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2008年6月30日 (月)

(続)吉兆の堕ちアユ

 前回エントリー『吉兆の堕ちアユ』に、cameramanさんという読者さんから下記のコメントを寄せていただいた。少し感じるところがあったので、私も感想を書いてみた。
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  一般家庭で食べ残しを捨てたら(程度にも依るが)、常識を疑われるでしょうが、食事を文化として供する料亭がここまで落ちているとは。いわゆるケに対するハレの文化を楽しむものであり、カロリーの摂取によって血糖値を安定させるためのものでは有りません。お茶を飲むのに1時間かけるような文化は、おそらく世界でも珍しいでしょう。
料理人、経営者にも責はありますが、客の側にもこのハレの気分を味わう、という極めて良い意味での雅さが薄れて来ているのではないでしょうか。ありていに言えば「料亭○○」で食べられる人間は、勝組である、・・・お終い。といったところです。

投稿 cameraman | 2008年6月29日 (日) 22時36分
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  (以下は「神州の泉」管理人)

cameramanさん、こんばんは。

>いわゆるケに対するハレの文化を楽しむものであり

>ありていに言えば「料亭○○」で食べられる人間は、勝組である、
>・・・お終い。といったところです。

 おっしゃるように、高級和食料亭の存在意義は、日常“ケ”を超えたところに求める、しばしの“ハレ”・・。まったくその通りなんですね。高級料亭で食べられる資格を持ったものは、いわゆる普通の意味で、社会の勝ち組と言われる人たちでした。と、あえて過去形で言ったのは、風流や雅(みやび)が、文化人や為政者達に当然の教養として根付いていたころの話です。ただ、大金を出せば最高峰の和食文化を楽しめるという時代ではなかったと思います。高級和食を味わえるステータスのある者とは、それに相応しい知識を持ち、文化を深く理解できる教養人であり、しかも斯界の成功者という文脈での“勝ち組”なんですね。つまり、“ハレ”の空気がきちんと読める人たちでありました。当時であれば“金融博打で”儲けた成金さんは敷居が高くて行けなかった店はたくさんあったはずです。今ではそういう店そのものが幻想となっています。

 ホリエモンや村上何がしかが行くようなところはけっして本物の高級和食ではありません。“場”が彼らのような金銭至上主義者、つまり下衆な守銭奴をはじいていたのです。この対応関係は、昔の吉原文化の中で、一番の花魁に気に入られるためには、大金持ちという条件のみでは近づけなかったことと似ているでしょうね。いわゆる“粋”を解し、花柳界の文化に通暁している最低の条件があったように理解しています。ただ、おっしゃるように、客層水準の低下を見れば、現代日本にはたして、高級和食文化なるものが存在するかどうかは、はなはだ疑問がありますね。もっとも、私のような貧乏庶民には、その世界の実態はわかりませんけどね。

 私個人の願望から言うなら、いわゆる“健全な意味”における勝ち組連中が行く料亭はあってしかるべきです。それは深い文化に接するという健全な特権意識を育みます。これはこれで、社会の一つの必要なエリート意識を育てることにもなります。若い人たちが憧れるような場所であれば、なおさらいいでしょう。料亭でなくとも、そういう場所はインフラとして必要だと考えます。財産や持ち金の多寡だけで会員資格を問うような“場所”には文化も品位も生まれるとは思えません。そういう場所がどのような雰囲気になるかと言えば、旧約聖書・創世記に出てくるようなソドムやゴモラのような背徳の雰囲気に満ちてくるでしょう。求める場所とは、日本人であることを再確認でき、日本人でよかったと思える空間ではないでしょうか。そこには当然ながら、和の伝統的空気が息づいていることが必要です。然るべき社会的成功を収め、そういう特別な場所へ行く資格ができた者には、高度な日本文化を理解できることと、もう一つは日本人として、ノーブレス・オブリージュの魂も持って欲しいと思うのは私だけでしょうか。しかし、見かけの偽装を行なうようなところに、そのような空気は絶対に生まれません。

 私のイメージはあくまでも私個人の想像が大きいわけですが、これもマンガ『美味しんぼ』などのレベルで仕入れた浅薄な知識で言いますが、本物の伝統的高級和食なる文化は、すでに北大路魯山人あたりで消滅しているのかもしれません。だいたいにおいて、現代日本が和の文化を死守する構えが強かったのなら、けっして対米隷属にはなりませんね。日本が日本の本質を大事に守っていたなら、マクドナルドがここまで毒々しく街に氾濫しないでしょう。和食文化の極限的衰退は、戦後日本の社会体制の変遷からもある程度言うことができます。それはドイツの社会学者テンニースが唱えた、有機的、血縁的、継承的社会共同体から出てきたゲマインシャフトから、利害関係のみで泡沫的に形成されたゲゼルシャフトへの移行が、戦後日本では極端に進んでしまい、伝統的な世襲制、徒弟制度が急速に崩壊してしまったことにも関係があります。特にゲゼルシャフトへの変容ですが、日本は新自由主義を取り入れて、もともとあった共同体的志向の残渣さえも消えようとしています。この状況で、職能的世襲制が滅びかけており、和食職人の伝統的奥義が伝承されにくくなっていることも確かでしょう。

 また、われわれが和食と考えている物の大部分は素材からして海外産です。本当の独立自尊的な考え方が国家レベルにあるならば、食料自給率をこれほど低迷させたまま放置することはありえません。確か39パーセント以下でしたっけ。BSE(狂牛病)の疑いがあるアメリカ産牛肉を政治的圧力によって、唯々諾々と輸入しているわが国に、正統な意味における和食伝統文化が残存しているものでしょうか。食糧自給の実態と、環境悪化を正視した場合、今の日本は文化以前のレベルまで落ちていることがわかります。雅な食の伝統が花開く以前の状態ですね。本物の和食文化が残存しているとしたら、それはどこかの漁村や山深い山村に、風流心を持った板前さんがいて、新鮮な素材に和の心を込めて料理している所くらいではないでしょうか。船場吉兆は日本全体の食文化退嬰の実態を忠実に示しているのではないでしょうか。

 正統な和食文化が復興するためには、日本の自然そのものが回復し、人々の心に万葉の雅(みやび)が満ちることしかないでしょう。日本の国土復興と日本精神のルネッサンスですね。戦後大きく逸れた道は、日本人をあまりにも遠いところに導いてしまったわけです。

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2008年6月29日 (日)

吉兆の堕ちアユ

船場吉兆の『使いまわし』に見る日本人劣化の現実

 はじめに

 和食の事情通からの受け売りなのであるが、料理、ことに日本料理では、「材料八部」ということが言われている。食材の質によっては、料理の良し悪しが八割がた決まってしまうという話である。船場吉兆の「料理使いまわし」は、単に食品偽装というレベルを超え、日本人の自己同一性の危機まで感じさせる深刻なものであると筆者はとらえている。小泉政権が日本に洪水のごとく新自由主義をもたらしてから、その当然の帰結として、国民全般の気持ちから公益心や公徳心が消えかけている。新自由主義の大御所であるミルトン・フリードマンの『政府からの自由』を読めば、国家と言う連続的有機的実態は、まるで無意味であるかのような方向性を明確に打ち出している。

 今の日本にとって重要な著書である『拒否できない日本』を書いた関岡英之氏は、フリードマンの思想性を「極左急進主義的無政府論」と喝破していたが、筆者もまったく同感である。中曽根政権が新自由主義的傾向を色濃くしてから、この日本は特にアメリカに阿諛追従し、ネオリベラリズムの風潮に囲繞され、今日まで至った。それは小泉政権が出現してから、突出的に鮮明になり、むしろこの政権が、国民に放った出力は、日本の伝統文化や倫理規範、相互扶助観など、もともと日本人に強く継承されていた民族的な性質をことごとく破壊する結果をもたらしている。船場吉兆が常態的に行なってきた「使いまわし」は、戦後日本人の公徳心や良心の衰退を見事に反映している。

食品偽装に新顔登場!「使いまわし」の衝撃

 飲食店業界から新たな衝撃波が発生した。今から半年ほど前、料亭「吉兆」グループの「船場吉兆」本店(大阪市)が運営する福岡市岩田屋本館にある「吉兆天神フードパーク」で、五種類に及ぶ菓子類の消費期限、賞味期限偽装が問題となった。それを皮切りに、大阪本店では牛肉や地鶏のみそ漬けに原産地偽装が発覚し、前役員らは不正競争防止法違反容疑で大阪府警の捜査を受けた。5月3日付けの読売新聞によれば、今回は料亭・船場吉兆の本店が、客が食べ残したアユの塩焼きなどの料理を別の客に使いまわしていたことが発覚した。これは前社長・湯木正徳(ゆきまさのり)氏の指示で行われ、一連の偽装が発覚して休業した昨年11月まで続けられていたらしい。使いまわしをしていたのはアユの塩焼きやサケの焼き物など、少なくとも6品はあったという。また、船場吉兆関係者が読売新聞の取材に対し、「使いまわしは20年以上前から行われていた」という証言もある。

