「日本国憲法と田母神論文についての手前勝手な考察」(6)(kenkensya)
ここで話を元に戻す。戦前のある時期から戦後にかけて、様々な思潮が世に喧伝され、それとともに様々な「スローガン」「合言葉」ないしは「標語」が広められた。ざっと思い付くままに列挙してみると、
「バスに乗り遅れるな」「八紘一宇」「満州は日本の生命線」「五族共和」「鬼畜米英」「一億総懺悔」「非核三原則」「安保反対」「友好第一」「日本列島改造」「エコノミックアニマル」「民活」「不沈空母」「自虐史観」「集団的自衛権」「子孫に借金を残すな」「聖域なき構造改革」「改革の本丸」「官から民へ」「美しい国」等々。
このような「スローガン」が何故流布されたのか。本物の思潮や政策であれば斯様な「符牒」を伴う必要はないはずである。低く静かに語られ、また冷厳な数字を以って伝えられれば事足りるはずだ。
答えは単純明快だと思う。これらの「符牒」を随伴する思想や政策が、その程度の差こそあれ虚構ないしは嘘っ八を含むものだからである。そしてこの虚構は、虚構であるがゆえに多数の国民の心情に(理性に対してではなく)働きかける性質を強く有するものなのである。だからこそ怖い。我々はこの手の「符牒」や「スローガン」が声高に周囲から聞こえてきた時こそ、その発信者と背景をよくよく慎重に検証してみるべきだと私は考える。
今回の田母神論文で取り上げられている「標語」は「集団的自衛権」と「自虐史観」である。この二つについて書いてみたいこともあるのだが、田母神エッセイに対する私見の焦点は別のところにかかっているので、またの機会に譲りたい。これを長々と書いてしまうと私の真意がぼやけてしまう虞があるものと考えられるからである。
しかし田母神氏がエッセイ発表後にとった言動については、どうしてもひと言申し上げておきたい。田母神氏はこれが問題となった時に「国民の多数は私の意見を支持している」という旨の発言をなされたようだが、これは間違っている。
思うに如何に崇高な愛国心であれ、自己愛の拡張たることを免れ得ない。極端な話、自分の過去の行動を褒められるのと、貶されるのとどちらを好むのかと訊ねられれば、誰しも貶される方を喜んで選択することはないのだ。このような単純な国民のセンチメントを自分の論文の援用として求めるのは何らかの言論を表そうとしている人間が決して、やってはならない行為であると思う。国民の多数が支持さえすれば間違った論旨が正しくなるわけではないことは、つい三年半前の郵政民営化法案で嫌という程味わったことではないか。
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「日本国憲法と田母神論文についての手前勝手な考察」(9)
これら「非武装中立論」「自衛隊違憲論」などの「感情的軍事論」を包摂する社会主義幻想のユーフォリアに楔を打ち込むように反論を行ったのは山本七平氏、山本夏彦氏などの極少数の知力に秀でた者たちであった。彼らの勇気は賞賛されてよい。誰も口に出来なかったことをしっかり発表したからである。しかし付け加えておくと両氏の主張は、感情や情緒に溺れることなく政治や軍事において、しっかりと数字や現実を見つめなおせという主旨であったように思う。少なくとも私はそう解釈した。
勿論、彼らの意見は、あくまで少数意見であり、一部の者たちだけが注目しただけで大多数の人間はこれを知らぬか、あるいは知っていても多数意見でないがゆえに黙殺した。
やがてソヴィエト連邦が崩壊、同時に日本社会党が壊滅すると、「溺れかかった犬を叩け」とばかりに山本七平氏、山本夏彦氏などの論旨から数字や事実を抜いた新種の「感情的軍事論」が隆盛に向かって一直線に走り出した。概ね政治論・外交論・軍事論は国民の多数が口にし始めると偏頗な感情論になりがちなものであるが、これらの新種も読んでみると、反中国なのか反北朝鮮なのか反韓国なのか反ロシアなのか反米(何故かこれはさすがに少ない)なのか分からない、つまり仮想敵国すら判然としないという点で感情論(しかも背後にアジテーターがいることが強く疑われる)であること、左翼陣営のそれと選ぶところはなかった。またこれらの論の中で頻繁に使われていた「毅然とした態度で・・・」という手垢のたっぷり染み込んだ言い回しは私を大いに鼻白ませた。また「自虐史観」「東京裁判史観」という白黒二色刷りのラベリングをすることが、かつての左翼陣営からの「非武装中立論」「自衛隊違憲論」と同様、「表現の自由」に対する重大な脅威になることに全く無自覚である点で私を憤慨させるのに十分であった。
ここから田母神氏のエッセイに入る。私が氏のエッセイの中で注目するのは
「自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている」
「自 分 の 国 を 自 分 で 守 る 体 制 を 整 え る こ と、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる」
の二つの部分である。私もこれに強く賛同する。しからば田母神氏は、「史観」という未だ甲論乙駁する、そしてその選択が最終的には当人の感情に委ねられるものと氏の斯様な主張とを混合させたエッセイを書くべきではなかったのだ。なぜか?
