(※本稿は「紙の爆弾」8月号に掲載された管理人の記事です)
一、トリプル・メモリアル
三年というのは、今の鹿砦社にとっては特別な意味を持つ年数になっているようだ。その第一は、2005年7月12日の鹿砦社弾圧事件から、今年は三周年目に当たる。第二は、鹿砦社基幹雑誌『紙の爆弾』創刊から三周年目である。そして、第三は、鹿砦社・社長の松岡利康氏とは、ともに運命共同体的な歴史の流れを生きており、戦友にも等しい魂の絆を持つ同志でもある、西宮冷蔵社長の水谷洋一氏に新たな展開が起きていることだ。それは水谷社長の雪印食品牛肉偽装事件告発がNHKでドラマ化され、7月30日に放送されることが決定したからだ。ドラマは水谷社長を主人公に、特別番組「たったひとりの反乱」という題名で放送される。昨今、あまた頻出している食品偽装事件の先駆け的告発をなした水谷社長の生き様を再現ドラマ化したものだ。水谷氏の波乱の人生にとって、エポックメーキングともなりうるこの放送は、奇しくも鹿砦社言論弾圧事件から三周年目の7月30日に全国放送される。この快挙は鹿砦社の松岡氏にとっても非常に意義深いものとなっており、それについては本論でおいおい明かしていく。つまり、今の鹿砦社にとって、「三年」というのは三重の意味でメモリアルなのである。
今回、筆者はこのトリプル・メモリアルにちなんで、松岡氏、水谷氏ご両者が受けた、有形無形の弾圧の背後にひそむ深刻な社会的深層を見つめてみたい。彼らは、それぞれが不退転の覚悟で巨悪に立ち向かい、妥協なしの暴露、そして告発をみごとに行なった。ところが、両者とも、その勇猛果敢な告発の後には、法や権力にたずさわるサイドから、陰湿、陰険とも言える不当な迫害を受け、会社の運営に壊滅的なダメージを受けている。松岡氏に関して言えば、出版、報道をめぐる名誉毀損の容疑が、民事のみならず、警察、検察が直接介入する刑事事件として取り扱われた。2005年7月12日、早朝六時半、神戸地検特別刑事部の一団が松岡氏の自宅を急襲、その日には本社事務所、東京支社に対しても大掛かりな家宅捜査が執行され、神戸地検に連行された松岡氏は、地検内にて逮捕された。しばらくして神戸拘置所に移送された。そのあとは192日間に及ぶ長期勾留にいたっている。この事件を機に、本社事務所も東京支社も閉鎖、そして撤去の憂き目に遭い、出版活動は事実上停止状態に追い込まれた。
2007年6月には、国連の拷問禁止委員会が日本に対して"代用監獄制度の廃止"勧告が出された。昨今、日本の人質司法はかなり深刻な問題となっているが、松岡利康氏やエコノミストの植草一秀氏が受けた長期人質司法は優先して考えなければならない問題である。はじめに拘束ありきで、自由を奪うことから始まる傍若無人な人質司法は、国際的に見れば法治国家にあってはならないことであり、後進性そのもの、国家の恥辱とも言える。
神戸地裁は、松岡氏の長期身柄拘束について、なんと、当然の制裁であるかのように一定の評価を下し容認した。これは裁判所の裁定感覚を問題視するというレベルをはるかに超え、国民にとってはなはだ危険であることを示している。司法が順当な手続きを無視して、狙った国民を好きな時に拘束できるという恐ろしい現実が進行中である。身柄拘束に対して法的根拠が薄弱でも、国民が官憲によるこのような暴挙を看過・黙認した場合、これが常態化・既成事実化することは当然の成り行きである。それを考えたら、その恐怖が強く身にしみてくる。権力にとって、不従順で気に入らない個人や、都合の悪いことを言う個人は、何を持ってしても、とにかく身柄を拘束してしまえばいい、その拘束理由はあとでどのように付けてもかまわないということになる。鹿砦社の横暴な弾圧事件を放置すれば、恐怖政治が横行する社会へ道筋をつけてしまうことにもなりかねない。
二、告発は「偽装内閣」という時代性の中であらわれた
近年、日本は「偽装」という言葉がマスコミに乱舞しない日はないほど、さまざまなジャンルで偽装事件が頻発している。耐震強度偽装や大量の品を扱う食品偽装などは比較的有名であるが、身近にあるものでは、たとえば会計偽装や、スーパーなどで売られるパック食品の産地偽装や魚類の正体偽装など、細かく上げたらきりがない。
