中田英寿とイチローの差異
サッカーの中田英寿が29歳で引退した。私はサッカーにはほとんど詳し
くはないが、彼が日本サッカー史に押しも押されもせぬ輝かしい実績を残
したくらいのことはわかる。また、世界的にもイタリアのセリエAで大活躍し、
日本選手の名を上げたことは記憶に新しい。ミッドフィルターとしての正確
なパスなど、絶妙のボディバランスを持つ中田の特異な身体能力は飛び
抜けている。
29歳、これからアブラの乗る時期に選手街道を自らリタイヤするにはあ
まりにも惜しいことだという声が多い。年齢的に、30代は体力的には落
ちていくが、力の入れ方やスタミナの配分法が自然と身について戦力的
にはかなり期待できると素人目には思う。しかし、サッカーは休みなく走り
続けるスポーツであるから、30を越えると想像以上に過酷なのだろう。短
距離の百メートル走をほとんど休みなく、何度も全力疾走しているようなも
のだろうか。若者だけに許される競技というものがあり、サッカーもその一
つであろう。
プロ野球もサッカーも、基礎体力という意味では、相当な能力が要求さ
れるだろうが、サッカーの場合は走ることがメインである。蹴球と書くから、
キックがサッカーの運動形態に思えるが、実際は陸上の短距離走を連続
して行う走力の競技と言ったほうがいいかもしれない。必死で走りながら
も、ボールを的確な位置に運び、狙った場所に蹴る過酷極まりない競技
である。
団体戦とは言っても、異なる競技である野球とサッカーを同列に考える
ことはできないが、団体戦のスピリットという意味では、今回のサッカーW
杯 と三月のワールド・ベースボール・クラシックを比較することはできるだ
ろう。特に、中田英寿とイチローはチームで言うなら立場的にほとんど同じ
位置に立っていたと言えるだろう。
王貞治率いる日本チームは世界一の栄光に輝き、ジーコ率いる日本チ
ームはなぜかくも情けない惨敗の憂き目に遭ったのだろうか。勝負は時
の運でもあるから、ほんのわずかなきっかけで勝ち戦になったり負け戦に
なったりするのは仕方がない。従って、勝たなかった日本チームを責める
ことはできないだろう。ただ、今回の世界戦では、三月の野球における
WBC杯優勝の余韻が色濃く重なっていたのではないだろうか。近年、サ
ッカー熱はプロ野球を凌ぐ勢いで興隆していたこともあり、三浦知良、中
田英寿、中村俊輔など有名なスター選手が多く生まれていたこともあって、
日本中が過大な期待をかけていたことも事実である。
それだけに、惨敗の悔しさ、失望感は日本中のため息となってしまった。
私は中田英寿がブラジル戦敗北のあと、七分間もスタジアムの芝生に仰
向けになっていた時、ほとんど選手仲間がそこに来なかった事実を重く見
ている。中田は他の選手と仲間意識を持てなかったように見える。その意
味は、彼がプレイに厳しかったからではない、誰のために勝つのかという
スピリットに問題があったように私には思える。自分に勝てばいいというの
は、彼のような求道的な天才肌には当然かもしれない。しかし、世界戦は
そうは行かないのである。世界戦では自分に勝つのではなく、相手に勝た
なければならない。つまり日本が勝たなければならない。イチローと中田
英寿が、共にチームの求心力を担う位置にいたことは明らかであり、その
求心力が、イチローには上手く働き、中田は失敗したことを指摘できる。
そもそも、競技は違うが、プロのスポーツ選手という部分では中田とイチ
ローはまったく同じタイプの天才である。両者とも己のプレイに求道精神を
持ち、非常に厳しい課題を課している孤高の運動選手である。個と全体の
ファンクション、つまり、個人の選手の力量とチーム全体の流れ、方向性が
緊密に関わる度合いは、野球よりもサッカーの方がはるかに強い。つまり
サッカーの方が野球よりもチームプレイが重視されるのは、その特性上は
っきりしているが、チームの勢いを決定付けるのは、整合性の取れたファ
イティング・スピリッツと結束力を促す求心力である。中田とイチローの差
異はここにはっきりと出てしまったのである。
イチローも中田英寿も、外国のチームに武者修行に参加して華々しい
実績を上げている選手である。外国にあり、外国の強豪チームと戦うこと
で、よりいっそう自分に磨きがかけられたという意味でもこの両者は同じよ
うに強力な自己進化を遂げている。しかし、私ごときが大雑把に言って申
し訳ないが、この両者が日本という国を背負って世界戦の舞台に立ったと
き、チームの勝敗を司る勝利の女神は中田に微笑を向けることはなかっ
た。
前にも言ったが、スポーツの世界戦は単なる国際的な娯楽試合ではな