第一に、「史観」を混入したために氏の真っ当な論旨が明らかに焦点をずらす結果になっているからである。
第二に、氏が軍事テクノラートだからである。氏のように国家の費用で軍事を研究してきた者は、もし担当する分野に問題点があるのであればそれを抽出して解決策とともに示す義務があると思う。
国民が田母神氏に求めているのは、箇条書きに出来る以下のようなことであろう。
① 自衛隊に法的制約が多くて、日本の自衛さえままならないというのであれば、どの法律(場合によっては憲法)をどのように改正すればよいのか。
② わが国の仮想敵国はどこなのか、そして当該国家が攻撃してくる可能性は如何程なのか。
③ その攻撃を封じる、または攻撃に対する抑止力となりうる兵器として何が必要でそれは具体的に、どの程度の規模で、如何程の予算を必要とするのか。
④ アメリカからの頚木を外し「日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなもの」にするためには、どの程度まで兵器を国産でまかない、どの程度までをアメリカから購入すればよいのか。
⑤ アメリカから購入予定のミサイル迎撃装置は本当に有効なのか。そして有効でないならば「核の抑止力」をわが国が保有する必要があるのか。
⑥ またこれらを実現することが可能なのか、そしてそのためにアメリカとどのような外交を行ってゆく必要があるのか。
繰り返すが田母神氏は軍事テクノラート(しかもそのトップ)である。上述したような問題点に具体策や明確な回答を与えられないテクノラートは無用である。金が勿体ない。
結論を申し上げる。今回の田母神氏のエッセイは、「史観」という情緒的な判断を基礎とするものをマクラに振った(または混入させた)ことによって軍事・政治論が全く曖昧なものになり、しかもどっち付かずの内容になったという点から「極めて程度の低いエッセイ」として天下の愚論だと言って私は憚らない。軍事官僚のトップがこの程度のものを発表して問題になっていることに対して強い「憂国の情」を抱かねばなるまい。
付言しておくと田母神氏のエッセイについて「文民統制」とやらが巷間、かまびすしいようであるが、これは大いなる的外れである。
「昔、陸軍。今、大蔵省」と言われるように「文民統制」とは主権者の意にさえ背いて独自行動をとる肥大化した官僚組織に対して憲法上予防的に制約を設けておこうという趣旨だったものと思う。しからば、ここまで「財務省」の主権者無視の暴走を野放しにしてきた国民・政治家が今更「文民統制」などと言いつらうのではヘソが茶を沸かす。
「シヴィリアン・コントロール」などと寝ぼけたことを騒いでいないで、お宅の「シヴェリアン・ハスキー」の鎖が外れていないか心配した方がいいのではないか。―お粗末さまでした。
投稿: kenkensya | 2008年12月24日 (水) 12時55分
失礼します。
単純に見るなら、
田母神論文(=エッセイ)に関して其れを封殺したい勢力は明らかに大陸側であり、また其れに対する世論を観測したい勢力は米国と思われます。
大局を見据えて国の防衛を考えるならば、田母神氏本人の真意や行動の是非を問うのは愚論に他ならないと考えます。
日本の自主独立が現在米国の意向とも考え得る、何故か、という事から現在田母神氏関連で活況する論議を考える時期かと思います。
投稿: 通りすがりですが | 2008年12月22日 (月) 12時05分
「日本国憲法と田母神論文についての手前勝手な考察」(8)
