自民党凋落の真因を推測する
次期衆議院総選挙の先行的な指標とみなされた東京都議選は、自民党が過半数割れを起こし民主党が圧勝を占めた。自民党が第一党から外れるのは44年ぶりだそうである。評論家は自民党の凋落を、麻生政権の内紛やぶれが招いた結果だとあっさり言うが、この捉えかたは表層的だ。麻生首相のブレには二つの側面があって、ひとつは麻生氏の個人的な資質によるものと、もう一つは自民党内を牛耳る小泉一家と反小泉一家とのヘゲモニー(勢力争い)があり、この二つは峻別して考えなければ政治の現状把握を見誤ることになる。
もしこのまま、来る衆院選でも民主党圧勝という同様の結果を得るとすれば、我々はこの状況を見て、1955年から続いた自民党一党独裁体制が、歴史的な終焉を向かえることを目の当たりにすると思い込みやすいが、それはまったく違うことを言っておきたい。日本は大東亜戦争に敗北した後、極東国際軍事裁判をいやいやながら受け入れたところから出発した。
古代カルタゴとローマ帝国には、ポエニ戦争という三度にわたる戦争があった。カルタゴはローマに敗北し軍備を完全解除された。両国は安全保障条約を結び、事実上カルタゴはローマの庇護国となったが、軍備費撤廃の分を経済浮揚に向けて成功した。庇護国というと護られているという意味に聞こえるが、その実態はローマの完全属領であった。属国政治はやがて行き詰って深刻な状況にいたる。カルタゴが他国から戦争を仕掛けられ、やむなく軍備を整えてこれを打破したところ、ローマはこれを再軍備とみなし、カルタゴを滅ぼした。不正確だが簡単に言えば、これがカルタゴ興亡史である。
時代背景や国家構造は異なるが、現代日米関係もこのローマ・カルタゴ関係とかなりの類似的様相を持つ。戦後政治の国政デザインは吉田茂によって方向が固定化された。吉田ドクトリンである。簡単に言えば吉田ドクトリンとは、日米安保条約という属国協定条約であり、日本は武装せず、米国駐留軍を置いて極東アジアの共産勢力の防波堤となることだったが、軍事をアメリカに任せて日本は経済復興に邁進するという基本路線だった。自民党保守政治の本質は、アメリカ・アングロサクソンの覇権意志と衝突せずにうまく取り入って、コバンザメのように経済的利得を得るというスタイルだった。これは岡崎久彦氏の対米感覚に近い。
自民党55年体制とは、東京裁判史観を下敷きに吉田ドクトリンをアイデンティティとして保った属領政治であった。戦後のインフラ復興と高度経済成長を経て、自民党政治は国民に受け入れられてきた。その流れの中で田中角栄型の政治路線が定着した。しかし、これには冷戦構造という国際環境が幸いし、吉田ドクトリン体制は偶然にも上手く機能していた。政官財の癒着と田中型金脈政治が融合して、修正資本主義はかなり機能不全を起こしていたにせよ、再配分はきちんと行われていた。
修正資本主義の悪弊を正し、良い方向に修正して行ったのなら、半属国日本でも、まだ余裕はあったのだが、小泉政権は郵政民営化という国家インフラをアメリカの言うがままに民営化し、構造改革という、一部の層に特定利権が傾斜してしまう間違った国策を行った。ここでは吉田ドクトリン・ポリシーにわずかに残っていた面従腹背の要素は雲散霧消し、完全な属国体制に切り替えられていた。これによって、富の公平配分は消失し、極端な傾斜配分に切り替わった。
今回の都議選の結果は国政選挙の予型にはなっているが、保守対革新のイデオロギー的要素はまったくなく、小泉政権が行った新自由主義政策への怒りととらえていいものだと思う。これは国民の生活感情が自民党に対する敵意として出たものだが、戦後55年体制の自民党政治に対する総決算として噴出したものではない。そこは勘違いして欲しくないのである。
もちろん国民には従来の自民党政治に対する鬱屈した不満はあるが、一党独裁を許してきたのも国民だったことを思えば、すべての悪を自民党に押し付けることはできない。許せないのは修正資本主義の顔をして国民を騙し、完全なネオリベ政治を行った小泉政権である。これが国民生活を破壊したまま、ほったらかしなのである。麻生氏の主導権を内部から潰したのが、小泉政権の残存勢力である偽装CHANGE勢力である。
