植草事件、浮かぶ疑念
○謀略の可能性を検証する必要がある
植草一秀さんが遭遇した2006年9月13日の京急電車における事件は、政治的謀略によるでっち上げ、すなわち時の政権筋が絡み、官憲ぐるみで行なわれた偽装事件であったと私は確信する。しかも、第一審の判決も、控訴審における控訴趣意の即時却下も、最初から植草さんを有罪にするための偽装裁判の様相がすこぶる濃い。そしてこの話は2004年4月8日の品川駅構内の事件にも共通して言えることである。官邸筋、警察、検察、裁判所が心を一にして、一人の良心あるエコノミストを犯罪者に仕立てている。今の日本は良心的な有識者がむごい目に遭う閉塞した時代となっているようだ。政治中枢に新古典主義というなかばイデオロギー化した経済思想が浸透したために、国家機関に正義が働かなくなってきている。
私も植草さんの書いた「知られざる真実_勾留地にて_」を読むまでは、彼を典型的なケインジアンだと考えていた。しかし、彼の経済学の来歴を見て驚いたが、植草さんのベーシックはマネタリズムなのである。なんとそれは、関岡英之さんや自見庄三郎先生が忌み嫌う新古典派の代表格・ミルトン・フリードマンが創設した貨幣数量説による通貨政策重視の捉え方なのである。植草さんは当時、鈴木淑夫氏のマネーサプライ論等を読み、影響を受けたと書いている。また、レーガノミクスを再検証してその有効性を見出したとも書いている。植草さんをあえて分類すると「小さな政府」論、規制改革、自己責任論を重用する一派である。そうであるならば、基本的には小泉・竹中構造改革路線と整合する考え方であると思うが、彼は小泉構造改革を徹底して弾劾した。なぜだろうか。それは小泉政権が一貫した政策を取らず、口先では官僚悪玉論を唱えながら官僚利権構造を温存したからだ。そしてりそなにまつわるインサイダー取引疑惑を見抜いたからにほかならない。私は、植草さんが最初に取り掛かったベーシックな経済理論がマネタリズムであったとしても、その後、然るべく思想的変遷を経てフリードマンを脱し、J・M・ケインズの流れに属する積極財政論者になったと思われる。そう捉えないと私のレベルでは理解不能である。
さて、話を京急事件の公判に移す。一審の第二回公判に、痴漢を目撃したと証言するT証人が出てきた。T証人は、約二分間の犯行を逐次見続けていたという。私にはT証人のその『行為』『様態』の方がはるかに不自然なものを感じる。考えていただきたいのは、映画『それでもボクはやってない』のシチュエーションとはまったく違っていて、当時の車内はすし詰めではなく、乗客各自は肩が触れ合う程度の混み具合であり、随意に移動できる状況にあったわけである。
そもそも、ここには二名の行動様態の不自然さが見られる。一人は被害者と称する人物であり、もう一人は犯行を逐次目撃したと証言したT氏だ。この両者に対し、常識的に考えて、一つの強い疑念が浮かばないだろうか?それはこの両者が結果的に、約二分間の犯行に対して、何ら積極的な回避行動、及び制止行動を行なっていないということだ。みずから積極的に動かないことを不作為と言うが、私にはこの二人の不作為が最も異常に感じるし、そこにはある種の共通性があるようにも見える。
具体的に言うと、2分間、被害者は被害が進行しているにも拘らず、回避行為を行なっていない。T証人は、たとえ本人の感覚的な経時記憶だったとしても、その約2分間は痴漢の進行を結果的には漫然と見ていたのである。なぜ彼は制止行動を取らなかったのか。証言によれば、被告が暴れたりしたら嫌だなということと、たとえ加害者に注意しても、被害者がさわられたことが恥ずかしくて自分に賛同してくれない場合をおそれたと言っている。加害者が凶器を持っていることを想定すれば、万が一の凶行を恐れることはあるかもしれない。しかし、T氏はその可能性を考えると同時に、女性が恥ずかしくて自分の助力に賛同してくれない場合も心配している。私には、この二つの心配を同時に抱くことについては心理的な整合性を感じられないのだが、いかがだろうか。(参照:第二回公判速記録の412~437)
暴れられることを恐れるのは、自分や周囲に対する肉体の危険である。一方、女性が賛同しない場合の恐れは自分が困った立場になるという不安である。この二種類の不安心理が同時に湧き起こっていたことが、彼の義心による制止行動を抑止したいうことだが・・。私には後者の女性が賛同しなかった場合の心配は、加害者が暴れることの想定とは、あまりにもギャップがありすぎるように感じる。男は女性を助けたいと思う時は、自己の恥や面目を超えて可能な限り早く助けたいと思うのではないだろうか。ましてや痴漢している者に対する怒りが出ている場合は、女性の賛同云々などに気持ちはいかないと思うのだがいかがであろうか。痴漢加害者が暴力をふるうという想定はありうることだが、女性が賛同しなかったらどうしようかという消極的な想定は普通しないのではないだろうか。これらが併存する心理状態は考えにくい。公判録を読み返してみて、私はこれらの証言について非常に違和感を覚えるのだ。
さて、T証人と被害者女性の不作為性について一考する。充分に移動可能な車内状況にあって、被害者は避難行動を取っておらず、目撃者は周囲の協力も得られたはずなのに約2分間、その犯罪を黙ってみていた。私は両者のこの不作為に共通した偽装性を感じ取る。つまり、ひとつの作業仮説として考えられることは、犯行そのものが存在せず、あらかじめ仕組まれていた偽装犯罪だったという仮説である。これを裏付けるものとして弁護側目撃証人の存在はきわめて大きい。謀略の可能性を念頭に置いて事件を検証するべきだ。
“お知らせです”
4月21日の出版記念パーティ
4月21日(月曜日)、東京にて日本経済復活の会・小野盛司会長さんと評論家の中村慶一郎氏の共著『お金がないなら刷りなさい ―米国が16兆円を刷って国民に配っているときに日本は増税かー』の出版記念パーティがあります。弊ブログで小野会長の積極財政論シリーズをご愛読して頂いている読者さんも参加してくださればうれしい限りです。出版記念会詳細は上記リンクにてどうぞ。(神州の泉・管理人)
← この記事に興味を持たれた方はクリックお願いします!!
