2008年4月12日 (土)

宍戸vs大田大臣の公開討論会はどうなったのか(小野盛司)

(※日本経済復活の会 会長 小野盛司氏の記事、第57弾です。)

 公開討論会に関して内閣府に電話してみました。さんざんたらい回しにされました。

内閣府 → 官邸広報室 → 官邸報道室 → 内閣府経済社会システム担当 → 計量分析室

と回されやっと計量分析室が担当であることが分かりました。しかし、そこで言われたのが、討論会の予定は決まってないということ。責任者も決まってないし、そのことに関して、打ち合わせの予定もない。ということは、次の組閣まで待って、この討論会を流してしまおうという作戦かもしれません。やり方が汚いと思いませんか。3月14日の予算'委員会で福田総理が、やるべきだと言っておられた。大田大臣も、「討論会、総理の御指示ということであればやらせていただきます」とはっきり言っておられる。一部始終はNHKで全国中継された。

 内閣府は、自らのインチキ経済モデルの中身が白日の下にさらされるのを恐れ、必死でこの討論会を流してしまおうとしているのではないか。総理の命令さえも従わないということか。このままにしておくべきではないと私は考えます。世論の後押しがあれば、重い腰を上げるかもしれません。どなたか内閣府計量分析室に電話していただけませんか。

計量分析室は 03-3581-1099です。

 ところで、G7で白川日銀総裁は、「日本は大きな金融危機を経験し、ノウハウを蓄積した。そうした経験を国際金融市場の安定につなげたい。」と抱負を述べたそうだ。何を言ってるのだろう。日本の経験を生かして、世界経済が14年間もデフレが続いたら大変だ。日本のようにならないようにするにはどうすればよいかを考えるのならよい。あるいは、アメリカが、このような金融危機にどのように対応するか、お手並み拝見し、それに習って日本経済の立て直しをしようと言うなら理解できる。

 1999年2月4日の朝日新聞を紹介しよう。アメリカが日本に「お金を刷って景気を回復させなさい。」と的確な要請をしている。小渕内閣の積極財政を支持し、後押しをしている。アメリカのアドバイスを日本が素直に受け入れていたら、現在の日本の経済停滞は無かった。日本は財政金融政策で、アメリカに学ばねばならない。

 米財務省感「日銀の国債引き受けを」  
    景気対策 通貨供給増大を求める

 米国のルービン財務長官が、日本の景気対策として、日本銀行の国債引き受けなどによって通貨供給量の増大を目指すべきだ、と日本側に非公式に要請したことについて、大蔵省は三日、小渕恵三首相に対して大幅な財政支出による内需拡大を要求してきたが、財源となる国債が大量発行でだぶつき気味になっていることから、市場だけで消化させるのは難しいと判断、異例の政策対応を求めたとみられる。政府・日銀にはインフレ防止と財政規律の面のほか、景気対策としての実効性からも抵抗感が強い。

〈経済面に関連記事〉
 日銀による国債買い入れは現在、金融機関を通じて金融調節のために行っている。市中で抱えられない国債の消化を目的にして拡大されれば、インフレを引き起こす危険性がある。政府・日銀が当面、本格的な検討に入る状況ではないが、長期金利の上昇(国債価格の値下がり)傾向が出てきていることから、急激な円安を招いて景気の押し下げ圧力になる懸念もあり、自民党の一部などには実現への積極論も出ている。
 ルービン財務長官の非公式要請は、先月末から今月初めにかけてスイスのダボスで開かれていた「世界経済フォーラム」で、日本側出席者に伝えられた。財務長官は、参加者の一人である自民党の加藤紘一前幹事長とも会談し、日銀が国債を引き受けることについて、期待感を伝えたという。
 大蔵省では、土地などの資産価値が下落している日本を軽いインフレに誘導する「調整インフレ論」に、米財務長官が傾いている、との見方が広がっている。

 若干解説しよう。アメリカは日本に対し、正しい財政金融政策を教えようとしている。このことに関しては、日本は、余りにも未熟だ。このような強力な景気刺激策に常に及び腰だ。日銀が政府の発行する国債を直接引き受ければ、つまり政府が国債を発行して、その替わりにお金が日銀から政府に渡れば、政府はいくらでも資金を手に入れることができる。これが日銀の国債引き受けであり、国会の承認がなければこれをすることができないと財政法5条で決められている。しかし、一旦国債を政府が銀行や郵便局に売って、その後、日銀が銀行や郵便局からその国債を買えば、同じ事となり、これは国会の承認は不要で事実上「お金を刷った」ことになる。

 この記事にあるように、やりすぎてハイパーインフレになるのではないかと恐れて、大蔵省は躊躇している。ろくに食事を与えず栄養失調になった子どもに、「もっと食事を与えなさい」とアドバイスをしたら、母親は「肥満になるといけないから」と言って耳を貸そうとしないことに相当する。お金を刷っても、景気はよくならないという「珍説」は、もっと食事を与えても栄養失調は治らないという持論に相当する。「そんな馬鹿な!」と言いたい。

“お知らせです” 

 4月21日の出版記念パーティ

 4月21日(月曜日)、東京にて日本経済復活の会・小野盛司会長さんと評論家の中村慶一郎氏の共著『お金がないなら刷りなさい ―米国が16兆円を刷って国民に配っているときに日本は増税かーの出版記念パーティがあります。弊ブログで小野会長の積極財政論シリーズをご愛読して頂いている読者さんも参加してくださればうれしい限りです。出版記念会詳細は上記リンクにてどうぞ。(神州の泉・管理人)

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2007年9月25日 (火)

奥山の精・アケビに思う!

   

Photo_5  幼年期を過ごした故郷の友達のメールに、今日懐かしい写真が添付されていた。なんとアケビの写真である。私が少年時代を過ごしたのは秋田県の田沢湖町という所である。田沢湖に近い山間の集落である。四方を山に囲まれ、中央部を雄物川の支流が通っている典型的な山里である。今私は静岡県の富士山のふもとに居住していて、朝な夕なに富士のお山を眺められるという贅沢を享受している。この場所も自分の第二の故郷で気に入っているが、私の内面の原風景を形作ったのは幼年期の田沢湖町である。思えば私が子供時代をすごしたこの場所は、子供にとっては文字通りパラダイスであった。川に行けば岩魚や虹鱒がいたし、山に行けば豊かな山菜や木の実、きのこが見つかった。

 今、私はつくづく都会の子供じゃなくて良かったと思っている。林業や細々とした田畑で生計を営んでいた集落には工場というものがなかった。それは大人たちの生活感情から見れば、経済的に大変な辛酸に結びつく淋しい光景だったと思うが、能天気な田舎の子供たちにとってはわが世の春?を謳歌できる桃源郷であったのだ。なぜなら自然の山河が人手で荒らされていなかったからだ。山遊びや川遊びの思い出を書けばきりがないが、私が特に好きだったのはアケビ狩りであった。アケビの中身と皮が食べられるものだということを知っている人はどれくらいいるだろうか。山形県の人たちはアケビの皮を好んで食べるようだから、それは常識的なことかもしれない。アケビの甘い中身を食べることは無上の楽しみだったが、私はそのアケビを見つけることに執念を燃やしていた。

 今から思えばその執念は食べることがもちろん最大の目的だったが、自分ではアケビの姿を見ること自体が好きだった。アケビは形といい、色合いといい、とても山間の興趣が色濃く出ていて、自生する場所自体がなにやら神秘めいていた。だからこそ、アケビは山の精なのだ。しかし、真っ青で、大きくて、姿のいい物は渓流などの水辺にあったような気がする。それで当時はそのたちのいいアケビを「水アケビ」と呼んでいたように思う。秋田を離れてから、私は一度もその水アケビを拝んだことがない。富士山のふもとの森にもアケビはたくさん見受けられるが、美しい瑠璃色で大きなアケビは一度も見つけたことがない。どこかにはひっそりと存在しているのかもしれないが。そのアケビの最後の姿を見てから、すでに四十年以上の月日が経過しているが、最近は秋口になるとその水アケビが脳裏に甦ってくる。嫌なことばかり多いこの世の中で、このアケビに対する強い想いは、あの楽園であったふるさとへの永劫回帰の願望なのかもしれない。

B  現代文明とはいったい何であろうか。人工的で巨大な都市化、高速で行き交う交通手段、情報技術の進展。産業革命以来我々人類は何か大事なものを見失っているような気がしてならない。縄文時代に普通にあった精神風土が今は失せているように思える。私は自分のブログに「神州の泉」と名づけているが、それを見て戦時中の「神州不滅」を想起し、眉をしかめる方も多いだろう。しかし、無理に言う必要も感じないが、私の言う「神州」とは、美しい瑠璃色のアケビが日本の各地にそのままの姿でいつまでも残っていて欲しいというごく単純な祈りをこめただけなのだ。薄汚れたおっさんがこういうことを言うのも気が引けるが、子供たちの健全な情緒性を涵養するのは優れた教師ではない。人間が欲得で引っ掻き回さないごく自然な風景、風物があればいいのだ。さらに言うなら、その心象風景に教育勅語が沁みていけばなおいいと思う。

