鹿砦社・松岡利康大弾圧事件は夜警国家変貌への証し(その1)
(本稿は2008年6月7日に発売された鹿砦社『紙の爆弾』7月号に掲載された管理人の拙稿『鹿砦社・松岡利康大弾圧事件は夜警国家変貌への証し』である。これを三回に分けて弊ブログで公開する)
「植草一秀事件を検証する会」 高橋博彦
一、仮借なき「長期人質司法」の深奥に見えてくるもの
昨年の本誌4月号に、「植草事件に隠された闇」と題して筆者の寄稿が掲載された。本誌の表裏をデザインしておられる、パロディ作家でありグラフィックデザイナーのマッド・アマノさんと、鹿砦社編集長である中川志大さんのご好意によるものである。エコノミスト・植草一秀氏に関する拙記事が「紙の爆弾」に掲載された時、松岡利康社長からメールをいただいたが、そこには『紙の爆弾』は、まだまだ小さな存在ですが、世に埋もれた真実を、タブーなくどんどん掲載していく所存であるという力強い言葉があった。また、氏は偽装痴漢事件に嵌められた植草一秀氏についても、「不当に身柄を拘束され"別荘"暮らしを強いられた悔しさは、体験したものにしか判りません。植草氏のハメラレた悔しさのほどは、ハメラレて半年余りも"別荘"暮らしを強いられた私には理解できます」と、今から思えば国策捜査の陥穽に落とされた者にしか言えない重い言葉があった。
当時、筆者は植草一秀氏が遭遇した「痴漢偽装でっち上げ事件」に心を奪われており、その政治的謀略を行った黒幕と、権力に迎合して言いたい放題の嘘を報道したマスメディアに対して熾烈な怒りを覚えていた。そのために筆者は松岡利康氏が遭遇した不当捜査事件を皮相的にとらえており、その出来事が内包する真の危険な問題にまだ思いが至らなかった。
しかし、最近になって、松岡氏を襲った傍若無人な出来事を自分なりに考え始めた時、ここには植草氏の場合と同質の深刻きわまる問題が横たわっているように思えてきた。松岡氏本人も含め、彼を支援する方々は、日本国憲法第21条が危殆に瀕していることを、各々のすぐれた筆法で真剣に説明している。これは最も重要なことであり、この条文が担保されない社会は、万民の幸福原理に真っ向から背反する暗黒の閉塞社会となる。いかなる時代にあっても、いっさいの言論表現の自由は保障される必要がある。松岡氏の場合は言論・出版界に身を置く人間であるから、これは最も切実な訴えであると思う。
問題が深刻なのは、鹿砦社のように本物の告発と暴露を行なう弱小メディアや個人に向かって、この憲法第21条が選別的に無効化されてしまうという圧倒的事実だ。世の中は力の弱いものが強いものの不正やひずみを批判できるシステムを温存しておかないと、非常にいびつな方向に傾いてしまう。今の日本は権力中枢に迎合し、統治機構の出先機関と成り下がった大手メディアがのうのうと生かされていて、弱いものいじめに奔走するきらいがある。彼らが時の権力にそそのかされ、個人や弱小資本を無慈悲に「叩い」ても、この国にはそれを制止できる保護機構は存在しない。
逆に鹿砦社のように小さな出版業者が大手資本の巨悪に挑んだだけで、徹底的に壊滅状態になるまで権力筋に干渉されてしまうのだ。強者が弱者を完膚なきまでに叩き潰す社会。こういう弱肉強食を放置して、いったいどこに世の中の健全性を求めるというのだろう。
グローバリゼーションという国際金融資本が仕掛けたインチキ外来思潮は、買弁勢力を手駒にし、さまざまな悪辣な手口を使って日本をネオリベ社会に改変しつつある。この動きが先鋭化したのが小泉政権だった。植草氏や松岡氏への言論弾圧は国家構造の急激な改変作業の中で出てきたものだ。アメリカの対日「年次改革要望書」のプログラムに従った買弁勢力中枢は、郵政民営化という国富朝貢作戦を展開した。国民労働の結晶である350兆円もの郵政資金を米系金融資本に提供し、日本各地の優良資産を二束三文でハゲタカ系の外資に売り渡す政策が目的であった。彼らは徹底的に外資に有利な規制緩和を敢行し、それを聖域なき構造改革と呼んでいた。国富を宗主国に貢ぎ、そのおこぼれに預かろうとした犬にも劣る連中は、メディアを掌握することによって世論形成を徹底的に封じた。これが小泉政権五年半で起こった破壊的な日本改変であった。
畢竟、小泉・竹中構造改革とは売国のためのシステム造りだった。この危険性を見抜き、これに異を唱える政治家やジャーナリストなど、良心派有識者は抵抗勢力なるレッテルを貼られ、徹底的に表舞台から引き摺り下ろされた。その象徴的有識者がエコノミストの植草一秀氏であった。