多くの罪なき人びとに「戦犯」という汚名を着せる一方、自国に便利だと思われる者をなし崩しに釈放して自陣営に取り込むという米国の御都合主義で貫かれた「極東軍事裁判」は終了した。この屈辱的な醜態を見て、我が国民は戦争という物の本質と、軍事論に感情を移入することの愚を骨身に沁みて覚え込む必要があった(この他ではGrand strategyの完全な欠如とstability of the rear(後方輜重)の非常なる軽視であったか)。
ところが当初の民主的な占領政策を決定したGSのせいか、社会主義国からの洗脳工作が原因だったのか、はたまた「感情的軍事論」が余程、日本人の体質に馴染んでいるせいかは分からぬが、姿を変じた「感情的軍事論」がソ連崩壊の約10年前まで日本中を席捲することになった。
「非武装中立論」と「自衛隊違憲論」である。ヒネたガキであった十代の私はこの二論に対して非常なる違和感を覚え、自分の違和感の素が何なのかを、かなり真剣に思い悩まねばならなかった。
幼稚な頭であれこれと考えた結果は、この二つの論の根拠が感情ないしは情緒以外の何物でもないという結論に至り、もしや、これらを声高に主張している人間たちは、戦争中は、南京攻略の際に浮き立つ気分で提灯行列に参加し、「腰抜け海軍」「英米撃たざるべからず」と叫び(無論、米国の戦力が如何なるものなのかは知る由もなく)、また隣組の長として不精が洋服を着て歩いていると称され、おそらくバケツリレーの消化演習に参加しないで寝転んでいたに違いない私を「非国民」と罵った者たちと同人種ではないかと考えて慄然とする思いであった。
言うまでもなく「非武装中立論」と「自衛隊違憲論」には冷静な軍事的計算は皆無である。軍事に素人である私の勝手な憶測であるが、軍事的考察の第一歩は、仮想敵国の決定と、当該国家が自国を攻撃・侵略してくる確率ないしは可能性を考えることから始まると思う。しかるにこの二つの論には、このような初歩的な手順すら踏まれていないのが明らかなのである。しかしこれらが一般論として広く受け入れられる風潮は、うんざりするほど長く続いた。
#まだ続きます。何卒お許しのほどを。
投稿: kenkensya | 2008年12月21日 (日) 21時26分
高橋先生へ
私の田母神氏のエッセイに対する意見は次の(8)からやっと記述いたします。長々とサイトを汚して申し訳なく思っております。
ただ二つほど言わせていただければ、私は「自虐史観」からは全く自由な人間です。これについては、いずれ証明する機会もあろうかと考えております。
また私は田母神氏の史観が正しいとも間違っているとも申してはおりません。言葉が足りなかったのが原因でしょうが、私の申し上げたかったのは、論旨の当否は、国民の支持があったからといって正しくなるわけでもないし、国民の不支持が高かったからといって正しいものが間違ったものになるわけではないのだから、論考発表の際の作法として「国民の支持」を口にするのは、いささか見苦しいのではないかということです。
投稿: kenkensya | 2008年12月20日 (土) 13時53分
「日本国憲法と田母神論文についての手前勝手な考察」(7)
先の日米戦(これを「大東亜戦争」と呼ぶか「太平洋戦争」と呼ぶかで当該主張をする人間の思想的符合を決めるという馬鹿げた行為は、北朝鮮側が韓国を南朝鮮といい、韓国側が北朝鮮を北韓と言いならす頭の程度を疑わせる行為と酷似する)で我々が強く学ばなければならなかったことは、軍事と感情論は全く関係がない、否、感情論や精神論は、しばしば軍事を誤らせる、という簡単な事実である。くだけた言い方をするのならば、どれだけ日本兵が大和魂を持っていようとも、皇国不滅の必勝の信念を有しようとも、中国軍や米軍を弱兵集団と思い込もうが、そして自国の軍隊こそ最強であると鼻高々に自惚れようとも、戦争は兵力(地政学的優位性や情報能力も含む)に優る方が勝ち、兵力に劣る国が必ず負ける。果たして日米戦は、この通り日本の完敗に終った。つまり精神論が戦争の役に立つことはありえないのだ。