 具体的には、客が食べなかった料理を再度加熱したり、油で揚げ直したり、新たな料理として客に提供していた。アユの塩焼きの場合は身をほぐして白飯に混ぜて出していた。一食数万円も散財し、期待して食べた料理は、一度他の客に出された料理から回収された食材から作られていた。何も知らずに、それを食べた者は、大衆食堂の安い定食とは、はるかに隔たった『高級な』満足感も同時に味わいながら、料理に舌鼓を打っていたことだろう。しかし、その高級料理の本当の成り立ちに客が気付いたとき、そこにふつふつと沸き起こるのは、美食の満足感とはまったくかけ離れた言いようのない嘔吐感だけであろう。大枚をはたいて船場吉兆で高級な和食を楽しんだ多くの人たちは、今ごろ、俺のときもそうだったのか、私のときもそうだったのかと、大いに堪能したであろう美食の追憶を、こみ上げてくる嫌悪感という、ひどい後味に塗り替えていることだろう。まったく罪深い話だ。

 こういうことを耳にすると、誰もが、もしかしたら、このような使いまわしは、他の料理店や大手居酒屋でも日常的に行われているのかもしれないと、疑心暗鬼になるのではないだろうか。実際、何人かの知人もその疑念を口にした。つまり料理を提供する側が、「その気」にさえなれば、枝豆などの豆類、刺身のつま、パセリ、サラダなど形の崩れないものは労せずして新品料理として再提出ができるからだ。客に発覚さえしなければ、使いまわしは容易にできるのである。ふだん、われわれが外食に出かけるときは、応分の金を払っている以上、食の安全と新鮮さは当然のことだと思っている。つまり、出される料理は衛生的であり、誰も「箸をつけていない」と信じて疑わない。しかし、その常識的な「一回性」がじつは幻想だと知ったとき、われわれが外食に抱いていたすべての期待や価値は根底からくずれることになる。「一回性」という確固たる伝統的な前提が根底から揺らいだとき、大事な金と時間を費やし、他家の残飯を食うために、のこのこと出かける人間がどこにいるだろうか。

 さて、次はこの「使いまわし」という食品偽装が、いかに悪質かつ深刻なものであるか考えてみる。

 欺瞞の「もったいない精神」

 船場吉兆・前社長の湯木正徳氏は「きれいな料理を捨てるのはもったいない。利用できるものは利用しろ」と厨房に指示したそうである。この話が本当だとすれば、湯木前社長の言う「もったいない」精神とは、いったい誰にとっての「もったいない」なのだろうか。前社長の指令には次のような論理構造が見える。

(1)大前提 「きれいな料理はもったいない」
(2)小前提 「船場吉兆の料理はきれいである」
(3)結論  「故に、きれいなうちの料理はもったいないから捨ててはならず、きちんと再利用される必要がある」

 これを典型的な三段論法と言っていいものかどうかわからないが、これを三段論法と解釈して、大前提の『きれいな料理はもったいない』を見ると、表層的には理屈が通っている。見た目にも美しい料理は、崩して食すのがもったいないということはよくあるからだ。しかし、この論法の結論に相当するロジック、『もったいないから捨ててはならない』という論理進展は完全に間違いだ。

 これがエコロジカルな再利用(リユース)という意味での「もったいない」の文脈でないことだけは確かである。「利用できるものは利用しろ」が、違った客に同じ物を提供できるという意味での再利用なら、「もったいない」の真の文脈は、一つ分の料理で二つ分の利益が見込めるという店側のぼったくり的営利感覚のことだ。そして、法律や商業道徳を加味した全体の文意は、ずばり言って『詐欺指令』そのものだ。廃棄物を新品だと偽って売ったわけだから、これは明らかに詐欺行為である。ウィキペディアで「詐欺」を調べてみた。

■詐欺(民法)
他人を欺罔(ぎもう:人をあざむき、だますこと)をして錯誤に陥れること。
詐欺による意思表示は、その意思の形成過程に瑕疵があるため取消得るもの
とされる (民法第96条)。

■詐欺(刑法)
他人を欺罔し錯誤に陥れさせ、財物を交付させるか、または、財産上不法の
利益を得ることによって成立する犯罪 (刑法246条)。10年以下の懲役に
処せられる。

 ここまで書いて筆者は、湯木氏の発想のあまりのわかりやすさに、こみ上げてくる笑いを抑え切れなかった。とは言っても、この事件を深く見つめれば、笑いとは無縁の日本人劣化の問題にどうしても突き当たってしまう。その深刻な問題提起は後半に説明するとして、湯木氏のこの指示を本音で言い直せば、「船場吉兆が儲かるなら、どんな食材でも効率よく使いなさい!腐っていなければ、残飯でも何でも使いなさい!見た目が美しければ何度でも使いなさい!」ということに尽きる。「使いまわし」は究極の原料コスト削減である。いや、考えようによっては無から有を生み出すわけだから、最も斬新な商売上のアイデアと言えるかもしれない。ただし、倫理道徳を完全に捨て去るという付帯条件はあるが。

 この剥き出しのぼろ儲け主義を見て、読者の諸姉諸兄は何かと似ていると思われないだろうか。そう、これは何でも貪欲に食い尽くすハゲタカファンドの手口である。儲けのためには、原料の品質も入手手段の不当性もまったく問わないという「やったもの勝ち」のぼったくり的市場原理至上主義だ。米国発、アングロサクソン流、究極のネオリベラリズム(新自由主義)である。料理を見抜けずにだまされる客が悪いということなのだろう。なんという精神劣化、なんという規範感覚の頽廃だろうか。使いまわしとは、一度は他人の面前に出されたものを再び別の客に出すことだ。それが以前と同じ形を保っていても、それはすでに料理としての自己同一性を失い、残飯という廃棄物に変わっている。箸を付けたとか付けなかったということは関係ない。一度他人に提供したものは廃棄物としての価値しか持たない。何というか、呆れるという気持ちをとおり越して、茫漠とした虚しさがまとわりついてくる。

 見た目も新しく箸もつけていないから衛生的だ、だから何の問題もないと思う人がもしもいたとしたら、その人に言いたい。前のお客に出した後に回収するというタイムラグがあり、厳密に言って、これには「経時的劣化」が起きている。ただし、それは微々たるものだから食品衛生法には抵触しない。それなら何も問題はないのだろうか?もし、そう考えるのであれば、その人は日本人をただちにやめるべきだろう。この問題の根は、単に経時的劣化を問題視することとは、まったく異なる、精神文化に関わる根源的な問題がある。そのことは追って説明する。

 さて、湯木前社長の「もったいない」指令にもっと突っ込みを入れてみよう。彼の本意は我利我利亡者の利潤追求主義であるが、それにしても、もったいないから使いまわしをしろというのはかなり乱暴である。野菜や魚など、新鮮な食材をあますところなく無駄なく使い切るというのであれば、そのことが料理の味や見た目に影響が出ないかぎり、エコロジカルな考えから言っても理にかなっている。一般論から言えば、物の再利用(リユース)は歓迎すべきことである。しかし、高級和食という確立された食文化体系の中では、食材の使いまわしは恥ずべき行為だ。料理の精神に真っ向から反した行為であり、饗応の精神にも背く。これに比べれば、二桁も値段の安いファスト・フードのほうがはるかにまともな食べ物に思えてくる。

 たしかに彼が言うように、日本の食文化には「もったいない」精神が伝統的に宿っている。子供のころ、よく親に、食べ物を粗末にするとバチが当たると言われたことを思い出す。そこには食材を大事にする、すなわち「もったいない」という伝統的な継承感覚がある。もったいないから野菜の切れ端を別の料理に上手く取り入れる。もったいないから残り物を明日の料理に使い、味を工夫して作りかえる。今風の主婦にも、ある割合でこういう「もったいない」感覚を生活に活かしている人はたくさんいる。経済的にも合理的なこういう生活の知恵は、一般家庭なら美徳として受けとめられ、良妻賢母の鑑(かがみ)として賞賛されるだろう。しかし、高級日本料理になると話はまったく違ってくるのだ。