日本は大きく言えば、古代カルタゴ化していて風前のともし火になっているが、矯激な属国政治を行った小泉政権がきちんと裁かれない限り国の再生はない。民主党も凌雲会勢力と自民党シンパを駆逐しないとけっして安心できない。
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コメント
管理人様の深い洞察力と主張!染み渡る様に我が身体に入ってきます。管理人様には及びもしない、浅はかな私ですが、私なりに勉強してきた思いと、余りにも一致します。
そして植草先生の命の心配!今私の一番の心配は正にそれなのです。無力な私は先生の無事を唯祈るしかない!「日本の宝よ、どうか無事に!」と。
投稿: | 2009年7月15日 (水) 16時56分
植草一秀氏は、14日付の「8月30日総選挙に勝利し「無血革命」を実現しよう」のコメントのなかで、「決戦の総選挙が行なわれ、選挙後に新政権が発足する最も重要な時期に、発言を封じられることに、激しい憤怒の念を拭えない・・」と述べています。
このことは氏が、実際に近く拘留されることを予知して記述したのではないかと懸念されます。
再審請求などこれを避ける何らかの方策について、手は打たれていないのでしょうか。
氏は、今回の説明のなかで民主党などの国民勢力が総選挙までの間に警戒すべきこと、悪徳ペンタゴンや偽装CHANGE新党などに対してとるべき対抗策(戦略)さらに政権交代後、早急になすべきことなどについて詳しく説明しています。
拘留される前にこの際伝えるべきことを細大漏らさず書き置きたいという氏の意思を感じます。
投稿: 純一 | 2009年7月14日 (火) 13時00分
私の東京裁判の知識は、断片的、間接的、表層的なもので、知ったかぶり
もいいところなのですが、ただ、連合国への怒りもさることながら、許せな
いのは、朝鮮人の日本への裏切り、背信行為(こんな言葉では生ぬるいので
すが)なのです。日本人の弱みに付け入って彼らが見せた正体、理不尽さ、
乱暴狼藉、暴虐の事実は、教科書にも載せてほしいと思うくらいです。そんな
ことをすれば、恨み、憎しみの連鎖になると言う人がいるでしょうが、いいで
はありませんか。どうせ、彼らの怨念や憎しみは、地球が消滅するまで消える
ことはないのですから。(憎む正当な理由がないことが、ますます、憎しみを
増幅させるのでしょうか)だからこそ、日本人もそれに対抗して、怒り、それ
もあくまでも「認識としての怒り」を忘れてはいけないと思うのです。これが
憎しみを暴発させないための抑止力になるのだと信じているからです。
日韓友好、相互理解だと、馬鹿丸出しの善人ぶりを発揮してきた結果が、どう
いうことになっているかは、一目瞭然ではありませんか。これが「地獄への道
は、善意で敷き詰められている」という格言の生きた証拠なのです。
善意の人と思われている人の実体は、無知と頑迷、自己陶酔なのだと思います。
決して、人の言うことに耳を傾けることはありません。私も二度と口を利きた
くありません。
投稿: 一葉 | 2009年7月14日 (火) 11時48分
管理人様は簡単ながら私がほとんど理解できる今の日本の構造とこれからを説明してくださいました。他国の歴史を見ると似たところが無きにしも非ずです。大同小異ということばがありますが、大きく捉えるところもありますので、たとえばあまり日本人が足の引っ張り合いや内部でもめていると「漁夫の利」とばかり他国から攻められると思います。清国がそうであったように。
だから今はデモクラシーとか民主化ということばで国民がばらばらにされたそして歴史をどんどん忘れていく、知らない若い世代、それを待っていたとばかり他国の勢力が日本をねらっていることを忘れてはいけない。
戦時中のようであってはいけないですが、もう少し日本人が結束を固めないと。それをリードできる人はだれ?
