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2008年3月30日 (日)

どうやれば「お金を刷る」ことができるのか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第51弾です)

 4月中旬に、次の書籍が出版される。

 『お金がないなら刷りなさい ―米国が16兆円を刷って国民に配っているときに日本は増税かー』 小野盛司、中村慶一郎著、ナビ出版

 時々質問を受けるのは、お金を刷るということは、どういうことかということである。ここでは比喩的に言っているだけで、実際に輪転機を回して刷るということではない。現在、紙幣はお店で物を買うような少額の取引に使われるだけで、大部分の取引は銀行振り込み等で行われており、紙幣は使われていない。いくら紙幣を刷っても、国民に使ってもらえないのでは、何にもならない。

 最も直接的には、政府が紙幣(政府紙幣)を印刷して使うことだが、それでは景気対策に役立たないような法律ができている。今、衆参ねじれ現象の時、このような制度変更の法律を通すのは至難の業だ。

 単純に、新規国債発行額を増やし、お金を手に入れ、それを減税や歳出拡大で国民のために使った場合どうなるのか。この効果に関する政府の予測は、多くの民間シンクタンクの予測と一致する。つまり、景気は良くなり、GDPが拡大し、税収が増え、デフレ脱却が可能となり、国の借金のGDP比は減っていくというもの。つまり財政は持続可能なのだ。一見、国の借金は増えたように見えるのだが、GDP比で見たときに減っていれば、実質借金は減ったのだ。実質減ったということは、実質借金を返したことになる。

 つまり、国はお金を国民のために使った。それによって実質借金が減った。どこからお金が出てきたのかと言えば、事実上国がお金を刷って国民に渡したということに相当するということだ。GDPが増えること自体が実質「借金を返す」ことに相当している。もちろん、国民は将来税金で借金を返す必要はない。

 将来、デフレ脱却ができて、金利が上がってきたら(つまり国債が値下がりしたら)どうするかということだが、日銀が買い支えればよいだけだ。日銀が国債を買えば、お金が日銀から出ていく。これは日銀によって新たにつくられたお金(刷ったお金)であり、経済の拡大を可能にする貴重な成長通貨である。昨日(3月29日)の日経新聞に英国エコノミストのスティーブン・キング氏がアメリカに対し消費刺激のために特別国債の発行を提案している。つまりFRBが全額引き受ける国債をアメリカ政府が発行し、個人向け減税をせよということ。

 日本はアメリカよりはるかに経済状態が悪いのだから、日銀の国債引き受けをやってもよいくらいだが、それをする必要はないのだ。現在、政府が国債を売り出したとき、国債の予定発行額を応募額が大きく上回っており、市中への消化に不安は無い。本当に不安であれば、国債の買い入れの「お得意様」であった郵便局を民営化することはあり得なかっただろう。市中消化に不安がでてきたら、日銀が市中から国債を買い入れればよいだけであり、国会の承認が必要な国債の日銀引き受けをする必要は無いのだ。

 結論から言えば、景気対策をして国民のために政府がお金を使った瞬間が事実上お金を刷った瞬間であり、返す必要が無いお金を受け取るのに、なぜ国民が反発する必要があるのだろうと考えるのである。減税が大嫌いで、自分はどうしても増税でなければ困るという人にまで減税を強要するつもりはない。増税がそんなに好きなら、どうぞ、2倍でも3倍でも自主的に税金を多く払って下さいと言いたい。しかし、日本の将来を真剣に考え、我々の次世代、次々世代に貧乏生活を強いることはできないと考える人であれば、是非国の借金を実質的に減らすために、減税を含む積極財政を受け入れていただきたい。(小野盛司)

“お知らせです” 

 4月21日の出版記念パーティ

 4月21日(月曜日)、東京にて日本経済復活の会・小野盛司会長さんと評論家の中村慶一郎氏の共著『お金がないなら刷りなさい ―米国が16兆円を刷って国民に配っているときに日本は増税かーの出版記念パーティがあります。弊ブログで小野会長の積極財政論シリーズをご愛読して頂いている読者さんも参加してくださればうれしい限りです。出版記念会詳細は上記リンクにてどうぞ。(神州の泉・管理人)

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2008年3月28日 (金)

積極財政に関する質問に対する福田首相の答弁書(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第五十弾です)

 先週の水曜日に提出した質問主意書に対する福田首相の答弁書が本日届いた。質問は、

 政府発表の試算「進路と戦略」によれば、積極財政によって成長が加速され、失業率が下がり、デフレ脱却が可能となり、しかも財政が健全化するとなっている。それでも積極財政を否定するのか。それはこの試算が誤差が大きすぎて使い物にならないということか。そうであれば、そのような試算を基に歳出削減や増税を国民に強要するのはおかしい。

という内容であった。

 それに対する福田首相からの答弁では、なんと「積極財政を否定」の意味が必ずしもよく理解できないと言って逃げた。こんな易しい言葉の意味が分からないとは何と言うことか。その次の行以降に書いてあることは、この質問とは全く関係ないことだ。国民を馬鹿にするなと言いたい。

 このやり取りで分かるように、積極財政によって成長が加速され、失業率が下がり、デフレ脱却が可能となり、しかも財政が健全化するという試算結果を政府は発表していることは確認された。それに対し、積極財政のどこが悪いのかという議論を政府は全くできないことがこの答弁書で明らかになった。

平成二十年三月十九日提出
     積極財政に関する質問主意書
                         提出者  滝  実

 1月17日に経済性諮問会議から提出された「日本経済の進路と戦略」(以下「進路と戦略」が内閣府の名で発表されている。ここで成長シナリオケースAと成長シナリオケースBの比較が示されている。歳出削減幅がケースAでは14.3兆円、ケースBでは11.4兆円ということであるから、相対的に言えば、ケースAが緊縮財政、ケースBが積極財政と見なすことができる。両者を比べると別表のようになり、この3年間では積極財政のほうが、緊縮財政よりも、成長率が高まり、デフレ脱却へ大きく前進し、失業率も減り、しかも国の債務のGDP比は減少し、財政は健全化し持続可能となっている。つまり、積極財政のほうが、緊縮財政よりもあらゆる面で良い結果を導くということは、明らかであり、政府の行っている緊縮財政は全く正当化されない。

 2012年度からこのモデルでは債務のGDP比が逆転する可能性があったとしても、それが積極財政を否定する理由にはなり得ない。なぜなら2012年以降となるとモデルの精度が著しく悪くなるからである。例えば、2007年1月に発表された「短期日本経済マクロ計量モデル(2006年度版)の構造と乗数分析(ESRI Discussion Paper Series No.173)」と平成19年3月に内閣府計量分析室で出された経済財政モデル(第二次改訂版)で乗数を比べてみる。公共投資をGDPの1%相当継続的に拡大したとき、名目GDPの増加は1年目は両モデルの差は2.5%だが、3年目となると38.5%と飛躍的に拡大するのであり、2012年度の精度は極めて悪いと考えるべきである。つまり積極財政を否定することは無理だと言うべきである。そこで質問する。

一、積極財政を否定するのは「進路と戦略」はすべてが誤差が大きすぎて使い物にならないという理由からか。そのような信頼性に欠くモデルで歳出削減や増税を国民に強要すべきではないのではないか。

328

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

内閣衆質一六九第一九八号
    平成二十年三月二十八日
                    内閣総理大臣 福 田 康 夫

衆議院議長 河 野 洋 平 殿

衆議院議員滝実君提出積極財政に関する質問に対する答弁書
一について

 御指摘の「積極財政を否定する」との趣旨が必ずしも明らかではないが、政府としては、我が国の極めて厳しい財政状況を放置すれば、財政の持続可能性に対する疑念の高まりが経済成長自体を阻害するおそれがあり、財政再建がなければ持続的な経済成長も実現しないとの考え方に基づき、「経済財政運営と構造改革に関する基本方針二〇〇六」(平成十八年七月七日閣議決定。以下「基本方針二OO六」という。)及び「経済財政改革の基本方針二OO七」(平成十九年六月十九日閣議決定)において、歳出・歳入一体改革を実行するとしたところであり、その実現に向け、正面から取り組むこととしている。

 なお、御指摘の「日本経済の進路と戦略―開かれた国、全員参加の成長、環境との共生―」(平成二十年一月十八日閣議決定)の参考試算においては、基本方針二〇〇六の別表に示された十四・三兆円の歳出削減の考え方に対応するケースと、十一・四兆円の歳出削減の考え方に対応するケースを想定しているところである。

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出版記念パーティーの開催(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第四十九弾、特別篇です)

出版記念パーティー開催のお知らせ
            ―経済成長を加速するシナリオを語ろう-
                   ご案内

 謹啓 時下 益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
最近は、マスコミで日本経済の没落が話題になっております。一人当たりの名目GDPが世界第2位から18位へ、世界のGDPに占める日本のシェアが半減、世界の株式の時価総額に占める日本の割合は実に5分の1にまで縮小し、名目経済成長率では、日本は世界最低で、しかも他から大きく引き離されています。この状況に我々は大変な危機感を持っております。アメリカやフランスは、お金を刷って景気対策として国民に配っているときに、なぜ日本は増税しか話題にならないのでしょう。
日本経済の復活のための具体案を示すために、この度

