ベーシック・インカムという経済的な考え方をご存知だろうか。私は言葉は知っていたが特に考えたことはなかった。拙記事「小泉政権の本質とは何であったのか?」のコメント欄にあった下記書き込みに触発され、ベーシック・インカム論を素人なりに少し考えてみた。
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ミルトン・フリードマンは、新自由主義により、格差拡大することを認めています。
その対策として、ベーシック・インカムなどをあげています。中谷巌は、懺悔したと言われているが、アソタロウの識者会合で、ベーシック・インカムを提案した。
(curonikeru氏の投稿より)
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ミルトン・フリードマンというと、ベーシック・インカム論というよりも、「負の所得税」の提唱で有名である。ただ似たような地平にある考え方だから、今回はベーシック・インカム論について考察する。これはすべての個人に対して無条件に一定の所得が与えられる制度のことで、ざっと言えば次の要件で成り立っている。、
①世帯ではなく個人に交付される。
②無条件に交付される。
③他の所得の有無を問われない。
④資産力に左右されない。
⑤学歴・職歴を問われない。
⑥個人的な能力差を問われない。
⑦就労義務を課されない。
この考え方は、アメリカで生まれ世界に広まったが、これを実践する国は皆無である。経済に詳しい人は、いや、アメリカでは既に勤労所得税額控除(EITC:Earned Income Tax Credit)という制度で、1975年から導入されているよと言うかもしれない。しかし、フリードマンが提唱した「負の所得税」というものが基底にある以上、それがそのままの形で実践された事例は一つも存在しない。EITCは従来の福祉制度に重畳された形で行われており、フリードマンの提唱した従来福祉制度を完全撤廃するという条件を満たしていない。(※「負の所得税」とは、一定の収入のない人々は政府に税金を納めず、逆に政府から給付金を受け取るというもの)
はっきり言って、新自由主義に肯定的な政策を採用する国も、「負の所得税」導入に当たっては、フリードマンの絶対条件である「福祉制度の完全取り外し」は、あまりにも過激すぎて、到底実践には至らないという話なのだろう。だから折衷案として、従来福祉制度に付け加える形でベーシック・インカム制度を取り入れたが、全体としては福祉行政機能が煩雑化し、大きな行政支出を招来してしまうという弊害が生まれている。この部分ではフリードマンが「選択の自由」で説明している危惧とほとんど同じネガティブな結果がアメリカに現出しているということになる。
さて、中谷巌氏というラディカルな小泉政権信奉者であった著名な経済学者が、その信仰を捨て、小泉・竹中構造改革を批判し始めた。中谷氏は構造改革崇拝教(ネオリベ教)という宗教に背教したわけだが、彼は麻生政権に「ベーシック・インカム」論を提唱しているという。高名な経済学者であるから、十分に考え抜いてのことなのだろう。どのような説明をしたのか、大層興味がある。。
このベーシック・インカムは昔から、議論されているようだが、どっちかというと非現実的な政策として位置づけられてきたように思う。私自身も時々、思い切ってやったらどうかと思うこともあるのだが、人間存在論的、あるいは社会学的にこれを考えると、どうしても根本に難しい問題が横たわっている。この論議は経済合理性のみでは絶対に収束しない。たしかにミルトン・フリードマンはベーシック・インカムを肯定的に見ていたようだが、私には彼の提唱する基本思想と、この考え方には絶対に整合しない思想的に大きな溝があるように思えてならない。
皆さんにわかりやすく私の不信感を申し上げるなら、小泉政権は「後期高齢者医療制度」という露骨極まりない棄民政策を実現したことを思い出して欲しい。小さな政府を官僚天下りや官僚利権の縮小という方向性で考えるなら理屈はまだあるが、必要な福祉行政を縮小して国家の保護を必要とする層への財政還流を絞ることはおかしい。資本強者を利する方向のみで社会機能を考えていくと、国家秩序は機能しなくなる。