 健康な野山のシンボルであるアケビが季節の彩(いろどり)を沿え、そこに住む人たちの心を和ませる。たんぼが黄金色に色づき、刈り取った稲の香りが鼻腔をくすぐる時、日本人は平和を感じるだろう。今年ももうそんな季節がやってきた。ちなみに私が最も好きなアケビの姿は、晩秋の紅葉の中で実る水アケビの姿である。鮮やかな黄色や紅の色彩の中に真っ青な水アケビ、その姿を見た時、私がどれくらい癒されるか、はかり知れないものがある。しかし、それは私だけだったりして。(笑)

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2007年1月 1日 (月)

謹賀新年

 旧年中はご愛顧賜りましてありがとうございました。

本年もよろしくお願いします。

 平成19年正月         「神州の泉」管理人&シロ

Vfsh0171

よろしくにゃん                  (・・シロが管理人みたいだ)


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2006年11月25日 (土)

月明の凛冽なる至誠

  拘置所で耐えている植草一秀さんに捧げる

 ディアスポラ。それは、ローマ軍によってエルサレムの神殿を破壊
され、故郷を喪失し、紀元70年以後、世界中に離散したまま艱難辛
苦に耐え、故郷を偲び続けたユダヤ人の物語である。

 私はユダヤ人のことを言おうとしているのではない。言おうとしてい
るのは、今の日本人のことである。日本人は日本列島という領域に
長いこと住み続け、その存在様態は今も変わらない。だから、祖国を
喪失したユダヤ人との関連性はまったくないように見える。しかし、
物理的にリアルな国家を喪失したユダヤ民族と、精神的に国家を喪
失した今の日本人はきわめてよく似通っている。

 今の日本人には国はあっても魂の故郷がない。ユダヤ人は二千年
の昔、故国を失った。日本人は今、魂の故国を失ない、日本という領
土にただ漫然と置かれているだけである。日本人は空間的には日本
に住んでいるが、精神的、霊的には日本の領土から離れて魂の漂泊
者となっている。我々日本人は今、魂のディアスポラ(離散状態)にあ
るのである。

 祖国に住みながら、魂の祖国を捨て、自分が何者かまったく見え
ない盲(めしい)と成り果ててしまった。精神の漂泊者である日本人は、
今、最も苦しい歴史を歩んでいるような気がしてならない。大東亜戦争
を終えたあと、日本人は魂の漂白の旅に出ざるを得なかった。しかし、
高度経済成長に没頭している間に、自分の居場所をすっかり忘れてし
まい、いつしかその存在証明を失った。我々はいったい何人なのだろ
うか。かつては誰にも見られたあの静かな笑顔は確かにあった。控え
めで恥ずかしそうなあの笑顔。優しくて、どこかなつかしく、セピア色に
染まったあのアルカイック・スマイル。外国人にはけっして理解されな
いあの神秘的な微笑。あれこそ、同族確認の絶対的な指標だったの
ではないか。あのスマイルはいったいどこへ消え失せたのだろうか。
今では古いモノクロ写真の中にしか存在しない。・・我々はいったい
何者なのであろうか?

  昭和17年5月31日、オーストラリア、シドニー湾軍港、煌々とした
月明かりの夜であった。敵艦に敢然と特攻をかけた日本海軍の特
殊潜行艇は、激突寸前に敵前で機関の故障により浮上した。

 この時、ハッチから艇上に躍り出た一人の兵士がいた。その男は
日本刀を振りかざしたまま敵の銃弾を浴びて死んだ。彼の名は、松
尾敬宇、24歳、海軍中佐であった。

 ただこれだけの話である。面白くも何ともない。事実として言うな
ら、この死に様を見ていた豪州海軍が、その数日後に二隻の特殊
潜行艇を引き上げ、四兵士の遺体を丁重な海軍葬を以て弔った。
敵国軍人に対し海軍葬の礼を示すことは、当時のヨーロッパや豪
州では全く異例の出来事であった。強固な反対があったにも関わ
らず、それは敢行された。それほどまでにこの若い日本兵の最後
は敵国軍人の胸を打ったのである。

 当時の日本人はアングロサクソンを鬼畜米英と呼んでいた。また、
そう呼ばれたアングロサクソンだが、彼らが行ってきた五百年に及
ぶ侵略と殺戮の歴史を見れば、その呼ばれ方は必ずしも不適切
だとは思わない。こういう言い方には嫌悪感を持つ人も多くいるが、
それはそれとして(笑)、事実として言えることは、松尾中佐の最後
が豪州の海軍兵士を感動させたことは確かなのである。

 日本人と共通の文化も感性もない欧米人が、ある一人の日本人
の最後の行動様式に感動したという事実は無視しがたいものがあ
る。我々と共通する精神文化を持たない外国人は、松尾の最後に
何を見たのだろうか。彼らが感動したからには、そこには何か人類
普遍の本質があったにからに違いない。それについて感性を研ぎ
澄まし、思考を深めることは、日本人が真の意味で国際感覚を培う
有効な素養となるのかもしれない。

 松尾中佐の死に様は、不謹慎な言い方だが、取り立てて言うよう
なものではないかもしれない。ただ・・、寂寞とした月明かりの中、
潜航艇にすっくと立ち、目をかっと見開いて、日本刀を片手に降り
かざし、武人として最後の佇まいをまっとうした男がいた。私はそ
の日本軍人の凛冽なる最後の情景を思い浮かべる。それはあま
りにもはかなく美しい。そして形容しがたい静謐感に満ちている。
もののあはれの究極相である。それを思うと、ただ涙が溢れてくる。

 多分、この涙の意味は、日本人であるならば説明不要であろう。
今の日本人は魂の故郷を喪失している。かつての日本人は、魂の
祖国に生きていた。だからこそ、死に臨んでも、穏やかな顔と、静か
な挙措が保てたのである。刀を降り振りかざした若者の末期の挙
措には、派手さや自己顕示は微塵もない。見えるのは、ただ限り
なく透明な静けさと叙情性のみである。そこに確かにあったのは、
生命尊重至上主義を超える日本という実体である。わずか60年で
日本人は生存におけるその様式美を亡失した。今では、それを思
い浮かべることさえ困難なところまで来てしまった。日本人はいつ
の間にか魂の故郷を置き忘れた。そして望まないままに、あてど
ない旅路に着いた。

 目的地もわからず、引き返そうにも故郷は霧の彼方にある。歩く
べき道を失い、自己を失い、亡霊となって中有(ちゅうう)の茫漠
たる世界をさまよい歩く民族、それが我々の姿である。これは魂
のディアスポラである。民族が内面的に離散すれば国家は求心
力を持たない。だから自ら進んで米国の操り人形となる。日本人
は魂のエクソダスを行う必要がある。しかし、これを先導するモー
ゼはいつ出てくるのだろうか。日本人の場合、エクソダスは「罪の
都」、エジプトからの脱出ではなく、アメリカからの脱出なのである。
出でよ、日本人、背徳の都アメリカを。そうすれば「約束の地」は
きっと見えてくる。そして未来に記せ、・・「出アメリカ記」を。

 今日はふと、そんなことを思った。松尾中佐と失われた時代に冥
福を捧げる。




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2006年11月18日 (土)

ネコ湯タンポはLOHASなのか?

 寒くなったので湯タンポを出した。聞くところによれば、
今、ロハス(LOHAS)志向で湯タンポが流行っているとか。
まあ、たしかに熱源としては、電熱よりは柔らかくて身体
の芯から暖まるし、蓄熱装置としては経済的である。

 寒くなってきて、毎晩、シロが布団に潜ってくるようにな
った。ネコ湯タンポである。ネコも結構暖かいし、そのうえ、
横隔膜(?)のゴロゴロ音は何物にも替え難い癒し効果が
ある。しかし、シロはある時間が経つと自身が熱くなり過ぎ
るのか、あるいは酸素不足で呼吸が苦しくなるのかわから
ないが、布団から出てきて上で丸くなって寝ている。

 つまり、ネコ湯タンポは持続しないからロハスではない。
とも思ったが、考えてみれば、Sustainability (持続可能性)
の意味は使い捨てではなく、長く使えるという意味合いで
持続可能性と言うらしい。従って反復性(笑)のあるネコ湯
タンポは明らかにロハスなのである。

2


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2006年8月19日 (土)

「河川の本来の姿」考

 「晴釣雨巻」というブログの管理者様から、非常に面白い内容のトラック
バックを頂戴したので、それへのコメントとして本記事に書こうと思います。

 以下の青文字は、ブログ「晴釣雨巻」様の記事を転載しました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

川の姿」について考えてみた

 脳みそ溶けて耳から流れ出てきそうな今日この頃、たまには
硬い話などして柔らかくなった脳みそを硬くしようかと思います。^^;