 日本料理は満腹感を得るためのボリュームよりも、見た目の美しさや簡素さが重用される。特に高級和食にその傾向が強い。煎じ詰めて言えば、日本料理は無駄なものをそぎ落とすという美学である。食材を無駄なく満遍なく使い切るというのは、いわば世俗的な「もったいなさ」と言えよう。しかし、和の簡素な美を追求する高級和食料理の場合は、料理そのものがただの食事ではなく、日本特有の四季の移ろいや自然美を象徴する一幅の絵巻物になっている。その世界では、世俗的なもったいなさは止揚され、食材の鮮度や料理人の精魂込めた作品としての「一回性」が尊重される。つまり素材の鮮度や象徴としての意味性を最大限に際立たせるために、無駄なものはいっさいそぎ落とされているのだ。ここには日本における伝統的な食文化の精髄としての「もったいなさ」がある。

 しかし、天下に名をはせた一流の老舗料亭が「もったいない」と言って、一度客に出した料理を食材として再利用したという話は、心ある日本人を暗澹とした気分にいざなう。もったいない精神の実践は美徳だが、料理の使いまわしとなれば、それはすべての食文化への裏切り行為に直結する。船場吉兆の行なった料理の使いまわしは、飲食業というサービス産業に決定的なダメージを与え、なおかつ和食文化を根底から覆す悪質な所業である。

 この背信行為は日本文化の冒涜

 老舗中の老舗である高級料亭が、残飯として廃棄すべきものを回収し、それを客に出すことの衝撃度は尋常ではない。筆者自身は貧乏な庶民の一人だから、船場吉兆のような高級店で食事した経験はほとんどないが、少なくとも高級料亭のたたずまいはわかる。一つは料理を盛り付ける器そのものが並外れた高級品であることだ。たとえば北大路魯山人(ろさんじん)の陶芸品などである。そこでは、われわれ庶民が日常ではなかなか目にすることのできないような陶器・磁器の名品が揃えられてあり、器が醸し出す風格が、和食職人による入魂の料理と拮抗して、絶妙なバランスと存在感が奏でられる。ここには板前さんと言うよりは、繊細優美な日本画を描写するアーティストになっている。板前さんの流儀と思いが深ければ、変幻自在にいろいろな作品が楽しめる。器、盛り付け、もてなす側の所作雰囲気、部屋の飾りつけ、すべてが日本料理を成らしめる一種独特の和の空間を形成し、そこには味だけではない、総合芸術としての設(しつら)いがある。高級懐石などの和食は、さりげない簡素さの中、安らぎとともに、日本人独特の情緒性や風趣を呼び起こす舞台が演出されているのだ。そこにこそ、華道や茶道に通じるわび、さびとしての日本料理がある。船場吉兆はこの系統にあって、しかも高みに位置する料亭だと思っていた。筆者には手の届かない和食の高峰にある店が、あろうことか「使いまわし」を常態的にやっていた。

 船場吉兆の行なった料理の使いまわしは、この伝統的な食文化の精神を冒涜する行為である。そこには、客に対する裏切り、日本に対する裏切り、伝統文化に対する裏切りがある。そのことは「鮎の塩焼き」の使いまわしを例にとって端的に説明できる。鮎の姿焼きは、川に遊泳する鮎の姿そのままに焼いて出され、見た目にも清流の心地よいそよ風を一緒に味わうがごとくである。鮎という魚が、流れて止まるところを知らない清流の風情を醸し出すとなれば、そこには日本人としての情緒空間が引き出されている。行雲流水、すなわち、無常観なり、もののあはれがそこはかとなく醸し出されるのだ。流れる水に遊泳するアユとは、二度と出会えないこと、すなわちたった一度の貴重な瞬間(とき)を映している。仏教的な感性で言うならば、これは一期一会である。

 高度な板前さんの手にかかれば、広めの平らな器に塩をまいて川面の波紋を凝らし、その上に溯上するアユを配置する。料理とは言え、今にも飛沫を上げて飛び跳ねそうである。水面に躍り出たアユの一瞬を器に固定するのだ。瞬間の固定とは永遠である。まさに一期一会の妙味である。あざやかな桜花が一瞬で散るように、美しく盛り付けられた和食にも刹那的な一回性がある。つまり和食もたった一度という一回性が味の深みを引き立てている。和食の高度な簡素さには、やり直しの効かない一回性の厳しい本質がある。くわえて、移り行く四季をめぐり、山海の彩(いろどり)を凝らしたり、地場産食材の利をふんだんに活かした料理など、日本料理は奥が深く千変万化、まさに高度な食の芸術である。日本人は料理にも自然を見て楽しむ心を持っている。目で味わう、五感で味わうとはそういうことである。船場吉兆の不祥事は、単なる食品偽装の域を超えて、日本人の底流に横たわる原初的な情緒性を愚弄した。悠久の時を経て形成された日本人の感性を逆撫でするできごとであり、許しがたい背信行為だ。このような根深い問題を提起しているたちの悪い事件なのに、「もったいない」という世俗的なエコロジー文脈で、このできごとを見過ごしていいはずはない。

井沢元彦著「穢(けが)れと茶碗」からのアナロジー

 この記事を書いている途中で、また新たなニュースが出てきた。どうやら吉兆の「堕ちアユ」は一匹だけではなかったようだ。船場吉兆は大阪本店のみか、心斎橋店、福岡市の博多店、それに昨年11月に閉店した天神店でも使いまわしが行なわれていた。料亭4店すべてが開店当初から使いまわしを行なっていた。何をかいわんやである。じつは船場吉兆に露見したこの不祥事について、筆者が最も言いたいことはこれからである。前述したように、これは日本の伝統文化に対する裏切り行為なのであるが、より深い部分では、日本人の根源的な宗教感覚からの逸脱行為であり、原始的な神道思想ともかかわる話なのである。今から13年前、作家の井沢元彦氏が「穢れと茶碗」という衝撃的な本を世に出した。当時、外国人が日本論を出すと目の色を変えて飛びついた日本人が、斯界の一部を除いて、この本にはさほど興味を示さなかったようだ。しかし、筆者にとっては、いまだに影響力の強い本である。

 井沢氏の基調的主題は、日本人が軍隊を忌み嫌う理由に、神道的な穢(けが)れの感覚があるという。戦うことを職業とする軍人は常に死と向き合う。したがって軍隊には死穢(しえ)の気配があり、日本人はそれを忌み嫌うという話である。日本人にとって死はケガレであり、それを象徴するものはすべて嫌い敬遠するという考察である。我々の日常意識の奥底には、ハレ、ケ、ケガレという日本人特有の原初的な感覚が脈々と流れている。ハレは清浄や聖なること、ケは普通、日常である。これに対してケガレとは、その清浄さや日常性が壊されることであり、その極点が「死」である。死を最大の穢れと考える感覚から、昔の日本人は墓守や動物の皮を処理する仕事をしていた人々を差別的に忌み嫌った。井沢氏は穢れの説明として、日本人にとって、箸と茶碗は個人に属するものであり、けっして使いまわしをしないことを強調した。不思議なことに箸と茶碗は属人器となっており、他人の茶碗や箸は使いたくないというのは日本人の伝統的心性なのである。それは筆者も例外ではない。「穢れと茶碗」から孫引き引用すれば、穢れとは汚いこと、よごれ、不潔、不浄のこと。汚いを古語辞典で調べると、「きたなし」で、その意味は次の六つである。

一、触れるのもいやなほど、よごれている。清潔でない。
二、乱雑である。乱れている。
三、よこしまである。正しくない。腹黒い。
四、卑怯である。恥を知らない。
五、野卑である。下品である。
六、けちである。しわい。

 三から六が、感覚としての汚れ、つまり「穢(けが)れ」を指している。井沢氏は言う。本来実体としての汚れのない洗い箸や茶碗に、われわれ日本人は感覚としての汚れ、つまり穢(けが)れを感じる。古代日本人の感覚は、罪(犯罪)も、災い(災禍)も、過ち(過誤)もすべて穢れとして感じていた。穢(けが)れの意識は、古代から日本人に連綿と続く神道的感性なのかもしれない。井沢氏が指摘する、日本人に共有されている穢れを認識する心性は、じつに二つの重大な精神態度を生み出した。一つは被差別部落を生み出した差別感覚である。もう一つは日本人特有の性癖と言うべき強い潔癖感、清潔感というものである。今筆者が問題とすることは後者である。穢れを忌み嫌う日本人固有の清潔感は、良い悪いを超えてわれわれのDNAに刻印されている。その感覚から言えば、料理の使いまわしとは、ずばり穢(けが)れそのものだ。