単純に考えてみても、国家の役割である官僚制度というシステムを、間違った方向へ機能させることは財政的な無駄を生じ、社会の安全面が崩壊するだけだ。官僚の力を誤導して、どこに分配機能を持たせるというのだろうか。ましてや福祉を司る機能を果たす官僚をただ削減することは、何のための効率化なのだろうか。ネオリベ経済は、弱者には金をかける必要がないという冷徹な作用だけしか生み出さない。人間を使い捨ての消耗部品のように定義するのがこの経済の特徴である。そういう棄民思想を原動力として稼動する社会が、国民に漏れなく生活費を配るという発想を取り入れるということ自体が自己矛盾である。
平等分配、個人が自発的自生的にそれを行うとでもいうのだろうか。では誰がその機能を監視するのだろうか。つまり政府機能を可能な限り極小化させて行く中にあって、個人への平等な分配を誰がどういう形で行うのか不明確である。むしろ市場原理主義を放任(レッセ・フェール)させて、政府から各個人へある額の再分配を恒常化させるという考えには理論的に無理があるような気がする。徴税システムにも問題がある。法人や外資を優遇する制度をどんどん敷き、逆進の課税システムに移行して、どうやって全国民に分配する税金を徴収するのだろうか。富の富裕層への集中化、それは弱小企業や個人からの搾取で成立する。そういう傾斜配分社会、階級格差社会を目的とするなら、発想として全国民の生活費を無条件に配布する制度は絶対に生まれないはずだ。
以前、私は資本強者を優遇し富ませるとトリクルダウンという作用が働いて、強者の余力が下にこぼれて底辺層に恩恵をもたらし、全体としては経済がボトムアップされて活性化するという話は、まさしく大嘘、虚構であると言った。資本強者が儲けた分を、ある程度他者に回すなどという話は現実にありえないからだ。資本は儲けた分を資本維持と拡大にまわすだけである。だから資本強者を優遇すればするほど大多数の国民は不利益を蒙るのがネオリベ経済の原型である。
資本主義には、強い倫理感がともなっていないと、それは暴走し、弱肉強食の歯止めが外れる。一部の強者が暴利をむさぼり、抜け目なく行動する連中が、善悪の桎梏を無視して弱者を食い物にし、果てしなく欲望資本主義へ収斂して行くのだ。フリードマンら、シカゴ学派の経済思想には、マックス・ウエーバーの唱えたプロテスタント倫理は微塵も存在しない。つまり資本主義の獣性を抑制するエートス(ethos精神性)が存在しないのが、自由放任主義を肯定する市場原理至上主義の最大の特徴だ。
だから、市場原理のリヴァイアサンが自由に解き放たれる社会において、ベーシック・インカム、あるいは「負の所得税」という救済システムが稼動すると考える方に無理がある。だからこそ、ベーシック・インカム論議は経済合理性の問題ではなく、人間社会の文明論的、存在論的な深い考察なしには無理なのだ。つまり、人間性は複雑であり、欲望追求の側面と倫理的高潔さの側面が波状的に現れる厄介さがある。だからフリードマンのような極左急進的アナーキズムという、獣的欲望性を野放しにするという社会のあり方では、ベーシック・インカム制度は絶対に存在する余地はない。悪魔と天使を一緒に並べて、両者に上手くバランスを取ってくださいとお願いするようなものだ。
しかし、もしも理想的に高度な倫理観が達成され、それが社会秩序の根幹を占めていれば、獣的欲望資本主義の抑制は可能であり、適度な再分配システムは構築できるだろう。しかし、人間が厄介なのはケモノと高潔さの両方を併せ持っていることにある。私が小泉・竹中構造改革に怒りを持つのは、その政策理念が、資本主義の獣性で占められているからだ。それだけじゃなく、先人達の汗と努力の結晶である国民資産を、外国資本にただ同然で売り飛ばす悪辣さを持っている。彼らの悪の本質は、ネオリベ政策に加えて日本国富の叩き売りを行ったことにある。ここには国民生活の充足や弱者への気遣いはまったくなく、彼らの犠牲や苦痛を糧にして肥え太っていく、獰猛で醜い欲望資本主義がのた打ち回っている。