このような偽装オンパレードの中で、もっとも規模の大きな偽装とはいったい何であろうか。筆者はそれが小泉内閣そのものであったと断言できる。すでに通り過ぎた一つの内閣を偽装内閣だったと言えば、奇異に聞こえるかもしれないが、偽装というものを、国民の目をごまかして内容とは違うレッテルを貼り、誰かが不当な利益を得ることだと定義すれば、小泉政権も紛うことなく偽装の典型的なかたちを有していた。歴代内閣の中で、なぜ小泉内閣が偽装内閣だったのかと言えば、それはこの内閣がアメリカの傀儡内閣だったからにほかならない。小泉施政の五年半は、「聖域なき構造改革」という錦の御旗の下で、強引に進められた、あくなき日本破壊の年月であった。
官邸主導という独裁色を帯びたこの政権は、アメリカがもたらした対日『年次改革要望書』に基づいて、日本の社会システムを急激にグローバル・スタンダードに適合させた。日本の構造を弱肉強食の新自由主義体制へ転換したのである。また、政府の陰謀とも思えるデフレ経済の固定化は、長期にわたって景気を後退させ、巷を失業者であふれさせ、正規雇用者から非正規雇用者に多くの者がシフトした。このため、所得格差は著しく拡大し、国民の可処分所得は激減、ますます内需後退の泥沼に突入してデフレ傾向は深刻化した。政府も、マスコミも、なぜかこの実態を公表しない。
国民のためを装い、表面的には国益志向を装ったこの内閣は、徹底した買弁性格に彩られていた。まさに小泉内閣とは『偽装政権』そのものであった。この内閣が推進した構造改革の実態は外国資本へ利益供与するためのシステム造りであった。いわゆる聖域なき構造改革の断行は、国民経済を奈落の底に追いやり、老人福祉や医療は崩壊の兆しを見せ始めている。自殺者が年間三万人を超え、国民は明日に希望を持てず、逼迫した気分にある。この政権の顕著な特徴は、国民の労働成果である富の再分配が国民に行き渡らず、一部の株主、特に海外資本株主だけに強く傾斜配分してしまうことにある。
筆者が、小泉内閣時代を、特に『偽装内閣』と称して強調したことには重大な意味がある。なぜなら、松岡利康氏の暴露も、水谷洋一氏の告発も、また、植草氏の小泉政権糾弾も、彼らは、そのあとから考えられないようなむごい仕打ちに襲われている。三人は正義の告発をおこなったのだが、時代(体制)は彼らに獰猛な牙を向けた。筆者が最も深刻に憂い、何とかしなければならないと切歯扼腕していることは、時代が正義の回復を望んでいないように見受けられることにある。このことは、植草一秀氏の132日間、松岡利康氏の192日間に及ぶ身柄拘束に見られる官憲の執拗な悪意を見れば、鮮明に見えてくる。国の秩序を維持するために、権力執行の大事な役目を担うというのは聞こえはいいが、彼らには国民の公僕としての良識も、正義感も、その精神の核の部分で空洞化し始めているように見える。筆者は、国家の秩序維持を職能とする組織が、このように形骸化し、社会正義の常道を忘却している事実に、深刻な国家の危機を読み取る。また、その深層に目を投じれば、日本の根源的な病巣が、アメリカや国際金融資本の傀儡的性格を強く持ち始めたことに起因することがよくわかる。日本はいまだに植民地の存在形態から脱却できないでいる。
三、偽装はゆがんだ時代構造によって生み出された
近年は偽装事件のオンパレードである。昨年2007年は食品偽装事件が相次いだことで人々の耳目を引き付けたが、最近では船場吉兆の"料理つかいまわし"が世間をにぎわせた。食品偽装の風潮はまさに止まるところを知らない勢いである。『紙の爆弾』本年1月号に書かれた松岡利康氏の「告発の行方」を参照すれば、食品偽装騒動は、昨年1月、「不二家」で期限切れ牛乳が発覚したことに始まり、「ミートホープ」、「白い恋人」、「赤福」、「日本ライス」、「比内地鶏」、「船場吉兆」などに続いた。この一連の食品偽装事件には、大きく分けて二つの位相がある。一つは文字通り、業界に携わる人間のモラルハザードの問題である。日本が世界に誇っていた高度な品質管理感覚が急速に崩れ始めている。もう一つは、この一連の偽装事件の裏には、「年次改革要望書」の目論見どおり、日本の優良資産を持つ企業の社会的信用を故意に低落させて株価を下げ、底値に近い状態で安く買い叩こうとする米系国際金融資本(外資=害資)の陰険な思惑と仕掛けが存在している。もちろん、全部の偽装がそうとは言わないが、かなりの部分で外資の暗躍があると考えている。"害資"の働き掛けについては、今回は紙数の関係で言及しない。