『お金がないなら刷りなさい 
― 米国が16兆円を刷って国民に配っているとき、日本は増税か!-』

を出版します。
 つきましては、八方塞がりの日本経済を救い、経済成長を加速するシナリオを語るために、パーティーを下記日程にて執り行います。どうぞ万障お繰り合わせの上、ご出席下さいますようお願い申し上げます。

                                        謹白

平成20年3月27日     
                             日本経済復活の会
                             会長  小野盛司
                              

日時 平成20年4月21日(月) 

祝辞・講演 18:00~18:45

中川秀直前自民党幹事長
小野盛司(日本経済復活の会会長)
Photo_2 

中村慶一郎(政治評論家)、その他
Photo_3


○懇親会 18:45~20:45

場所 星陵会館
   〒100-0014 東京都千代田区永田町2丁目16-2 星陵会館4F
   TEL 03-3581-5673
421

会費 六千円(本進呈/飲食すべてを含みます)
   会費は当日会場でもお受けしますが、事前にお振り込みいただければ幸甚です。

お振り込み先 :みずほ銀行 動坂支店 普通預金 8027416 日本経済復活の会

事務局所在地 東京都文京区本駒込3-17-2 (〒113-0021)
電話 03-3823-5233 (担当 小野)  FAX 03-3823-5231

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2008年3月27日 (木)

景気悪化を放置する政府(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第四十八弾です)

 3月24日に内閣府と財務省が発表した1-3月期の法人企業景気予測調査によると、大企業全産業の景況判断指数は-9.8ポイント下がり、04年の調査開始以来で最悪の水準となった。円高、株安、原材料高、住宅不況、米国不況など、様々な逆風の中、衆参のねじれ現象で政治はマヒ状態であり何も決まらない状態が続いている。

 正常な経済政策の知識を政府が持ち合わせていれば、もちろん緊急経済対策として大規模な財政出動を打ち出すところだ。しかし、何も出てきそうもないということは、日本はこれから、恐ろしい経済低迷期に入ってしまうことを意味している。昨日(3月26日)は、第50回の日本経済復活の会の定例会があった。60名もの参加があり、会場は熱気であふれていた。日本経済をなんとかしなくてはという多くの方々の思いの表れだろう。近く、宍戸駿太郞vs大田弘子大臣の公開討論会が開かれることが決定しており、宍戸駿太郞氏の講演に多くの人が注目したのは当然と言える。この日の宍戸氏の講演の一部を紹介する。

 1989年、ブッシュ大統領の父親が来日し、海部内閣に圧力をかけ、10年間で430兆円の公共投資を約束させた。これはアメリカが日本にかけた圧力である。アメリカは日本との貿易不均衡を是正させるために、日本が輸出産業ばかりを伸ばすのでなく、内需を拡大し、産業構造を外需依存から内需中心の産業への移行させようと考えたのである。日本政府は一旦約束したものの、内需拡大の効果もなく、財政赤字が拡大するだけだという理由から3年後には約束を破棄した。その後日本経済の急激な没落が始まるのである。もしも、この約束を日本政府が忠実に守って内需拡大を行っていたらどうなっただろうというのが、宍戸氏のシミュレーションである。計算はかなり大がかりなものであり、産業を81部門に分類し、1973年~2003年の間の30年間の経済データが再現できるように経済モデルをつくり、それを基に部門ごとの詳細な予測を行っている。

 現実には、430兆円の公共投資は行われず、平成大不況に陥ったのだが、もし公約通り公共投資が行われていたら、このような大不況は生じず、正常な景気回復パターンとなったはずだとこのモデルは予測する。約束が守られた場合は、現実の場合に比べ、2003年には実質GDPが11%増加し、名目GDPも14%増加する。失業率も1%ポイント改善する。景気がよくなるため、税収が増え、現実の場合より国の借金も20%少なくなる。

 こういった結果を基に、政府の過去の判断が正しかったのかを考えてみよう。430兆円の公共投資の約束は日米構造協議で行ったもの。アメリカからの圧力で、約束させられたものだ。こういった圧力への日本人の抵抗は強く、「NOと言える日本人」でありたいと願う日本人は、ここでNOと言った政府に拍手喝采を送ったのかもしれない。しかし、本当にそれでよかったのだろうか。公共投資を止めたために、道路整備が遅れ交通渋滞のために経済発展は大きく阻害された。港湾の整備が遅れたためにコンテナ取り扱い量で上位にいた日本の港も、順位を大きく下げ、空港のハブ化も大きく遠のいた。環境対策も遅れている。

 お金を使わなければ、財政が健全化するだろうというのが、余りにも甘い見通しであったということだ。逆に430兆円を使っていれば、不況にならず、これほど国の借金を増やすことはなかった。GDPももっと増えていたから、国の借金のGDP比を比べるとその差は更に顕著になる。結局、世界大恐慌を引き起こしたフーバー大統領や、昭和恐慌を引き起こした井上蔵相と同じ間違いを犯し、不況なのに財政健全化を優先して緊縮財政を行い、不況を更に悪化させ税収を減らしたために逆に財政を悪化させてしまった。

 つまり、平成の大不況は政策の間違いで引き起こされたことが証明された。政策の失敗は、日本経済を大きく没落させ、国の借金を増大させただけではない。国民を生活苦に追い込んだ。下図にあるように経済生活問題が原因の自殺者の数は、景気がよかったころの数倍にも増えてしまった。政策の間違いが毎年数千人もの人を自殺に追い込んでいる。国の借金ばかり気にして、このような政策の大失敗をしてしまったのだが、国はお金を刷ってもよいことを忘れてはならない。刷ったお金で道路をつくり、港湾や空港を整備し、環境対策もすればよかった。税金ではなく、刷ったお金であれば返さなくてもよいのだから反対する理由は何もないはずだ。

 この例で分かるように、アメリカの圧力に常に反発していればよいというのでなく、逆に、アメリカの圧力で日本の間違えた政策を正してもらうことが日本の国益になることもあるのだ。

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2008年3月25日 (火)

植草一秀氏被告事件控訴審第1回公判傍聴記

 (管理人 :  NPJに載っていた作者不詳の公判傍聴記を転載する。この傍聴記には特筆すべき二つの特徴がある。一つは弁護団の控訴趣意の文章がきわめて正確に写し取られていること。この傍聴者さんの聴き取り能力及び文書化能力は驚異的である。もう一つの重要な特徴はこの傍聴者さんは、巻頭で植草さんの事件を「国策捜査」、あるいは「国策逮捕」とは言わず、裁判所の事件処理を取り上げて『国策裁判』と断言していることである。

 検察、警察がぐるになってでっち上げた逮捕を、昨今は便宜的に国策捜査、あるいは国策逮捕と呼び、比較的知られた言葉になっている。しかし、この傍聴者さんは「国策裁判」と銘打って、裁判自体が国策的な底意にもとづいて不当な審理を行なったと結論付けているようである。だとすれば、この傍聴記は、2006年9月13日に植草さんが遭遇した京急電車内における事件の翌日、私が弊ブログで発信した「植草一秀氏の二度目の逮捕はまたもや国策捜査の疑いがある」の捉え方と基本的には一致する。ただし、私自身は、電車内では性的な接触行為そのものが発生していなかった、つまり事件そのものが偽装されていたという説を採っている。

 巻頭で腑に落ちない表現がひとつある。それは「植草氏を政治犯として闇に葬ってはならない。」という箇所だ。それはおそらく「植草氏が政治的謀略によって闇に葬られることを許してはならない」という書き違えであろうと思う。)   

植草一秀氏被告事件控訴審第1回公判傍聴記

  植草一秀氏の条例違反被告事件の控訴審第1回公判が2008年3月17日、東京高等裁判所第429号法廷で開かれた。本書はその傍聴メモである。

  弁護団は控訴趣意についてプロジェクター・スクリーンを用いて説明した。被告の無罪は説得力をもって完璧に証明された。目撃証人の信用性も高い。

  しかし、裁判所は弁護側が申請した証拠調べ請求をことごとく却下して結審した。この審理で有罪判決を下すなら、それは日本の司法の自殺行為である。

植草氏の事件処理は『国策裁判』に他ならない。中東の笛によるハンドボール試合など比較にもならない。植草氏を政治犯として闇に葬ってはならない。

  政治権力に支配されたマスメディアは植草一秀氏の無実を示す情報を、報道しないどころか意図的に隠蔽している。『知られざる真実』を一人でも多くの日本国民に知らせねばならない。

  弁護団による控訴趣意の説明は以下の順序でなされた。

    はじめに

1.被害者供述の信用性

2.証人T供述の信用性

3.証人K供述と被害者供述、証人T供述との矛盾・不一致

4.青木警官供述の信用性

5.弁護側目撃証人供述の信用性

6.繊維鑑定結果からの合理的疑問

7.被告人供述の信用性

8.結論

はじめに

  本件は、大学院教授の被告人が痴漢の嫌疑を受けた事件であり、いわゆる手鏡事件として報道された過去の事件に基づく偏見の下、逮捕の翌日からマスコミ各社において興味本位の報道が繰り返された事案である。