こういう悪態をつくと軍隊の士気はどうなるのだ、と問われる方がおらようと思う。私は士気というのは装備・補給がしっかり確保され、自軍が勝ち戦に入ったならば自然と生じるものと考えている。反対に補給すらろくにない負け戦になれば「大和魂」を持とうが「ゲルマン魂」を持とうが士気は風船が萎むように阻喪されるものであろう。実際、独ソ戦においてドニエプル河西岸に追いやられてからの独軍は「不屈のゲルマン魂」が消えたように影を潜め、急速に戦争遂行への意思を喪っていった。大体、極めて物理的な事柄である戦争に精神論を持ち込む自体が大層、トンチンカンなことなのである。(これは成績の良くない中高生に本人の「やる気」を求める無能な教師の態度に酷似する。「やる気」なぞ、一定以上に成績を何とか上げてやれば自然に出てくるのではないか)
明治期の軍人、政治家は、この軍事と感情(ないしは情緒)との混同を嫌い、軍事を兵力計算だと冷静に見做していたと思われる節が大いにある。司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」を読んだ記憶で書くので恐縮なのだが、たしか伊藤博文は日露開戦を迫るいわゆる「七博士」に対して「私は諸君たちのご高説にではなく、大砲の数に相談したいのだ」と言い放ち、首相・桂太郎は七博士の来訪に対して「今日も馬鹿が七人来た」と愚痴をこぼした。また児玉源太郎は感情の量が極めて多い山縣有朋を忌避して、大山巌を担ぎ満州で戦った。
当然のことながら、彼らは三国干渉というロシアの横車に対して短兵急に戦いを挑むようなことはしなかった。兵力差を考えて泣く泣く遼東半島を清国に返還し、「臥薪嘗胆」の合言葉の下、兵を練り、兵器の開発を進めた。そして日露戦争という植民地になるかどうかの瀬戸際でも尚、戦費・兵力を計算し外交努力を継続した。
ところが日露戦争後の日本人は、これも司馬遼太郎氏の言葉を借りるのなら「これが同じ民族なのかと疑わせる」ほど、軍事に情緒・感情を交えるようになった。私見によれば始まりは明治の元勲たちがこぞって賛成していた「ハリマン計画」を、いきり立った小村寿太郎が拒絶に引っくり返したあたりからではなかったろうかと思っている。以後斯様な軍事への感情混入を「感情的軍事論」と呼ぶことにする。
この「感情的軍事論」は猖獗を極めた。己の戦争遂行能力を過信し、敵の兵力を過小評価し、また兵力差を「大和魂」と旺盛な士気で埋められるものと錯覚し、または他国(ドイツ)の戦力が欧州を席捲できるものと勝手に思い込み、更に米国は厭戦気分に溢れているものと希望的に観測して『兵棋演習』ではどうやっても勝てる予想の立たない(つまり、戦力差から必敗の)日米戦をアメリカの計略にむざむざ嵌って、開始してしまったのである。
挙句、国中焼け野原にされたばかりか「極東軍事裁判」という国際法的にも近代法思想史的にも出鱈目な「見せしめ・復讐裁判」によって何人もの罪もない日本人を死刑台に追いやった。
#まだ続きがあります
投稿: kenkensya | 2008年12月20日 (土) 13時06分
JAXVNさん、こんにちは。
私もその週刊現代の記事を読みました。田母神
さんはまったくぶれていません。芯がしっかりと
していますね。要は衒学的な国家論を説いている
のではなく、今のままじゃあんまりじゃないか、
と素直に語っているだけです。これにネガティブ
な反応をする方々は、どんなに精緻な論考をしよ
うとも東京裁判史観に呪縛されているのです。
kenkensyaさんほどの知見の優れたかたでさえ
もそうです。いや、むしろ高度な知見を持つ人に
多いように思えます。あの戦争はすべて日本が悪
かった、日本人は生まれながらに悪人、永久に謝