いないなら私がやりたいよ。
投稿: | 2009年7月14日 (火) 10時27分
浮高亭瓢箪 様
共産党は庶民目線で時々いいことを言いますが、グッドタイミングで
自民党を幇助するような発言を度々目にしますと、自民党のコバンザメ
政党になってしまったのではと疑ってしまいます。
公明党が小泉自民等と寄り合ったことは、学会の主旨に背反するんじゃ
ないでしょうか。外資と一部特権階級だけを潤し、庶民を途端の苦しみに沈
めた自民党のネオリベ路線は完全に庶民を裏切っています。日蓮も立正安国論
もあったものではありませんね。それとも、日本を総体として苦しめる意志は、
半島系の潜在意識に合致しているとでも言うのでしょうか。
投稿: 高橋博彦(管理人) | 2009年7月13日 (月) 23時33分
一葉さん
あ、私の周囲に、亀井静香さんが熱烈に好きだと
公言して憚らない女性がいます。
投稿: 高橋博彦(管理人) | 2009年7月13日 (月) 23時22分
一葉さん
東京裁判が歴史的になんたるものかを知っている世代は、ほとんど他界されており、
そのあとの世代は、それが実感ではなくて知識化しています。それは「閉ざされた言
語空間」によって、なかなか真相に到達しません。終戦を生き抜いた世代でさえ、
WGIPの影響は凄まじいのですから、ましてやそのあとの世代の歴史観は何をかいわ
んやです。現代日本人はほとんどが、デフォルト(生まれながら)で東京裁判正史
史観になっています。
悲しい現実ですが、真実は真実なのでそれを知る者は語り継がないといけません。
投稿: 高橋博彦(管理人) | 2009年7月13日 (月) 23時20分
昨日の都議会議員選挙…開票が始まった途端、背筋がゾクゾクっとしたな。
「何かが始まる!」「とてつもないことが起きる!」という予感が走ったのだ。
結果はご覧のとおりで、都議会民主党(34→54)の第一党が決定し、自公都議会与党の≪過半数割れ≫が確定した。
栄耀栄華を謳歌して来た、自民党(48→38)王国が次々に崩壊しているのだから、これ以上の勝利はない。
日経新聞が書いている。「石原都政 終わりの始まり」って…ね。
面白くないのは公明党(22→23)の全員当選であり、もっと面白くないのは共産党の惨敗である。
公明党は政権の中に入り、与党化する中で大きく変質した政党だ。
「創価学会」という宗教団体と密接につながり、「政教分離」というこの国の憲法が定める「国是」に違反すれすれの政党だ。
そこへ批判の目が行かないというところに、私にはまだ今回の都民の選択が「確かなものであった」とは思えないのである。
私は、今後の国政選挙でも「公明党をどう考えるか」ということが、大きなテーマになると思っている。
共産党(13→8)の敗北原因は志位委員長の談話を読めば分かる。
「わが党はこの選挙を、自公民「オール与党」か日本共産党かの選択を訴えて闘ったが・・・「自民か、民主か」を押し付ける「政権選択」論が大規模に持ち込まれたことは、わが党にとって逆風となって作用しました」という談話がそれだ。
しかし、吹く「風」を「順風」にするか「逆風」にするかは、船頭の腕次第ではないのか・・・と私は言いたくなる。
つまり、このような政治判断・情勢分析をしていては、いつまで経っても共産党は少数政党の枠を抜け出ることはできないだろう。
これですまされるから、何十年も共産党のトップに居座っておられるのである。共産党も幹部の総入れ替えをして、世代交代をすべき時期ではないか。
「政権交代」は、いまや多数国民の願望になりつつある。国民はもう我慢の出来ないほど長く続いた「腐敗堕落政権」に飽きてきていて、そこから抜け出たい気持ちでいっぱいなのだ。