  過去の事件では、被告人は、手鏡を手にしていなかったにも拘わらず手鏡を差し出したとして逮捕された。現場を撮影していたはずの監視カメラの映像を保全するように再三に亘り強く要求したにも拘わらず、この要求は無視されて映像は消去されてしまい、また、被害者が被告人を起訴しないで欲しいと要望していたのにも拘わらず起訴された。

  裁判所は、このような過去の事件により間違って形成された予断や偏見を一切排除し、慎重に事実を認定することが強く要求されるところである。ところが、原判決は、虚心坦懐に被告人の弁解を聞くことなく、被告人の無罪を証明する重要な証人の証言を軽視して、事実認定を誤ったもので、予断や偏見に大きく左右されたものと断ぜざるを得ない。

  このような問題を含む原判決について控訴の理由を述べる。

1.被害者供述の信用性

  被害者は、痴漢犯人が背中に密着している状態で、犯人を注意するために、耳に掛けていたヘッドホンを外して、「やめてください」などと言いながら右回りに振り返ったと供述しています。

  この時被害者のお尻の右側を撫で回していた犯人は、被害者がヘッドホンを外す動作に気付いて、咄嗟に右後方に2、3歩、後ずさりして、人と人との間に紛れたと考えられます。

  写真は弁護人らが行った再現実験の映像の画面です。この画面では被害者が右回りに振り返り始めていますが、この時点で犯人はすでに移動を終えています。

  被害者が犯人の手を掴んだまま振り返って、対面したというのであれば犯人を取り違えることはないし、振り返る時に犯人の手を見ていたというのであれば、取り違える危険性は減少します。しかし被害者は犯人の手に触れていないのはもちろん、振り返る時に犯人の手も見ていないのですから、このような形で犯人を特定した供述は、とても取り違えの危険性が高いと言えます。

  この画面は被害者が振り返り終わった様子を写したものです。

  被害者が右回りに振り返り終わった時点で、既に真犯人は人と人との間に紛れていたので、被害者は真犯人が誰かは分かりません。

  一方その時点で、被害者のすぐ近くに立っていたのが被告人であり、被告人が被害者の抗議する言葉や、急に振り返る動作に反応して、一旦被害者の方に注目した後、右の方に顔を背けるような動作をしたことから、不自然に感じて、被害者は被告人が犯人であると取り違えました。

  以上の犯人、被害者、被告人の動きを図で示すとこのようになります。

  ここでは被害者が振り返るという回転動作をしている点が重要です。

  被害者は、ほぼ真後ろ近くまで振り返って被告人と対面したという趣旨の供述をしています。

  しかし実際に被告人が立っていた位置は、被害者の真後ろではなく、右横少し後方です。この位置は被告人の供述と逮捕者Kの供述がほぼ一致していることから間違いないものと言えます。

  したがって被害者は、実際には被告人が立っていた位置の方向位までしか回転していないにもかかわらず、真後ろまで回転したと勘違いしました。

  これを動画で見てみましょう。

  被害者は、犯人が真後ろに密着して痴漢をしていて、被害者が真後ろまで回転して被告人と対面したので、被告人が犯人に間違いないと言っています。しかし被害者は、実際には、真後ろまで回転していません。この勘違いが犯人を取り違えることにつながったと考えられるのです。

  被害者供述の信用性を認めた原判決には、誤りがあります。

2.証人T供述の信用性

  次に目撃者である証人Tの供述の信用性について述べます。

  証人Tは、この図に示した位置のつり革に捉まっていたと公判廷で証言しています。

  そして証人Tのネクタイの結び目から約77㎝前方の位置に被害者の左肩があったと証言しています。この図の被害者と書かれている位置になります。

1審判決もこの証人Tの供述を前提にして被害者が証人Tから約77センチ離れていたと認定しています。

 しかしこの供述のとおりだとすると、被害者は車両の真ん中ではなく、進行方向に対してずっと右側に立っていたことになってしまいます。

 1審判決は、図の点線で囲んだ位置に被害者が立っていたと認定しているので、1審判決の認定は完全に矛盾しています。

 証人Tが捉まっていた吊革ははっきりしていますが、立っていた位置ははっきり供述していないので、もし証人Tの立っていた位置がこの図よりも下だとするとどうなるでしょうか。

  証人Tの位置が、もっと下だった場合を想定しても、被害者の位置が進行方向右側に大きくずれることは変わりません。

  そして証人Tの立っていた位置がこれ以上下だったら、この吊革に捉まることはもうできなくなるでしょう。

 

 これは証人Tが立ち会って、平成18年9月15日に作成された再現報告書の写真です。

  この写真によると、証人Tと被害者役のマネキンは大きく離れています。証人Tの身長が183センチメートルあることからすると、証人Tから被害者の左肩まで約77センチメートル離れていてもおかしくはありません。

  証人T、被害者、証人Tと被害者の間に立っている女性客、この3人の位置関係を見ると、車内はがらがらであり、このような混み具合で犯人が痴漢をしていれば、他の乗客から丸見えです。こんな混み具合で痴漢をする人はいないでしょう。とてもおかしな話です。

  事件が起きたのは9月13日の夜で、この再現は9月15日ですから、証人Tの記憶はしっかりしていたでしょうし、本当なら、自分の体験に基づいて正確に再現が行えたはずです。

 こんながらがらの車内で痴漢が起きたというのは、被害者や証人Kの供述にも反していて、証人Tが実際にこのような状況を見たというのは信じられないことです。

 証人Tの公判供述は、この再現にほぼ合致しているので、証人Tは自分の実際の体験した記憶に基づいて供述しているのではなく、この再現のときの記憶に基づいて供述したのではないでしょうか。

 この写真も先ほどの再現のときの写真です。

  証人Tは、公判廷において、犯人の男が被害者の後ろに密着して、「被害者を覆うような感じで」、「前屈み」で立っていたと供述しています。

 しかし被害者の頭と、後ろの男の頭は、「頭は離れているというイメージを持った。」と供述しています。

 しかしこの写真のように犯人の男が被害者の後ろに密着して、覆うような感じで前屈みに立てば、犯人の頭は被害者の頭の後ろに接近した状態になるのが当然です。

 証人Tは「体だけ密着して、頭は離れているということなのですか。」という質問に対し、「身長差があったので、そういうイメージを持ったのだと思います。」と答えています。

 

 しかしこの再現でも、犯人役の警察官は写真のとおり被害者役のマネキンと十分な身長差があります。

  証人Tだけが183㎝と頭一つ抜け出ています。

したがって証人Tが犯人であれば、身長差があるため被害者と頭が接近しないと思われますが、被告人のように普通の身長の男性であれば、前屈みになったときに頭が接近するのです。

 証人Tがこのような供述をしたのは、頭の中でだけ犯人が被害者の後ろに密着して前屈みになっている場面を思い描き、自分が犯人になったつもりでその場面を想定したためと考えられます。

 これも証人Tの供述の信用性に疑問を投げかけます。

 先ほどの証人Tの再現は9月15日に行われたことになっています。

ここでもう一つの重要な問題は証人Tが再現の行われた9月15日(金曜日)ではなく、9月16日(土曜日)に、初めて蒲田警察署に行って、目撃状況について警察官に説明したと、1審の公判で供述していることです。

 証人Tの証人尋問が行われた段階で、この9月15日の再現報告書は、検察官から弁護人に開示されていませんでした。

 これは、この9月15日に再現を行ったことを隠していたと疑われても仕方がないでしょう。

 これは証人Tが、事件目撃後、9月13日の午後10時37分に友人に見たこと感じたことを書いて送ったメールです。

  証人Tの初期供述はこのメールです。このように他の人の供述や様々な情報に証人Tの記憶が汚染されていない段階の初期供述は、一般的に最も信用性が高いと言われています。

  ここで証人Tは次のように供述しています。

「今電車の中で痴漢が起こった。俺はほぼ確信できるような状況を目にしながら、女の子が自ら泣きながら訴えるまでその男を注意できなかった。

情けないよ自分が。何回か、女の子が前にいる俺の方を見たんだ。助けを求めるサインだったのに、そうじゃないかと思っていたのに、俺は結局単なる思い過ごしとして処理した。」