(日本に希望を与える信念の男、城内実)
| 固定リンク








コメント
kenkensha様
はじめまして。コメント感謝します。
>先日の脱走米兵によるタクシー乗務員刺殺
>事件のニュースを視ると、品川駅の防犯カ
>メラの映像は、かなり長期にわたって保存
>されているようです。
それはまったく妙なことですね。かれらは
これについても言い逃れするのでしょう。
あと小泉元首相はかなり前から郵政民営化
を言っていましたが、おっしゃるとおり働き
かけがなかったとは言えませんからね。
投稿: 高橋博彦(管理人) | 2008年4月10日 (木) 11時11分
先日の脱走米兵によるタクシー乗務員刺殺事件のニュースを視ると、品川駅の防犯カメラの映像は、かなり長期にわたって保存されているようです。
どうして植草氏の場合だけ消去されていたのか極めて疑問です。
もう一つ小泉元首相が「郵政民営化は米国の指図があるずっと以前から私が唱えていた」と嘯いていましたが、米国の諜報機関は、後々役に立つ人間は、とりあえず確保しておいてアメ(資金提供など)とムチ(スキャンダル)で言いなりにさせるくらいわけなくやるのではないでしょうか。
小泉氏の一言で納得してしまうのが不思議です。
投稿: kenkensya | 2008年4月10日 (木) 10時38分
こんにちは。たびたび失礼します。
確かに植草氏の経済学はは、入り口は新古典主義だったにせよ、次第にケインズ経済学も含めた包括的な物になっていったという側面もあるようですね。他の一流経済学者がそうであるように、植草氏も独自の「植草経済学」を築いているという事かもしれません(まあ。私も専門外なので断言はできませんが)。しかしながら、例え「新古典派」と言われている経済学者でも、「経済学者」であれば決して「政府の財政出動の経済押し上げ効果は無くなった」などという事は決して言わない点は留意すべきだと思います。逆に言えばそんな事を公言する「経済学者」は「にせ経済学者」か「うそつき経済学者」のどちらかに違いない、という事になりますから。
投稿: JAXVN | 2008年4月 2日 (水) 20時35分
AXVNさん、こんにちは。
植草さんは小泉政権のマクロ政策について、緊縮財政の税収効果を危険視している
ことや、緊縮財政下における不良政権処理が最悪の結果をもたらすと強弁しています。
また、かの政権が(故意と思われる)金融恐慌寸前まで追い込んだ原因を、退出すべ
きは退出させると唱え、大銀行も例外ではないという圧倒的な自己責任原則の徹底に
みています。ところが、破綻寸前になってりそな処理に見られるように、急に自己責
任原則を放棄し、その結果が経済の回復基調をもたらしたと言っています。
私にはよくわかりませんが、植草さんの基底感覚は不良政権処理においては、金融
システムの安定性を確保することと、自己責任原則の徹底をはかるという姿勢です。
この両者の絶妙なコントロールを謳っているところをみますと、彼の立場はマネタリ
ストかケインジアンかと言うよりも、包括的だと捉えた方がいいのでしょうか。
投稿: 高橋博彦(管理人) | 2008年4月 2日 (水) 13時38分
こんにちは。
> 私も植草さんの書いた「知られざる真実_勾留地にて_」を読むまでは、彼を典型的なケインジアンだと考えていた。しかし、彼の経済学の来歴を見て驚いたが、植草さんのベーシックはマネタリズムなのである。
植草氏の経済学についてですが、似たような話を私はよく引用させていただいている「経済コラムマガジン」で読んだ事があります。「マネタリズムの元祖」とも言われているサミュエルソン氏に関する記事です。
「00/11/6(第184号)
「国債の日銀引受」への評価
(中略)
サミュエルソンは新古典派的総合の提唱者である。したがって筆者は、氏が今日日本ではやっている「小さな政府」論の始祖的学者、つまり教祖の一人と理解していた。ところがポール・サミュエルソンは、前述の日経新聞のインタビューの中で「私は(景気回復には財政政策だけが有効というような)がちがちのケインジアンではない。」と言っているのである。筆者にとっては驚きであった。筆者は長らく誤解していたのである。
つまりサミュエルソンは、自分はケインジアンであるが、全面的にケインズの考えに賛成しているわけではないと言っているのである。極めて常識的である。筆者の卒直な感想は、ちょうどローマ法王が「実はわしは仏教を信じているが、それほど熱心な仏教徒ではない」と言っているようなものであった。では日本からの「遣唐使」は、一体、誰からあのような「へんてこな経済学」を学んでくるのであろうか。」
http://www.adpweb.com/eco/eco184.html
私はこう思います。つまり「新古典派」でも「経済学者」であれば「政府の財政出動の効果が無くなった」なんて事を言うはずが無い、という事なのではないでしょうか。「構造改革派」はもはや「経済学者」でさえない、という事なのかもしれません。
事件についてですが、「痴漢でっち上げ」は実に簡単だという事が先日の事件で証明されています。背景など知らなくても、「痴漢にあったふりをすればバイト代をあげる」と言われれば、たいていの学生はやってしまうのではないでしょうか。
投稿: JAXVN | 2008年4月 2日 (水) 06時27分