少しでもいい、風通しを良くしたいから「家中の窓を開けてくれ」という声を挙げているのだ。
別に、今住んでいる家を住み替えたい…とまで思っている訳ではない。
この国の国民が願っている「政権選択」というのは、その程度のものなのだ。
共産党は、いつもそこを履き違えている。
そして「いま住んでいる家を棄てて、新しい家にしましょう」と言う。
ところが「住めば都」である。
誰しもが、「住み慣れた家は、それなりに気持ちいいもの」と思っているし、少しばかりの手直しをすれば、まだ大丈夫・・・と思うものなのだ。
共産党は、国民の意識の半歩先を歩んで行けばいいのに、二歩も三歩も先を歩くから付いていけないのだ…と私は思っている。
たまには、「手直し」の手伝いをすればいいのだ。
「オール与党」か「共産党」のどっちを選ぶのか・・・と言われれば、多数の人たちは、「オール与党」の方に不安を感じないに決まっている。
≪いつまで、そんな自己満足に過ぎない独立自尊の道を押し付けるのか≫という声にも耳を傾けた方がいいのではないだろうか。
何度も書くのだが、「明確な対立軸のない選択など、政権選択とは言えない」という理屈は正しいとしても、それは言い換えれば「政権選択選挙とは、明確な対立軸を持つ共産党を中心にした政権を選ぶか否か」ということを迫ることになるのだ。
そんな極端な話は、ボロ家に肩を寄せ合って住んでいる人間に「ローン覚悟で新築家屋を買え!」と言う様なものではないか。
とまれ・・・「石原都政に鉄槌!」が下されたことは喜ばしいことである。
これで、いろんな人たちが態度を変えるに違いない。
そんな微妙な変化が次の変化をもたらすのだ・・・という、長期の戦略を政治家は持つべきである。
投稿: 浮高亭瓢箪 | 2009年7月13日 (月) 22時56分
上記について コメント 人間をコントロールする毒電波なるものの凄さを感じています。
投稿: 涯上 | 2009年7月13日 (月) 17時05分
我が家には、常時、2~3匹の犬がいますので、オスとメスの違いが
実によく分かるのです。メスのジコチューは徹底していて、自分以外
のことには全く関心がありません。しかし、オスは、家と主人を守り
たいという意識が旺盛で、たえず、辺りを睥睨しています。驚くこと
に、全体を見る能力と、後先を考える能力まであるのです。(メスに
は、そのどちらも欠けているのですが、これは、あの民族の特徴その
ものではありませんか)
翻って、人間の男性を見た場合、オスの本能ともいうべき「守る」とい
う意識が、随分と希薄になってしまったように思います。それについて、
よく考えることがあります。
管理人様は、属領日本について、レイプした相手を好きになってしまった
という比喩で表現されましたが、私は、恋人(日本)が、暴漢(アメリカ)
に犯されているのに、見てみぬふりをした男(日本人)という構図を想像
するのです。それが、男の(日本人の)最も触れられたくないトラウマに
なって、今だに、見てみぬふりを続けるしかないということではないのだ
ろうかと思うのです。
いつか、そのトラウマを直視し、それを超克するべく立ち上がるときがくる
のでしょうか。東京裁判は、真理や正義を侮辱し、天に唾するに等しい暴挙
なのに、それに、抗議の声一つあげられない国民の一人であることが、私は
口惜しい。
しかし、何よりも私が危惧するのは、心の深層をいくら覗いてみても、トラ
ウマの痕跡すら無くなっているのではないかということです。
投稿: 一葉 | 2009年7月13日 (月) 16時25分