  ここで証人Tは、被害者の女性の前に自分がいたということと、被害者の女性が何回か自分の方を見たということを供述しています。

  しかしこれは、被害者女性の左横に証人Tが立っていて、被害者が何回か左横を振り向いたという証人Tの公判供述や先ほどの再現報告書とは全く異なっています。

  この初期供述が正しいとすれば、証人Tの公判廷での説明は完全に間違っていることになります。

  次に証人Tは犯人の男について、「眼鏡についてかけていたかどうか覚えていません」と供述しています。

  一方被告人は、事件当時眼鏡を掛けていて、その眼鏡はセルロイドのフレームで青と紫が混ざったような特殊な色の眼鏡ですので、印象に残る眼鏡です。

  証人Tは、犯人の顔について、「少しうつろな目をして、ボーッとしていたような感じです。」と述べ、犯人の目を注視していました。

 証人Tが被告人の横顔を見ていればメガネが記憶に残るはずです。

しかし証人Tはメガネについて記憶していません。

  したがって証人Tが見た犯人はメガネをかけていない別の男だったと考えられるのです。

  この問題について1審判決は、被害者が振り返って注意した後も、証人Tは、被告人の顔を見ていて眼鏡に気付いていないのであるから、証人Tが犯行時に眼鏡に気付いていないことは、問題にならない、と指摘しました。

 しかし証人Tは、被害者に密着していた犯人が2、3歩後退して、右側の方を向いたと供述しています。

 このように真犯人が右側の方を向いた後は証人Tから犯人の顔は見えなくなります。

  では証人Tから被告人の顔は見えたでしょうか。

このように被害者が振り返った後,被告人も右の方を向いたので,証人Tから眼鏡をかけている被告人の顔は見えなくなります。

 つまり証人Tが犯人又は被告人の顔がよく見えた場面というのは,犯人が被害者の後ろに密着して痴漢をしていた場面しかないのです。

 そして被告人が犯人であれば,証人Tは被告人の眼鏡に気付いていたはずなのです。

 次に証人Tは、犯人の左手が、被害者の左のお尻の側面を触っているのを見たと供述していますが、具体的に「指先も手の甲も、後、袖口も見えました。」、「手の甲と袖は一体として肩の上から見えました。」と供述しています。

  しかし一方で、男性が傘を左手首に掛けていたことには、気付いていませんと供述しています。

  被告人は左手に傘を持っていたので、被告人が犯人であれば証人Tが被告人の左手に掛かっている傘に気付かないはずはありません。

 そして被害者が振り返った後、証人Tから、被告人の傘が見えるかですが、

先ほどと同じように傘も見えなくなります。

 また傘の位置は低いので、犯行時以外では被害者などの乗客に遮られて証人Tの目線から傘は見えなくなるはずです。

 犯行時、証人Tから傘はよく見える位置にありますから、被告人が犯人であれば、左手首に掛っている傘に証人Tが気付かないはずがありません。犯人は左手首に傘を掛けていなかった被告人とは別の人物としか考えられません。

 被告人は、事件当時、肩に大きな重いカバンを掛けていました。これは鞄を掛けている被告人の後ろ姿のイメージを図にしたものです。

  しかしながら証人Tは、痴漢行為をしている際の犯人の姿勢について「重心が右に傾いていて変な格好をしているというふうに思いました。」と繰り返し供述しています。

  そして犯人の右肩は見えていたけれども、右肩にカバンを掛けていたという記憶もないと供述しています。

  しかし第1に、証人Tは右肩が見えていたと述べているのですから、被告人が犯人であれば右肩から掛けているカバンが見えなければおかしいのです。

  そして第2に、右肩に重いカバンを掛けていたとすると、カバンがずり落ちないようにしながら、重心を取ろうとするから、体を右に傾けた姿勢を維持するのではなく、むしろ逆に少し左側に傾くか真っ直ぐの姿勢を維持しているはずです。

  それでは右に傾いた姿勢でカバンをかけているとどうなるでしょうか。

 このようにカバンがずり落ちるか,重心が取れなくて,右に倒れてしまうでしょう。

 証人Tが目撃したのは,右肩からカバンを掛けていない被告人とは別の人物だったと考えるべきです。

 証人Tの供述には被害者との距離、電車の混み具合、犯人の姿勢、証人Tが立っていた位置など、幾つかの根本的な疑問があります。

  証人Tが犯人を目撃していたとすると、眼鏡の点、傘の点、カバンの点などから、被告人とは別の人物だったと認められるべきです。

  証人Tの犯人識別供述の信用性はきわめて低いと言えます。

(補注1) 3月17日の公判廷では触れられなかったが、弁護団によると、平成18年9月16日付の証人Tの警察官に対する供述調書には、被害者の女性と目が合ったが声をかけることができなかった理由について、「逆に自分が被害者の高校生の女の子に逆に、怪しく見られているのではないかと思い、判断がつきませんでした」と記述されているとのことである。

3.証人K供述と、被害者供述、証人T供述との矛盾・不一致

  証人Kは、被害者が「やめてください」と言って振り返ったとき、

  被告人は被害者のすぐ右後ろに立っていた、

  被告人は被害者のすぐ後ろにおり、その間に、もう1人、だれか入ることは押しのけない限りは、あり得ない

  被告人の足の移動はあって半歩か一歩くらいしか動く余地はなかったと思うし、動いた印象もない

  という供述をしています。

  これに対して、被害者は、

  痴漢犯人は、被害者の背後に密着し、被害者の左右の腰の下あたりの太ももとお尻に左右の手でそれぞれ触るという痴漢行為をしていた、

  被害者が右回りに振り返ったときに、犯人が後退した、

  という供述をしています。

  しかし、これは密着していたはずだと思い込んでいた被告人が離れて立っていたのを見て、被告人が後退したと錯覚しただけであると考えられます。

  また、証人Tは

  被害者の背後で犯人が同方向を向いて密着し痴漢行為をしていた、

  被害者が振り向いたとき、一、二歩後退し、進行方向右側のドアの方向を向いた、

  という供述をしています。

  証人Tは、被害者が振り向いた直後に真犯人が後退したのを確認したのに、後に真犯人と被告人を混同してしまったものと考えられます。

  証人Kの目撃状況をスライドで示すとこのようになります。

  原判決は、証人Tは犯人が後退した位置について具体的に図で示しているものではないから、右後方も含みうる趣旨であって証人K供述と矛盾しないと述べています。

  しかし、この写真は、証人Tが警察での再現見分をしたときの写真ですが、犯人が被害者から二歩くらい離れていて、間に人が入れる程度の間隔があり、真後ろに下がって斜め右を向いた位置関係が指示されているのです。証人K供述とは明らかに矛盾しています。

  証人Kの供述を合理的に解釈すれば、

  被告人は、もともと「やめてください。」という言葉の前から、被害者のすぐ右後ろに立っていたことになります。

  被告人は「やめてください。」という言葉に反応して、被害者の方を向いて身を引くような動作をしたが移動はほとんどしていないのです。

  これは、基本的に被告人供述と符合しているばかりではなく、被告人が、被害者の背後に密着し、被害者の左右の腰の下あたりの太ももとお尻に左右の手でそれぞれ触るという痴漢行為をしていたということはあり得ないことをも示しているわけです。

4. 青木警官供述の信用性

  次に青木供述の信用性について述べます。

  そもそも公判廷で否認している被告人の捜査段階における警察官に対する自白供述をその内容とする取調警察官の公判廷供述は、定型的にその信用性が低いというべきです。

  被告人は、事件直後に作成された弁解録取書では明確に否認しているのに、青木に対しては、「電車の中で、女性に不快感を与えるようなことをしました。」と答えたというのは余りに不自然不合理です。

  しかも、どの言葉をも記載した青木のメモが存在しないことや、

  弁解録取の際に青木はすぐ側にいたのに、その際、被告人に対して、駅での事情聴取の際には痴漢行為を認めていたではないかと述べていないことを考えても、

  青木供述には全く信用性はありません。

5.弁護側目撃証人供述の信用性

 原判決は、弁護側の目撃証人の供述には信用性がなく、本件車両に乗車していたことも、本件を目撃したことも、その両面において相当の疑問を差し挟まざるを得ない、などと述べています。

  しかし、原審がそのような疑問を抱いたのは、十分に審理を尽くさず、弁護側の目撃証人の供述内容を取り違え、その結果、事実誤認をしたことが原因なのです。

 まず、原判決は、弁護側の目撃証人が、「大森海岸駅を過ぎたあたりで、騒ぎが起きた、自分の右前に立っていた証人Kが動く気配がして、反対側座席の方向へ向かっていき、見ると、被告人を押さえつけていた。」と供述したと認定しました。つまり、同証人が、証人Kの移動する気配に気付いたのが大森海岸駅を過ぎたあたりだと供述したと決めつけたのです。

  しかし、弁護側の目撃証人はそのような供述をしていません。青物横丁駅を過ぎた辺りから、座席に座ったまま、軽く目をつぶり、うとうとしていたら、「ふわっと向かっていったような雰囲気だった」とか、「何となく……人が動いた気配というのがありました」と供述しているのです。決して、証人Kが移動する姿を目撃したわけではないのです。

  また、大森海岸駅を通過したときの状況について、弁護側の目撃証人は、向かい側の車窓に大森海岸駅の看板がはっきり見えたと供述しています。この供述は、窓外の光景という客観的状況に基づく具体的且つ臨場的なものであり、どこから何分くらいだと思う、などという主観的感覚に基づく他の供述者の説明に比較すれば、はるかに信ぴょう性が高く信用できるものです。そして、もしも目をつぶりうとうとしていたら、大森海岸駅を通過したことを確認できないことは明らかなことです。