 船場吉兆の前総帥・湯木正徳氏が、「もったいないから」という言葉でこの穢れを糊塗したことは許しがたい罪である。船場吉兆に起きた「使いまわし偽装」事件には、日本人であることに由来する二つの問題が起きていた。一つは今説明した使いまわしという「穢れ」の発生である。もう一つはこれに関連して、湯木前社長が「もったいない」という言挙(ことあ)げを行なっていたことである。日本には古来から言霊(ことだま)信仰が存在する。共同体の長(おさ)が言挙(ことあ)げを行なうと、人々はそれに従順に従うという慣習が根付いている。日本人に集団性が見られるのはそういう性癖が影響していることもある。

 湯木氏は「もったいない」という言挙げを行い、部下たちを洗脳した。日本人は権威ある者、位の高い者が発する「言挙げ」にめっぽう弱いのだ。言挙げの内容の正邪を問う前に、従容と受け入れてしまうところがある。井沢元彦氏の感じたように、言霊信仰は日本人の深層に根付いている原初的な宗教感情のようなものである。この感覚にわれわれは無意識裡に影響されているのではないか。卑近な例を上げると、数年前、あの郵政民営化の是非を問いかけた衆院解散総選挙では、小泉純一郎元首相がワンフレーズ・ポリティクスを大声で繰り返し、国民はその単純明快さに酔いしれた。これは社会現象的には、米系外資に扇動された大手広告会社がマスコミに情報統制を行い、それに気が付かない大勢のB層国民が洗脳されてしまったという現象で説明されることが多い。

 当時は筆者もそう思っていたし、今もその見解に変わりはない。しかし、それだけでもないような気がしてきた。そのころ、小泉氏に熱狂した人たちが、必ずしもIQの低いB層市民であるという見方も不十分かもしれない。なぜかと言えば、そこには日本人の言霊信仰が強く影響していたと思うからだ。小泉純一郎という強烈なキャラクターを持つ男が、宰相の地位に着いた瞬間から、わかりやすい自信のみなぎる言葉と、極力短い説明で国民に言挙げを行なった。国民は原初的な言霊信仰を揺り動かされ、小泉構造改革の意味を深く考える前に、盲目的にそれを受けいれてしまったという側面も否定できないだろう。これには共同体から来る付和雷同の精神など、日本人が言霊信仰にどこかで囲繞されていることも案外影響しているような気がする。

 最後にもう一度、穢れに戻るが、料理の使いまわしは穢(けが)れそのものだ。前述したように穢れ感覚とは、死を忌み嫌う日本人の神道的な国民感性から出ている。日本料理とは海や陸、山紫水明の自然から得られるさまざまな新鮮な食材を、食器というカンバスに盛り付ける伝統的な職人技である。アユの姿焼きが生命躍動の一瞬を捉えているように、日本料理が象徴するものは生の輝き、生のはかなさ、生の無常観だ。使いまわし料理とは、日本料理の精神を象徴する峻厳な一回性がぶち壊されることだ。これは"料理の死"である。従って「死」は日本人にとって「穢れ」にほかならない。一度客に提供した料理は、形がそのままでも、誰も箸を付けなくても、すでに廃棄物、屍骸、死んだものなのである。客に、見た目にも美しい料理の「屍骸」を提供した湯木前社長らは、自ら日本料理の死をもたらしたのである。その罪はきわめて重いと言わねばならない。船場吉兆の「吉兆」は良い兆(きざ)しの意味である。しかし、筆者はこの粉飾事件を知ってから、吉兆という文字が凶兆(きょうちょう)に見えてくる。それは、この騒動が、今日本で急速に起きている深刻な精神劣化の表象として出ているからだ。和食に限らず、料理には、限りない清潔感、衛生観念が前提にあるべきで、これが日本人の伝統的感性の一つになっていたことは疑う余地がない。これは神社を参拝する時に手水で手を洗い、口中をすすぐ禊(みそぎ)的な慣習からきている。船場吉兆で常態的に使いまわしが行なわれていたこと、そして、それを止めさせる力が自己修正的に働かなかったという事実に、戦後日本人の行き着いた絶望的な民族劣化を見てしまう思いである。

(※ これを書いたのは今から一ヶ月前であるが、船場吉兆は予想したとおり廃業した。これが廃業しないで営業再開に至ったら、その方が日本の未来にとって絶望的であろう)

 参考図書
『穢れと茶碗』(詳伝社) 井沢元彦

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2008年6月28日 (土)

植草一秀さんというお人について・・。

  ほんとうにブログというものはうっかりしたことは書けないものである。6月25日に書いた拙記事『無題(管理人より』で、心ならずも曲解的な記事になっていたことを強く反省する。植草さんが6月22日に書かれた『政治の対立軸(2)三つのトピックス』というブログ記事の中で、グリーン・ピースに関する記載が少しあったが、愚かな「神州の泉」管理人の私は、グリーン・ピースの記載に過剰反応し、あたかも植草さんがグリーンピースの行動を全面擁護したと言わんばかりの誤解を与える書き方をしてしまった。

 まったくもって私の曲解である。あとで植草さんの書かれた該当記事をよく読んでみたら、私が受け取った文意とまったく違う文脈で書かれていたので、しばし恥じ入った次第である。誤解を与えた人たちや、植草さんご本人には多大なご迷惑をおかけしたことを深くお詫びする。グリーンピースに関する私個人の見解と、植草さんがブログに書かれた内容にはまったく関連はないことであり、私の書き方が植草さんを否定するかのような印象を与えてしまったことは悔いが残る。植草さんには心からお詫びする気持ちで一杯である。

 植草さんはグリーンピースに関しては下記のことしか書かれていない。
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グリーンピース関係者が逮捕され、世論がグリーンピース・バッシングに誘導されているが、財政資金が投入されている機関の不透明な実態の全容を解明することの必要性はまったく減じていない。

 グリーンピース関係者を逮捕までする日本政府が、拉致問題の全面解決を棚ざらしにしたまま、経済政策解除に動くのは、日本の「対米隷属」を象徴する以外の何者でもない。
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 この文脈が主張することは、世論がグリーンピース叩きに矮小化され、GP関係者に強硬に対応する方向だけに傾いて、肝心の公的資金が投入されている調査捕鯨関係者の不透明性を棚上げしてもいいのかということである。まったく植草さんのおっしゃるとおりである。グリーンピースの不法な行動を責めることと、調査捕鯨関係者が不公正なことを行なっていることはまったく別のことであり、公的機関の社会的責務を厳しく追求する必要性は微塵も減じていないというのが植草さんの本意だった。

 これに対して不肖な私は、グリーンピースという団体は強硬に叩かなければいけないというような、植草さんの文意をまったく無視した書き方をしてしまった。まったく自身の不明を恥じるばかりである。私の書き方は、排外的ナショナリストと受け取られてしまっても仕方のない稚拙な書き方になっていた。私自身は2006年9月13日に、植草さんが理不尽な偽装事件に遭遇した次の日から、植草さんを擁護し続けている。当日のブログを見ていただければお分かりのように、私は植草さんが国策捜査に遭遇したと、確信的に書いている。しかも、品川事件を含めて謀略に巻き込まれたという視点を鮮明に打ち出している。

 この確信の理由は何かと問われたら、表層的には植草さんが小泉政権を糾弾していたからと言えるのだが、私自身のもっと深いところで、植草さんに対する人間としての確信的な洞察があったからだ。このお人なら、良心や筋を曲げないで、悪いものを悪いと、どこまでも真っ直ぐに言い続けるだろうと。この世の中には、稀にだが、自爆しても良心を曲げない人たちがいる。彼も明らかにその人たちの一人だ。その確信があまりにも強かったので、私は即座に擁護し続けることを決心した。そのことは今になってもまったく変わっていない。私と植草さんは、歴史認識にも、思想にも、核兵器に対する考え方にも差異はあるが、そういう差異をはるかに超える真摯な雰囲気をこのお人は持っている。それが何であるかを、言葉で言うのは難しいかもしれないが、『知られざる真実ー勾留地にてー』を読んで、たった一つだけは明確に言えることがある。第三章第2節「人類の歴史」からの175-176ページにこう書かれている。
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「人類の歴史を振り返ると美しい世界は広がっていない。人類は支配と被支配、戦争と殺戮(さつりく)を繰り返す歴史を負ってきた。動物の世界の弱肉強食は自然の摂理に従って起こる。しかし、人間の支配、被支配、戦争や殺戮は自然の摂理によって生じるものでない。
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 絶対的な楽園である「エデンの園」を追放された人類は、今日まで戦争や殺戮、病気、裏切り、侵略、収奪、奴隷化など、さまざまな凄惨な光景を目にし、苦痛を味わい、苦痛の種を撒きながら現在に至っている。じつは私も根底は排外的ナショナリストではなく、人類の大きな歴史観の根底に、植草さんが書かれた上記の俯瞰的情景を強く有している。人間存在の持って生まれた罪深さ(キリスト教的には原罪)には、何とも言えない哀しみと絶望感に時々さいなまされる。ここにおいて、植草さんは自分と世界観的感性で似たところがあるお人だと思っている。私も若いときから、人間が人間に対して、その関係性の中で行なう最も無礼でむごいことは、『支配、被支配』だと思ってきた。