今、私が少し気になっていること、それは最近良く耳にする「川
の本来の姿」という文句です。

行政や川を守ろうとする民間団体などが「川の本来の姿」を蘇ら
せるための活動を通して「昔の川を取り戻そう」「川 本来の姿を
取り戻そう」と声高に称えております。しかし、そもそも「昔の川」
「本来の姿」とはいつの頃、どのような姿を指しているのでしょうか?。
おじいさんの子供の頃?江戸時代?それとももっと古く日本人が
まだ狩猟採取民だった頃の川なのでしょうか?。


 また、それぞれ訴えている「川の本来の姿」へ対するアプローチ
の仕方も土木工学的な観点や生物学的観点など様々なとらえ方
で考えているようです。そして、そのアプローチの仕方により理想
とする「川の本来の姿」も微妙に違っているようです。

 かく言う私も、魚が釣れる川(釣師ですから(笑))、子供たちが大
人の目を気にせず魚捕りや水遊びが出来る川、そんな川が「本来
の姿」なのであろうと勝手に思い描いておりました。そしてこんな川
が身近にあったらなぁとつくづく思っていたのですが、よく考えるとこ
のような川はほんの50年位前は実在していたのですね。

しかし、仮に技術がどんなに進歩しても現在の川を50年前の姿に
戻すことは様々な問題を抱えている現代の川の現状を考えると不
可能でしょう。そう、過ぎてしまった過去に戻すことはタイムマシン
でも使わない限り無理な話ですから。

「川の本来の姿」に戻そう、確かにそれは理想ではあるかもしれま
せん。しかし、「今の川の姿」へ時代は動いているのです。単純に
「今の川の姿」を「本来存在していた頃の姿」に戻しただけでは、
現代の川が抱えている問題はかえって大きくなってしまうような気
がします。

 そんなことをあれこれ考え、また釣り場の現実を目の当たりに
して私がたどり着いた結論は、いつの時代なのか判然としな
「川本来の姿」を取り戻すことを優先して考えていくより、いかに
して「今の川の姿」を守っていくかが大事なのかということでした。
至極当たり前なことなんですけど、実際には難しいことです。

また少し考えてみようと思います。

以上「川の本来の姿」という謳い文句を聞いて、それってちょっと
違うんぢゃないと思ったTamakuraでした。

http://tamakura.naturum.ne.jp/


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 トラックバックありがとうございました。『「川の姿」について考えてみた』
を、本当に興味深い思いで読ませていただきました。「本来の川」、・・・難し
いですね。河川の本来の姿とは一体どのような姿、相なのか。たしかにお
っしゃることその通りであり、何年前が本来の顔であるのか、考えると答え
が出ないということに気がつきますね。

 おそらく、私と同様に河川の健康体をイメージして本来の川を戻せと考え
る人々は、押しなべて自分の人生における過去の河川の姿を「本来」と考
えていると思います。私の場合は四十年くらい以前の河川相を「まとも」な
川だったと定義しているわけです。何がまともかと言うと、魚や川えびがた
くさん獲れたから「まとも」な川だったのです。あと、楽しく遊べる川辺がい
っぱいあったから「まとも」だったのです。(^^)

  上の結論は生物学的な意味合いが強いのですが、あながち的外れでは
ありません。しかし、もっと真面目に考えますとなかなか一筋縄で行かない
設問ですね。私は五十代ですが四十代の人が、私が川遊びをした時と同じ
年齢の時、すなわち、その時の楽しかった「現在」が最高の川だったと思う
のであれば、その人の本来の川と、私の本来の川は十年の時の違いがあ
ります。

 それを言うならば、江戸時代の人はその時を、室町時代の人はその時
を、縄文人はその時を「当たり前」の河川だったと思うでしょう。そう考えま
すと、河川の本来性とは時制ではないことがわかります。人間がその社会
を形成してから、治水という事業に最も頑張った対象は河川だったと思いま
す。河川の天然本来の姿とは、大雨が降れば氾濫し、洪水を招く暴れ川の
顔も持ちますし、時にはルートを変えたりします。

 つまり、固定性、確定性のないものが本来の川なんでしょうね。単純に言
えば蛇の動きのようで、長いスパンで眺めるとのた打ち回っています。しか
し、人間がその川に関わると、その不確定性を制御したくなるのでしょう。
人間利益に特化するために。その最大の装置がダムだと思います。

 しかし、川の暴れ方が悪いのかと言うと、けっしてそうではなく、原流域の
豊かな山々から流れてきた天然の栄養源を大地に運んできて下流域の土
地に豊穣な恵みをもたらします。これはアスワン・ダム以前のナイル川を思
い起こせばよくわかります。氾濫は人間や集落を呑みこみますから、恐ろし
い自然現象ですが、大地や里山は氾濫を慈しみと感じていることでしょう。
その川と大地の母子関係を人間が自分の都合で遮断しました。

 洪水を防いだり、電力や農業用水用の治水を行うと、天然の生態学的な
サーキュレーションが阻害され、結局は田んぼや畑に人工的な肥料を使う
ことになります。では本来の暴れ川を温存しておいて成り行きに任せるべき
でしょうか。本当は日本はその方がいいかも知れません。日本人の温厚な
性質は、その暴れ川にじっと耐えてきた側面もあるからです。それと、単純
な言い方は問題ありますが、日本人の温厚な我慢強い性質とともに、隠忍
自重の末に猛烈な怒りを爆発させる、いわゆる昔のヤクザ映画に見られる
怒りの噴出も、河川の氾濫と台風が日本人の性格形成に少なからず影響
していると思います。

 あの大東亜戦争で生存本能をはるかに凌駕する熾烈な闘争心(武心)
を発揮したことは、農耕民族の牧歌的なイメージからはほど遠いものです
が、これも日本人が自然と対立してきたのではなく、同化してきたことの証
左とも考えられます。万葉の民は牧歌的で平和なイメージが先行していま
すが、実はその静けさの影に自然の荒々しさが内在しています。謂わば
アマテラスとスサノオの同時併存と言うべきでしょうか。自然が人間に対し
てあまりにも快適になると人間が傲慢、脆弱になりますね。

 欧米の自然観は人間が改変し、自然を支配するという原型があります。
その結果が今の環境汚染です。人間は、石器やその他の道具類を発明し
て狩猟採集から始まり、現代の途方もない技術文明へ到達しました。技術
そのものが環境を害する反自然だという考え方もありますが、技術や科学
を否定すると人間そのもののレエゾンデエトル(存在理由)も否定すること
になります。

 何しろ、人間は二足歩行をした瞬間から、器用な手と脳をリンクさせ様々
な技術を生んできたからです。技術は人間のかなり重要な存在証明です。
しかし、その科学技術が地球規模の自然破壊と気象異変を引き起こして
いるのを見ると、一体人間は何が悪かったのだろうという疑問が素朴に湧
いてきます。グローバルな環境破壊の原因をすべて、近代啓蒙主義を進
めてきた欧米に帰することは酷かもしれませんが、九分九厘は彼らが悪
い。(笑)

 なぜ悪いかというと、科学的な適用による出力というのは、人間が無思
慮に再現性を求めて行くと、自然に甚大な影響を与えます。産業革命以
後の科学は特にその傾向が顕著です。従って科学を使う人間が自然をど
う考えているかに尽きると思います。1970年代頃までは、科学そのもの
は悪くはないが使う人間の心次第で悪くも良くもなるなどいう言い方が主
流でした。今は科学の中にも、発生そのものが反自然で人間悪を内包し
ているものがあります。

 欧米人(白人)が科学を主導的に使うと地球の壊滅を招いてしまいます。
理由は彼らの精神の原型が海賊仕様だからです。(笑) 他者から奪う、支
配する、欲望を無限に拡大する、これが彼らの原動力です。精神のアーキ
タイプがこういう形を持ちながら科学力を使うと、自然が損なわれるのは当
然です。しかし、日本人は違うんじゃないかと思っているわけです。日本の
形は、自然から奪う、領土を拡大する、自然や他者を支配し搾取するという
決定的な性質を持たないからです。神道の真髄は静けさと清らかさです。

 日本人には本来、森羅万象を人間の都合で制御しようという気持ちはあ
りません。物質を欲望に沿って際限なく追い求める性質はない民族なので
す。村のおばあさんは路傍の名もない花に語りかけ、山々に手を合わせま
す。山に入れば山の神(おしらさまなど)などを拝みます。

 本来、科学とは、よき時代の日本人のように足ることを知り、辺りを掻き回
さず、協調と共和の精神で使用するべきでしょう。万葉の時代、身分の差
は確かに有りましたが、万葉集には、村人、流浪の人、天皇の区別なく歌
が載せられ、すべての人がそれを味わえるようになっていました。欧米のよ
うな血なまぐさい支配感覚の身分制度はではなかったわけです。