  したがって、おのずと時間的な前後関係は明らかになります。

  青物横丁駅を通過した頃からうとうとしていた弁護側の目撃証人は、証人Kが移動する気配を感じて、少し目が覚め、その後更に意識がはっきりしてきた時に大森海岸駅の通過を確認したということになります。

  そのうえで、大森海岸駅を過ぎたあたりで、「騒ぎ」が起きたと述べているのです。

   

  弁護側の目撃証人が平成19年4月20日に作成したファックスには、大森海岸駅の通過を対面の窓で眺めながら目をつぶろうと思った時、騒ぎが起こり、何だ!!何だ!!と見渡したら、被告人が押さえられていて、その後、もう1人野次馬が加わった、と述べられています。この「もう1人野次馬が加わった。」というのが逮捕者の証人Nであることは明らかです。

  つまり、弁護側の目撃証人が、大森海岸駅を過ぎたあたりで起きたと述べている「騒ぎ」というのは、逮捕者である証人Kが、左手で被告人の腕又は肩をたたいて、突き出すからねと一言述べ、周囲の乗客もこの行為に注目し、証人Nも動き出して被告人を押さえようとした、この時の車内の緊張、人の動き、ざわつきを、弁護側の目撃証人は「騒ぎ」と表現したのです。このときの状況については、証人Nが、事件当日に警察官に対して供述した内容とぴたりと整合しており、その供述調書は当審において提出予定です。

  原判決には、大森海岸駅を過ぎたあたりで証人Kが動き出す気配があったなどと弁護側の目撃証人が供述したかのように書かれていますが、証人の供述内容を明らかに取り違えたものであり、重大な過ちを犯しています。

  次に、弁護側の目撃証人が被害者の「子供がいるのに」などとする言葉を聞いていない点については合理的な理由があります

  まず、被害者が抗議を始めた頃、弁護側の目撃証人は座席にすわったまま目をつぶりうとうととしていて、その間は何が起きたか分からなかったのです。

  また、被害者の抗議はそれほど大きな声ではありませんでした。

  このとき被害者の抗議に気付いたという証人Kは、被害者の抗議の声が、「それほど大きな声で、びっくりするようなことではなかった」、と証言しています。

  また、被害者自身は、動転し困惑している心理状況の下でようやく抗議をしたというのですから、自分では大きな声を出したつもりでいても、第三者に聞こえた声は客観的にはさほどの大きさではなかったのです。

  原判決は、被害者の抗議が「それなりに大きな声」であったなどと極めて曖昧な表現をしています。しかし、うとうとしていた弁護側の目撃証人の目を覚まさせるほどの大きさの声だったという証拠は何ら存在していないのです。

  また、被害者の抗議は、わずか2、3秒間と思われる極めて短いものでした。被害者の抗議は、「やめてください」、「はずかしくないんですか、子供たちの前で」というものです。その次に「次で降りてもらいますから」と言ったときには泣いていて声が涙声になっており、その後は泣き続けていたというのです。

  そんな僅かな時間の抗議なのですから、うとうとしていた弁護側の目撃証人がそれを聞き取ることは困難です。むしろ、それを契機として徐々に覚醒し始め、その後、証人Kが移動する気配を感じとるに至ったと思われるのです。

  さらに、弁護側の目撃証人が座っていた位置からは被害者の姿さえ視界に入りませんでした。しかも、被害者は弁護側の目撃証人に背を向けるような方向を向いて抗議したと思われます。このような客観的な状況から判断すれば、弁護側の目撃証人が被害者の声に気付かなったことに何ら不合理なところはありません。

  弁護側の目撃証人は、証人Kが被告人に対して、覆い被さるような形に見えたと証言しています。しかし、証人Kは被告人に接近して被告人が逃げることの無いように立ち、被告人は動かなかったのですから、座席に座ったままの弁護側の目撃証人の低い視線からは、証人Kが被告人に対して覆い被さっているように見えても不自然ではありません。

  また、もうひとりの逮捕者である証人Nの動きについても、弁護側の目撃証人の位置から見れば、両者の供述内容は一致するのです。

  このような証人Kや証人Nと被告人との位置関係や、被告人が動かなかったことを考慮すれば、被告人がずっと押さえられているように見えたという弁護側の目撃証人の供述内容は、証人Kと証人Nの供述内容と何ら矛盾するものではありません。

  次に、弁護側の目撃証人は、目撃したときは、被告人のそばに女性はいなかったと証言しています。

  まず、この証人から、被告人の姿をよく見える状態だった理由は、発車直前に、たまたま目の前の座席が空いて座ることができたので、それまで立っていた前方のスペースが空いたままになっていたので、そのスペースから被告人が見えていたからなのです。

  また、被害者が立っていたドア側のエリアは、多少人と人とが触れ合うかもしれない程度の混み具合でした。車内の誰からも被害者の姿が見えたわけでもないのですから、他の乗客の影になって弁護側の目撃証人から被害者が見えなかったとしても何も不自然なことではありません。目撃しているあいだ、被告人が女性と密着していなかったというのは極めて重要な証言なのです。

  このように、弁護側の目撃証人が供述している内容は、他の供述者の供述内容や客観的な事実と合致することのほうが多いのです。もしも、実際に現場に臨んで目撃していないとしたら、予備知識がないのですから、他の供述者の供述内容や客観的な事実と合致する供述をすることはあり得ません。

  ドアが開いて電車に乗り込んでから発車するまで1分くらいだったと供述していることや、当時被告人が着用していた眼鏡の特徴、証人Kに押さえられた被告人が静かにしていた状況、京急蒲田駅に到着してから被告人が証人Kや証人Nに連れられてホームへ降りる後方から被害者が降りていく情景、被害者の服装がセーターと普通のスカートだったことなど、その場に居合わせない限り供述できないような内容について、弁護側の目撃証人は、極めて具体的且つ臨場的に供述しているのです。

  弁護側の目撃証人が自発的に公判廷において証言するに至った経緯は、ただ自分が目撃した事実をありのまま正確に伝え、公正な裁判を実現してもらいたいとの一心に基づくものであり、誰に対して有利だとか不利だとかいう利害や偏見は全く持ち合せていないのですから、その供述の信用性は極めて高いものがあります。弁護側の目撃証人の供述は、被告人が無罪であることを裏付ける極めて重要な決定的な証拠にほかなりません。その供述内容を取り違えるような間違いをしないよう、予断を排して慎重に取り扱うべきです。

6.繊維鑑定結果からの合理的疑問

 繊維鑑定の結果、被告人の手指には被害者のスカートやパンツの構成繊維は   1本も付着していなかったので、被告人の無罪は証明されている。

  痴漢事件では、被害者の着衣の構成繊維が、手指に付着していないかの「手指鑑定」しか行わないのが通常である。

  ところが、本件では、この「手指鑑定」の他に、ネクタイから採取した付着物に被害者のスカートの構成繊維が付着していないかの「ネクタイ鑑定」と「背広鑑定」2件の合計4件もの繊維鑑定を行っている。

  通常と異なり、本件で、4件もの繊維鑑定を行ったところに、被害者のスカートの構成繊維が被告人の手指に、全く付着しなかったことが読み取れる。

  被害者が穿いていたスカートの構成繊維が被告人の手指に付着していないかの「手指鑑定」の結果、被告人の手指からは、多数の繊維が検出され、スカートの構成繊維の「つよい青色」の「色調が類似した獣毛繊維」3本が検出されたとの鑑定結果になった。

  この「手指鑑定」の結果が判った頃に、ネクタイから付着物が採取されて、スカートの構成繊維がネクタイに付着していないかの「ネクタイ鑑定」が行われ、「あかるい青色」「さえた青色」「つよい青色」の「色調が類似した獣毛繊維」4本が検出されたとの鑑定結果になった。

  「手指鑑定」の結果、被告人の手指から、スカートの構成繊維と「類似」の繊維が検出されたなら、それで繊維鑑定での証明は十分であり、それ以上、「ネクタイ鑑定」をする必要は全くない。

  それなのに、被告人の手指に付着したスカートの構成繊維がネクタイに転移したはずだと、捜査官は考えて、急遽、ネクタイを領置して、引き続き「ネクタイ鑑定」をしたのは、「手指鑑定」の結果における、スカートの構成繊維と「色調が類似した獣毛繊維」という「つよい青色」との色調の判断基準が、主観的で曖昧すぎて「類似性」の判断基準にならなかったからである。

  そして、「ネクタイ鑑定」の結果における、ネクタイの付着物から検出された、スカートの構成繊維と「色調が類似した獣毛繊維」という「あかるい青色」「さえた青色」「つよい青色」との色調の判断基準も、やはり、主観的で曖昧すぎて「類似性」の判断基準にならなかったので、捜査官は、急遽、背広を領置して、2件の「背広鑑定」を実施させざるを得なかった。