このように、人間生活に目線がないネオリベ原理主義の社会には、ベーシック・インカムが実現する道理はない。フリードマンが、もしこの考えを全面に打ち出して、極左急進的無政府主義の新自由主義を唱えていたとしたら、それは自己矛盾と言うしかない。すべての人々に、生かさず殺さずのお金を恒常的に配布して、後は個人の有意で好きなだけ稼いでもいい社会というのは、言葉上は確かに確実なセーフティネット構築のように見えるが、理論としては非現実的である。
経済弱者を徹底的にいじめ抜いて極端な傾斜配分に向かうのがネオリベ経済の最大の目的であることを思えば、この経済体制下でベーシック・インカム論はありえない。むしろ小泉政権が、「後期高齢者医療制度」や何の保証もない非正規労働者をもたらしたように、フリードマンら、シカゴ経済学派のネオリベ体制下では多くの人間の奴隷化、搾取化が進むだけである。
欲望資本主義を剥き出しにした大資本がブレーキ無しに増大加速する社会。猛獣にも等しい彼らの飽くなき蓄積、優位性を保障しながら、すべての人の生活をどうやって保障するのだろうか?ベーシック・インカムは、儲けた者が下へ還流しない限り、理論的にはありえないことだと思う。パイが無限に増大していくなら話は別だが、分配資源が原則的に限られている以上、ガリガリ亡者どもが資本をディストリビューションすると考えるのは現実的ではない。
新自由主義は、弱肉強食の市場原理至上主義を極限まで加速させることによって、生産品、サービス、社会福祉、医療、等、金銭的価値に還元できるあらゆる社会資源を狭い入り口に傾斜流入させ、大企業や外資など、一部の資本強者に集中することになる。このあまりにも非情で不道徳な構造を“市場の自動調節機構”と言うことはできない。ハゲタカが自由に舞い降りて、好きなエサをついばむことができるように、市場の屋根を取っ払うことを、フリー、フェアー、グローバルと言って、他国に強要した存在こそ、本物の悪の枢軸である。
大きな政府から小さな政府へという概念を、小泉政権に関わった政府関係者は、政府が関与する公共事業や公共福祉を無駄の温床のように断定し、政府規制を取り払った民間主体の競争原理こそ経済発展の原動力になると実に簡単に言った。人間が生み出す文化や多様な価値観を全否定して、経済合理性という一点だけで経済活動を限定すると、マーケットの競争条件に無理やり参入させられた福祉は、その質が極端に劣化する事実がある。
わかりやすく言うなら、医療を経済合理性だけの市場原理に投下すると、競争条件の効率性が、医療にまつわる人間的要素を殺してしまう。結果的に医療の質は劣化し、民営の保険会社が跋扈して医療費はどんどん上昇していく。家計が破産するような高額の医療費を負担しているのに、肝心の医療サービスは低下している。アメリカの医療費が無茶苦茶高いのは、民間の胡散臭い保険会社が医療機関の経営を駄目にしているからだ。日本の国民皆保険制度がいかに優れたシステムであるかというのは、アメリカの窮状をみれば納得がいく。
映画「ジョンQ」や「シッコ」を見ればその実態がわかる。複雑化した現代社会は、ネオリベの非人間性に気付いても、以前のような単純なケインズ主義に戻るわけにも行かないが、少なくとも感性的にはジョン・メイナード・ケインズのような人間性を大事にする社会構築を目指さすことは大事である。それから、欲望資本主義のリヴァイアサンを押さえつける力が、国家権力以外に何があるか真剣に考えることだと思う。私は国家権力以外にそれに代わる代替物はないと思う。だからこそ、国家そのものをリヴァイアサンにしないように国政を考えることが必要だ。戦後の日本人は国体の重要さを軽んじたからネオリベに侵襲されたと思う。帰属していることに、国民が誇りと喜びを感じる国家を再建することは可能だと思う。
外国に優良資産を安値で売り渡し、国策捜査が頻発するような国家にしてはならないと切に思う。
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