分たちは思想的な優位性を持つと思い込み、どこからか借りてきたようなその定型的、硬直的、痴呆的、粗暴な言論がのさばり始めてから、ネットに限らず、出版メディアの言論空間も著しく狭隘な雰囲気を持ってきたように思う。山崎氏が嘲笑するところの、知性を感じられないネット右翼の問題は、充分な論理的構築力を持たず、皮相的なドグマで左翼に天誅を下す粗暴性に収斂していることにある。こういう類の粗暴性は何物をも産まず、言論状況を閉塞させるだけである。つまり、右系と称していても、その未成熟さは伝統的価値観とは異質な外部価値観として表れていて、およそ保守の信条とは相容れない形態を持つ。保守の日本式思想が様式や形の厳格性を求めるのであれば、ネット右翼の取っている行動様式は非日本的であり、その攻撃様態もアメリカ的であり、他者に対して全肯定か全否定かという盲目的な二分法に拘泥する。ここには日本人本来の和の統合様態は存在しない。言葉を換えて言えば、思想性がないのである。
山崎氏がネット右翼言説を毛嫌いしているのはもっともなことだと思う。ネット右翼と位置付けられる彼らは、実態をはっきりと把握できない、共同幻想としての左翼を観念論的に弾劾し、その言論弾劾には哲学も、彼ら個人が内的に練り上げて深化した思想性も絶無であり、短兵急に左か右かという二分的なカテゴライズを行なう。まるでそうしなければ自分自身が保てないかのような焦りが見える。ここには品格も言論人の佇まいもない。そういう偏頗な言論空間には真摯な問題提起も解決の方向性も最初から見えない。まるで大道芸人が唱える紋切り型の大言壮語ばかりが目立つ。いま、保守や右系を自認する者には論理の生命力が欠けている。私が感じていることは、昨今の言論界に閉塞感を見ている人々の共通した思いかもしれない。昔のような生き生きした言論が死滅した状況が何に由来しているのかと考えると、それは一筋縄では行かないと思う。しかし、一つだけははっきりしていることは、現今の日本に親米の似非保守論陣が台頭してしまったからである。
じつは“保守”という言葉には“構造改革”という言葉と同様な不明確性がある。保守という字義は、保つこと、守ることだが、ここには何を守り、何を保つのかという命題が重要になる。構造改革も何が構造の本質であるのかという話である。例えば千年の歴史を持つ国家があったとして、ある時、外国の干渉で革命が起きたとする。そうすると革命前の時代と革命後の時代では保守の意味がまったく違ってくる。革命以前は千年の伝統と文化の連続性を維持することを保守と認識し、革命後はそれ以降の国策や新機軸の考え方を保守と認識する。つまり同じ保守でも内実がまったく異なっているのである。今の親米保守はアメリカを全肯定する前提から出発し、アメリカが持つダブルスタンダードや覇権野望を敢えて無視する卑怯さがある。日本を一つの文明圏として自覚するなら、アメリカやシナの内包する野蛮性を反文明として位置づける視野を持つことこそが真性の保守というものではないのか。
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コメント
喜八さん、こんばんは。
そうだったのですか。私は小泉の本音として
皇室解体につながる『抵抗勢力だ』発言の時、
保守連中は押しなべて熾烈な怒りをあげていた
のだろうと思っていました。スルーしたやつらが
いたとは許せませんね。日本人かと思います。
喜八さんが不思議に感じたその光景は、米国ス
タンダードを世界のパラダイムだと完全に是認す
るメンタリティの人々なんでしょうね。先祖を
普通に崇敬し、日本を深く考えた人たちなら、
靖国神社と皇室が日本という国家の求心力となっ
ていることがおのずとわかるはずです。皇室を
抵抗勢力と断言する人々は、祖国に対する“抵抗
勢力”ですよね。
あ、もちろん、喜八さんが認めておられるブロ
ガーさんたちは真性の保守・右派です。ただし、
稀少な存在ですが。
投稿: 高橋博彦(管理人) | 2008年1月16日 (水) 23時06分
高橋さん、こんばんは。
「まったく、その通りだ」と何度も肯きながら読ませていただきました。
現在「保守」や「右派」を名乗っている人々の中には「ニセ保守」「エセ右派」としか思えない人が少なからずいます。
たとえば、小泉純一郎が「皇室は最後の抵抗勢力」と究極の暴言を吐いたとき、いわゆる「諸君!」「正論」文化人はことごとく沈黙しました。
本物の「保守」「右派」であるなら「朝敵・小泉を討て!」と激をとばさなくてはならない場面であったと思うのですが・・・。
また「自称:保守」「自称:右派」ブロガーにも、小泉「皇室は最後の抵抗勢力」発言を見事に(?)スルーした人が少なくありませんでした。
なんとも不思議な光景だというしかありません。
彼らは本当に皇室を崇敬しているのでしょうか? はなはだ疑問です。
ちなみに、私が現在お付き合いさせていただいているブロガーの皆さんは小泉発言に対して怒りの声を上げた人が多いのです。
この人たちのことは「真性:保守」「真性:右派」だと思っています。
投稿: 喜八 | 2008年1月16日 (水) 22時13分