  2件の「背広鑑定」の結果、被告人の手指とネクタイから採取した、スカートの構成繊維と「色調が類似した獣毛繊維」合計7本と、被告人が着ていた背広の構成繊維とは、いずれも異なるとの鑑定結果が出たが、だからといって、この7本の繊維が、スカートの構成繊維であると認められたわけではない。

  そもそも、背広鑑定は背広にスカート構成繊維が付着したとの見込みによって行なわれたもので、見込み通りの付着物を発見できなかったために、見かけ上の鑑定目的を変更したものと考えられる。

  科学警察研究所の繊維鑑定の教科書によれば、繊維鑑定では、顕微分光光度計を使えば、繊維の色調を「つよい青色」等、主観的にではなく、プロファイル(波形)で客観的に評価・比較することができ、繊維の異同を客観的に評価・比較することができる。

  警視庁科学捜査研究所でも、この顕微分光光度計による鑑定ができないはずはなく、顕微分光顕微鏡による観察の結果、上記スカートの構成繊維と「色調が類似した獣毛繊維」7本は、客観的・科学的には、波長が異なり「色調が異なる」との結論が出ているはずである。

  なお、「手指鑑定」「ネクタイ鑑定」には、「被告人の手指やネクタイの付着物 から、被害者が着用していたパンツの『無色綿繊維に類似した無色綿繊維』が認められた。」とあるが、鑑定書の『参考事項』に、「無色綿繊維は、生活環境中至る所に多数認められるものであるため、パンツに由来するものか否かは不明である。」と記載してあるとおり、パンツの構成繊維である無色綿繊維が被告人の手指やネクタイに付着したと認めることはできない。

  この様に、被告人の手指やネクタイに、被害者が着用していたスカートやパンツの構成繊維が全く、1本たりとも付着したと認めることができないことから、

(1)被害者供述や証人T供述のように被告人が手指で被害者のスカートやパンツに触ったことが客観的証拠で裏付けられず、被告人が本件痴漢行為をしたとするのには、客観的で、具体的な合理的疑問が残ることになる。

(2)捜査官は、手指から出なかったら、ネクタイに転移したはずだと考えて次から次へと4件も繊維鑑定をしたのであり、捜査官の経験上、被害者や、証人Tの言うとおりに被告人が触ったならスカートやパンツの構成繊維が出ることを確信していた。

  また、痴漢事件での繊維鑑定は、痴漢で触ったら、被害者の着衣の構成繊維が触った手指に付着する蓋然性が高いからこそなされるものであり、だからこそ、警察庁も、全国の警察に、痴漢事件で、繊維鑑定等の科学的捜査をするように文書で、指示を出している。

  したがって、被告人の手指やネクタイから被害者のスカートやパンツの構成繊維が1本も検出されなかったということは、高度の蓋然性を持って、被告人が被害者のスカートやパンツに触っていないということを推認させ、被告人の無罪の証拠となっている。

  このように、本件は、被告人の無罪の客観的・科学的証拠がある冤罪事件である。

7.被告人供述の信用性

  被告人は、本件電車に乗る直前に多量の飲酒をし、その結果、「子供がいるのに」という女性の声があがった直前をピークに酔いがまわっていました。

  被告人からは、午後10時52分頃に実施された飲酒検知において、呼気1リットルあたり0.47mgのアルコールが検知されていますから、犯行があったとされる時刻における被告人の血中アルコール濃度は、最小値で1.0366mg/ml、最大値で1.11336mg/mlと合理的に推認されます。

  そして、血中アルコール濃度が1mg/mlを越えると、歩行失調、協調運動障害が起こるとされています。

  したがって、被告人は本件犯行があったとされる時刻に歩行失調、協調運動障害が起こった状態であったと合理的に推認できます。

  また、危険運転致死傷罪の適用された裁判例では、呼気検知結果が呼気1リットルあたり0.4mg程度あるいは0.45mg程度で「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態」であったと認定されている例が複数あります。

  また、別の裁判では、検察官から、「血中濃度が1ミリリットルあたり0.9~1.0ミリグラム程度になれば前頭葉などが抑制され前方注視及び運転操作が困難になる」などとした鑑定意見も提出されています。

  これらに鑑みても、本件犯行があったとされる時刻に、被告人は「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態」と同程度の状態であったと合理的に推認できます。

  さらに、被告人がその当時約4キログラムのカバンを右肩のみにかけ、左右のバランスが極めて悪い状態であったこと、真犯人は傘を手首に掛けていたとされていることなどの事情もあります。

  したがって、被告人が、吊革につかまることなく、上記犯行を行うことは不可能です。

  次に、原判決は、被告人の供述は、被害者供述及び証人T供述などの信用できる各供述に反し、信用できないとしますが、これまでに述べてきたとおり、それらの供述こそ信用性がないのであり、それらの供述をもって、被告人の供述の信用性を否定するのは誤っています。

  原判決は、被告人の供述において、4つのポイントをあげ、不自然・信用できないとしていますので、それらの各点について検討します。

  原判決は、まず、被告人が上り電車と下り電車を間違えたこと、被告人が逆方向の電車にそのまま乗っていたことが不合理であるなどと認定しています。

  しかし、被告人の酔いの程度の推移はこれまで述べたとおりであり、被告人は、頭が働かず「まあいいか」とそのまま電車に乗ってしまったのです。また、被告人は「一度降りようと試みたものの、何人かの人に押し戻された」のです。

  原判決は、それらの事情を適切に評価しておらず、不当です。

  原判決は、被告人が犯人扱いされた際に否定しようとせず、目撃者等も捜すことなく、そのまま連行されたことは理解し難く、駅事務室に来た警察官から、人定以外聞かれなかったことも不自然であるなどと認定しています。

 しかし、被告人は、有名人であり、騒ぎになることを避けるために、小さい声で否定し、目撃者等を捜すことなくそのまま連行されたのであり、自然・合理的と言えます。

  また、一般に、駅事務室に来た警察官が、駅事務室において人定以外しなかったとしても不自然と評価すべきではありません。

  なお、原判決は、被告人が被害者に対して、失礼というような感じで手を顔の前に上げて被害者に対して頭を下げるなど謝罪するような態度をとったなどと認定しています。

  しかし、その被告人の動作に関する、目撃者証人T、逮捕者証人K、被害者の供述は明確に、しかも大きく異なっています。

  原判決は、これらの供述を都合良くきりはりして、あたかも相互に信用性を高めているという前提で誤った認定をしているのです。

  被告人の動作は、被害者の突然の動きに驚き、身をひきながらたじろいだ、反射的な動作と考えられ、元々その場(被害者の右後ろ)に被告人が立っていた時に被害者が突然振り返った状況です。

動画でみてみるとこのような動きになります。

  原判決は、被告人の記憶は、ある部分は曖昧、自己に都合がいい部分は明確であり、自己の都合に従って供述しているとうかがえる面があるなどと認定しています。

  しかし、被告人は上記の酔いの程度に応じて、あいまいなことと覚えていることを慎重に区別して、自然・相応に、そして誠実に供述しているのです。

したがって、「自己の都合に従って供述しているとうかがえる面がある」などという評価は全くあたりません。

  原判決は、証人Kの供述によっては、本件当時の被告人の位置についての被告人の供述を裏付けられないと認定していますが、証人Kの供述が本件当時の被告人の位置についての被告人の供述を裏付けていることは既に述べたとおりです。

8.結論

  最後に結論を述べます。

  前節で述べたように、一貫性と詳細さを備え、十分に信用性のある被告人の供述は、同様に十分に信用性のある弁護側目撃証人の供述によって、裏付けられています。

  弁護側目撃証人は、事件当日、被告人と同じ電車に乗り合わせ、品川駅から青物横丁駅くらいまで被告人を見ていたところ、被告人は酒に酔い、疲れた様子で、右手でつり革につかまり、下を向いて揺れており、痴漢行為はしていなかったというのです。

  また、証人Kの供述も、基本的に被告人供述と符合しているばかりでなく、被告人が、被害者の背後に密着し、被害者の左右の腰の下あたりの太ももとお尻に左右の手でそれぞれ触るという痴漢行為をしていたということはあり得ないことをも示しています。

  それに加えて、スカート・パンツの構成繊維が被告人の手指やネクタイから1本も検出されていないことも、被告人が本件痴漢行為の犯人でないことを証明しているということができます。

  他方で、被害者の犯人識別は、犯人が真後ろに密着していて、被害者が真後ろまで回転して犯人と対面したことが重要な根拠になっているところ、被害者は、自分がどの程度回転したのかについて誤認しているだけであって、真犯人は真後ろにいたのに、右後ろにいた被告人を犯人と誤認しただけにすぎないのです。

  そして、証人Tの供述にも、幾多の根本的な疑問があり、証人Tの供述を根拠にして被告人を犯人と特定することもできないことが明らかになりました。

  以上述べたところから、被告人は本件痴漢行為の犯人ではなく、無罪であることは明らかであり、原判決の認定には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があります。

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2008年3月24日 (月)

日本経済の4重苦:円高、株安、原材料高、米国不況(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第四十七弾です)