 江戸時代、学者の熊沢蕃山は、治山治水こそ、人倫と社会の要であると
言っています。今風に言えば、木を切り過ぎず、山の生態系をきちんと保全
すれば、人間社会の安寧と幸福に役立つという思想です。もしかしたら、川
を健全にするということは、川の上流部にある山々を健全にするということ
なのではないでしょうか。ダムで堰き止めたり、コンクリートの護岸工事を行
うことは、川というものをただ水を導入する溝だという極限的な単純化で捉
える欧米的な思考から出ていると考えます。

 江戸時代であっても、現代であっても、五十年前と同じ川には戻れないこ
とは現実です。歴史と同じで過去遡及はできません。ただし、弊害の大き
い人工物は川から取り除けることは確かです。と同時に、数百年はかかる
かも知れませんが、上流部にブナ林を復活させて山々の健全性を復活させ
ることは可能でしょう。可能というよりも民族の使命としてやるべきことだと
考えます。

 こういうように、大きい自然という枠から考えますと、本来の河川とは上
流部や流域の天然性をある程度復活させることだと考えます。しかし、人
間が下流部に住んでいる以上、現在の保水力のない山々がそのままであ
る限り、脱ダム化は無理でしょうね。戦後の日本が、天然林を切り開いて単
純樹種を植えたことは河川のみならず、沿岸部の生態系にも甚大な悪影響
を及ばしたことは確かです。

 奥山は豊かな植生の天然樹種をつぶして単純樹種に置換し、河川はダ
ムや護岸で滅茶苦茶にしてしまいました。戦後の日本人が河川や奥山に
行った暴虐を鑑みれば、西欧近代感覚による合理主義や効率主義がいか
に本来の日本的環境をぶち壊したか目に見えてきます。戦後文明のモデ
ルをアメリカにしたことが最大の誤りだったと思います。戦後は日本自身
の過去をモデルにして、日本の自然と調和の取れた社会を目指す心に日
本人が戻るべきでした。この論考の趣旨にはそぐいませんが日本が自国
文明に戻れなかった最大の理由は戦後の占領期における洗脳にあった
と考えます

 人間が文明生活を営む以上、自然の破壊は必然だという諦観が支配し
ていますが、それこそが幻想だと考えます。欧米の文明ならばその通りで
すが、自国文明に立ち返るならば日本は元通りの美しい国になれるでしょ
う。日本人には武士道の節制力と、神道の清浄感が備わっているからで
す。要は日本人の戦後意識を戦前の伝統的意識に転換するという絶対
条件がありますが。戦前と言うと、多くの日本人がネガティブな心理的反
応をしますが、それが東京裁判の洗脳なのです。これを脱却しない限り、
日本人は自国文明を回復できません。

 さて本来の河川というものを深く考えると、人間にとって本来的な河川と
は何だということになります。それはいかに文明と調和させるかということ
になるでしょう。自然を支配しようとした結果が今のグロテスクな環境です。
かつての日本人のように自然に奉仕しようとすれば科学はそれに沿って
進展するのではないでしょうか。旧約聖書の創世記には、すべての動物
を人間が支配せよと神の言葉が書かれています。これは自然は人間が
支配するべきであるという西洋人の原型をもたらしています。しかし、我
が国の神道的感性は自然を祈る心です。自然に生かされているという
謙虚さが日本的霊性だと考えます。

 本来の河川の姿、これを突き詰めて考えると、文明の本質にたどり着い
てしまうのですね。もとに戻りますが私にとっての河川のあるべき姿とは、
子供が楽しく遊べて、生物が豊富な川です。たくさん書いて、結局そこへ
戻ってきました。あと、私は河川の本来の姿も知りたいですが、日本人の
本来の姿も知りたいと思っています。(^^)

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2006年8月 8日 (火)

判定疑惑は行き過ぎた商業主義

   ◎判定疑惑は昭和の夢を泡沫と化した

 判定は素人目にもかなり怪しいものがあった。誰が見ても亀田興毅の完
敗である。元チャンピオンの渡嘉敷氏や輪島氏などは、プロの目から見れ
ば互角か、あるいは亀田興毅が少し有利だと言っている。渡嘉敷氏は、亀
田が劣勢に見えたのは先入観による詐術に囚われているからだと言って
る。つまり亀田の圧倒的、かつカリスマ的強さを前提に見ているから善戦が
劣勢に見えたのであると断言している。

 渡嘉敷氏の評価は論理的にはよくわかるが実体の説得性を欠いている。
私には善戦というよりも最終ラウンドまでかろうじて持ちこたえたという風に
しか見えなかった。初回ラウンドのダウンは、最終回まで決定的なダメージ
を与えていたように見える。私はボクシングはやったことはないが、若い頃
少林寺拳法を少しやったことがある。仲間と試合していて感じたことがあ
る。実力が大差ない場合、手数の出た方が優勢になる傾向があり、これを
挽回するには相手の攻撃を上回る攻撃を仕掛ける必要がある。一般的に
言って試合中は「気合」のシーソーゲームに勝つ必要がある。

 初期に致命的な攻撃を受けてしまうとそのあと精神的なダメージが身体
の動きを拘束してしまうことは多い。亀田の試合はその典型に見えた。亀
田に限らず、ボクサーや格闘家が試合前に大言壮語を吐いたり威圧的言
動を行うことは、マスコミを沸かすパフォーマンス以外に本人の気を高める
効果を狙っていて必ずしも顰蹙を買うことばかりではない。格闘家がすべ
てそれに当てはまるわけではないが、このタイプの典型が亀田である。

 亀田自身が試合後にこんなことを言っていた。世界戦での緊張があった
ことや、初回でのダウンは「オレ流のサプライズだった」と。しかし、あのダ
ウンは亀田にとって不覚な初ダウンであり、本人の精神的ダメージは相当
大きかったと見える。亀田には咬ませ犬疑惑があり、今まで勝てる相手と
しかやってこなかったと言われているが、致命的なパンチの洗礼を受けて
いなかったことは事実である。試合は終始、フアン・ランデエダの優勢であ
った。渡嘉敷氏の亀田善戦勝利論はむなしい。しかし、亀田は善戦したが
決して勝ちではないと言うガッツ石松氏の論評はもっともだと思う。それは
さておいて、亀田父子の人気は凄まじい。この人気の背景を自分流に見
てみよう。

 亀田父子はマスコミに作られた偶像である。亀田一家へのTBSの異常な
取り上げ方や、これまでの亀田一家の他のマスコミへの登場を見ていると、
私はここにある歴史の反復現象を見て取っている。それは大衆側から言え
ば、戦後、長い間カリスマ球団として不動の人気を誇っていた巨人軍がす
っかり凋落したこと、大相撲に若貴兄弟のような象徴的な人気スターが消
え、わけのわからない外人力士勢が跋扈して結果的に相撲人気が低落し
ているという時代背景がある。大衆は今、王、長嶋のような愛すべきスター
をプロスポーツ界に求めているのである。王、長嶋がプロスポーツ界のヒー
ローであった時代は、昭和の中期であり、日本人が戦後の退落から這い
上がって高度経済成長に入ろうという未来に夢を託せる明るい時代だっ
た。昨今では、映画「ALWAYS三丁目の夕日」などにあるように、当時のノ
スタルジックな時代を憧れる風潮が出てきている。

 平成にいたって、日本経済は逼塞し、小泉内閣の五年間で日本の社会
構造はその断片を留める余地のないほど破壊され、アメリカ的な社会ダー
ウィニズムの支配する構造にとって換えられた。その結果、格差社会は露
骨に進展し、マルクスも驚くような資本的な階級格差が分極化した。こうい
う時代空気の変遷にあって、出口の見えない閉塞感に陥っている現状で
は、どこかに明るい話題を求めずにはいられないような殺伐とした空気に
国民は喘いでいる。こういう中で、亀田父子の親子像は、国民に昭和中期
のノスタルジックな家庭像を見せていることは間違いない。私が亀田父子
に時代の反復現象を見て取ったのはそういう背景である。 

 その反復現象とは、スポーツ界におけるヒーロー待望論なのである。そ
れは、二昔前、漫画「巨人の星」といういわゆる父子鷹の物語が、圧倒的
な人気で長期間ヒットしたことを思わせる。「巨人の星」の星一徹が、当時、
喪失しつつあった父権復権を憧憬する一種の社会現象として出ていたこと
はあの漫画の一つの背景でもあった。今、亀田史郎(父)氏が、映像的に
わかりやすいように亀田兄弟をスパルタ特訓している姿は、あたかも星一
徹、飛遊馬に見える父子鷹(おやこだか)の復元形態そのものである。

 つまり、なぜ亀田兄弟がこれほどまでに人気を博したのかを分析すると、
一つは小泉内閣の歴史的な暴政によって、国民生活が逼塞し、自殺者が
急増し、社会には明るい要素や希望が皆無となっていることが上げられ
る。もう一つは既存のプロスポーツ界に夢を託すことができるヒーローが消
えてしまったことである。言うならば、戦後の力道山、王、長嶋が今の時代
に待望されていることになる。