り続けるしかないでは、命賭けて守れませんから
ね。国も住民も。ただそれだけじゃないですか。
あの論文の意図は。
投稿: 高橋博彦(管理人) | 2008年12月19日 (金) 15時55分
kennkensya サンへ。
満州国や朝鮮にいた人々が終戦時どのような扱いを受けたかをよく考えることですねえ。
侵略したしないは、外交的な駆け引きで、そんなことは夜店で安ちゃんがいちゃもんを付けてきたことのように扱えばよい。
我が国は思想信条の自由、表現の自由があるから(?)両者に一席を設けて、議論をさせればよい。そのことをせず、嫌がらせをするから、論文のほうただしいではないか。
戦争は国家間の問題の解決の手段の一つに過ぎず、それをお前が先に手を出した。いやその前から嫌がらせを受けていていつかやってやろうと思っていたというような議論は子供することである。
戦争に負けたら、馬鹿やろう、50年子々孫々まで、我慢して、再びやり、相手をやっつけて、今度は俺たちの言い分を聞かせるぞという精神が必要だけで、戦争に勝ち負けはつき物であり、負けると、女は売春婦になり、男は泥棒になる。これが負けた国の姿であり、我が国にはかってあった。
戦争に道徳を持ち出してはいけない。あくまで国際法(?)にの取っているかであるが、まければ、勝った国のなすがままだろう。
我々は身にしみておらず、お経のような議論をいまだにしている。
今我が国と中共もしくはロシアもしくは朝鮮と一発やって勝てる軍事力と精神があるかだけが問題である。
これをいくつかの指標を立てて、マトリクスを作って、それを公表してくれ。
孫子の初めにそれが記してある。
確か兵は国の大事である。察せざるべからずと
また勝ちて後 戦う。上の上なり。
史那はそれに乗っ取って、我が国を乗っ取ろうとしている。その史那から、kenkennsya サンの論文がどのように見えるかという視点で、自らの論文を検討されたらよいだろう。
さもないと子供の論文である。
投稿: kenji | 2008年12月19日 (金) 14時50分
こんにちは。
二週ほどまえに週刊現代に田母神氏のインタビュー記事がありましたが、その記事を読むとやはり田母神氏は「いつまでも米軍頼みではだめだ。やはり日本は日本人自らが守らなくてはならない。」という考え方であるようです(ブログランキングでおなじみの天木直人元レバノン大使などはその考え方については評価しつつも、「自主独立路線は現実的ではない」と批判しておられましたが)。
私がずっと思っていたのは、田母神氏の論文はやはり人情として「どうしても言わずにはいられなかった。」という面が大きいように思います。だから論文として粗さが目立つのは、むしろ当然であるとも思えるのです。時には死ぬことも覚悟しなければならない自衛隊員にとっては、やはりどうしても「自分は正しいことのために命をかけている」という確信が必要なのではないでしょうか。そのためにはどうしても命を懸けるこの日本は「良い国」「価値のある国」でなければなりません。「日本は犯罪国家だった」「悪い事ばかりしていた」と言われつづけていたのでは、とても「命をかける覚悟」は出てきようがないのです。田母神氏は「他国の軍人と話すときに過去の戦争の話が出ても、他国の軍人はみなまず自国の行動の弁護をする。『わが国のやった事は侵略だった』と言う人は一人もいなかった。」という事も言っておられたと記憶しています。「いや、過ちを認め繰り返さないことを誓うことが愛国心だ」という人もいますが、それであまりにも「人情」に欠けるのではないか、とも思うのです。理屈はそうかもしれませんが、感情はそうはいかないのではないでしょうか。
投稿: JAXVN | 2008年12月19日 (金) 09時15分