前号でも簡単に説明したが、今日本を席巻している言論弾圧傾向は、巨大な国家変容にその原因があると指摘した。つまり、今の日本は『夜警国家』に変貌しつつあり、その変化にともなって、言論表現の封じ込めが権力筋の喫緊の課題、狙いとなって露骨になってきたという説である。この夜警国家という耳慣れない言葉について、少し説明して置こう。
数々の偽装事件が全国各地で起きており、官庁も、国民も、国家ぐるみで慢性的なモラルハザードに落ちている。これを糊塗しようとする動きが露骨な言論弾圧となって、出版社や個人を狙い撃ちする傾向が先鋭化してきた。筆者はこういう世界を"福祉国家"とは対極に位置する現代の"夜警国家"と呼ぶ。この夜警国家は、19世紀ドイツの社会学者フェルデナンド・ラッサールが、『労働者綱領』の中で編み出した言葉だ。これは昭和44年、文藝春秋社発刊、小泉信三全集・第24巻に収録されている。夜警といえば、レンブラントの有名な"夜警"の絵を思い浮かべる方もいると思う。夜警国家とは文字通り、夜警化した国家であり、国家の存在様態が、夜盗や外国の侵略に対して警備する力を持つだけでいいという意味である。ラッサール自身はこれを、近代自由主義国家の成れの果てという皮肉をこめた意味で使っているが、筆者はこの夜警国家に小泉構造改革路線が行なった「国替え」の真相を見る。小泉政権が激変的に敷いた構造改革路線、すなわち本質的にはネオリベ体制と呼べるこの政策路線は、その遷移の行き着く先として、現代的な意味における夜警国家に向かっている。福祉政策はずたずたに破壊され、逆累進課税的に弱いものへ重税を課す傾向に極端に傾斜している。年金制度も医療制度も崩壊の兆しを見せ始めている。今の日本は、歴史、文化、伝統を包含した連続的、有機的な基本概念としての国家観が崩れ去る一歩手前にきている。
日本が夜警国家に変貌し始めている。植草一秀氏、水谷洋一氏、松岡利康氏が、その勇気ある告発の彼方に待ち受けていたものは、国家機関とかかわる位置にいる場所から発した陰険で熾烈な弾圧であった。米系国際金融資本の意のままに日本構造を改変した、自民党清和会を中心とする買弁勢力は、国家的変容が夜警国家、すなわち新自由主義体制の終局点としての監視国家に向かっている現実を糊塗するために、植草氏や松岡氏の言論表現に止めを刺そうと画策したのだ。国民には真相を悟らせないためである。植草氏は小泉政権の売国性をストレートに糾弾したからわかりやすい。だが、松岡氏の場合はどうだろうか。彼はたしかにアルゼというパチスロメーカーの巨悪を暴露したが、そのことと、夜警国家論と何のつながりがある?と思われる方も多いだろう。じつは大いにかかわり合いがある。警察官僚と強い癒着構造を有している企業の不祥事が世間に注目されてしまうことは絶対にご法度なのだ。松岡氏のアルゼ指弾はまっこうからこの不文律をおかしているのである。これを官憲が許せないということは、小泉政権の国家変容が一部の特権階級だけに恩恵を与える構図を持ったこと、また、その体制をガードする警察や検察の官憲機構や、裁判所が、国民のためではなく、支配階級や国際金融資本の走狗に成り下がってきたという現実が背景にある。エスタブリッシュメントは告発や暴露を絶対に許さないという腹を固めたのである。