 他の人間に対して、力やお金を誇示して隷属させるくらい罪深いことはないと思う。人間は個々に尊厳を保ち、自由であるべきだ。他者や他国を意のままに支配しようとするところに人類の不幸が現出する。この感覚は植草さんと強く共通している。だから、巨悪を憎んで単身でそれを糾弾する人たちには、心から賛同し、応援したくなる。私が植草さんや、鹿砦社の松岡さん、西宮冷蔵の水谷さんに惹かれるのはそういうことである。彼らには強い良心があり、他者の利益のために不利な立場を覚悟して巨悪に向かう心がある。ここには人間としての本物のやさしさがある。私のことはともかく、植草さんのように人類史の俯瞰に静かな目を投じている人は、どのような道から入っても、人類の負の側面を何とかしなければならないという考え方に逢着するだろうと思う。だからこそ、彼は小泉政権の弱者廃棄姿勢が許せなかったのだと思う。

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私は私の主張に対する批判を封じ込める考えを一切持っていない。あらゆる問題について、多数の見解、意見があることは当然であり、自由主義社会の美点のひとつは、自由な言論活動が容認されることにあると思う。建設的な論議は非常に大切だと考えている。
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 この文章を見ると、私の書いた軽率な記事が、植草さんに無用なご心労を強くおかけしたかもしれないことを強く感じる。しかし、時々胸に手を当てて思うのだが、生きることも、ブログ記事を書くことも、後悔や恥ずかしさとの対峙の連続である。

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ガソリンや食料品等の値上がりに対する正しい国家戦略(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第92弾です)

 ガソリンや食料品等の輸入品の値上がりが止まらない。それに対し、本日(6月28日)の日テレのウェークアップという番組で竹中平蔵氏は「我慢するしかない」と発言した。知恵が無さ過ぎると思わないか。本日の日経新聞には、原油価格が1バレル140ドル継続なら今年日本から産油国への所得流出は24兆円に上るという推計が書かれている。仕方が無くはないのだ。昨年我々は九州大学名誉教授の太田俊昭氏をお招きし、カーボンファイバーによる洋上風力発電の構想を聞いた。11兆円あれば、日本の全エネルギー需要の半分をまかなえる風力発電の設備ができる。その倍なら、全エネルギー需要がまかなえるのだ。しかもこの設備は100年の耐久性があるという。

 政府は金が無いから造れないと言う。金は刷ればよい。毎年24兆円を産油国に払うくらいなら、洋上風力発電所をきちんと造れば、産油国への支払いは激減する。しかも温暖化防止も完璧だ。日本政府は温暖化防止のための2050年までの目標作りには熱心だ。それは高齢の政治家は2050まで生きていないだろうと思っているから自分には関係ない目標作りは喜んでやる。しかし、今年何をやるのかということに関しては、骨太方針08にあるように「歳出の最大限の削除」である。つまり何もやらずじっと我慢しながら日本を貧乏にするように最大限努力するということだ。新興国の発展は目覚ましい。貧乏だと思っていた国がどんどん金持ちになっていく。この中で日本だけが貧乏になっていくのでよいのか。貧乏は貧乏を呼ぶ。資源や食糧の取り合いの末、どんどん価格は上昇する。やがて、金持ちの国だけが資源や食糧を取ってしまう時代がくる。資源も無く、食糧自給も僅か39%の日本を貧乏にして、生きていけるのか。竹中氏のように仕方がないでは済まされない。仕方がないと諦めてじっと我慢するのでなく、汗水流して、代替エネルギーの大規模な活用施設の建設を行えば、未来が開けてくる。

 やるべき事は明らかだ。食糧自給率を上げるには、大規模農業を進めて生産性を上げ、国際競争力をつけ、その後でFTAなどの貿易協定で関税の引き下げをするとよい。金が無くては農業の大規模化は進められない。刷ったお金を使えば、農家の切り捨てをしなくてもすむ。むしろ農家の所得を上げることが出来る。国際競争力のある農業が実現すれば減反は必要ない。国内生産をどんどん進めることが出来るからだ。

 エネルギー自給率は現在4%にすぎないが、これもどんどん上げていけばよい。一昨日、日本経済復活の会では産業技術総合研究所の盛田耕二氏を招いて地熱の利用について話して頂いた。世界中で地熱発電の利用がどんどん進んでいる。その中で日本だけが停滞している。その理由はお金が無いということだ。例えばドイツなどは、地熱発電をすると1kWhあたり24円で、フランスでは16円で電力会社が買い取る義務があるが、日本では僅か6円での買い上げだ。こんなに低い値段だと採算が合わず地熱発電が進まない。つまり、電力の買い取り価格を上げれば、地熱発電はどんどん進む。地熱に関しては日本は狭い国土に多くの火山があり、地熱発電に適した場所はいくらでもあり、世界で第3位の地熱の資源大国である。なぜ持てる資源を活かそうとしないのか。国が金を出せば、地熱利用はどんどん進むし、エネルギー自給率のアップにつながる。二酸化炭素の排出量が減らなくて、ペナルティーで高い排出権を買わされるよりはるかによい。洞爺湖サミットの議長国なら、2050年の目標だけでなく、今年や来年に何をやるかくらい言ったほうがよい。

 もっとも、筆者は温暖化が二酸化炭素によるものか、それ以外の理由で説明できるのか現段階で結論が出たとは思っていない。二酸化炭素が原因ではなく、単なる気候変動であり、温度が高くなったのだから、海中に溶けていた二酸化炭素が出てきたのだという説もあるし、太陽活動による気温の上昇だという説もある。学者の論争の決着はまだ着いているとは思わない。しかし多くの学者が温暖化が二酸化炭素によるものだと結論している現状では、現状では二酸化炭素による人為的な温暖化であるという通常の説が多分正しいのだろう。何かの「陰謀」が入り込む予知があるとすれば、石油資本が学者に金を渡して、温暖化説は嘘だから石油はどんどん使って構わないという説を流すように仕組んだという可能性だ。いずれにせよ、二酸化炭素による地球温暖化説は本当かどうかは、確認は必要である。

 輸入物価の値上がりによる消費者物価の上昇が家計を直撃している。それが消費の低迷を招き景気の更なる停滞を招こうとしている。残念ながら、政府の骨太方針は歳出削減しか言わない。その中でも、中川昭一自民党政務調査会長や渡辺喜美金融担当大臣あたりは、景気対策に前向きと伝えられる。このあたりを手がかりに政府を動かすことが出来ないかと現在、具体的な方法を模索中である。景気対策をするためには国債を発行しなければならないが、それによりGDPも増えるのだから、債務のGDP比はむしろ減る。つまり国債残高は増えても、実質借金は返したことになる。つまり景気対策とは、事実上お金を刷って国を豊かにし、しかも財政を健全化する政策だということをできるだけ多くの人に理解させたい。景気対策で発行した国債は、将来返す必要が無い借金だということを。

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NHKドラマ『たったひとりの反乱』が7月30日に全国放送される!!