 この気配を敏感に察知した裏社会のプロモーターがテレビという公器を動
員して動き、亀田一家を時代のヒーローに仕立て上げたというのが亀田現
象の背景なのだろう。亀田一家は、現代大衆の求める「巨人の星」であるこ
とは間違い。私はまだ幼い亀田兄弟のキャラクターよりも、あのどことなくユ
ーモラスな気配の漂う厳しい父親が大衆人気の核を占めていると考えてい
る。怒るとちゃぶ台をひっくり返しそうなあの父親が持っているものは、失っ
た父権の象徴ではなく、夕方に柔らかい電灯がともるあのノスタルジックな
昭和の風景なのである。あの亀田父親には、厳格な父権行使という形の影
に、子供たちを見守る温かい父親のまなざしがある。どちらかと言えば、笑
いに満ちた昭和のノスタルジックな母系的風景である。そこが一徹と違う点
である。星一徹は飽くまでも巨人の星を狙うための目的達成主義に徹して
おり、そこに家族的な温情はない。「亀田の星」には明子の涙がない。もっ
とも漫画と現実を同列に論じてよいのものかわからないが。

 亀田人気の爆発的な広がりは、昭和の風景を想起させるあの父親の雰
囲気にあったと私は思っている。子供たちを名プロボクサーに育てるという
一徹な構えがあり、そこには平成現代の父親のように、妙に醒めていて屈
折した複雑さは微塵もない。あの父親には、わかりやすい直情性と温かい
昭和の残像が強く見られる。亀田父親には昭和における下町の長屋的な
雰囲気があるのである。それが国民を「ノスタルジック」に惹きつけたことは
間違いないだろう。

 私が心配していることは、大衆の移ろいやすい亀田人気の変質なのであ
る。亀田現象が、たとえ時代の暗い背景が生み出したヒーロー待望論に合
致した社会現象であったとしても、また、それを察知した裏社会のプロモー
ターが仕組んだ人気であっても、この背景には閉塞感から脱出しようとする
国民の無意識が投影されている。従って国民的な人気を持った亀田一家
のヒーローとしての筋は時代を背負っているのである。私は国民は、亀田
が作られたヒーローであることは十分に察知していると思う。察知していな
がらも亀田に夢を見たいのである。これ自体は大きなエンターティエンメント
と考えればまったく悪くはない。小泉の毒牙で痛めつけられた国民には一
服の清涼剤となっているからである。

 しかし、それにしても、いくらなんでもあの判定は露骨過ぎるくらい露骨で
あった。これでは夢はぶち壊しである。亀田の起死回生策はチャンピオンを
返上してもう一度同じ相手と対戦することであろう。オリンピックなどでもよ
くわかるように、日本人選手は国際戦で判定の恣意性や不確かさでいつも
損をしている。それは一方では日本人の政治力のなさを表すものである
が、基本的には日本という社会の公平性を象徴しているのである。今のよ
うに日本国内であのようないい加減な贔屓目の判定が行われたら、日本
社会の公平性、自明性もすでに終わりなんだなという印象を国際世界に与
え兼ねない。

 もう一つは、日本の戦後が評価される唯一の時代が、あの昭和の中期
から後期のノスタルジックな時代である。なぜなら国民が未来を見ていた
からである。今回の判定疑惑は、あの時代への冒涜になっているのであ
る。亀田の試合では相当多額の金が動いたことは間違いないが、そうい
う儲け主義の仕掛けが行き過ぎて、よき時代への憧憬が一つつぶれてし
まったことはさみしい限りである。亀田父子が商業主義に毒されて、昭和
の長屋の気配を失ったら人気はたちまち衰えるだろう。

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2006年7月31日 (月)

ブナ林とイワナが象徴する日本的原風景

  ◎心にブナ林とイワナを宿して日本文明の再構築を願う

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 時々、故郷の渓流を想い出すことがある。私は中学一年まで、秋田県の
雄物川水系のひとつである玉川沿いに住んでいた。この玉川に注ぐ支流
の渓流にはイワナが豊富に棲息していた。私にとって、ブナ林の渓流とイ
ワナは鮮烈な想い出として胸のうちにある。イワナという魚は私の少年期
の沢遊びの象徴だった。イワナと言っても、日本には全域的に何種類も分
布し、その上、地域や河川によって固有の斑紋や色合いを持つから、地域
によってイワナ(岩魚)という淡水魚のイメージは微妙に異なっている。

 私が親しんだイワナは、東北地方であるから、調べてみるとニッコウイワ
ナという日本固有亜種で、冷水の流れる河川の源流域付近に生涯を過ご
す陸封型の生活史を持つイワナである。白い斑紋ははっきりと出ていて、
魚体腹部には鮮やかな茜色に近い橙色の輝きを放つ固体もいた。

 私自身は渓流釣りはあまりしなかったが、当時は山沢に分け入って、イワ
ナ釣りの得意な同級生の友人の釣りを眺めているのが好きだった。私自身
はイワナを釣り上げてそれを食べるということよりも、イワナの魚体を見るこ
とが何よりも好きだった。だから、時々は水中眼鏡とモリを持って膝くらいま
での水位の浅い水流に入ってイワナを突いたこともある。その際、水中眼
鏡で渓流の淵を覗いたり、岩の下にいるイワナのそのままの姿を見るのが
楽しみだった。気が付くと身体をすっかり冷やし切って、唇が紫色になって
がたがた震えていることもしょっちゅうだった。

 源流域の水温は15度C以下であったから、子供とは言え、長く沢水に浸
かっていることは大変だった。イワナの居る沢にはカジカという小さなハゼ
科の魚も居て、その姿や顔つきはユーモラスであった。これを水中眼鏡で
上から眺めていると、保護色になっていて川底の砂や石ころの色と非常に
見事に同化していた。中にはババカジカという比較的大き目のカジカがた
まにいて、これは串に刺して炙ると何とも香ばしくて美味しかった。イワナ
は水中で見ると、生き生きとしていて、ほとばしる渓流水の透明な質感に
よく調和していた。その美しさは観ているだけでもうっとりとして時間も忘
れる思いであった。

 小学校の四年生ころであったと思うが、近所に私よりも四つくらい年下
の男の子がいて、家は養鱒も営んでいたが、彼はニジマスには目もくれ
ず、イワナだけに目を輝かせる私と同類の少年だった。ある日、イワナ釣
りに出かけようとして、竿や道具を用意していると、オラも連れて行けとそ
の子にせがまれた。その子は、釣ったら小さいのはオラにくれと言ったの
で、小さいのはやるよと念を押してその子を同行させた。狙っていたポイ
ントに真っ直ぐに着いて、私はいきなり尺を越えるイワナを釣り上げた。と
ころがそのあとは当たりがまったくないので、やむなく引き上げることにし
た。

すると、その男の子は、そのイワナはオラのものだからよこせと言った。
私は「なんでだべ?これデケェじゃねえか」と言ったら、その子はこう切り
返したのである。「あっちで見ていたら、ちっちゃいイワナに見えたから」
と。何のことはない、遠近感である。笑える話だが、これは本当のことで
ある。もちろん私はそのイワナを譲渡しなかったが、彼の欲しいという切
ない気持ちは痛いほどわかったので、「ごめんな、今度な」と言ってなだ
めたが、彼は半分なきべそをかいていたように思う。この手のエピソード
の大半は忘却の彼方にあるが、数多く私の記憶にしまってある。今の子
は、ここまでイワナにとりつかれることがあるのだろうか。昔の子供がと
りつかれた魚や昆虫に代わって、今の子が64ビットのデジタル映像に
とりつかれているとすれば、彼らの情緒を涵養する空気の匂いや、本物
の生きた自然の色彩はいったいどこから入ってくるというのだろうか。・・
話を過去に戻そう。

 私自身はフィッシングのスリルや支配感を楽しむことよりも、人里離れた
ブナ山の渓流に、このような美しく精悍な姿をした鮭科の淡水魚が息づい
ているということ自体が不思議であり、自然の懐の深さを強く感じていた。
特に周囲が鬱蒼と茂るブナ林であったことは、この魚の神秘性をいやがう
えにも高めていた。私がよく出かけたその渓流域はマムシの多さでも有名
な場所であったが、イワナの姿を見ているうちに夢中になり、マムシのこと
はいつも忘れていた。実際にマムシの姿は何度も見ていたが、襲われるこ
ともなかったから危険を感じたことはなかった。

 私は当時を思い出すたびに、沢遊びの光景を写真に撮っていたら、その
アルバムはどんなにか人生の貴重な宝物になっていただろうかと考える。
なぜなら、その場所は今も存在しているが、かつての場所ではなくなってい
るからである。渓流も照葉樹林も、つまりブナ林も残ってはいるのだが、最
も大事な要素が欠落していたのである。それは樹齢が高いブナやミズナラ
の木がほとんど伐採されて消失していたという事実である。私がそこから
離れていた40年近い歳月のうちに、渓流沿いの景観や生態系にどれだけ
深刻なダメージがあったのか、再び訪れた時に一目でそれを悟ったのであ
る。その衝撃は大きかった。私が子供の頃とりこになっていたあの神秘な
空間、あの底知れぬ、昏(くら)くて深い玄妙な森がいっさいなくなっていた
のである。