また、鹿砦社の松岡利康氏は郵政解散総選挙が目前に迫る2005年7月にガサ入れと不当拘束に出遭っているが、当時はアメリカ通商代表部の意向を汲んだメディアの報道統制が最も先鋭化していた時期でもあった。したがって、松岡氏への唐突で異常な弾圧も小泉政権による国策パラダイムの転換とけっして無縁ではない。自民党清和会を中心とする買弁勢力は、売国的構造改革路線を批判する者はもちろんのこと、天下りなど官僚利権構造の温存を批判する者たちも許さなかった。松岡氏の逮捕勾留は、氏が警察官僚天下り企業の不正を糾弾したからである。
構造改革は、所得格差や消費格差の経済格差として出たが、この弊害は教育格差や希望格差などの文化的格差まで助長し、ネオリベラリズム特有の階級社会を固定化し始めた。この動きに呼応して、権力は反ネオリベ的な姿勢を持つ個人や出版社に表現弾圧の志向を強め、ついには鹿砦社が露骨な言論弾圧を受けた。松岡氏が糾弾したアルゼ(株)は、パチスロ業界の権化とも言える企業であり、典型的なネオリベ的市場原理の活動様態を持つ。しかも警察官僚と癒着がある企業だ。他のメディアがタブー視して触れなかったものに松岡氏は挑んだ。虎の尾を踏んだのだ。
アルゼに対する松岡氏の弾劾視点は、子会社を無慈悲に潰すその悪辣な弱肉強食にある。彼が「アルゼ王国の闇」と言っているのは、魚心あれば水心ありの日本的経営感覚になじまない無慈悲で極悪非道な経営体質である。
つまり、松岡氏本人は大企業の巨悪に対して不正糾弾を行なっていたのだが、この告発行為は企業レベルを飛び越えて、結果的には日本にネオリベを敷設した急進的構造改革派の逆鱗に触れたのだ。これは、エコノミストの植草一秀氏が行なった「りそなインサイダー疑惑」糾弾とまったく同様な位相を持ち、松岡氏を狙い撃ちした元凶は、植草氏を嵌めた勢力と同一の買弁勢力ではないかと筆者は思っている。ネオリベの破壊的趨勢は出版社の表現格差にまで及んでいるのだ。論壇領域に弱肉強食の社会ダーウィニズムが席巻したら、文化を創造し、それを継承発展させていくことなど到底不可能であろう。
植草、松岡両氏が返り血を浴びながらも果敢に行なった巨悪弾劾行為は、日本再生の鍵となる突破的かつ歴史的な偉業だと筆者は思っている。気が付いたもう一つの特徴は、メディアがこの二人の事件に対して取った振る舞いの異様さにある。そこには、今、日本が入り込んでいるトンネルの深い闇が垣間見える。植草事件でメディアは、初期報道からセンセーショナルに取り扱うことで、彼の言われなき病的性癖説を流布しまくった。一方、松岡事件では逆に異様なほどに鎮静的と言うか、ほとんどメディアが触れない状況があったようだ。特に東京方面では鹿砦社問題は歯牙にもかけなかった。松岡氏自身はこれを「メディアの見棄て感」と言っている。
植草氏の場合はテレビ出演回数も多く、その知名度で関心を引きつけたことはあった。だが、マスコミが彼のありもしない病的性癖を大々的に、面白おかしく諧謔性を交えた表現に終始したことは、無辜の人間に罪を着せる目的があったとしか思えない。各マスコミの初期報道には内容の極端なバイアスが見られた。そこには植草氏側の弁明がほとんど皆無であることと、事件を一貫して既遂事実として扱ってしまうという悪意ある印象報道が行なわれた。
植草事件は大々的に喧伝されたが、氏個人の人権という側面から見ると、植草氏側の弁明は徹底的に無視され、虚妄の病的性癖論だけが面白おかしく流布された。ここにはきわめて不自然な非対称(不均衡)が見られるのだ。これは松岡氏の言う「メディアの見棄て感」を髣髴とさせる。植草氏が遭遇した二度にわたる痴漢事件とは、国家権力による策謀的な偽装犯罪の疑いがきわめて濃厚である。
ちなみに植草氏は迷惑防止条例違反の嫌疑で132日間、松岡氏は、パチスロメーカー「アルゼ」役員の私生活を暴いたことと、阪神タイガースの元スカウトマンの転落死が、あたかも現役の阪神球団の職員による犯行であるかのような記述を行った、そのスカウトマンの長女の文章を、鹿砦社発行の『スキャンダル大戦争』に掲載したことで、名誉毀損の嫌疑をかけられ、じつに192日間もの不当勾留を受けている。