  西宮冷蔵・水谷洋一社長の凄絶なる苦闘の物語がNHKテレビドラマ化

 冷蔵倉庫会社・「西宮冷蔵」社長、水谷洋一氏の内部告発物語がNHKでドラマ化された。テレビや週刊誌でも何度か紹介されているので、水谷社長のことは覚えている方も大勢いると思う。今から6年前の2002年初頭、水谷氏は雪印食品牛肉偽装事件を内部告発した。そのために大手食品メーカーである雪印食品は消滅した。しかし、その告発が原因となって、業界や監督官庁から陰湿な迫害を受け会社は壊滅状態に陥った。内部告発するような奴には任せるわけにはいかない、と、得意先はいっせいに仕事を出さなくなった。それでも、再起を決意した水谷氏は裸一貫で大阪の街頭に立ち、西宮冷蔵の苦境を訴え続けながら再興資金のカンパを募った。告発から営業停止、そして営業再開と、凄絶な苦闘の日々を歩んで今日に至っている。この話は7月23日に鹿砦社から発売される『西宮冷蔵 魂の内部告発』に詳しい。また、昨年は、柴田誠監督作品の映画『ハダカの城』が公開されている。

 水谷氏は、昨今、立て続けに起きている食品偽装事件の先駆け的告発を行い、当時は世間に衝撃を与えている。ところが、彼が勇気を出して正義の告発を行なったにも関わらず、最近は食品偽装事件が軒並み続き、いっこうにおさまりそうもない。つまり、健全さを保つ社会とは、何らかの社会悪が露呈した場合、即座にフィードバック機能が作動して悪いものを除去し、安定化を図る修正作用が働く。しかし、小泉政権下、あるいは以降の構造改革継承政権下では、この社会的機能が完全に壊れている。この原因について、私は小泉政権の『人でなし政策』の悪影響だと分析している。そのことに異論はあるかもしれないが、食品偽装頻出の原因について、私なりの考察を加えた論考を来月7日発売の『紙の爆弾』8月号に載せている。興味があったら弊ブログの読者さんも読まれて、一考してみて欲しい。

 拙稿の題名は『告発の後に襲い来る漆黒の大津波』(副題:鹿砦社の暴露と西宮冷蔵の内部告発の教訓)です。

 2002年当時の食品偽装事件は、雪印食品の牛肉偽装事件、日本ハムの牛肉偽装とその隠蔽が発覚、日本食品の偽装事件などがあった。昨年、2007年は食品偽装事件のオンパレードであった。小泉政権以降に偽装事件が頻出していることはけっして偶然の事象ではない。明らかに新自由主義の浸透が国民全般のモラルハザードを招いている。同時に隠れたもう一つの位相は、食品会社の優良資産を狙う外資の暗躍であろう。こういう時代性の中で、鹿砦社の松岡社長への言論弾圧や、エコノミストの植草一秀さんへの弾圧、水谷社長への弾圧等が起こっている。植草さんの事例を見てもわかるように、小泉政権は正義の告発に対して官憲を動かし、憎悪と理不尽で応酬しているのである。その牙は、松岡氏や水谷氏など、社会正義の告発を行なうすべての人間に対して向けられた。小泉政権下では言論弾圧の国家的形態として、一連の『国策捜査』が起こっている。『紙の爆弾』の拙記事では、告発後の弾圧が小泉政権のファシズム的な姿勢から生じていることを考察した。

 ところで、水谷社長の苦闘の過程には、鹿砦社・社長、松岡利康氏の物心両面にわたる援助があった。この西宮冷蔵の再起までの話がドラマになったわけだが、鹿砦社・社長ご本人も友情出演で少しドラマに登場する。正当な告発と暴露を行なった両人が、全国放送の番組に出演することは画期的である。

 放送日時は7月30日、午後10時から。NHK総合

 『紙の爆弾』8月号出版ニュース
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2008年6月26日 (木)

金の力と国際競争力(小野盛司)

  (※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第91弾です)

 橋下大阪府知事が打ち出した平均削減が12%にも及ぶ人件費削減案が話題になっている。お金が無いときに、国民をどんどん貧乏にしてしまえばよいのか、それともお金を刷って、国民を元気づけるのがよいのか。

 お金が国民を元気づけるのにどれだけの威力を発するのかについての例を、昨日(6月25日)の朝日新聞の記事から引用してみよう。44年前、東京オリンピックでの日本水泳は惨敗だった。メダルは男子800メートルのリレーの銅が一個だけ。あのとき面目なさそうに、シワのついた国旗が揚がっていく光景が忘れられない。この光景を見た一人の金持ち、ロート製薬の山田社長が、金メダルを取ってやると、私財を投じて「山田スイミングクラブ」を立ち上げた。山田SCは、あっという間に日本選手権で上位を独占し始め遂に、青木まゆみが世界記録を樹立、ミュンヘンオリンピックで見事金メダルを獲得した。

 水泳ニッポンのもう一人の救世主は天理教を統率する中山正善だった。山田SCに対抗し東京スイミングセンター設立に東京・駒込にある3300坪の土地をただで貸した。実は筆者も東京SCの会員で、来月の文京区水泳大会(年齢別)に向け練習をしている。ここで育ったのがアテネで金メダルを取り、今月も世界記録を出した北島康介である。

 この2つの例からも、如何にお金の力が偉大かがお分かりだろう。国家的な規模での財政支援ではない。個人が出したお金で、すでにこれだけのことができるのだ。ましてや国が本気になって支援すれば、どんなに大きな仕事ができるか。金が無ければ刷ればいい。日本が国際競争で勝つために失うものは無いはずだ。

 逆に、お金を使わないことが、国民にどれだけやる気を失わせるか。かつての東ドイツが良い例だ。東西が分裂状態にあった頃、東ドイツを旅したことがある。レストランに入って、チキンを注文したが、チキンを焼く機械が故障しているから出せないという。ビールを注文したが、それも駄目。ジョッキが足りないのだそう。彼らはすべて公務員で、所得は定額制でサービスを良くして客を多く入れても収入は同じだ。それならサービスを落として客が来ないようにしたほうがよい。一日何食を出すというノルマが決められているので、それを達成すると直ちに客を閉め出す。多く働いても金にならないのであれば、人は働かない。東ドイツの人たちの絶望観が伝わってきた。列車の座席の前に座った少年が語ってくれた言葉が印象に残る。自分たちは65歳になれば、国外に出ることが許されるのだそう。要するに65歳以上は姥捨て山行きだから外国へ出て行っていいよと国が言っている。日本は75歳だが・・・。

 ところが、国威発揚のためには、国はいくらでも金を出した。それがオリンピック金メダルのために使われた。東ドイツは人口の割に、異常に多くの金メダルを取っていた。筆者は、かつてヘルシンキ大学で研究をしていた頃、陸路ソ連のレニングラード(現在はサンクトペテルブルグ)を訪ねたことがあった。入国・出国には怖いほどの厳しい検査があったのだが、入国時に入手した印刷物に書いてあったソ連のプロパガンダで目に付いたのが、オリンピックでの金メダルの獲得数の推移だった。ソ連の「繁栄」をPRするために使ったのだろう。

 金メダル獲得には、どんどん金を使ったのかもしれないが、産業発展のためにはうまく使われていなかった。産業発展や国民の利益に貢献した人は、その貢献度に応じて多くのお金が受け取れる仕組みがあれば、ソ連の衰退にはならなかっただろう。レニングラードの町はひどかった。物不足がひどい。至る所食品を買う人の列ができていた。飲み物を売っているところへ行った。コップに気味の悪い液体を入れてくれるのだが、前の人が飲んだコップを洗わずに出しているので飲む気がしなかった。エルミタージュ美術館に入ろうと列に並んだが、割り込みがひどい。自分の前に並んでいた人の数がみるみる増えて10倍くらいになった。

 私は、理論物理学の研究のため、様々な国で暮らし、また旅行もした。その国々の人たちと直接話しをする機会を持つことができた。そこで感じたことは、貧乏ほど惨めなものはないということだ。国を貧乏にしてはいけない。しかし、デフレはお金が消えていく病気だ。金持ちの国ほど物価が高く、貧乏な国ほど物価が低い。物価がどんどん下がっていくということは、金持ちだった国がどんどん貧乏になっていくということだ。デフレを止めよ。国を貧乏にする政策を止めろ。デフレという病気に対する特効薬はお金を刷ることだ。それは世界を代表する経済学者が異口同音に言うことである。

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2008年6月25日 (水)

無題(管理人より)

  植草さんがこの間のブログ記事で、グリーンピースについて言及しておられたが、神州の泉の重要コメンテーターであるJAXVNさんが、これに異を唱えていました。植草さんを応援する管理者として、これを素通りすることは誠意に欠けると思い、これについて、簡単に私の見解を述べておきます。(本音は素通りしたいのですが・・。汗)

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  こんにちは。
植草氏のメディアコントロールに関する記事についてですが、おおむねは同意しますがグリーンピースと捕鯨に関する記事だけは同意できません。植草氏はグリーンピースの活動家の逮捕が不当であるような印象を持っておられるようですが、横領の捜査と称して運送会社の倉庫に侵入し荷物を持ち出すような事をもし警察がやったとしたら大問題になります。彼らのやった事は警察でさえやらないような事なのです。しかもこのグリーンピースの行為自体、メディアが関与していた可能性があります。GPの鯨肉横領問題の告発については朝日新聞のスクープが第一報でした。この問題はメディアがGPをたきつけて調査捕鯨を問題化しようとしたものの、世論が思いのほか乗ってこなかった為メディアが引いてしまい、GPははしごをはずされてしまった、という事ではないかと思います。また捕鯨問題については、GPの主張する様に調査捕鯨をやめ捕鯨から撤退する事こそ、外国の言いなりになる事なのではないでしょうか。