 数十年の経時的体験は、同じ人間の感覚を変えることはあるだろうし、
目に映る世界への価値の持ち方、意味の汲み取り方、感じ方も変わって
くることは大いにありうる。人の感性というものは、子供から大人になるに
従って、変わるものと、変わらないものと、新たに出てくるものと、失うもの
があるようだ。また、海外体験も内面を変える大きな転機にもなるかもし
れない。しかし、樹齢の経た、太くて樹高のある大型樹木の林立しない
奥山は、すでに先祖たちが見慣れてきた深山幽谷とはまったく違う空間と
して、その存在主体を差し替えてしまったのである。そのことは観る者の
経時的主観の差異としてではなく、現実的に、プラグマティックに山そのも
のが変容してしまったことを意味するのである。老いた樹木の存在しない
森は、押しなべて明るい若草色に染まり、その景観はいたって奇怪であ
る。

 山肌はどこを見てもゴルフ場の芝原のように無味乾燥な明るい緑一色で
ある。どこの自然林にも共通するあの心地よい濃淡、あるいは微妙な色彩
のフラクタルな諧調性がまったく見えないのである。要は、場所が同じで
も、はるかなる古代から息づく、あの悠久の自然林としての自己同一性を
完全に喪失しているのである。妙な言い方であるが、これは戦後憲法が帝
国憲法の自己同一性を喪失していることと位相的には同じことである。人
工的な開発が行われた形跡は一切なかったのだが、樹齢の経た大木がほ
とんど見当たらない光景は、里山、深山(みやま)を一つの生命体として見
た場合、これはかなり重篤な病気に罹っていることを示している。

 この風景は、極端な言い方をすれば、ゴルフ場の芝生と同質の無残さ
を持つ。今から八年前のことになるが、はるか昔の記憶をたどって、私の
魂の故郷とも言えるあの懐かしい渓流に36年ぶりに行ってみた。地元の
釣り名人の同級生が同行してくれ、その渓流で中型のイワナを一匹すぐさ
ま釣り上げてくれたのだが、その沢は、私の記憶に鮮明に残る渓流とは別
ものになっていた。だから、私は当時の光景を写真で残しておけたらどん
なにかいいだろうと思っているのである。もっとも、写真や動画撮影でさえ、
当時の命ある光景が生き写しで記録できるとは思わないが、それでも鮮明
な記憶を引き出す有効な鍵にはなるだろう。

 写真は、紅茶に浸したマドレーヌの味から過去を鮮明に意識したプルー
スト効果のようなものではなくとも、当時の私の心象風景を引き出してくれ
たと思うのである。当時、カメラは高価なもので、ガキの身分である私など
には到底持てるものではなかった。今はデジタルカメラや携帯カメラがあ
り、まさに隔世の感がする。当時の渓流入りの光景を撮影していたなら、
生涯、そのアルバムを見るたびに鮮明な過去蘇生が惹起できて、どんな
に豊かな追想の旅を満喫できたかと思う。その光景は何もイワナを追いか
けたことだけではなく、春の山菜採りや秋のキノコ狩り、あけび狩り、山ぶ
どう狩りなどでも、その渓流域は私の重要な場所であった。特に秋の紅葉
のころになると、その渓流沿いの色づきの見事さは何物にも代え難い夢幻
の光景を現出していた。

 そこは、渓流の清冽なる空気と、日光に乱舞しながらほとばしる水流の
輝きが加わって、そこにいるだけで私は幸せな気分になっていた。周囲の
木々が真紅や黄色に色づく中で、アケビが真っ青になって熟しているので
ある。紅葉の中に特徴のあるアケビの葉と蔓を見つけ、注意深くそこを見
ると、陽光に輝き美しく誇らしげに藍色や青紫色に色づいてぶら下がって
いるアケビを発見するのである。その時は興奮して何度も歓喜の声を上げ
たものである。そのアケビは、故郷では「水アケビ」と言われていて、その
外見は濃い美しいブルーである。中身は、黒いたくさんのタネを宿した可
食部分があり、それはあたかもカエルの卵のように透き通っていた。食べ
てみると、とろりとして特に上品な甘味が強く、なめらかで瑞々しい食感が
口中に伝わるのである。これは至福そのものだった。

 今思えば水アケビはどのようなお菓子よりも贅沢な味だった。両親に誉
めてもらいたくて、大き目のものは中身を食べずに持ち帰った。両親は喜
んだが、その理由は中身よりも、その真っ青なアケビの肉厚な皮に対し
てだった。アケビの皮は中が純白である。そこに味付けした味噌を塗って、
炭火で炙るのである。両親はそれをニコニコ顔で旨そうに食べていた。も
ちろん、子供の私はそんな苦いものは食べ物ではないと考えていた。山
ワサビと同じで大人にならなければ賞味できない味だったのである。

 玉川にはイワナに限らず、ウグイやマスなどいろいろな魚が生息していた
が、私は特にイワナが大好きだった。あの美しい流線型の魚体や独特の
斑紋は山の神様の芸術作品である。上流の堰堤にはかなり大型の岩魚が
泳いでいるのを目にしたこともある。陸封棲息の淡水魚でも環境によっては
かなり大型になるようである。イワナが謎の淡水魚と言われるのは、棲息
流域環境が深い天然林であることと、時々、びっくりするような大型固体が
いることにも起因しているのだろう。源流に近い沢の想い出は私の少年期
の原体験と重なっている。

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(これは現在のその渓流である。水は清くイワナもい
るのだが水量はかなり減少していて、沢筋全体が陽
光で明るい。つまり大木がない源流域なのである)



 ブナ林にイワナあり、イワナが川に居るとか居ないとかを突き詰めると、
山の生態学的な健康、バランスの問題に行き着く。間違っているかもしれ
ないが、原流域の冷たい渓流に生息するイワナやヤマメが一定の棲息数
でいる川の山林は生態学的に健康なのである。私は、ハタハタの増減も
川の源流域の生態系の健全さに関わっているものとみている。また、日本
沿岸部の砂浜退行の問題や、ハタハタの産卵環境悪化の状態は、河川
流域や源流域の生態的な保全がしっかりと恒常的に行われているのかに
関わっていると思う。特にブナやクヌギ、ミズナラなどを中心とする、植生の
多様な照葉樹林などがしっかりと根付いていることが重要である。

 このようなことは、多くの人たちに言い古された感は否めないが、日本人
全体が国民理念として持つべきことがある。それは、山、河川、河川流域、
そして海辺の自然が単純に独立した空間ではなく、それぞれ有機的に密
接に繋がっていて、大気的に、生態学的に巨大な、あるいは繊細なサーキ
ュレーションを持たなければ列島の自然自体が健全ではないという事実を
国民が認識する必要があると思っている。

 日本人は明治以降、欧化策を取り入れ、それは大戦以降ますます顕著
になったが、欧米化を不用意に日本列島に取り入れると国家的民族的な
自己同一性の保持に重要な瑕疵をもたらすことを早く気が付くことである。
欧米近代主義の文明は、不断の自然破壊、自然征服のアーキタイプを持
つ。日本民族は縄文のいにしえから神道文明の基層を保持してきた。それ
は自然と馴染む文明のことである。これは、自然との同化、調和を民族心
性を核として持ち、その性向を生活に取り入れてきた連続した過去がある。
神道的文明とは、自然と和むこと、自然に畏敬の念を持つことを文明の型
とする在り方である。自然と一体になり、人間社会の調和を体現する文明
精神はかつては政治にも反映していた。たとえば聖徳太子の十七条の憲
法にある、和をもって貴しとなすは、民族的共同体の核を形成する精神で
ある。日本人は、石ころ一つ、草花一本に多様な神を感じ、心を観て取る
民族である。

 今の日本は、こういう民族心性を封印してアメリカ的な物質文明に心を奪
われている。私は河川源流の世界、源流域の空気を求め続けることは、失
われつつある日本特有の天然林を憧憬し続けることであると考える。理由
はそこに日本型文明の源泉があると思うからである。現代文明、特に都市
文明の視点から見るなら、河川源流域の世界は逃避的で狭隘な世界であ
り、失われ、置き忘れた過去の原風景である。しかし、日本人は縄文の時
代からこの原風景に馴染み、そこから日本人特有の精神性を涵養してきた
のである。「水清ければ魚(うお)住まず」などと言って、清澄な源流的風景
を好まない風潮も根強くあるが、そこには、精悍かつ美麗な容姿をしたイワ
ナが元気に泳いでいるのである。神道的感性の根幹は限りない静けさと
清浄感にある。そして自然に対する畏敬の念と深い祈りなのである。ここ
にある限りない静けさへの希求は日本人の内面の原点であり、それは環
境を乱さず汚さない社会を営む型を持つのである。江戸時代の日本は、あ
る程度この形が完成されていたのではないだろうか。私はこれを、人類次
世代文明のアーキタイプとして活かすことが日本民族の使命だと考えて
いる。