いのである。それは死者を出さない代理戦争なのである。ルールを決め
た枠内で雌雄を決する代理戦争なのである。従って、やるからには勝た
なければならない。なぜ勝たなければならないのか。それは戦争だから
である。敗れても、選手も国民も死なないが、スポーツ世界における名誉
は得られない。古めかしい言い方ではあるが、スポーツ世界戦で勝つこ
とは国威発揚に繋がるのである。だからこそ国民は世界戦に熱狂するの
である。そういう意味では、居間でビールを呑みながら、娯楽観戦してい
る者よりも、すぐに切れてしまう危険なサポーターの方が、熱狂としては
正直なのである。なぜなら戦争なのであるから。
イチローと中田英寿の差異は、ずばり言って国家意識の差異であろう。
イチローはアメリカという弱肉強食の土地柄で生活しているうちに祖国愛
に目覚めた。心に日本を強く思ったのである。それがWBC戦において、
強烈な求心力となり、他の選手を引っ張って行った。一方、中田は、試合
の命運を決するのは走力であることを誰よりもよく知悉しており、普段から
他の選手に「とにかく走れ、走り切れ!」と激を飛ばしていたらしい。ところ
がご存知のように日本選手は走らなかった。というか攻守ともに激走する
ためのモチベーションを持ち得なかったのである。中田の考えは正しいと
思う。走りに徹して、自分も倒れる寸前まで走って模範を示していた。とこ
ろが、これに他の選手は感応しなかったのである。
中田の頑張りが他の選手を励起状態にしなかったのは、彼には申し訳
ないが、中田自身の心に日の丸が希薄だったのではないだろうか。イチロ
ーは日の丸だけで他の選手を鼓舞し、他の選手は素直に日の丸の栄光
に燃えた。もちろん、王監督の人徳的な求心力がイチローや他の選手を
取り込んでいたことは大きい。そういうプラスの合成力が、チームの躍動
に決定的に現われたのである。ところがジーコのチームには、最初から
「日本」という国家意識が希薄であり、個人的には優れた選手同士の集ま
りではあっても、チーム全体をバンドリングする求心力として日本が足りな
かったのである。世界戦とは日本とどこかの国が戦うのである。選手に日
本が横溢しなければ世界戦には勝てないのだ。
チームが強ければそれでいいのだ、国籍などは関係ないと考えている
者がいるなら、その者は国際試合の意味が飲み込めていないのである。
中田は真に傑出した天才である。しかし、個人的には天才でもチーム
スピリッツを喚起する中心、つまりは「日本のために」という意識が足りな
かったら、全体としてはモチベーションは上がらないだろう。かつて、中田
は試合前の国歌斉唱を行わず、そのことを新聞記者に聞かれた時、「国
歌、ダサいですね」と答えた。それが異常にピックアップされて非難を浴
びた経緯がある。中田の真意は君が代の曲想が闘争心を鼓舞する場に
は相応しくないということだったらしい。個人的にはそういう感想もあると
思う。しかし、国歌は国歌である。祖国への誉れと愛情を切々と歌ってい
るのが「君が代」である。これを嫌いながら国の代理で戦うことは矛盾で
ある。
中田が国歌にどんな感想を持っていたとしても、国際行事の場で国歌
を無視する行為は、誰のために奮戦するのかという最大の目的を、中田
自身が持っていなかったことを示して余りあるのである。人間は変わるも
のであるから、この当時と今の中田が同じだとは言えないにしても、彼自
身に「日本」が希薄だったことは否めない。国際戦とは日本を意識し、日
本の国威を発揚することが最大の目的なのである。だからこそ、応援す
る側にも力が入るのである。この基本をイチローは忠実に踏襲したから
こそ、王チームは予想外の力を発揮した。しかし、中田の場合はどうで
あっただろうか。技術的にも闘争心においても、中田自身は非凡であり、
チームの求心力として申し分なかった。しかし、彼の思いはチームに波
及しなかったのである。
彼の思いに他の選手が呼応しなかった理由は、ずばり言って「日本の
栄光」のためにという動機付けがなかったからである。なかったというの
は言いすぎであっても、少なくともイチローほどの日本に対する情念の強
さはなかったことが中田チームの敗因ではないだろうか。サッカー自体
が日本では歴史が浅いために、ジーコとか、オシムとか、外国の人間に
頼るしかない現状が国家意識の醸成を妨げているのかもしれない。その
うち、三浦カズなどが采配を奮うようになったら、日本サッカーはかなりの
実力を持つのではないだろうか。
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