 日本経済の停滞に対して、海外の厳しい目が注がれている。英エコノミスト誌は 「JAPAiN」と題した日本に関する特集記事を掲載した。JAPANとpain(苦痛)をかけた造語である。円高、株安、原材料高、サブプライムローン問題によって引き起こされた米国不況など、日本経済を取り巻く環境は厳しい。それぞれが、どの程度日本経済にダメージを与えるのかを、詳しく説明するつもりはないが、それぞれ悪影響を及ぼすのは間違いない。

 円高に関しては、様々な意見がある。円高でも企業は頑張るべきだという意見も多い。しかし、頑張れば経済が発展するといった簡単な話ではない。円高でも利益を出している企業があるではないかと言う人もいる。円高だと輸入物価が下がり、消費が伸びるから、景気が回復するといった珍説まである。しかし、日本経済は外需の伸びで今まで支えられてきた。輸出企業にとっては、円高は厳しい。

 円高とは、日本製品を一斉値上げするようなものである。1割円高になれば、外国にとって、日本のすべての商品が1割高くなる。値上げしたら売れないということなら、値上げせずに企業が差額を負担する。そうすると企業の利益が減る、あるいは赤字になって商売にならなくなる可能性もある。もちろん、原材料が輸入品であれば、円高で原材料が安くなる可能性もあり、企業によりまちまちである。果たして、円高が日本経済にプラスなのか、マイナスなのかを考えるには、マクロ計量経済学に基づいたシミュレーションを行い、様々な要因をすべて組み込んで計算すればよい。

 日経新聞社の経済モデルを使い求めた結果を下の図で表した。一番下が何もしなかった場合の実質GDP、そのすぐ上が、円売りドル買いの介入をして、10円の円安にしたとき(例えば1$=100円から1$=110円にしたとき)であり、その上が20円の円安、その上が30円の円安のときである。参考のために、10兆円~50兆円の財政出動をしたときの、実質GDPも示した。

 このグラフで良く分かる。円高は間違いなく、日本経済の成長にとって害になり、その意味でドル買い介入のメリットはある。円高で景気が良くなるという珍説は完全に否定される。では、為替介入をしたらどうだろう。現在は巨額の資金が国を超えて動き回っているから50兆円程度のドル買い円売りの介入でも、10円の円安は難しいのではないか。第一50兆円の介入をしようとすれば、まず政府が国債を発行して円を手に入れ、その円でドルを買うわけだから、国の借金は確実に増える。それによるGDPの増加はほんの僅かしかなく、間違いなく国の債務のGDP比は増える。しかもドルを持っていても、人為的に値上がりさせたドルが、将来値下がりすることも考えられ、その場合は巨額の差損が発生する。

 同じ50兆円を使うなら、財政出動で減税や歳出拡大で国民のために使ったらどうだろう。この図で分かるようにGDPを押し上げる効果は数十倍はある。そのため国の債務のGDP比は下がってくるし、税収も回復してきて財政が健全化する。財政出動のほうが、為替介入よりはるかに良い。株安、原材料高、米国不況による悪影響がどれだけか、一つ一つ議論するつもりはないが、それなりの悪影響は確実だ。重要なことは、それらの悪影響を一気に挽回できるほど財政出動の効果は絶大なのだ。政治家の決断次第で日本経済のV字回復は可能なのだ。最悪なのは、何もしないこと。本日(2月24日)の日経新聞にも内閣支持率が31%に急落しており、安倍内閣末期の支持率程度まで下がったとのこと。日銀総裁の件では民主党も支持率を下げたとある。

 台湾総統選挙も終わり、これで、台湾も韓国も経済のてこ入れを重視することが鮮明になった。日本は台湾・韓国などとは比べものにならないほど経済が悪化している。しかし、幸いなことに、デフレ経済であるのだから、財政政策が極めて有効であり、しかも当分はインフレ率が高すぎるような事態は起こりそうもない。今こそ政治家は目先のプライマリーバランスの改善ではなく、国民に目を向け、経済を復活させ、経済成長による財政再建を目指すべきである。(小野盛司)

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“お知らせです” 

 3月26日の日本経済復活の会の定例会

3月26日(水曜日)、東京にて宍戸駿太郞先生の講演があります。日本経済復活のために今何をすべきかという大変貴重なお話を聴くことができます。皆さんも是非、積極財政論の真髄を味わってください。小野会長のお話とともに、日本経済復活の希望を得て帰っていただきたく思います。弁当やお茶の用意がありますので、決まったら上記案内をご覧の上、小野会長宛にご連絡ください。電話でもメールでもけっこうです。(神州の泉・管理人)

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「さかなのうた」に想う

「さかなのうた」に想う(神州雑感)

一、神州という言葉に惹かれて

 私がこのブログをはじめたのは、単純に言って、「神州」という言葉に強く感化されたからである。はじめて意識した神州という言葉が、眠っていた私の深部を奇妙に揺さぶった。それまでは私の意識の奥底に茫漠と沈潜していた日本の風景が、神州というキーワードによって一瞬鮮明な姿として脳裏に映し出されたのである。神州という言葉には不思議な光輝が宿っている。その古風な言葉は、今は忘れかけた淡くてすがすがしい日本のたたずまいを亡羊としたもやの中に浮かび上がらせる。それは現実的な風景というよりも、日本人すべてが、生まれながらの日本的霊性を凝集し、現実の風景を絵画的な風景に再構成したという感じである。他人に言ってもそのニュアンスは伝えられないかもしれないが、神州の絵画的イメージを惹起する鍵となるものが靖国神社の境内にある。それは参道の途中にある神門に飾られた直径一メートルはあろうかと思える大きな菊の御紋章である。この御紋章には神武天皇以来、日本人の心に燦然と輝き続けている霊的な日本の光輝がある。神州とは日本人すべての心に宿る原初的な精神原像のことなのだ。

 今から40年以上前の幼少年期、ふるさとの山野に遊んだ自分の原体験をもとに、日本の風景論や文化論を多角的に考えてみたいという単純な動機からこのブログを始めた。ところが、いざ始めてみると当初の思惑とは違って、政治や時事ニュースの感想ブログになっていた。その上、人間関係の綾なす織りは不思議なもので、いつの間にか、エコノミストの植草一秀さんを応援していたり、現在は日本経済復活の会の会長さんの積極財政論シリーズをこのブログで連載していただいたりしている。植草一秀さんが遭遇した身に覚えのない濡れ衣事件については、調べれば調べるほど、彼の良心が理不尽な迫害を受けているという結論しか出てこない。この日本が本来的な日本人の精神土壌から乖離して、アメリカ的な唯物主義、金銭至上主義的な方向へねじれて来たことが見えてくる。昨今の日本を囲繞する真の問題は新自由主義である。この新自由主義が根付いた土壌にはGHQが刷り込んだWGIPという東京裁判史観とマルクス主義の連結があった。戦後教育とこの連結史観によって、日本人の心から伝統的霊性が徐々に失われ、1970年代からは、その空白の精神土壌に新自由主義が静かに根を下ろしてきた。

二、新自由主義の台頭

 日本人は新自由主義を経済の一形態としてしか理解していないが、実はこれこそが伝統や固有の文化を根こそぎ無化する破壊的なイデオロギーだったのだ。小泉純一郎氏や竹中平蔵氏の欺瞞の構造改革によって、日本の基礎構造(国体)が揺らいでしまった。それほど彼らの採用した国策は国家の屋台骨を危ういものにした。私は経済にはすこぶる疎いのであるが、どういうわけか最近は経済のことがらに縁が深くなっている。小野会長にしても、植草さんにしても、城内実さんにしても、彼らは斯界にあっては、ずば抜けて優れた頭脳の持ち主であり、知的フィールドにおいては私のような凡庸な人間との共通性はない。しかし、一つだけ思いを同じにしている部分があるとするなら、それは壊れかけたこの日本を修復したいという切なる気持ちであろうか。このような優れた方々と私を結ぶ線があるとするなら、それは日本回復への情念だと思う。

 小野会長や植草一秀さん、城内実さんに共通することは、この青息吐息の弱った日本に万民幸福の原理を実現したいという願いであろう。わかりやすく言うなら、小野会長は日本人を貧乏にしてはいかんと言い、植草さんは弱者を掃き捨てるような社会ではなく、経世済民の実現を願っている。城内さんも弱者に優しく地方に暖かい万民幸福の政治理念を持つ。三者とも、同じ願いと展望をこの日本に抱いている。私がささやかながら関わったこのお三方が、然るべき地位に付き、病みつかれた日本を再生する大きな力になってくれることを願っている。今の日本は本気で日本を考える有能な人が叩かれてしまうことが多い。気をつけなければならないのは、マスメディアが好んで取り上げ、持ち上げる人物は国民を崖っぷちに導くハーメルンの笛吹き男の場合が多い。メディアは小泉純一郎を異常に礼賛し、御用学者たちはそれを援用した。その結果、日本にもたらされた惨禍は記憶に新しい。日本の崩壊は今に始まったことではないのだが、小泉政権によって急速に自壊速度が早まった。55年も生きていると日本社会の空気の変化がよくわかる。新自由主義という猛毒の潮流が日本を深部から痛めつけているのだ。