 化石燃料や原子力燃料をこれでもかと燃やし尽くす産業革命型の燃焼
文明はすでに破綻の様相を見せている。時期はずれの大豪雨や台風で、
今国土は散々な目に遭っている。戦後に単一樹種の植林で荒れ果てた
山々は異常な降雨を潅水する能力を持たず、泥土や土石流が里を埋め尽
くす被害が毎年続発している。そのことは、アメリカ大陸や、アジアを含め
たユーラシア大陸も、一様に激越な異常気象に遭遇していることを見れ
ば、日本以外も同じ原因による気象変化を蒙っていることがわかる。地球
バイオスフィアは二酸化炭素による大気的撹乱で一時的に恒常性を失い、
人類を痛めつけるだろう。しかし、いずれまた恒常性(安定期)を持つこと
になるだろうが、その時、人類は現代技術文明という化石燃料完全依存
の文明形態を変えざるを得なくなる。この時、何がモデルになるのかを問
いかければ、それは我が国の神道感性を基盤に入れるしか道がないこと
に気が付くであろう。ここに日本民族が経過した2666年の皇統時間が役
に立つのである。

 国土とは、分割できる有価証券の一種だというような経済資本主義的な
考えが国民を支配しているが、国土とは国家の庭なのである。国家の庭
はそこに生きる人種と同様に国土的連続性を持つ。また土地とは生命を
生み出し、生命の継続性を担保する場でもある。国土とは、列島全体に
生命同志のつながりを保全する有機的な媒介であること、また、それは
悠久の時間を耐え抜いてここに存在しているかけがえのない過去の歴史
を背負った実体であることなどを思うことが大事である。イワナとは里山の
奥の原流域に位置する日本型自然の象徴である。

 何万年も昔に、イワナが陸封されて現在の渓流に生き残っているという
事実に深い畏敬の念を持つ必要がある。昨今は、ブナ林の保全とかイワ
ナやヤマメを大切にしろとか、皮相的、局限的な環境保全思想が出てい
るが、我々生物はこの地球上に、この生物圏(バイアオスフィア)に単独
では存在できないという自覚が必要であり、その感覚を文明の基層的要
素として取り入れる姿勢は喫緊を要すると思うのである。注意していただ
きたい。単独では生物の存在はないという存在認識こそ、日本文明、す
なわち神道文明の枢要的な概念なのである。

 ここに生物学者の今西錦司博士が発見した共生的生物相の生態学的
概念があり、欧米世界が自明のもとしているダーウィン的進化の仮説を真
っ向から否定する考え方が日本人から生まれているのである。日本人の
共生調和の思想は、古くは神武天皇の八紘一宇思想に見られ、近くは大
東亜共栄圏構想となって出てきている。日本人のアーキタイプにはこの調
和の形があるのであり、それは日本列島固有の調和的かつ恒常的な自
然から培われたものなのである。それが日本的進化論の骨子であり、文
明の骨格である。

 産業革命を契機に人類が起こした現代文明の最大の瑕疵は、環境問題
と大量破壊兵器の過剰生産、過剰備蓄にある。殺戮兵器とは一方で大規
模な環境破壊を招く。生産において環境エントロピーを増大させ、その使用
において結果的に何百倍何千倍の環境エントロピーの増大を招く。そうい
う黙示録的な現状世界の打開に最も必要な思想は、この地球にとって持
続可能で環境負荷の少ない文明モデルである。それこそが、縄文以来進
化してきた我が日本の神道感性である。しかし、日本人自らが鎮守の森
の思想を忘却した今、まず日本人自身がそれを思い起こす必要がある。
それは日本文明への根源的回帰である。

 奥山の原生林を通る渓流空間は、忘れられた日本民族の瑞々しい原初
的精神の象徴なのであり、民族の美的感性の中心である。これが基本と
なって過去の日本人は「豊葦原瑞穂國」という始原的な農耕文化を形成し
平和的共存の原点を持ったのである。奥山の清澄な渓流に何を見、イワ
ナに何を感じるか。それは里山の奥にある天然原生林の原初的な光景
なのである。熊襲を征討し蝦夷を平定した日本武尊(やまとたけるのみこ
と)は、伊勢の国に入り、能褒野(のぼの)という地で崩御した。息を引き
取る前に故郷の大和を偲んで詠んだといわれる有名な歌がある。

  倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 
 倭しうるはし

 この歌は日本人全体に共通する故郷の原初的心象風景と言われるが、
ここに描写される風景の中心には、原生的ブナ林を流れるイワナの住む
渓流があるのである。

 欧米の自然収奪型の文明は終焉を向かえている。これからは過去の日
本の調和型共生型の、環境に負荷をかけない、内面的な精神性を涵養す
る文明形態に転換して行く方向性が模索されるだろう。我が国の神道文明
とは、地球環境(ガイア)の恒常性を志向し、それを祈る心から成り立って
いる。イワナとブナ林は、私個人の懐古的逃避性を意味しているのではな
く、日本が悠久の自然とともに生きてきた稀有な国家であること、また、そ
の文明形態が、山川草木と調和する固有の形を持っていることを確認する
指標なのである。

 渓流の清澄な水流とは、本来の日本人の精神そのものなのである。

 

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2006年6月 1日 (木)

たわいない夢、されど慟哭

 明け方に、悲しい夢を見て目覚めた。猫の夢である。夢の中で
あるから自分が何歳頃なのかわからなかったが、感覚としては、
多分若い自分の様だった。場所は見知らぬ田舎ではあったが、
感覚としては、そこが故郷の田舎であり、家からさほど離れてい
ない小川のそばである。

 辺りには田んぼと用水路があり、その用水路は今と違って護
岸工事も施されていない小川で、両岸にはさまざまな草が繁茂
する昔の小川であった。夕方になって私はいつものように、その
場所へ釣りに出かけていた。ポイントを探して草むらを移動して
いると、ふと足元に白っぽい小さな物体が目に入ってきた。夕暮
れ時だったので、それは紙袋か肥料袋が捨てられていたのかと
思った。

 目を凝らしてみると、その白い物体は横たわって動かない猫だ
った。「うわっ、猫の死体かよ」と、一瞬たじろいだ。

 猫は手足を伸ばしたまま、無残に横たわっていたが、目は開い
ていて、その目が自分の目と合ったとき、何と、その猫はかすか
に鳴いたのである。その猫は瀕死の状態であったが、まだ生きて
いた。彼は私を見て、やっと聞き取れるくらいの弱々しい声で
「みゃー」と鳴いたのである。

 その瞬間、私は悟った。その猫は一週間前に、私の家に迷
い込んできた生後四ヶ月くらいの子猫であった。仕事で出かけ
ていた両親が帰宅するまで、その子猫と一緒に遊びながら過
ごした。夕方にはすっかり、その猫を飼う気になっていたが、両
親が頑強に反対したため、がっくりしながらその猫を捨てに行
った。どこに捨てていいのかわからなかったので、戻ってこない
くらいだと思える距離を歩いて、その小川の場所に来た。そこ
はいつも釣りをする場所であった。

 後ろ髪を引かれる思いで、その猫に、「ついてくるなよ」と言っ
て立ち去ろうとしたが、子猫は何度も後をついてきて鳴くので、
途方に暮れた。私は「駄目だ」と強く怒鳴って、猫を対岸の草
むらに向かって放り投げた。今度は静かになったので、ようや
くあきらめてくれたのかと思い、重く沈む気分で家路に着いた。

 今、目の前に無残に横たわって力なく鳴いているその子猫こ
そ、自分が放り投げたあの子猫だった。草むらに横たわった
子猫の傍らには大きな岩の塊があり、子猫の背中には傷が付
いていた。私はあることに思い当たり、愕然とした。あの時、こ
の子猫を放り投げたせいで、子猫は岩に叩きつけられ、そのま
まこの状態で動けなくなったのかと・・。子猫は一週間も横たわ
ったまま、動けずに生きていたのである。

 私は膝を折って、その子猫に謝った。「ごめん、許してくれ、
悪かった」と。涙がどうっと出て、子猫に顔を近づけ、懸命に謝
った。慙愧などと言うものではない。取り返しの付かないことが、
一週間前のあの時に起きていたのである。

 嗚咽で顔を地面に近づけて子猫に謝っていた時、子猫は一
緒に遊んでいた時と同じ表情で私の顔を舐めてくれたのであ
る。何度も力なく・・。しかし、そのまま子猫は完全に動かなく
なった。私は、ただただ慟哭するしかなかった。ここで夢から
目覚めたのである。思えば不思議と言うか、奇妙にリアルな夢
だったので、目覚めてもその光景と夢の中の情動はしばらく留
まっていたくらいだった。