投稿 JAXVN | 2008年6月23日 (月) 21時14分

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 結論から言えば、今回のグリーンピースに関することがらに関しては、私もJAXVNさんの意見におおむね賛成です。国際環境テロ団体のグリーンピースは、文明論的な憂慮というよりも、きわめて政治的な思想性で動いているように見えます。思想の核はニューエイジに置いているようですが、非常に怪しいですね。どのような勢力の傀儡団体であるかなどは、ベンジャミン・フルフォードさんとかリチャード・コシミズさんたちが詳しいのかもしれませんが、少なくとも、捕鯨に関する事を見る限り、行為的には思いっきり反日性の高い危険な団体に見えます。私自身の思想の核から言うなら、この団体は戦後、連合軍国家群が敷いたYP(ヤルタ・ポツダム)体制が生んだ、「世界環境保護」という偽装を凝らした政治的監視団体の一つに捉えています。根っこにある物は、思いっきり日本文明なるものの否定でしょう。西欧近代主義が産み落とした鬼っ子の一つでしょう。日本はなるべく強硬な姿勢でこの団体に臨むべきでしょう。

 さて、植草さんの世界観や人間観など、私は深く尊敬しており、共感することはたくさんあります。しかし、すべての人間に共通することですが、万全の思想性や完全無欠の人間はいないと思います。人それぞれ、ある物事については見解の相違は必ずあることなので、そのことはなるべく許容する態度が大事かと常々自分に言い聞かせています。あまた活躍しておられるブロガーさんの中では、意見の相違や、思想性の差異について、学ぶべき許容性と冷静さを保っている人が、「喜八ログ」の主催者である喜八さんです。この人のバランス感覚は大いに参考になります。このお人のように、冷静にものごとの本質を見つめて、情緒的に妙な傾斜を起こさないように見ていく態度は大事だと思いますね。

 自分にも言えることですが、一つの山を判断する時、一本のナラの木が目に入ったからと言って、その山全体が「ナラの木」に覆われているという見方は当然できないわけです。同様に、ある人物の見方感じ方に異質さを感じるからと言って、軽々にその人の思想性を全体がこうであると断じることもできないわけです。少なくとも、偏らない大きなキャパシティを持った見方は大事にしていきたいものです。もっとも、それができないこともけっこうありますが。人間は他者のことは針小棒大に見えて、自分のことはよく見えない愚かな動物でもあります。

 人にはさまざまな捉え方、考え方が存在しますが、大きな方向で共感できる人の場合は喧嘩しないように行きたいものです。私が植草さんを応援する気持ちはいささかも変化しません。

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2008年6月24日 (火)

お金が海外に流れ出ている(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第90弾です)
 
 本日(6月24日)の日経の夕刊のトップ記事は「日本、所得流出際だつ 1-3月26兆円、原材料高響く」である。原油等の輸入品の価格高騰で、今年の1-3月期で、実質的な所得の流出入が26兆円もマイナスとなった。この交易損失のGDP比は、日本が4.5%だが、米国は0.8%、ユーロ圏は0.4%なので、日本の一人負けといったところ。輸入品を高い値段で買わされることにより、巨額のお金が外国に吸い上げられていて、日本はどんどん貧乏になっていく。外国に取り上げられた分だけ、内需が落ちたことになるから、内需を相手にしている中小企業には、極めて厳しい。

 内閣府・財務省の調査や朝日新聞の調査にも、大手企業の景況感が大幅悪化していることが示されている。それでも政府からは消費税増税の話しか出てこない。国がどんどん没落していっているのに、そして自殺者が10年連続して3万人を超えているのに、政府は国民に対し更に痛みに耐えよと言う。

 この日本の現状を見るとき、私は昔高校の英語の教科書に載っていた物語を思い出す。昔の話なので記憶は定かではないのだが、ストーリーは次のようだった。一人の少年が一人で長い船旅に出かけるのだが、最初の日に財布を無くしてしまう。船内の食堂にも行けないし、食べ物も買えない。彼は、じっと耐え抜き、悪戦苦闘しながら長い船旅をする様子が色々書かれていた。ところが最後、船が目的地に着いたとき、食事代も船賃に含まれていたことを知らされる。何のことはない。食堂で自由に食べて良かったのだ!

 この話は、今の日本の現状とそっくりだ。政府はお金がないと言って、老人を姥捨て山へ送る。予算削減で医療・福祉・教育など崩壊寸前だ。病院も次々破綻。産婦人科医や、麻酔科医も足りない。介護現場も人が集まらない。学校には教材費が無い。チョークも買えないと先生は嘆く。学力は落ちる一方。日本の自慢の製造業もみるみる没落。かつて時価総額で世界20位以内に14社も入っていたのに、今はトヨタが日本企業で最高で、それもやっと20位。地方自治体もお金がない。給料を大幅カットしてる。どうしてこんなにお金が無くなったのだろうと、十数年間も嘆き続けている。このストーリーの終わりには、「実は、お金は刷っても良かったんだよ」と国民が教えられ、なぁ~んだ、そうだったの。何と馬鹿なことをやってきたのだろうと言って、ストーリーの終わりとなる。先程の少年の物語と似た物語だ。

 少年の物語と日本経済の物語は本質的には同じだ。両方とも、簡単な勘違いのために、長い間、味わわなくても良い苦しみを味わっている。違いは、前者は勘違いであったことが、一目瞭然だが、後者は勘違いであることを教えるのに苦労する。しかも日本人はお金を刷ること、つまり通貨増発に対して強い先入観がある。それと借金は一日でも早く返したいという気持ちも強い。

 もちろん、お金を刷ることが万能ではない。お金さえ刷れば、どのように刷ったお金を使っても、日本経済は良くなると言うつもりはない。お金は経済を発展させるために刷ったほうがよい。

 日本経済の没落が続いている。しかしそれでもまだ、GDPは世界第2位の経済大国だ。日本がなぜ経済大国になったかと言えば、もちろん日本企業が世界の中で競争に勝ったからだ。しかし、デフレでお金が消えてしまったら、いくら日本人が優秀でも、企業は競争に負けてしまう。金が無くなったら、いくら優秀な日本企業でも、競争に勝てるわけがない。日本が今後も世界の中で繁栄を謳歌し続けるためには、企業が世界の中で競争に勝ち続けることが必要不可欠である。

 今の政府は何の意味もない国の借金を返すことばかり考えて、日本経済のこと、日本経済の未来のことを考えていない。外国から多額の借金をしているなら、それは本当の意味での国の借金だから、返済をいつも念頭に経済政策を進めなければならない。国の経済政策も国の借金の返済を国家目標にすることもあり得る。かつて、日本企業が弱体だったころ、日本は輸出できるものが少なく、貿易赤字と外貨不足に悩まされていた。しかし多くの企業人の努力により、日本企業が世界の中で競争に勝てるようになり、貿易黒字が拡大し、円が強くなり、現在に至っている。外貨はありあふれている。外国が日本から多額の借金をしているのだ。国の借金を気にしなければならないのは、日本から金を借りている諸外国であり、日本ではない。

 今、日本が必要とされていることは、柔軟な考え方だ。お金が無いのではない。主権国家はその国の通貨を必要なだけ発行しても良いという通貨発行権を持っている。その権利を行使し、デフレを止め、老人を姥捨て山に送るのを止め、経済苦から膨大な数の国民を自殺に追い込むのを止め、真の国民の幸福のための政策を直ちに始めるべきだ。

 日本経済復活の会では、お金を刷って何をすべきかについて研究を続けている。明後日の6月26日(木)には、地熱を利用して温暖化防止に役立てる試みを第一線の研究者を招く。7月24日(木)には、花粉を出さない杉に植え替えることで花粉症対策をしたり、美しい森作りを研究している林野庁の方に来て頂いてお話しをして頂く。日本を豊かで住みやすくしていくためにお金を使うと良いというのが日本経済復活の会の主張である。どなたでも参加できますので、皆様のご参加をお待ちしております。

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2008年6月22日 (日)

メディアの洗脳的世論操作について

 植草さんがマスメディアの「情報操作」について、大事なことを書いていた。今、「後期高齢者医療制度」や年金問題、増税気運、その他、国民のためにならない自民党政策の数々を見るにつけ、有権者の多くが、深い部分から自公連立政権に疑いの目を向け始めている。植草さんの6月20日のブログ、『劇場型政治手法の再来』から一部引用させていただく。

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自民党内の政策論争が激化しているように見える。「財政再建派」と「上げ潮派」の意見対立である。

 福田首相に対する問責決議案が憲政史上初めて参議院で可決され、有権者の多数が衆議院の解散総選挙を求めている。マスメディアが国民世論を尊重して、解散総選挙を求める論調を強めれば、政治は国民の意思を問う総選挙に向かう局面だ。