三、英霊の言乃葉(えいれいのことのは)

 ブログをやっていて、植草さんを嵌めた国を売る勢力が放っている瘴気紛々たるおぞましい気配を感じたり、日本人が人間としてだんだん劣化してゆく姿を日々のニュースで見ていると、気持ちが汚れた曇りガラスのようになる。今の日本の生活風景は醜悪である。都市に行っても、地方に行っても、私が少年のころの風景とはまったく異なった異様なたたずまいが目に入る。山も、川も、谷も、田んぼも、畑も依然としてあるが、それは以前のような清新な輝きを持たず、まるで日本列島全体が毒物を散布されて醜悪なただれを帯びたように、その光景はくすんでしまった。安倍晋三元首相は「美しい国へ」を政策基調のモットーに掲げた。しかし、小泉政権が敷いたネオリベ政策を踏襲したために、彼の理想とした国家構想は絵に描いた餅の域から出ることはなかった。それどころか、新自由主義の暴虐性は、戦後にかろうじて残存していた日本の良さや美しさを徹底的に破壊しつくしてしまった。日本を蚕食する真の問題は左翼や右翼思想というイデオロギーではなく、37年前に三島由紀夫が洞察していた無国籍化という現代思潮にある。

 それは左でも右でもなく、ネオリベラリズムである。経済政策として理解される新自由主義は、左右思想の枠を超えてイデオロギー化し、それは文明破壊の猛毒を秘めた代物だった。日本の再生を願う人たちは、今の日本の状況を左右思想の桎梏ではなく、社会ダーウィニズムを基調とした市場原理至上主義の問題として捉え、そこからの脱却を計らねばならない。ここで重要なことは、新自由主義を経済の一方法論として捉えることの間違いである。新自由主義はすでにイデオロギー化して日本人の心を野獣的な野蛮性に変えつつある。これを阻止して、もとの日本的霊性に日本人を軌道修正するためには、日本人が忘却つつある神州の風景を心に甦らせることである。神州という言葉は、戦後生まれにとっては大東亜戦争という言葉と同様に馴染みの薄い感じであり、その言葉を見てかすかに記憶にひっかかるものを感じたとしても、あえて意識の表層に乗せることを拒む言葉の一つなのであろう。私は四十路に達して、神州という言葉を目にし、大東亜戦争史観とは別に、景観論的な方向性からこの言葉に強く感応した。とは言ってみても、神州という言葉を初めて強く意識したのは、大東亜戦争史観とは不即不離である靖国神社が出版する「英霊の言之葉(1)」を読んだときであった。

 そこには、特攻兵器「回天」の訓練中、海底で事故死した若き海軍大尉の遺書があり、その中に「神州ノ尊  神州ノ美  我今疑ハズ 莞爾トシテユク万歳」という記述があった。海底に座礁した回天の中で死を待つばかりのとき、彼の末期の目に映った日本の尊厳や美しい風景は奇しくも「神州」という言葉で表現されていた。海底に座礁し、酸素の乏しくなってきた回天の絶望の中で、死が訪れるわずかの間、この若い海軍大尉は日本に神州の尊厳と美を確信した。そして最後の言葉を残して従容と旅立って行った。彼の死に様は特攻の潔い戦死ではない。無念の事故死であり、しかも狭い艇内、酸素欠乏で死ぬまで時間が残されているという地獄の状況にあった。しかし、それでも後輩に必要なことを書き残し、神州の美しさを讃仰しながら泰然として死に赴いた。私は彼の記述を目にした時、一晩中涙が止まらなかった。と同時に、私はある種の霊感に打たれ、この言葉をキーワードとして、日本の霊的な風景を垣間見る思いがした。神州という言葉には日本人特有の内面を構成する心象風景の原像がある。

 日本人は日常的な生活においては日本の風景を絵画的に意識することはない。それは田舎で野外作業に従事し、慣習的に自然の風景を見慣れている人にあってもそうである。しかし、死に臨んだときの日本人は、末期の目に映る風景として、一瞬のうちに、凝集的に日本の美を内面のスクリーンに垣間見るようである。吉田満の書いた「戦艦大和ノ最後」にも末期の目に映じた日本がある。日本人は内面が日本的な風景と一体化していたのだ。だからこそ、日本には欧米の観念が流入する明治まで独自の風景論がなかったのだ。ところで、特攻に関して気になることがある。最近は右派論陣の中にも、特攻という事象を美化せずにプラグマティックに捉えろという、ほとんど左翼的な思潮が主流になってきたようだが、私はまっこうからそれを否定する。なぜならその論調には日本人としての心象風景が存在しないからである。

 臆せずに私の解釈を言わせてもらうなら、特攻心情とは、祖国愛の静かなる表出として「もののあはれ」が究極的に凝縮したものである。その精神風景にはいっぺんの野蛮性も濁りも存在しない。この民族性のアーキタイプ(原型)が理解できないと、特攻と自爆テロを同位同列に捉えてしまうという間違いを犯してしまう。戦後の日本人は東京裁判史観の刷り込みによって、戦前思想や戦前の内面風景をことごとく喜捨する方向に進んでしまったが、民族には時代によって変わらない心の形があるはずである。戦前の日本人の心のあり方にはけっして捨ててはならないものがあったはずだ。現代日本人はこの心のアーキタイプを無価値化したために日常性が無国籍化してしまった。こう述べてもわからない人は大勢いるだろうが、我が国の長い歴史の中で、美しい風土とそこに住む人間の内面性の関係を黙考すると、特攻の基本心情が深く祖国を慈しむ詩情に満ち溢れたものであることがよくわかる。

 四、童謡、文部省唱歌にこそ、神州風景の原点がある

 風土とそこに住む者の内面との濃密な相関性。これこそ日本人の心象風景の基本形である。私はけっして難解なことを述べてはいない。たとえば、風土と内面の関係をよく表すものが最近までわかりやすい形としてごく身近なところにあった。それが戦後でも比較的最近まで学校で取り入れられていた文部省唱歌なのである。私の年代も子供のころ、よくなじんだ唱歌がたくさんあったが、戦前は私の知らないよい唱歌がたくさんあったと思う。文部省唱歌には、万葉の詩詠み人であった我々の祖先が目にしていた美しい自然への讃歌やもののあはれが、単純でわかりやすいメロディーや歌詞にさりげなく込められている。これが親しみやすい旋律や単純明快な言葉を通して、詩情豊かに子供たちの心にストレートに入っていたのである。

 文部省唱歌は子供たちの情操教育にもっとも直截に、効果的に訴える力を持っている。外で遊ぶ子供たちは、身近な里山や川辺の自然を親や仲間たちと一緒に過ごし、文部省唱歌に込められた自然のエッセンスを素直に内面に取り入れる心的行動様態を身に着けるのである。この在り方こそ徳育の基本である。ところで、私が城内実さんを応援する理由は、彼の筋を曲げない一貫性にもあるが、やはり彼の基本的な世界観を認めているからでもある。その一つには彼が童謡や文部省唱歌を評価していることも大きい。藤原正彦氏との対談で城内さんは童謡、あるいは文部省唱歌の復活を説いている。これだけでも彼が真の日本復活の展望を持つ政治家であることがよくわかる。ちなみに私が特に好きな歌は「紅葉(もみじ)」である。

紅葉(もみじ)
         高野辰之
一、
  秋の夕日に照る山紅葉、(もみじ )
  濃いも薄いも數(かず)ある中に、
  松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は、
  山のふもとの裾模樣(すそもよう)。
二、
  溪(たに)の流に散り浮く紅葉、(もみじ )
  波にゆられて離(はな)れて寄つて、
  赤や黄色(きいろ)の色さまざまに、
  水の上にも織る錦(にしき)。

 五、神州模様とは白砂青松、山紫水明

 話が逸れたので神州論にもどす。さて、「神州ノ尊  神州ノ美」であるが、 私はその記述を読んだとき、自分の幼年期に味わった自然体験の瑞々しい感動と結びついて、日本本来の風土や自然の美を強く意識し、日本人の精神性が豊饒な自然と不可分であることを悟った。ただ、日本人は明治になるまで自然(natural)という言葉を持たなかったということを考えると、それまでの日本人はあまりにも自然と深くなじみすぎていて、自然に対して我(われ)があるという対置的な客観性を持たなかったようだ。つまり日本人の精神性は自然と融合していたのである。我と自然が同化して日本人の精神を形作っていた部分は否定できない。あまりにも自然が内面的に入り込んでいて、欧米人のように対置的な視点で自然を捉える慣習はなかったのである。そのために、戦後における日本人の環境保全概念は最悪の様相を帯びた。

 つまり、日本人の気持ちには自然を保全するという感覚がないのである。それはあまりにも自然が内面化していて客観性を持たず、当然、それを保全するという思考が出てこないのである。もう少しわかりやすく言うと、日本人の自然