 ひょっとしたら、私は幼い時分にそれと似たことをやったの
ではないだろうかと、今、自分を疑っている。人間には、都合の
悪い記憶を無意識にしまい込んでしまう場合があるそうである。
目覚めたら、足元に飼い猫のシロが眠っていた。こいつが、テ
レパシーで夢に物語を送ったのかな、などと思いつつ、眠い目
をこすったら、涙で濡れていた。

夢というものは、ほとんどの場合は非論理的であり、出てくる
光景は無彩色に近く、前後の脈絡がない。雰囲気としては論理
よりも情動の世界である。しかし、今朝の起き掛けの夢は、妙に
リアルで起承転結がはっきりしており、物語がそれなりに完結し
ていた。小さい頃、この夢に類似したことをやっていて、その記
憶を深層意識に閉じ込め、ある程度、年齢を経てから贖罪意識
とともに表層に夢として浮かび上がったのであろうか。

 何というか、夢の光景がリアルということよりも、自分の心に惹
起された強い情動が奇妙にリアルなのであった。それは慟哭と
呼ぶに相応しい感情であった。夢というものはもう一人の自分を
知るよすがであるとは思うが、見た情景以外の解釈は自分には
できない。フロイトだったらリビドーだとか、わけのわからない難し
い言葉を使いながら性衝動か何かに結びつけるのだろうな、など
と思ったら、あの子猫にとても済まないような気になった。フロイト
は嫌いなのである。人間の性的な側面を、あたかも、その精神的
存在の本質のように捉える自虐的な学問に見える。

 こんな落ちにしかできない、たわいない夢の話を書いた。(笑)

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2006年5月14日 (日)

バッケの語源について考える

G11_2   

 今日は「バッケ」のことを少し書く。カサが開いていない、まだつぼみ
状フキノトウを味噌と合えたものを、秋田県ではバッケ味噌、あるいは
バッキャ味噌と言う。あ、そうそう、バッケとは東北地方で言うフキノトウ
のことである。

 これを食すと、ほんのりとした苦味を伴い、春の香りを凝縮したような
味わい深い料理である。フキノトウ特有の苦味が大人の嗜好を満足さ
せてくれる。

 バッケ味噌についてはネットでもたくさんの記述があるから、今では
特段珍しいものではないが、「バッケ」の語源となると、これはまったく
諸説紛々で、これぞという定説がないというところが本当だろう。バッケ
の語源を知っても知らなくても別にどうってことはないのだが、バッケと
いう言葉自体が面白いので、やっぱりどんな言葉の発生をたどったの
か私自身は昔から興味があった。バッケとはいったいなぜそういう名
前になったのだろうか。

 比較的に有名なところは、『みちのく 南部の方言』(田一二三 著)と
いう本に書かれているものらしい。それによれば、ばっけの語源は、
 
  ○ 花のようで つぼみのようでもあり 半開の意

  ○ 早春にポックリ 芽を出し開花するので ポックリの転化
       ポックリ → ポッケリ → ボッケ → バッケ 

  ○ 花が盤状に開くことから、盤開が促音化 

  ○ アイヌ語 makayo の転

 ネットで調べると、上の内容が多く出る。花のようでつぼみのようで
もあり半開の意と言われても、それがなぜ「ばっけ」なのかよくわから
ない。ポックリの転は信憑性はまるでないと思う。盤開(バンカイ)が
バッケに移行することも、なんだかなあである。それなら「バンケ」と
言うほうが自然である。確かめてはいないが、このバンケは山形庄
内地方の呼び方となっているようである。とすると、盤開語源説も有
力なのであろうか。

 そこで不肖、私の説なのであるが、私は以前からバッケという言葉
が仏教説話から出てきたものだと考えている。バッケの語源は優曇
鉢華(うどんばつげ)という言葉から来ているのではないだろうか。法
華経というお経があり、その中の「妙法蓮華経方便品第二」というお
経の中に次の箇所がある。

    仏舎利弗に告げたまわく、是の如き妙法は、諸仏如来、時に乃し
之を説きたもう。
優曇鉢華の時に一たび現ずるが如きのみ。

  ここで言われている優曇鉢華は、一般には優曇華(うどんげ)として
知られていて、仏または転輪聖王がこの世に生まれる時、一度だけ
咲く聖なる花のことである。想像上の花である。優曇鉢華をなぜ覚え
ていたかであるが、昔、母が読んでいた法華経の中に、偶然その言
葉を見つけ、へんてこな言葉だなあと記憶に残っていたからである。
「うどんげ」という神秘の華がロマンティックだなあと思っていた。ただ
し、その時の記憶では優曇法華(うどんばっけ)という文字で、ふりが
なまで書いていたように思う。確かその時、「ああ、バッケの名の由
来はここから来たんだな」と一人合点したことを覚えている。従って、
この優曇法華(うどんばっけ)に記憶の誤りがあれば、この自説はい
たってあやしいものとなる。優曇鉢華のほうは最近知ったものである。

 さて重要なことは、「優曇鉢華」をどう読んできたのかということであ
るが、これは「うどんはつげ」とか「うどんばつげ)とか言われていたら
しい。この「うどん」の最後尾に付いている「ばつげ」が「ばっけ」となっ
たのではないだろうか。フキノトウは多分、かなり昔から食べられてい
て、それを食すことは、春の風物詩というよりも、当初は有難い薬と
して用いられた可能性がある。実際に、蕗(フキ)やフキノトウは健胃
剤として用いられた形跡がある。

 山菜類、薬草類では、一般に苦味のあるものは胃に良いとされてい
るからである。ここからフキノトウはありがたい薬草として古代の人々
には重宝されていたのかもしれない。ありがたいと言えばお経である。
そのお経に、フキノトウをイメージさせるありがたい言葉として、三千年
に一度咲く神秘の花、優曇鉢華(うどんばつげ)をどこかの和尚さんが
見つけ、鉢華(ばつげ)という言葉をフキノトウに名づけたのが、いわゆ
る「バッケ」の語源だと私は考えている。フキノトウが開き始めた、つま
り、半開状態の姿が、三千年に一度咲くという優曇鉢華のイメージと
ぴったり重なったのである。

 バッケという言葉が東北地方に分布していることも、この説を裏付
ける重要な示唆がある。雪深い東北では、厳しい冬から春の訪れを
首を長くして待ちわびている。この春の知らせを雪の間から教えてく
れるのがバッケなのである。これも吉兆というか、ありがたい季節の
到来を象徴する野草である。身体にもよくて春を知らせてくれるあり
がたい野草とくれば、優曇華を連想させたのかもしれない。しかし、
フキノトウをそのままに優曇華と呼んでしまったらあまりにもおそれ
多いので、鉢華(ばつげ)と呼んだのだと思う。それが転じて「バッケ」
になったわけである。・・心もとないが多分そうなのだと思う。

 また、優曇華の正式名称は優曇波羅華(うどんはらげ)、ウドゥ
ンバラ・プシュバと言う説明もあった。これにしたところで、波羅華(は
らげ)の波羅(はら)は、バラゲと読むことはあったかもしれない。ハラ
ゲ → バラゲ → バッケ と転じたかも知れない。まあ、これはかな
りこじつけに近いと自分でも思うのだが、ポックリがバッケに転じたと
いう解釈よりはまだましなのかなと一人合点している。

 優曇華は竹取物語にも出ていて、かぐや姫がくらもちの皇子に命じ
た難題の一つに、私をお嫁に貰いたかったら、優曇華の花を取ってく
るようにということが書かれている。優曇華の意味は、一般に非常に
希少な瑞祥を言うが、雪の中に若草色のつぼみを見つけたとき、古
(いにしえ)の東北人は、きっと、感動を持って春の瑞祥をそれに見た
に違いない。従ってフキノトウはウドンバッケの「バッケ」と呼ばれたの
であろう。

 この解釈は牽強付会の部類に入るのだろうか。

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2006年4月 4日 (火)

なんだかなあ、と、ため息が出る情けないニュース

   さきほど、午後のニュースでこんなことが流されていた。場所
がどこなのか聞いていなかったが、67歳になる韓国籍の女性
が、路上で通りすがりの男に「ホテルに行かない?」と声をかけ
た。路上売春である。声をかけられた男が、たまたま警察官だ
ったのでその女性は逮捕された。女性は「厚化粧」をしていて
年齢よりはかなり若く見えたそうである。売春の仔細は、ホテ
ル代込みで全額一万五千円だそうである。

 このニュースを聞いて二つのことを感じた。一つは女性の年
齢であり、もう一つは化粧というものの効果についてである。
古今東西、身を売る女性で67歳というのはちょっとした驚き
である。一般的に言って、60代の女性でも魅力的な人はいる
ことはいるが、それはたいがいは人格的な魅力であり、性的に