水谷洋一氏が雪印食品の偽装牛肉を告発したあとで、家業の倉庫業に対して、業界や監督官庁から陰湿な迫害を受け、営業が壊滅的打撃を受け始めたのが、りそなインサイダー疑惑と言われる金融疑獄事件が実際に進行していて、それが頂点にあったと思われる2003年初頭当時であったことはけっして偶然ではない。この時期に買弁勢力に手引き、誘導された外資は日本の優良資産を買いあさっていた。この実態を国民に知らせないために、官邸筋はメディアの統制色を強くした。当然、「告発」の類は最も警戒していたはずである。当時、西宮冷蔵を狙い撃ちした監督官庁は「国交省神戸運輸監理部」であった。この時期から、郵政民営化が本格始動する2007年の10月辺りまで、実質的には小泉官邸主導の性格を受け継いだ与党政権は、独裁色を一気に強め、政権に批判的な政治家や有識者達をことごとく第一線から斥けている。鹿砦社の言論弾圧事件が勃発したのも、郵政民営化解散総選挙の二ヶ月前である。当時は小泉官邸主導筋がマスメディアを掌握して、最も言論統制的色合いが露骨になっていた時期でもあった。買弁傾向が最も先鋭化したこの時期に、権力筋が言論封じに神経を尖らしたであろうことは容易に想像がつく。
四、単独の一揆的レジスタンス
冒頭で、松岡利康氏と水谷洋一氏は、戦友にも等しい魂の絆を持つと書いたのは、けっして筆者の衒学的発想から出た言葉ではない。この二人が受けた漆黒の津波は同じ意志から発しているからであり、彼らは強い相似性を持つ。松岡氏は水谷氏が孤立してジリ貧になっていた時、物心両面で水谷氏を応援した。水谷氏が街頭カンパを呼びかけていた時、松岡氏は、鹿砦社発刊の「内部告発」という本、及び「スキャンダル大戦争」という雑誌を提供しており、これが街頭で売れたことが、西宮冷蔵再起の呼び水となった。翌年の4月、西宮冷蔵がようやく事業再開に漕ぎ着けた時、「西宮冷蔵を再建する会」が発足したが、この会長に、検察の裏金を内部告発した三井環氏が就いている。副会長には松岡氏がなった。この時の会長、副会長の成り行き的形態から、検察は、松岡氏が三井氏と強い絆があるかのごとく邪推し、それが鹿砦社弾圧の一因になった可能性もあると言われ、松岡氏自身もそう語っている。
また、松岡氏は一つの根本的な疑念を呈している。水谷氏が今から六年前、巨大なガリバー企業の偽装を告発して、世間に衝撃的な波紋を投げかけているのに、昨今、食品偽装事件は減るどころか頻出傾向にあるのはなぜなのか、と。これについて、筆者には一つのとらえかたがある。かつて、日本が高度経済成長に歩んでいた時は、すべての製造流通分野において、世界に冠たる高度な品質管理(QC)を誇っていた。当然、安全や衛生も日本人らしい几帳面さで高度な管理が実現されていた。その当時であったなら、偽装がどこかで発覚したなら、それは即座に教訓とされたであろう。しかし、小泉政権が日本にネオリベ参入を許し、社会の価値を、人間的なモラルが消滅するような市場原理至上主義に置き換えてしまってから、日本人は全体的にモラルハザードにおちいってしまったと筆者は見ている。つまり「夜警国家」とは、人心の荒廃が極限まで進んだ社会と言うこともできるのだ。
筆者は、その人間がどのような思想を持ち、どのような人間であろうとも、単身で大きな力に向かう行動様式に対しては、限りない讃美の念を持つ。誰にもできることではないからだ。近くでは、祖国に殉じて敵に突っ込んだ特攻隊もそうであるし、たとえば東映仁侠路線というフィクションであっても、ヤクザが組や仲間の義理人情のために、かなわない敵に向かって、血まみれになって自爆するという行動様式には純粋に心を惹かれる。ましてや、松岡氏、水谷氏、植草氏はフィクションではない。彼らも、筆者と同じ時代に生き、同じ歴史の潮流にもまれている儚(はかな)い人間たちの一人なのだ。押し寄せる時代の波に翻弄されるかよわい個人に、巨悪の跳梁跋扈を許さないという気持ちが澎湃(ほうはい)として湧き起こった。彼らは巨悪に睥睨されることを潔しとせず、果敢に立ち上がった。そして怯まずに睨みつけ、無謀にも立ち向かっていった。彼らの受けた返り血を、黙って見ている手はないと思った。筆者は多くの人間に向かって、彼らの勇気ある行動と魂の強靭さを提示する必要に今強く駆り立てられる。また、そうしなければ、この日本は早晩、壊死の憂き目に遭うだろう。
7月30日、NHKで西宮冷蔵・水谷社長のドラマ『たったひとりの反乱』が放送されることは、艱難を超えて歩む植草氏、松岡氏、水谷氏にとっては、ひとつの暁光だろう。
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日本に希望を与える信念の男、城内実