彼らは容疑段階であるにもかかわらず、被疑者の自由を徹底的に奪う「長期人質司法」を受けている。それは苛烈さと人権無視において、甚だしく異常な弾圧だと言えよう。両者とも長期に及んで国家に羽交い絞めにされるような嫌疑ではない。どう考えても、この人質司法(別名:代用監獄)は通常の意味で言う官憲の権力行使から逸脱している。しかも、松岡氏の場合は、これによって出版社の機能停止にまで追い込まれているし、植草氏の場合も会社の営業停止に追い込まれている。
ここに共通することは、両者とも、現代企業の必需品で業務情報が集積する会社専用パソコンが押収されているという事実だ。明らかにこれは言論封殺を目的とする不当弾圧であるのだが、非道なことに、生業の稼動を不能にして、憲法第25条に規定される生存権の浸潤に及ぶ陰険さも併せ持っている。その執拗さ、その徹底ぶりに思いを止めると、ここには権力側にのっぴきならない事情があることをうかがわせる。植草氏と松岡氏に加えられた唐突な弾圧には、法律的な根拠とは別に、権力側にとって、けっして看過できない、「彼ら特有の」重い事情が生じたことを裏付けている。両者の表現行為は、明らかに権力機構という巨龍の逆鱗に触れ、その獣性を刺激した。
京急電車内で植草氏を逮捕した一般人を、一審第二回公判に出廷した検察側目撃証言者は、法廷証言で思わず『私服の男性』と呼んでいる。これは筆者も他の支援者もはっきりと耳にした。検察とこの証人の法廷問答において、証人が乗り合わせた一般人の乗客を「私服」と形容しなければならない合理的理由も必然性も限りなく低い。筆者と他の支援者は、この証言者と検察官の問答様態を傍聴席で見聞したが、それは異様なほどよどみなくスムースなやり取りであった。まるで想定問答を充分に繰り返したような印象を受けている。
しかし、反射的な答え方を練習すればするほど、想定になかった質問が突然投げかけられた場合は、思わず本音をさらけ出してしまうということはあるのかもしれない。目撃者が逮捕者の制服姿を普段から知っている可能性が高い場合は、うっかり「私服」という言葉を使う場合もあるかもしれない。筆者は植草氏を追尾して嵌めたグループが、少なくても国家権力を象徴する制服を着る職業の者たちではないかと睨んでいる。この制服組が権力政党と関係する宗教団体である可能性もないとは言えないだろう。一方、松岡氏が糾弾した「アルゼ」や阪神タイガーズは警察官僚が天下っている企業である。
権力筋は植草氏に対しては、偽装犯罪を仕掛け、松岡氏に対しては国権を発動して強制捜査、強制勾留に及んだ。体制側にはどうしても彼らを潰さなければならない事情が存在していることになる。植草氏の場合は間違いなく小泉政権がらみの政治的謀略が働いており、その巨大な背景の一つは、りそなインサイダー取引疑惑を彼が指摘したことにある。また彼は、小泉政権が官僚批判を前面に出しながらも、財務省主導による官僚利権構造が温存されていたことも鋭く指摘している。
松岡氏の場合は、糾弾した相手の大企業に警察官僚が深く関わっていることにより、事件性が表面化すると困るからだろう。つまり、アルゼも例の球団も権力の執行機関から見れば絶対に無謬性を貫いてもらわないと困るからだ。犯罪企業に天下ることは警察機構の威厳が低下することに直結し、絶対にあってはならないことだからだ。だからこそ、鹿砦社のように、これに瑕疵を付けようとする行為は徹底的に弾圧するのではないだろうか。植草氏、松岡氏ともに、眠れる日本のリヴァイアサンを呼び覚ましたのだ。体制側は触れて欲しくない何か「不都合な理由」を抱えていた。俯瞰すれば、両者が遭遇した事件には同質の時代背景がある。時代は日本国憲法第21条の侵食というやっかいな位相に突入している。
第21条
1、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2、検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
植草氏や松岡氏の大弾圧に見られる決定的な傾向は、言論の自由が無効化される時代が間近に来ていることを示している。エスタブリッシュメントは、言論表現の自由を圧殺してこの日本をどうしようとしているのだろうか。筆者は言論封殺の彼方に、今の日本が「夜警国家」という恐怖社会へ変貌し始めていることを強く感じる。
( 『鹿砦社・松岡利康大弾圧事件は夜警国家変貌への証し(その2)』へ続く)
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