 しかし、マスメディアは解散総選挙を求める論陣をまったく示していない。政治権力は現時点での総選挙を封印しようと強い意志を持ち、政治権力に支配されたマスメディアは政治権力の意向を代弁して、解散総選挙への流れを阻止するための情報操作を実行している。
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 自民党が早期の衆院解散総選挙を嫌っていることは確かだろう。国民支持という点では、今はまさに引き潮の真っ最中だからだ。そのため、与党政権の使い走りとなっている大手メディアは解散総選挙の気運醸成に繋がるような報道はいっさい忌避しているようである。植草さんは、テレビを筆頭に、大手メディアが解散総選挙に“触れようとしない”こと自体が、権力筋の意向を汲んだメディアの情報操作、世論誘導であると捉えているようだ。私も同感である。

 世論誘導とは、敢えて虚実の入り混じった情報や、誤解を与える恣意的な情報を流して、世論の方向性を誘導することであるが、このような報道姿勢を“積極的な世論誘導”と名づけるならば、もう一つは、政局などで、世論が澎湃(ほうはい)として起こらなければならないタイミングの時に、敢えてそのことを伝えようとせず、鎮静的にやり過ごすという、いわば“消極的な世論誘導”がある。今のメディアの態度は明らかに後者、すなわち「消極的な世論誘導」を行なっている最中である。その顕著なやり方は、とりあえず関係ないニュースを過剰に、延々と長く報道することによって、真の問題を内包するニュースを目隠ししてしまうことにある。

 この形は、植草さんが言われるように、今の自民党が、いわゆる「財政再建派」と「上げ潮路線派」の対立という、一見ありそうな党内対立を派手に仕立て上げ、国民に目くらましをおこなっていることと同じであろう。これは自民党の「見せ掛け芝居」という常套手段のひとつである。いみじくも、わが党は異なる意見でも、きちんと論戦し、調整しながら進んでいますよ、信頼に足る政党だからこそ、こういう健全な論戦が実現できるのです、という三文芝居である。考えてみればすぐわかることだが、財政再建派(財政均衡派とも言う)も、上げ潮路線派(なぜ積極財政派と言わないのだろうか?)も、その顔ぶれを見れば、全員がバリバリの急進的小泉構造改革継承路線派であることがわかる。骨の髄まで染まり切った買弁「政治屋」どもである。上げ潮路線派に竹中平蔵氏の名前が見えていること一点だけを取り上げてみても、この党内対立が偽装的な茶番劇であることがお分かりだと思う。小泉政権以降の自民党は紛うことなき買弁政党である。この継承路線が、国益を害し、国の遺産を海外に移転するための、害資の傀儡政党に成り下がっていることをけっして忘れてはならない。

 大手メディアが常態的に行なっている情報操作のわかりやすい事例を、元駐レバノン大使(現・外交評論家)の天木直人氏が、6月18日付け『天木直人のブログ』に非常に端的に書かれているので、是非一読をお勧めしたい。記事タイトルは『特定ニュースの過剰報道』である。天木氏は、学習院女子大学教授の石澤靖治氏のメディア考を引き合いにして、昨今の日本メディアの問題傾向をずばり指摘している。それは、メディアの巧妙で極端な不作為性のことである。

 国民に伝えなければならない重大なニュース源があるにもかかわらず、権力筋の強い意向が働いて、メディアの報道内容に影響を与えている。これを行なう存在は、ある特定のニュースを国民に伝えたくない場合、彼らの飼い犬的存在となっているメディア(主要テレビ局や巨大新聞など)に働きかけ、その報道内容を自主規制的に変更したり、他の報道に置き換えたりすることが常態化している。比較的に多用されていることは、関係ないニュースを延々と過剰報道することによって、国民の関心を真に重要な問題から一時的に逸らし続けることがある。つまり『報道種別』の恣意的な選択性が、まさに権力筋の都合のよい方向で行なわれているという話である。つまり、『過剰報道の作出(=過剰報道による報道ジャック)』によって行なわれているのだ。天木直人氏が石澤靖治氏のメディア考を引用している部分を下記に示す。
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『・・・(中国震災、秋葉原事件、岩手・宮城内陸地震などという)大きな事件が飛び込んできた。しかし、毎日ニュースを見ることを日課とし、仕事にもなっている私にとって、この種のニュースが起きると憂鬱になる。・・・これらの事件が起きると、メディアは大半の時間をそれに費やすばかりか、その報道が数日間、場合によっては2,3週間続いてしまう。その結果、それまでの重大ニュースも、国内外の重要な情報も突然消える。

 このように、一つの大きな出来事が「ニュースジャック」するという傾向は、テレビメディアに多くみられる。中でも、災害報道に力を入れているNHKにその傾向が強い。衝撃的なニュースは大きく取り上げるべきだし、それがある程度継続されることも了解できる。しかし、問題はその度合いである。一つの問題に大半を費やすことは、他のニュースを報じる余地がなくなるリスクを負うことでもある。世の中に起こっていることでも、メディアに取り上げられなければ、それは「事実」として人々に認知されないというのは、ニュースの社会的意義を理解する際の基本である。

 私がもし政府や企業の要職にあって、何か都合の悪い事があったら、こんな時期を狙って発表するところだ。更に指摘したいのは、そのように大量に報道される内容が、一面的であることである。例えば四川大震災についての報道は地元の人たちがいかに大変な思いをしているかという悲惨な話ばがりに視点が固定されていた。(しかし、私がインターネットで見つけた情報では)現地で救援活動を続けている人が、日本の報道で伝えられていることが現場の状況と大いに違っていてびっくりした、とコメントしていた。
 ・・・インターネットで、多様な情報に接している現在、受け手は「複眼」を持ちつつある(という事を認識しないと、メディアに将来はない)・・・』
最後の括弧内の文は天木氏が付け足したそうである)
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 以上はまったくその通りであると私も感じている。地震被災ニュースも重要ではあるが、明らかに報道分量的に多すぎる。この過剰性の裏を読み取れば、現段階では政治の伝えなければならない重要なことを、政権筋が故意に覆い隠そうとしていることはもはや疑う余地がない。彼らは解散総選挙までの期間を、積極的な世論誘導とは正反対の、世論鎮静的な方向に持っていくために、メディアの誘導性、洗脳性を目一杯駆使して、国民の思考能力を減衰させているとしか考えられない。

 この重要な現象に気付いている人たちは、大手メディアが持っていこうとする誘導操作の仕掛けに乗らずに、メディアが覆い隠そうとしている事象をきちんと見つめ、そこに問題意識を強く持って自己の行動なり、的確な判断なりをするべきである。覚えている人もたくさんおいでだと思うが、今から15年ほど前に、ジョン・カーペンター監督作品の「ゼイリブ」という映画が放映されて、一時話題になったことがある。これはレンタルビデオでも出ていた。私はこの作品が好きで何度か見ている(どうも、今は見つからないようだ)。物語は悪魔の手先風の宇宙人が地球人に紛れ込んで、体制を支配しており、人々は彼らのサブリミナルに訴えかける巧妙なコマーシャリズムに洗脳されて、購買欲や消費意欲を異常に煽られている。人々の欲望を異常に刺激することで、大量生産・大量消費をどんどん亢進し、地球環境の悪化を招いているということもさりげなく語られていた。この体制やシステムに従順であれば出世をしていき、批判的であれば貧乏のどん底に落とされ、囚われの身になり、命までも狙われるというSF映画であった。ところが、今思い返してみると、この映画に込められた本当のメッセージは、明らかに国際金融資本を皮肉っており、アメリカの新自由主義体制という、いわゆる『欲望資本主義』の加速的導入を、痛烈なアイロニーをもって警告していたことがよくわかる。

 小泉政権以降、今の日本は、アメリカに追従して、この映画「ゼイリブ」に近い状況になってしまっている。特にマスメディアの洗脳的性格がそっくりである。あの映画は日本の近未来を正確に投影していたと思う。

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「角を矯めて牛を殺す」のが、今の政治(小野盛司)

(※日本経済復活の会 小野盛司会長の記事、第89弾です)

 本日(6月22日)の報道2001で西部邁が、「角を矯(た)めて牛を殺す」という諺を使っていた。「少しの欠点を直そうとして、その手段が度を過ぎ、かえって物事全体をだめにしてしまう」 、危ないからと角を縛って動きを抑えると、牛、本来の力が発揮できないという意味だ。正に現在の日本の政治がこれにあてはまる。

 通貨発行権を持っている政府にとって、何の意味もない「国の借金」を返す目的で、馬鹿な政策